『生きていたとは認められなかった男のこと』


★  ときどき紹介したことがある、私淑しています、カリフォルニアの福音伝道者の
ディヴィッド・ジェレマイアさんが、「積極的に生きる」とでも仮私訳できる文章を
書いておられました。

★  日本語の表現を借りれば、「石橋を叩いてみてから渡らないことを決めた男」と
なるのでしょうか‥、そのような男がいたそうです。

  笑うということがなく、遊ぶということもなく、危険と思われるようなことを一切
やらず、冒険はやらず、どのようなことにも決して挑戦せず、歌は歌わず、お祈りも
しない‥という男がいたのだそうです。  恋愛をしたかどうかは聞きませんでした。

★  その男が死んだとき、生命保険会社が保険金の支払いを拒否したのだそうです。
「その人は生前に生きている証拠をまったく示さなかったのだから、生きていない人
が死んだということはあり得ない」‥というのがその理由であったそうです。
いかにもアメリカ人らしい、具体的で実践的な発想だと、笑うわけにはゆきません。

★  私たちは生きている...と言うのであれば、同じことが問われていると思います。
神を信じている‥というのであれば、そのことを何かの形で私たちの在り方によって
示さなければなりません。

  神が私たちを愛してくださっている‥と信じているのであれば、その愛を受けた者
として、私たちはその愛を私たちの在り方を通して、周囲の人々に示さなければなり
ません。

  神の愛が私たちの内に宿っているようには見えない、あるいは、神の愛が私たちの
在り方からにじみ出ているようには見えないとなれば、どうして人々が神の愛を信じ
ることが出来るのでしょうか。  私たちは、偽り者ということになります。

★  ジェレマイアさんの話を聞いて、そのように思いました。  皆さんのお考えは?