「礼拝」とは何なのでしょうか?


2005・03・25  初稿  2009・10・30改訂

★  先週と先々週はAさんの母教会に於いて同教会の今後の進路に就いての話し合い
があったと伺っています。  設立牧師が帰天なさり、その後は神学生が日曜朝に奉仕
をなさっていたようですが、今春に神学校を卒業されるので奉仕を続けることができ
なくなったそうです。  4月からはいわゆる「無牧」状態となるようです。

  そのことで、間接的ですが、そして僣越なことにならないようにと第三人者である
私は、それなりに気を使いながらですが、AさんとEメールで話し合いを重ね、私見
を述べておりました。
  Aさんに私が提案しておりましたことは、とりあえず残っておられる皆さんがたが
智恵を集め、力を集め、できるだけ他人に依り頼ろうとしないで、一時的な牧師さん
に過度の依存をしないで、自分たちを中心にとにかくよく祈って、自分たちで聖書を
読む方法を考え出して、自分たちで工夫して讚美を捧げて、自分たちでエクレシアを
守って行ってみようと努力を始められるのはいかがでしょうか...ということでした。
それが第一歩だと思いますが...ということでした。

★  そのことから次に問題となって来るであろうと思われる、障害となるように見え
るいろいろなことが出てきました。  それまではすべて牧師さん任せ、神学生任せと
いうことでしたから、皆さんが当惑され、混乱されるのは当然のことだと思います。

  Aさんからいろいろとお話を伺っているうちに私が気づいたことで、皆さんがたが
気づいておられない問題があるのではないかと、そのように思うようになったことが
あります。  それは「礼拝とは一体全体何なのか、礼拝とはどういうことなのか?」
ということを皆さんがたが理解なさっておられないのではないかということです。

★  今日はAさんがお仕事でお休みになりました。  年度末ですから事務所は忙しい
のではないかと推測します。  しかし今日は若い皆さんが出席されておられます。
  そこで、Aさんとご一緒に考えたいと思っていたこと、すなわち、私なりに考えて
いる「礼拝とはいったい何なのか?」ということを、若い皆さんがたにもお考え願い
たいと思い、なるべくわかりやすい方法でお話ししてみましょう。

★  教会玄関をお掃除すること、集会のために花を用意すること、スリッパを揃えて
出すこと、教会のトイレを掃除すること、出席者の靴をキチット並べること、週報の
表紙に使うために挿絵を書くこと、愛餐会のために自宅であらかじめ手作りケーキを
作っておくこと、集会に参加するために車を往復路運転すること...
  このようなことは「礼拝」なのでしょうか?  「礼拝の一部」なのでしょうか?
「礼拝」と関係があるのでしょうか?  それとも「礼拝」と無関係なのでしょうか?

  自宅でお母さんやお父さんの肩たたきをすること、妹や弟の世話をすること、お皿
を洗うこと、お風呂の掃除をすること、洗濯をしたり干し物を手伝ったりすること、
赤ちゃんや寝たきり老人のオムツを取り替えてあげること、学校の宿題を一生懸命に
やること、学校で友達たちと仲良く楽しく過ごすということ...
  そういうことは、神さまを「礼拝」するということと関係があるのでしょうか?
「礼拝」っていうことは、「礼拝する」ということは、「礼拝に行く」ということは
いったいぜんたい何なのでしょうか?

★  「礼拝」というものは、1週間の初めの日の朝の1時間か2時間だけを、特別な
建物に行って、そこに集まって来る人たちといっしょになって「アーメン」って皆で
声をだして何かをすることなのでしょうか?  それが「礼拝」なのでしょうか?

  1日には24時間あります。  1時間は60分です。  1週間には10,080分あります。
この10,080分の中で、日曜日の朝2時間だけ「教会堂」に「行って」「礼拝する」と
しますと、残り時間(10,080分- 120分)= 9,960分は「礼拝ではない」時間なので
しょうか?  その間は神さまを思わなくてもよいのでしょうか?
  1日24時間で1週間に 168時間あります。  この中から日曜日朝2時間を「礼拝」
に使いますと、残り時間は 166時間です。  この 166時間が「礼拝ではない時間」と
いうことですと、1週間の中で神さまに使う時間は少なすぎませんか?
  「日曜の朝の2時間だけ」「教会堂」に「行って」「神さまを礼拝する」として、
残りの全部はイェスさまを信じていない人びとと同じように日常生活をするとなると
神さまはずいぶんと退屈されているでしょうね?  聖書にホコリが溜りますね?
  このあたりで算数の計算はやめましょう...

