『マイナスだらけの人生で唯一のプラスとは』


苦しみは、塵から起こるものでなく、悩みは土から生じるものでない。
人が生まれて悩みを受けるのは、火の粉が上に飛ぶに等しい。
然し、私であるならば、神に求め、神に、私の事を任せる。
彼は大いなる事をされる方で、測り知れない、その不思議な御業は数え難い。
                                                                     ヨブ記5章6節~9節


★  上記のヨブの言葉の前半は、人というものが、母の胎から生まれ出た瞬間から、
幾多の試練や困難の中に在るということを語っています。  しかし不思議なことに、
なぜ、どうして...という疑問や質問をいっさいしていませんし、答えてもいません。

  日本語では、私は何年何月に生まれました‥と説明します。
あるいは、彼は何年何月に死にました‥と答えます。
そのことをおかしいとは思わないようです。

  一方、英語では I was born in 1931.と言いますし、 He is dead.と言います。
そこには、自分の意志や希望で、自主的に誕生日を選んで生まれてきたのではないと
いうことが表現されています。  また、本人の自由意志や希望で死亡したわけでない
ことを意味しています。  英語の場合、受け身形で始まり、受け身形で終わっている
のです。  日本語のほうが詩的で、英語のほうが現実的だと私は思います。

★  確かに私たちは私たちの自由意志でこの世に生まれて来たわけではありません。
自分の希望や意志で両親を選び、兄弟姉妹を選び、国籍や性別を選んで、自分で納得
して自分の決めた年月日に生まれて来たわけではありません。  すべて受け身です。

  そして通常の場合、この世を去る時も、時や場所や状況を選んだうえで、納得して
去って逝くわけでもありあせん。  出生と死去という、自分自身の人生の最初と最後
の二つの点を、自らの意志と希望で選ぶことなく、他人の世話にならなければならな
いのです。  避けることができない二つのマイナス点が私たちの人生にあるのです。

  そして、これら二つの点のあいだに、私たちの苦悩の人生が在るのです。
これが私たちの置かれている厳しい現実です。  その現実の中で、私たちの性格も、
私たちを取り巻く環境の中で、作られてゆくのです。  自分の意志による選択という
こともあるのでしょうが、たいがいは育てられた環境が、私たちの性格・人格を形成
してゆくようです。  これもまた、マイナスの中で、そのように形成されてゆくよう
です。  自分の意志だけで、希望だけで形成する、できるというものではないように
思います。  人生とは、厳しいもののようです。

★  そのことで思うのですが、ルカ傳19章は、イェスが一人の男と接触されたときの
劇的な出会いについて語っています。  ルカの描写によれば、彼の名はザアカイで、
「純粋」という意味のようです。  そして彼を「背丈が低い男であった」と説明して
います。  名は純粋という意味の背の低い男でしたが、職業となりますと、彼の名に
相応しくないように思えます。  正確にどのように説明してよいのか躊躇しますが、
格好よく言いますと「ローマ帝国税務徴収のために働く職員」、別の表現をすれば、
「人々が忌み嫌っていた、情け容赦をいっさいしない法外な高利貸し」というように
なるのかと思います。  このできごとからもイェスの愛の広さ深さ高さを学びます。

★  最初にヨブ記5章7節を紹介しておきましたが、人がこの世に生きている限り、
いろいろな悩みや悲しみや惑いを経験するのは、火の粉が空中に舞い上がるのと同じ
ほど「あたりまえ」のことだと、あらゆる災害を個人的に体験したヨブは、そのよう
に考えているようです。

  そしてその多くが、必ずしも彼の責任ではないところから、彼自身と彼自身の責任
以外のところから、ヨブが招いたわけでもないのに、ヨブに向かってやってきた災害
であるようです。  ここにザアカイとの共通点を私は見いだせるように思えます。

  ザアカイは自分自身の意志や希望で、「背丈の低い男」に生まれて来たわけでないと
思います。  人は自分自身の人生のほとんどの部分を、自分自身にとって一番大切な
自分自身というものを、選ぶことができないままで生まれて来ましたし、同じように
自分自身の意志や希望に添ってこの世を去って行くということもできないのです。

  人はだれでも、自分の両親や兄弟姉妹や家柄を選んだり、納得して、喜んで生まれ
て来たわけではありません。  自分の性別も名前も顔形も背丈も選べませんでした。
人種や国籍も選べませんでした。  そして、自分の性格というものも、多くの場合、
自分が生まれ育った(本当は受け身形でこれらを言うべきでしょうが‥)周囲の環境
に大いに左右されて形成されて来たように思えます。

