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マタやッカイ・ナみゅラ?!


★  世界でいちばん美しい音楽とは...自分の名を正確に呼んで貰う時です...と、嘗て留学中に音楽の先生が教えて下さったことがありました。

  「マタやッカイ・ナみゅラ」と、最初の留学先の卒業式で読み上げた先生がありました。  「チチロ・ネカへラ」、「テらカ・アバヤしゃい」というのもありました。ひらがなにアクセントが落ちます。  さてっ...?  おわかりになりましょうか?答は「野村基之」、「中原七郎」、「大林照子」という外国人留学生の氏名です。

★  これらは微笑ましいとも言えましょう。  しかし、そうでないのもあります。「千年王国論者の共産党員」とか、「地獄行きの千年王国論者のジャップ」というのもありました。  「社会主義者」(この場合、米国人が言う暗示的意味は共産党員)と呼ばれたこともありました。

  米政府は私を米国政府転覆を企てている外国人だと焼き印を押し、強制国外追放・強制送還者と決めつけました。  滑稽千万なこれらの悲喜劇的な話の裏には、宣教師Gと、その下で働いていた3名の日本人がいたようです。

  以上は、嘗て敗戦直後に来日した宣教師たちや、留学中に訪問した幾つかの教会で体験したことです。  東西冷戦のただ中でマッカーシズムが猛威を振るっていた時代です。  私がこの地上で属していた教派は、アメリカ深南部の保守的なものでした。

  数年前に、ある若い牧師さんが、根拠がまったくないのに、激しい思い込みから、公の席上、独りで激昂し、私を激しく罵ったことがありました。 
  英語で言う name-calling ネーム・コーリング=罵詈、非難、中傷...ということです。  人徳の到らなさが招いた誤解や糾弾だろうかと思っています。  一人の人間が生きて行くときに、予期せぬいろいろなことが起こって来るものだと学びました。

★  さて、ネーム・コーリングというものは、新約聖書にも登場して来ます。使徒行伝11章26節と26章28節です。
  ここで初めて登場する「クリスチャン」という呼び名は、こん日私たちが何気なく使っている「クリスチャン」という意味とは違うように私には思えます。

  そのような呼称は、それまでの人類の歴史の中で用いられたことはありませんでした。  ことばそのものの意味は、「キリストに属するもの」とか「キリストの者」という意味であったと、素人の私には思えます。  人々の戸惑いを含む呼称でしょう。

★  私が幼かったころ、人々は「クリスチャン」という呼称を使いませんでした。むしろ「キリスタン」とか「耶蘇ヤソ」 という名で呼んで、「自分たちには関係のない一種のよそ者」、「非国民」、「異端者」などと考えていたように思います。

  「俺たちには関係のないヨソ者」、「けったいな人」、「気をつけんとあかん人」などという意味合いを「耶蘇」という言葉は含んでいたように記憶しています。
  「奴は耶蘇だ!」、「あいつは耶蘇教か?!」とか、「アーメンさんだ」などというようであったかと思います。  庶民の間では不信感と好奇心を誘う単語でした。

  また、当時は皇国主義が日本を支配し始めていたころでしたから、「耶蘇」という呼称には否定的な響きが強かったと、子供の私ですら感じていました。特高刑事などが、「耶蘇」には強い関心を抱いて見張っていたと思います。

★  使徒伝17章6節は、イェスを主キリストと信じていた熱狂的な庶民たちのことを「天下を掻き乱す者、天下をかき回す者、天下を転覆する者」などという、好意的でない呼称を用いて、まわりの人々がそのように呼んでいたことを示唆しています。
  これも一種のネーム・コーリングでしょう。  しかし残念ですが、現在の私たちと教会には、「この日本や世界を含んだ天下をひっくり返す」力などありません。

★  最初に申しておきましたが...
名を正しく呼ぶこと、呼ばれることは、世界中の美しい音楽よりも美しいものだ...と言うこととの関連で、世界で最も美しい名とは何か...ということを考えてみました。

  その答を私は日本基督教団の讚美歌 168番、「イェス君の御名にまさる名はなし」に見出したように思います。  「There is no name so sweet on earth」です。

  作詞者ベスン George Washington Bethune (1805~1886) はニューヨーク市生まれで、イタリヤのフローレンスで没したオランダ系の牧師で優れた学者でした。
  私が調べただけでも十数曲の讚美詩を遺しています。