★  コロサイ書3章17節を、声を出してゆっくり読んでみましょう。
私たちが口に出してしゃべるどのようなことも、行いであらわすどのようなことも、
そのことを主イェスのお名前で行うことが大切であるとその聖句は教えています。
そしてそのことをとおして父なる神さまに感謝を捧げるようにと書いてあります。
  すなわち、私たちが行うどのようなことであっても、そのことを主イェスのお名前
で行えば、それは神さまを喜ばすことになるというのです。  大切なことです。
神さまに喜んで頂くということが「礼拝」だと私は思うのです。

  それは、「日曜朝の2時間だけ」を「教会堂」ですることが「礼拝」ではなくて、
毎日の生活の中で私たちが行う全てのことを、主イェスを覚えながらやれば、それは
神さまに感謝を捧げることになるという意味です。
  それですから、赤ちゃんのおむつを取り替えることも、トイレのお掃除をすること
も、教会堂のお掃除をすることも、草むしりをすることも、お父さんにお茶をいれて
あげることも、お母さんのお手伝いをすることも、主イェスのお名前を心の中で覚え
ながら行えば、それは神さまを喜ばすことになるのです。

★  実は、「神さまに喜んで頂くこと」が「礼拝」という意味なのです。
ヨハネ伝4章24節で使われている「礼拝」という言葉は、もともと「プロスクネオ」
という言葉です。  それをほかの日本語で言えば、「尊敬する」とか「敬意を払う」
とか、「忠順である」というような言葉で言い換えられます(英語でpay homage)。
「頭を低く下げ、または跪ヒザマズいて、相手を誉ホ め讚タタえる」という意味です。
  マタイ伝2章2節、8節、11節、4章10節、ルカ伝4章7節では「ひざまずく」、
更に24章52節、ヨハネ伝4章20節~21節、ヘブル書1章6節、11章21節において同じ
プロスクネオ proskuneo  が使用されています。

★  もう一ヶ所を見てみましょう。  ロマ書12章1節~2節です。
ここでは上記の「プロスクネオ」という単語とは異なった別の単語、「ラトレイア」
latreia が使われています。  もともと二つの全く違ったギリシャ語ですが、日本語
では両者とも同じ「礼拝」という漢字を使って訳してしまっています。

  ラトレイアというギリシャ語の単語の意味は「仕える」ということです。
英語で言えば、「to serve  仕えること」または「service サーヴィス」という動詞
や名詞に相当します。

  日本語では、たいていの場合、「偉い人、地位の高い人、権力のある人に仕える」
とか「お客にサーヴィスする」という使いかたをしていますので、そういう意味なら
よくわかりますが、「神さまにお仕えする」という発想は日本語を使っている私たち
にはないと思います。  日本語ではそのような使い方をしていないと思います。

  しかし英語では「礼拝」のことを「worship ウヮーシップ」と言います。
また、「ウヮーシップ・サーヴィス」という時もあります。  けれどもたいてい普通
の場合には「サーヴィス service」という言葉を使います。  それで事たります。
  それはヨハネ伝16章2節、ロマ書9章4節、12章1節、ヘブル書9章1節と6節で
使われているのです。
  実際の生活の場で、日常の生活の中で、「他者に仕えることで神さまに仕える」と
いう意味が「礼拝 worship service」の意味なのです。

★  そしてその一番わかりやすい実例はイェスさまです。
「十字架の上で死に到るまで神の御旨に従い、そしてそのことで私たち罪多い人類の
贖罪のために仕えて死んで下さった、イェスの徹底した仕えるという姿勢であった」
のです。  「仕える」ということで主イェスは父なる神に対する「礼拝」の在り方を
私たちにはっきりと示してくださったのだと、私はそのように理解しています。

  このようなわけで、ヨハネ伝4章24節の「プロスクネオ」=「頭を低く下げて相手
を誉め讚える」=礼拝とは、「ラトレイア」=「仕える」ということでもあります。
  主イェスがそうであったように、「人に仕えることで、または人に仕えることが、
神に仕えること」=「人を愛することで、または人を愛することが神を愛すこと」と
いうクリスチャンの姿勢「礼拝」の姿勢を学ぶことができると思うのです。

★  「人に仕えることは=神に仕えることだ」ということを、私は私なりにですが、
ルカ傳22章7節~27節から学ぶのです。

  イェスが十字架に架かられる前に、弟子たちと過越の食事、すなわち、主の晩餐・
主の食卓・聖餐・パン裂きを「切に望まれ」たとき、十字架に向かわれる主イェスの
お心の内に潜んでいた主のお苦しみを全く理解も想像もできなかった弟子たちが、
こともあろうに、「誰が一番偉いのか?」という、極めて低次元のことで論争を始め
たのでした。

  そのとき主イェスは、ご自身で弟子たちにパンや葡萄酒を廻しながら、給仕の役を
なさっていたのです。  そのイェスの仕えるという姿勢を自分たちの目で見ながら、
そこでイェスが示そうとなさっていた、「仕える姿勢」を、弟子たちは全く気づかな
かったのです。  誰がおいらの中で一番偉いのか?‥という、愚劣な論争に花を咲か
せていたのです。