  一番大切なはずの自分自身というものを、私たちは自らの自由意志で選んだり希望
することができなかったのです。  自分という存在が、自分で選んだわけでもない母
の胎に宿った、いや、むしろ宿らさせられた瞬間から、私たちは自分自身の意志で、
希望で、私たちの人生を始めたわけではなかったのです。  マイナスだらけです。

  ルカが「背丈の低い男」と説明したザアカイに、私たちはこれらのマイナスを全部
見ることができるのです。  そしてまたほとんどの場合、自分自身の意志や希望で、
私たちはこの世を去って逝くわけではありません。  自分の死という、厳粛な時点に
おいても、またマイナスで終わるのです。

  数えられないほどたくさんのマイナスを背負って生まれて来た私たちは、ほんとに
多くの溜め息と涙の大海原の荒波の上でかろうじて浮き流されながら何とか生きて、
そして死が訪れた瞬間にこの世を去るのです。  マイナスで始まり、マイナスで終る
のです。  このことは、ドイツやフランスの実存主義哲学によっても、絶対に解決
できない、重大課題であり、解決不能の最大の問題でしょう。

★  ルカ傳19章のザアカイ物語に戻って考えてみますと、人間には絶対に解決不能の
マイナスで始まり、マイナスで終る、ザアカイと私たちの人生のド真ん中で、唯一の
プラスが生まれてくるというのです。

  背丈が低いということで、ものごころがついたときから、ザアカイは他者から言わ
れのない、残酷無比な蔑視と差別という重荷を背負わされたままで、多感な幼少期や
青春期を、ただひたすらに耐え抜いて過ごす以外に、マイナス人生から脱出する方法
も手段もなかったのです。

  この苦痛は彼の心を歪めて行きました。  高利貸しという手段で、不当に彼を卑し
めていた人々に、残酷な復讐をしかけていたのでしょう。  それが人々を、ザアカイ
を憎ませたのです。  憎しみは憎しみを生み出すだけでした。  救いのないザアカイ
の苦闘人生であったのです。

  そのような孤独孤絶感の中でザアカイは、イェスを一目でよいから見たい...という
願いを抱いて高さ3メートルほどの、一種の桑の樹に登ったのです。  救いを求めて
いたのです。  そこに救いを与えるイェスが通り掛かったのです。  イェスの側から
ザアカイに声がかけられ、ザアカイは、まったく別人に生まれ変わったのです。

  生まれ変わったザアカイは、人々から不当に奪っていた財貨を、何倍にもして返還
したのです。 ザアカイの改心の誠実さを、ルカは物語っているのです。 マイナス
人生の中から、イェスに出会ったザアカイは、自らの意志で、プラスの人生を始めた
のです。 イェスに出会うということは、180度方向転換をするということです。

  クリスチャンも、イェスに出会って、本当に生まれ変わった‥というのであれば、
価値感覚がまったく変わった新しい存在として、ザアカイのようにプラスの人生観を
持って歩み出さなければならないはずだと、私はそのように考えるのです。  如何?

★  マイナスだらけの人生の中で、あらゆる苦悩や苦難を体験したヨブも、5章8節
で、「それでも私は神に求め、神に私のすべてを委ね任す...」と告白しています。
  そしてその理由として、9節は言います。  「神は大いなることをなさるお方で、
そのなさることは測り知れないからである。  その不思議な御業は数え難い」と信仰
告白をしています。

  逆境のド真ん中に生きたヨブもザアカイも、神の愛に触れて、呪っていた自分自身
のマイナスだらけの人生を、自らの選びで、プラスに変えることができたのです。

★  イェスに出会うということは、頭だけの知識や智恵とはまったく別な次元のこと
です。  生きることそのものが、その根底からひっくり返されるということです。
神の愛の内で、新しい関係の中で、新しい価値基準の中に創り変えられるということ
です。  みなさんも、マイナスだらけの中でもたもたしていないで、プラスの人生を
与えてくださる神さまの無限の恩寵に触れて、イェスの愛の下に宿ってください。

★(今週後半部に私はソウル歴史博物館が主催します「異邦人が嘗て見たソウル」と
題した写真展の開幕式に出席します。  このため週報「ベタニヤつうしん」来週号も
内容がタブロイド式になります。  ご理解を賜りますようにお願い申し上げます)