『スワン軍医殿』

★  私淑しています福音伝道者で、南カリフォルニアにお住居の? ジェレマイヤ博士という霊的指導者がいらっしゃいます。  主の再臨待望者のお一人だと思います。

もし来年2月に私の第二番目の留学先の母校バイオラ大学の同窓会が私ども夫婦を招いてくれるということであれば、何とかしてジェレマイヤ博士にお会いしたいと、そのようなことを個人的に秘かに願っています。  サテッ?

アメリカが1960年~1975年にかけ南北ベトナム解放民族解放戦線と、周辺諸国をも巻き込んで戦争をしたとき、アメリカ軍がケネス・スワン軍医をベトナムの激戦地に派遣したことがあったそうで、そのスワン博士が重傷を負った米兵の手術を野戦病院で執行したときのことを、ジェレマイヤ博士が語っておられました。
私の個人的な推測では、スワン博士もクリスチャンであったものと思っています。

1968年に軍医スワン博士のもとに19歳の重傷兵が送り込まれて来たのだそうです。
博士はこの兵卒の生命を何とか救おうと、数時間にわたり、へとへとになるまでメスと縫い糸を両手に格闘したのだそうです。

スワン博士の努力の甲斐があって、この青年兵の生命は何とか危険域を脱することができたのですが...  このとき、スワン博士の同僚軍医たちは、軍医スワンの手術を批判する陰口を叩いていたのでした。
  『あんな手術を施すよりも、あの兵隊をそのまま死なせてやればよかったのに!』
という主旨の発言が軍医仲間のあいだに広がっていたのだそうです。

この悪意に満ちた陰口がスワン博士を酷く責め立てたのです。意地悪い陰口のトラウマから脱出するために、スワン博士は自分が執刀した重症患者の兵卒を捜し始めました。  その後もずいぶんと時間がかかったようですが、ついに博士は自分が手術を担当した重傷兵の存在を捜し当て、訪問することができました。

スワン博士が目にした元重傷兵は40歳代になっていました。
帰還後に兵士は、不自由なからだにもかかわらず、軍隊から奨学金を得て大学を卒業し、結婚し、子宝に恵まれ、車を運転し、重い潜水用水中呼吸装置を背負って水中に潜ることもできるようになり、自分と同じように障害を受けて虚弱な身体で帰還した帰還兵たちのリハビリ企画にも積極的に手を貸していたのでした。
そして何よりも、その元重傷兵士は、イェスに出会い、感謝の生活を送っていたのでした。  スワン博士の喜びは『口に出せないほどの喜びであった』そうです。

ジェレマイヤ博士が、この元重傷患者兵と、彼の手術を執刀したスワン軍医の話をされたとき、『神のなされることは皆その時にかなって美しい。  神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた‥』という、伝道の書3章11節を用いて、神が私たちにどのようなことを求め、何を求めておられるのか...について語っておられました。

★  以上のような小さなエピソードを聞きながら思ったことがあります。
それは、神さまが私たちに何かを求められるとき、私たちには神さまの求めの理由や目的や方法など詳しいことをその場でお示しになるわけではないのです。
初めから神さまは青写真を示して、具体的に指示なさるわけではないのです。

そのことをヘブル書11章1節が語っているのです。
『神さまを信じるということは、望んでいることを確信することであり、いまだ見ていないものごとを確かにそうだ!と信ずることである‥』

疲弊しきっていた1960年代末期から1970年代初期にかけての韓国各地訪問で、私も個人的に、神さまがこの私と私の家族に対して何となくこの国の貧しい人々に仕えることを求めていらっしゃるのではないのか?...と、おぼろげに、何となく、漠然と、感じ始め出していたのでした。  詳しいことなどまったくわかりませんでした。

あれからすでに40年近くの年月が経ってしまい、人生の終焉に私は居ます。
しかしあのときのことを、徐々にでしたが、そしてまた、現在に到って、これも徐々にですが、過去を振り返って見るとき、神さまが、私と家族に対して求めておられたことが、少しずつわかり始めたように思い始めたのです。  時間がかかるのです。

神さまの石臼は、ほとんど廻っていないように思えるほどじれったいものです。
しかし、神さまの石臼は、着実に、神さまの時間の内で、神さまの御旨にしたがって回転しているのです。  このことを私たちは信仰を通して学んでゆくのです。

神さまの御旨だと確信することに自分自身のすべてを賭ける・懸けるのか、それとも神さまの呼びかけを聞きながら、それから己を避けようとするのか‥  そのことが問われているのです。  詳しいことがわからないから‥  そのような理由で神さまが私たちに求めておられるはずに違いないことを避けて、神さまが用意してくださっている大きな祝福を見逃してしまうのか‥  これが私たちに課せられた自由と決断だと私は思います。  広い道か狭い道か、広い門か、狭い門か...  の選択でしょう。

神さまは神さまがなさろうとされていることを、初めから終わりまでご存知です。
私たちは、この天地宇宙を創造なさり、そして私たち一人ひとりをもこの世に送ってくださった神さまに、私たちに主イェスとその十字架の恩寵を賜った神さまに、全てを託して、神さまの栄光に満ち溢れた十字架の道に従って行こうとしているのかどうか‥  このことが問われているのですから、感謝して示された道を選んで従うことが主の恩寵に在って、最高の人生を送る道だと確信しています。  如何でしょうか?