  作曲者ブラッドバリー William Batchelder Bradbury (1816~1868) はメイン州で生まれ、ニュージャージー州で没しています。  童顔のベスンと異なり怖い顔の遺影が残っています。  彼の人生に就いては、いずれご紹介をしたいと思います。
  わかっているだけでも五十数曲の讚美曲を遺しています。その中には、私たちにも馴染みが深い、「主、我を愛す」も含まれています。

★  黙示録22章4節は、聖徒たちの額に「御名」が記されてあると語ります。この地上で主の栄光を顕すために何とか厳しい日々の信仰生活を耐え抜こうと真剣に祈って生活している私たちは、やがて御国で、主の御名を誉め讚える私たちの額に、主の御名が記されるようになるという約束です。  讚美歌 168番の本番となります。

 

風いと激しく波立つ闇夜も


★  日本基督教団の讚美歌 280番2節に「風いと激しく、波立つ闇夜も」という句があります。  エドワード・モート Edward Mote  の讚美詩の一句を訳したものです。
  ルーテル教会讚美歌 317番の2節は、「波風逆巻く嵐の海にも」と訳しています。バプテスト教会の新生讚美歌 492番2節と聖公会讚美歌には、「風いと激しく波立つ闇夜も」と訳してあります。
  インマヌエル讚美歌 467番2節は「風いと激しく波立つ闇夜も」と訳しています。聖歌 236番2節は、「波風いかには錨のある身に」と訳しています。

  原詩は「in ev'ry high and stormy gale, my anchor holds within the veil」です。  上記の邦訳を見ますと、限られたお玉杓子の数に対して工夫して原詩の意味を伝えようと努力してあるのを窺い知ります。  本訳者に拍手・喝采・脱帽です。

  原詩はと言いますと、作詞者モートはヘブル書6章19節に登場している三つの名詞を根拠にしているようです。  すなわち「望み」、「錨」、そして「幕の内」です。

  そして「幕の内」ということになりますと、レヴィ記16章が背後にあります。贖罪の日に関して「聖所」、「会見の幕屋」、「祭壇」などの単語も出て来ます。

  神は聖なる神であり、私たちは罪ある民ですから、私たちが直接神の前に出ることは許されていません。  最高位の祭司だけが一年に一回だけ幕屋内に入ることを許されています。  燔祭(=全焼)のために殺された血のついた生贄の動物、祭司が着用する聖なる衣服、雲のような煙と薫香などが聖所に入るために要求されています。

  この16章を軽く読むだけではわかりませんが、一つ一つに十分な思いを馳せて読んでみますと、これはたいへんに厳粛な宗教儀式であるとわかります。

  ヘブル書6章19節~20節で、私たちの大祭司であるイェスが私たちの贖罪のために御自身を捧げられたことを学びます。  詩篇 110篇4節が参考になります。ヘブル書4章14節~16節、6章19節~20節、10章19節~25節もお読みください。

★  モートは今月でちょうど 215年前、1797年1月21日にロンドンで生まれた人です。  1874年11月13日、サセックス州ホーシャムで逝去し、同地に埋葬されました。若い時には高級家具職人と言いましょうか、差物師であったようです。

  トッテンナム・コート・ロード教会 Tottenham Court Road Chapelで牧師をしていたジョン・ハイヤット John Hyatt の説教を聞いて大きな影響を受けました。教会そのものは、女性の侯爵であった  Lady Huntingdonハンティングドン侯爵が支えていた教会のひとつであったようです。

  そののちモートはバプテスト教会の牧師になり、Horsham, Sussex サセックス州のホーシャムで26年にわたり仕えたようです。  教会員たちに敬愛され、教会堂を彼に寄贈したいとの申し出まであったそうですが、『教会堂は不要だが説教台だけ呉れ』と答えたそうです。  『自分が死んでキリストを説教できなくなったら、放り出して呉れ』と答えたそうです。  讚美詩はこの一つだけ遺した説教者で、写真を見る限り「愛くるしいおじさん」のように見えます。

★  後世への最大遺物としてモート牧師は美しい讚美歌を一曲遺して召天しました。みなさんは何を後世に遺されますか?  エペソ書2章8節~10節の問いかけです。


 


★  ほとんど何であれ、肝心なところを骨抜きにして、外見だけを楽しむのを得意とするのが日本人なのかも知れません。

  命がけで宣教師が日本に伝達しようとしたイェスの福音も、中身を器用に抜いて、外側だけになった、可視的面の教会堂や縦社会組織やミッション・スクールなどに、そのような傾向を見ることができるように常々考えています。  私が住む八ヶ嶽南麓の観光地、清里の清泉寮も、その典型的なものではないのかと考えています。

