『執行猶予』

★  「執行猶予」という言葉の意味は、「刑の言い渡しをすると同時に、情状により一定期間その刑の執行を猶予し、その猶予期間を無事に経過したときは、刑の言い渡しの効力を失わせる制度」というふうに辞書に説明してあります。

十日ほど前でしたか、大阪市内の横断歩道を渡っていた会社員が黒塗りの自動車に当て逃げされるという事件がありました。  加害者は被害者をそのまま3キロ以上も引きづったまま逃走したという、極めて悪質で非人間的な犯罪でした。

暴力団と問題を起こし北九州から関西方面に逃走して来た、そして無免許飲酒運転をしていた若い青年が、ようやく先日逮捕されたと報じられていました。

報道されたことから知ったことですが、無免許で飲酒運転をしていたのが露見するのが怖かっただけでなく、交通事故の被害者を装って保険金を搾取したことで裁判所から執行猶予の判決を受けていた青年であるとのことでした。

★  普通の人なら、己の犯した罪を問われたとき、悔い改めるだろうと思います。
まして、裁判所で、温情によって、更正の可能性を認めて貰って、寛大な配慮から、刑の執行を猶予された人であるならば、悔い改めて、二度と犯罪者にはならないとの決意を己に誓い、その誓いに従って、まともな生活を送るように最大限の努力をするものだと思います。  悔いるということは、それ以降は二度と再び同じような愚かな生活態度や愚かな行為を繰り返さないと努力をすることを含むと思うのです。

聖書では、人がその罪を主イェスの十字架の前で罪を悔い改め、神と己と人々の前で神の子となり、神の家族の一員となると誓ったならば、その人は、その後の生活において、二度と再び罪のとりこにはならないように努力をするものです。
そうすることが一方的に赦してくださった神の恩寵に応える道だと思うのです。

★  また、聖書では「悔い改める」ということを、メタノエオと言います。
方向転換をするという意味を含みます。

すなわち神と人の前で己の罪を告白し、神に己の罪をお詫びするということも含みますが、それよりも、神からの一方的な恩寵によって、己のすべての罪が赦されたのだから、「今後はもう二度と再び同じ罪の中を歩まないように一生懸命に生きる努力をする」という、強い意志や決意を含めたギリシャ語の単語です。

それが「悔い改める・方向転換をする」という意味なのです。
方向転換をするということは、今まで進んで来ていた方向とはまったく違った、別な道を歩き始める、あるいは、逆な方向に進み始めるということを意味するのです。

二度とふたたび同じ道を歩まないという固い決意と具体的な行動を意味することです。  それはあたかも執行猶予の判決を受けた者が、更正に向けて、二度とふたたび同じ愚かな過ちを繰り返さないと誓い、その具現化のために全力投球をするのと同じことです。

★  今回のむごい当て逃げ・ひき逃げ事件の犯人、執行猶予中であった犯人が犯した恐ろしい殺人行為には、罪の悔い改めも、更正への決意もまったく感じられなかったことです。  執行猶予処置を受けるに値しない人物であったのです。

しかしこのことは、私たちはクリスチャンだ!(=キリストの者だ!)と自称する者たちが、その罪を十字架の故に赦された者が、それでは「方向転換をして、極めて強い決意と意志をもって、この世を支配する罪の力に対して、二度と再び同じ罪の中での生活を繰り返さないように努力をしているのかどうか?...ということが問われていることを意味しているのです。

「キリストのもの」であるはずのクリスチャンとされた者が、それ以降も信仰者になる前と同じ生活態度を基本的に継続しているとするならば、それは実に深刻な問題なのです。

悔い改めて、主イェス・キリストの者となったもの=クリスチャンとなったと自称する私とあなたが、それでは、神の前で恥ずかしくない生活をしていますと、最後の審判の折りに神の御前で断言できるのでしょうか?

執行猶予つきの身であった今回の悪質なひき逃げ犯のことを決して笑えないとなります。  どうも私たちは自分には甘すぎる傾向があります。  主の前に襟を正す必要があります。  主の食卓に与るという意味を改めて考えたいものです。