  十字架に向かわれる主イェスのお心の内を知らないこの弟子たちの情けない議論を
御覧になっていたイェスのお心は、どのようなものであったのでしょうか?
  『私はお前たちの間で給仕役を勤めているというのがわからないのか?』と、27節
は語っています。  「己を低くして仕える」という姿勢が最も大切なことであると、
主イェスは弟子たちに、身をもって示されたのでした。  service ということです。

  まわりの人々と一緒に食事をするという日常生活の基本的な事柄において、イェス
は、他者に仕えるということが、神に仕えるということである‥と、そのように弟子
たちに実地教育をなさったのです。

  主の食卓・聖餐・パン裂きに与ることは、主イェスが主催なさる主の食卓に侍ると
いうことは、そこで私たちがお互いに仕え合う者たちであることを再確認する場だと
私は理解するのです。  ここにも主の食卓に与る私たちに対するイェスの深い教えが
隠されていると確信しているのです。  ここにも礼拝の意味が示されているのです。

★  「私の名前で二、三の者が集る所には私もその中にいる」とマタイ伝18章20節で
イェスは約束されました。  それですから、イェスの名によって集まった者たちが、
主イェスを誉め讚え、聖書を読み、祈りを捧げ、そして草むしりでも、ペンキ塗りで
も、日曜大工でも、トイレの掃除でも...内容が何であっても、それは神への礼拝とな
ると私は信じています。

  必ずしも「牧師」という肩書きを持った人をどこかから無理にお願いをしてお越し
願って日曜日の朝に「耶蘇教寺で西洋坊主が営む耶蘇教法事の席に坐っていること」
が「礼拝をやっている」ということのすべてではないと、私はそのように思っている
と、先日からAさんをとおしてAさんが母教会とされている群れに集まっておられる
方々に申し上げようと心がけているのです。

  こういう方法なら、若い小学生でも、中学生でも、高校生でも、神さまを礼拝する
方法が身近に沢山あると思うのです。  そして神さまはその一つひとつを心から喜ん
でくださるものと私は確信しているのです。

★  クリスマスに歌われている童謡に Little Drummer Boy というのがあります。
生まれたばかりの赤ちゃんイェスさまに差し上げる贈り物を何も持ち合わせていない
幼い男の子が一生懸命に小太鼓を叩くという童謡です。  それもすてきな「礼拝」の
ひとつの在り方を示唆していると、私はそのように確信しています。
  「自分自身を神に捧げることに一生懸命でありなさい」(テモテ後書2章15節)と
いう聖句を、童謡の中で小太鼓を叩く幼児は実行していたというわけです。

★  教会の庭の草むしりも、トイレの掃除も、赤ちゃんのオムツを取り替えるのも、
童謡の中で小太鼓をイェスさまのために叩いている子供と本質的に同じことであり、
みんな神さまに仕えること、神さまへの「礼拝」であると私は信じているのです。

  マタイ伝25章40節や45節、ヤコブ書1章27節は何といっているのでしょうか?
弱い人や悲しい人や寂しい人に仕えることは神さまに仕えることなのです。
  なぜなら神さまはどこにでも、いつでもいらっしゃって、私たちをご存知であり、
私たちの祈りをお聞きになり、私たちの讚美の声を喜んでおられるのです。
  (詩編 139編8節~9節『私が天に昇っても、あなたはそこにいらっしゃいます。
私が陰府ヨミに床を設けても、あなたはそこにおられます。  私が曙アケボノの翼をかって
大洋ウミの果てに住んでもあなたの御手は私を導き...』と証をしています)

★  日曜朝の2時間ほどだけ「教会堂」という箱の中においでになるのではないから
です。  むしろ『私たち自身が、神さまがお住みになって下さる聖なる宮なのだ』と
コリント前書3章16節は教えています。

  そのようなわけですから、私たちはいつでも、どこでも、何をしていても、神さま
を「礼拝」することができるのです。  いつでもどこにいても感謝と讚美の礼拝を捧
げることができるのです。  ある特定の場所や時間だけが神さまを「礼拝」する場所
や時間ではないのです。  いつでも神さまのお名前を呼んでお話しができます。

  また、特定の人間集団が定めた「礼拝の形式」や「式順」や「方法」も、神さまを
心から拝するときに、これも全く関係がないのです。  心から神さまに仕え、神さま
の恩寵を讚美すればよいのです。  いつも神さまはすぐ傍近くにいらっしゃいます。

  だれでも、いつでも、自分なりの方法で、畏れと誠実さをもって神さまに近づき、
自分のことばで神さまにお話しをして、神さまに心から感謝を捧げればよいのだと、
そのように私は思います。  「牧師さんがいないから礼拝できない」など聖書の中に
そのようなことはいっさい書いてないのです。  神さまにお声をかけてみましょう!