  同じような文脈で、ニュートンが作詞したアメージング・グレースという讚美歌も同じような扱いを受けています。  意味を問わないで曲だけが独り踊っています。

★  スティーヴ・ターナーという人が、「アメージング・グレース」と題する著作を発行しました。  Amazing Grace by Steve Turner / Harper Collins Publishers よく調べて詳しく書いてあります。  英語を読める方には一読をお薦めします。

  そのほかにも、伝統的な讚美歌史の資料源として、The Gospel in Hymns があります。  The Gospel in Hymns by Albert E. Bailey / Charles Scribner's Sons, NY

★  ジョン・ニュートン作詞の「アメージング・グレース」に関しましては、すでに週報「ベタニヤつうしん」で紹介しましたし、ベタニヤ・ホームのページに掲載してあると思います。  詳細はホーム・ページでお調べ願います。

★  そこで今回は、この讚美歌を少し違った角度から眺めてみることに致します。今回は、詩の中でニュートンが使ったいくつかの単語の意味を考えてみましょう。

★  最初に他動詞「amaze アメイズ」からです。  「驚かさせる、びっくりさせる、びっくり仰天させる、驚きあきれさせる」などを意味します。

  現在ではほとんど使われなくなった古い使い方として、「当惑させる bewilder 、当惑させる、うろたえさせる、困惑させる、驚きあきれさせる、気絶させる、度肝を抜く、唖然とさせる、極度に感動させる、ぼうっとならせる」などというような意味もありました。  人を「道に迷わせる」という意味もあったのです。

  そこから「amazing アメイジング、驚くべき、びっくりするような、すばらしい」などを言い表す副詞や形容詞も出てきています。

★  次に名詞・動詞の「grace グレース」です。分厚い辞書2冊で調べてみました。  古いラテン語 gratia が語源のようです
  西欧のいろいろな言語にも、発音や綴り方に違いがありますが、基本的に同じ意味です。  姿・態度、動作の品の良さ、優雅、優美、人好きのする性質、長所、美点、魅力、愛嬌、好意、親切、厚情、負債の猶予...などの他にも、神学的には神の恩寵、道徳的な強さ、気骨などの意味も含み、食前の感謝、尊敬語としての閣下、ギリシャ
神話の美女の女神たち...  ずいぶんと広い、肯定的な意味を含有する単語です。

★  もう一つ気になる単語です。  普通の日本人には理解するのが困難な単語です。「はやり物の一つとして」得々とこの歌を歌っている多くの日本人歌手や報道関係者に、詩の中でニュートンが使っている特定の単語、「wretchedレッチド」に対して、どこまで理解があるのか?...と、私が疑問視する深い含蓄のある単語のことです。

  作詞者ニュートンが敢えて使っている特定の単語、すなわち「wretched like me」レッチド・ライク・ミ~の「レッチド wretched 私のような哀れな男」の意味です。

  不運な、不幸な、悲惨な、惨めな、可哀想な、哀れな、不快で情けない気分にさせる、卑劣な、浅ましい、軽蔑すべき、劣った、未熟な、下手な、お粗末な、貧弱な、情けなくなるほどの、つまらない、どうしょ~もない、汚い、話にならない、見下げ果てた、ひどく気分が悪くなる...などという否定的な意味を含む単語です。

  作詞者ジョン・ニュートンは、かつて自分が奴隷船に乗り込んでいた時、呆れ返るほどの惨めな人生を送っていたことを強く意識して作詞したのです。  ある時期には奴隷船の白人船長の妾であった黒人奴隷の男妾にまで落ちぶれていたのです。

  大西洋上で嵐に遭遇し、船が難破・沈没の危機にあった時、ジョン・ニュートンは初めて悔い改めを体験し、後世を福音伝道者として生きるに到ったのです。
  有名なオルニー讚美歌集を編集し、その中にアメージング・グレースの詩を加えたのです。  そのような背景があったので、自分自身を「wretched like me」と表現したのでした。  深い悔い改めと、神の恩寵を強く意識した上で選んだ単語でした。

★  残念ですが日本では、聖歌、新生讚美歌、讚美歌第二編のいずれにも、この強い表現は使われていません。  複数の中国語讚美歌集や韓国語讚頌歌も、日本語と同じ翻訳上の困難さから、「レッチド  wretched」に相当する表現を使えないようです。
  限られたお玉杓子の数に対し、翻訳すれば長くなり過ぎる多くの説明の言葉を配置することは、西洋と東洋の言語の性質の違いから、残念ながら不可能のようです。

