★ 毎年冬の寒さが近づくにつれて各地から訃報がたくさん届きます。
いくつかの聖書箇所を読んでみますと、例えば、ヨブ記5章6節~9節のメッセージ
を読んでみますと、人がその人生のほとんどを涙と溜め息の内に過ごすことを学びます。
ここまで書いていましたら、韓国の古い伝統芸術のひとつである伽耶琴カヤグムの保存
に努力をしておられる宗ソンさんのご母堂が癌で今朝逝去されたと連絡がありました。
久しく癌と闘って来られたのだそうでした。 問安電話をしておきました。
蕨教会設立者の蛭田智さんも天父のお召しを受けて本日凱旋帰天なさったとの連絡
が届きました。 多くの感謝の思い出があります。 ご家族を覚え祈りました。
このような戸惑いの内で、いくつかの聖書を紐といて見ますと、私たちが体験する
多くの喜怒哀楽のうしろに、主の導きと護りが確実に存在することを教えられます。
その中でも私にいつも大きな慰めを与えてくれる聖句のひとつに、詩篇94篇18節が
あります。 この箇所を敢えて文語訳で読んでみますと、以下のようになります。
『されど吾が足すべりぬと言ひしとき、エホヴァよ、汝の憐憫アハレミ、吾を支へ給へ
り...』となります。
この八ヶ嶽南麓の地も間もなく凍結します。 凍結した道路はアイス・スケート場
のようになります。 舗装道路は舗装道路で、一見凍っていないように見えますが、
実はひどく凍結しているので、車を運転する時には注意しなければなりません。
一番近い舗装道路から私たちの住宅までの未舗装道路でも、注意して歩かないと、
一瞬の内に滑って尻餅を突きます。 加齢と共に骨折の危険性が増します。
凍結した道路の上で足を滑らせて尻餅を突く時間はたぶん1秒前後のようです。
そのような短い時間の中で、『あっ!』と叫んだ瞬間に、尻餅を突いているのです。
しかし、そのような短い間でも、エホヴァなる神の手が私を支えると聖書は約束して
いるのです。 なぜなら、主は私たち一人一人の名をご存知であり、私たちのそばに
常にいらっしゃるからです。 私たちは主の目に貴い(イザヤ書43章4節)のです。
イザヤ書43章1節~5節には、恐ろしい自然災害の中にあっても、水や炎が私たち
を襲う時であっても、主は私たちを導き護られると約束しています。
コリント前書10章13節も、私たち人間が味わう厳しい試練の日々の内にあっても、
私たちが神を信じて前進して行く時に、必ず「逃れの道」を見いだすことができると
教えているのです。
イザヤ書46章3節~4節は、白髪になった老齢者ですら、私たちの最後に到るまで
神が責任を持って背負って運んでくださる...と、そのように約束しているのです。
★ 訃音が届くたびに、あるいは、私たちが私たち自身の肉体の衰えをいろいろな形
で身に沁みて覚えるとき、それらは私たちを謙虚にさせてくれます。 私たちが限り
ある存在であることを教えてくれるからです。 私たちは必滅の存在なのです。
死を免れない存在なのです。 英語でこれを mortal と言います。
また、主に召された魂が、痛みも涙もない御国に移されたことを感謝できることを
心から感謝したいと私は考えています。 同じように、ご遺族にも主の慰めと癒しと
祝福があることを確信できるのも感謝なことです。 愛する者が天に召されるという
厳粛な瞬間をとおして、私たち自身が必滅の存在であることを教えられるのです。
教会は、2千年の間、この厳粛な事実を、「memento moriメメント・モリ」として
語り続けて来ているのです。 ラテン語です。 Remember, that you have to die!
私たち人間の欠陥や過ちを思い出させて、私たちが滅すべき存在であることを教会
は語って来たのです。 人間に人間の無限の可能性を信じさせている現在の虚像、
誤解に対する冷酷な、冷静な警告なのです。 私たちに答を要求しているのです。
★ 『吾が足すべりぬと言ひしとき、エホヴァよ、汝の憐憫アハレミ吾を支へ給へり』
私たちの人生は、その終わりに及んで、自分の力では立つことができなくなり、必ず
滑りこけるのです。 メメント・モリなのです。
このことを感謝して覚え、日々の何気ない生活を感謝し、すべてのものごとに感謝
を捧げ、自分のような者でもよければ、他者に仕えることで神に仕えるということを
学ぶ必要がありましょう。 失望することなく、心を新たにする必要があります。
互いに共に生きられることを感謝し、私たちの日々のすべてをご存知の神を信じ、
私たちをその名で覚えていて下さる神に感謝して失望することなく、マタイ傳6章で
『天に宝を積めよ』と教えてくださったイェスの御言葉を少しずつ実践に移して行く
ことを求められているのだと私は確信しております。 如何でしょうか?