★  英国人であったニュートン作の歌は、私たちが聞き慣れているメロディーと全く違うメロディーで最初歌われていたのですが、詩が新世界にもたらされ南部の美しいメロディーと出会い、そこで初めて一躍有名な歌となったということを知る人は多くないのです。  私たちが聞き慣れているメロディーが最初から付いていたのではあり
ません。  また、本来の詩にニュートン以外の人がつけ加えたものもあります

★  日本語訳では、ニュートンの信仰告白を表現することを到底できません。英語で記された詩を英語で読み、英詩の意味することを理解しない限り、メロディーの美しさに誤魔化されてしまい、ニュートンの信仰を理解することが不可能です。

★  英語原詩に、「Amazing grace how sweet the sound!  驚くほどの恩寵 grace、何と素晴らしい音ずれなんだろう!」とあります。

  しかし恩寵 graceとは、一方的に神がその愛の故に神側から示してくださっているという事実そのものです。  創世記1章の天地創造の記録からもわかりますように神が神の全人格を注ぎ込んで、その心を砕いて、一方的に私たちを創造されたという事実から明らかなことです。  まず神がいまし、その神が私たちを愛と対話の対象と
して創造なさったということから、すでに私たちは恩寵を読み取ることができるのです。  創造主がいらっしゃらなければ私たちは在り得ず、恩寵 graceがなければ、私たちは存在し得ないのです。

★  日本語訳にはありませんが、その音ずれ、恩寵grace に関してさらにニュートンは言います。

  「It was grace that taught my heart to fear, and it was the same grace my fears relieved..  恩寵 graceが神の前に立つ罪ある私に神の義とその裁きを怖れることを覚えさせたが、同じその恩寵 graceが、神の恩寵を私に示し、私の恐れを取り除いてくれた!」と讚美しています。  人の罪と神の贖罪の業を歌っています。

  テトス書2章11節~13節は、「人を救う神の恩寵 graceが現れた」と教えます。神の恩寵 graceが私たちの教師役を果たしている...と言うのです。  それですから、アメージング・グレース、驚くべき恩寵の持つ善き音ずれなのです。

  これらのことを、クリスチャンと自称する人たちを含めて、日本人に納得させることは極めて困難であろうと、私はそのように考えています。

★  すでに説明しましたが、「どうしょうもないこの哀れな、レッチドな wretched like me おのれ」という単語を、ニュートンは、罪に浸って汚れ切ってしまっていた自分自身の過去を深く顧みて使ったものと理解します。

  ニュートンが作詞した時、欽定版聖書ロマ書7章24節の「O wretched man I am!」を考えていたに相違ないと私は信じています。

  いのちのことば社の新改訳はこの箇所を、「私は、ほんとうにみじめな人間です」と訳しています。  同社の詳訳聖書では、「ああ、私という人間は、全くみじめだ(哀れだ、悲惨だ)」と訳しています。

  聖書協会の文語訳は「噫アアわれ悩める人なるかな」、口語訳は「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」と訳し、新共同訳は「わたしはなんと惨ミジめな人間でしょう」と訳しています。

  キリスト新聞社の口語譯は、「ああ、悲惨な人間、私よ」と訳しています。新教出版社の柳生直行訳は、「ああ、わたしはなんとみじめな人間だろう」と訳し、日本聖書株式會社の永井直治訳(昭和8年版)は、「我は苦しめる人」と訳しています。  基督教文書伝道会の永井直治訳(昭和52年版)も「我は苦しめる人」と訳して
います。

  原語のギリシャ語聖書は、「タライポロス・エゴ・アンソロポス」と3語を使っています。  私はギリシャ語の学者でありませんが、「厳し過ぎる苦難をも堪え忍ぶ」というような意味のタライポロスから、惨めというような意味が出てきたものと理解しています。  黙示録3章17節には「惨めな」として登場し、ヤコブ書4章9節では
「苦しめ...」と日本語には訳されています。

★  「レッチド・マン・アイ・アム! What a wretched man I am ! 」ニュートンが自分自身を顧みて絶叫したこの謙虚な自己表現、実は、これこそが神の前に立たされるその時に私たちが初めて気づく現実の状態だと思います。

  どうでもいいような偽りの自尊心と傲慢さの塊である私たち哀れな者、レッチドをありのままで受け入れて下さっている神の一方的な恩寵 graceに対するニュートンの信仰告白と、神に対する感謝と讚美を唄った讚美詩であったのです。

  嘗て奴隷船の船員、奴隷船の船長の黒人妾の白人奴隷男妾とまで成り下がった男、のちに奴隷船の船長に這い上がったものの、どうしょうもないジョン・ニュートン、悔い改めて献身し、英国国教会の牧師となったのちに、自分の人生を神の恩寵の中で捉えて作詞した讚美歌が「アメージング・グレース Amazing Grace」です。  それは
ただ単にジョン・ニュートンだけの個人的信仰告白ではなく、私たち一人一人の信仰告白でもあるのです。  謙虚に神の恩寵を讚美する者でありたいと願います。



 

勇みて仰けや

                              Break Forth, O Beauteous Heavenly Light

★  日本では殆ど知られていない、大好きな降誕節の讚美歌がひとつあります。幸いにもルーテル教会讚美歌22番に「いさみてあおげや」として紹介されています。この讚美歌を、バプテスト教会の新生讚美歌では 202番に掲載しています。

  私は獨逸語を理解できませんが、 Break Forth, O Beauteous Heavenly Light と英訳されています。  1954年晩秋から降誕節にかけ、最初の留学先のケンタッキーの大学のアカペラ・コーラス・グループで歌い、大きな衝撃を受けた讚美歌です。

★  詩文はヨハン・リスト Johann Ristで,バッハの曲を用いています。リストは、獨逸北部、エルベ川に臨む獨逸最大の貿易港であるハンブルグ市の近郊で生まれています。  1607年3月8日です。  日本ですと慶長12年、徳川秀忠の時代です。  私が幼少年期を過ごした親族の家の傍の北野天満宮の本殿が完成した年です。

★  獨逸語と当時の獨逸の社会的状況理解ができない私ですので自信も責任も取れませんが、リストはハンブルグとブレーメンで教育を受けています。
  その後にリンテルン大学に入学し、ヨシュア・ステグマン Josua Stegmanに出会い影響を受けます。  この師との出会いによってヨハン・リストは讚美歌に対して関心を抱くようになりました。

  リンテルン大学を終えてハンブルグの商人の子供たちの個人教授となり、子供たちをロストック大学に入学させましたが、ヨハン・リスト自身もその大学ヘブライ語、数学および薬学を学びました。  在学中に30年戦争が大学を襲い、大学は廃墟化し、ヨハン・リストも数週間を無駄に過ごしたようです。  また、疫病の犠牲にもなりました。  回復後ハンブルグに戻り体力の回復に努めました。

  1633年、26歳のとき、ホルスタイン地方のお屋敷で家庭教師を勤めます。そこで判事の娘のエリザベス・スタッフェル嬢と結婚し生涯を共にしました。

★  1644年、皇帝フェルディナンド2世はヨハン・リストに優れた詩人としての冠を与えていましたが、更に1653年には高位を与えます。  1645年には Pegnitz Orderの会員になります。  フラー神学大学院に図書や辞書を寄贈してしまいましたので、この位階がどのような意味を有するのか、獨逸の伝統に疎い私にはわかりません。

  1647年には Fruitbearing Society の会員に選ばれ、1660年に Elbe Swan Orderエルベ川白鳥叙勲制度?を彼自身が設立しています。  獨逸のことはお手上げです。
  1667年8月31日に Wedel an der Unterelbe で逝去し、同じ町に埋葬されました。彼自身が遺した讚美歌詩で有名なものが14曲あります。

★  ヨハン・リストの讚美歌を英語に翻訳したジョン・ツルートベックの紹介は省略致します。  興味をお持ちの方は個人的にお尋ね下さい。

★  ヨセフはクリスマスの嬰児をイェスと名付けました。  リストはこの嬰児の誕生を讚える美しい歌を書き残しました。  みなさんは何を後世に遺されますか?

 


★  今回ご紹介する讚美歌は、日本の教会で歌われたことがないように思います。作詞作曲者のダニエル・デ・マルベル Daniel de Marbelle の言葉ですが、「自分は忙し過ぎて神のことを考えたこともなかったが、次第に神は私にスロー・ダウンすることを教え、商売の成功など放棄して、ヨルダン川の彼方にある神の国を考えるようにさせた...』と語っています。

  1818年4月にスペインのセルヴィルで生まれ、1903年12月にイリノイ州エルジンで逝去、エルジンに埋葬されました。  1800年代初期捕鯨船で働き、米海軍に入隊し、1847年のメキシコ戦争にニューヨーク鼓笛隊員として参戦しています。  南北戦争にはミシガン第6歩兵師団軍楽隊員として従軍しています。  その後、彼自身のサーカズ音楽隊を編成し各地を訪れ、彼自身が北米最初の道化役者となりました。  カナダ公演中に火災を起こしすべてを失うこととなります。  西部開拓者で興行師コーディを助け、ワイルド・ウエスト・ショーを有名な巡回ショーに仕立てました。

  深刻なリウマチを患い無一文となります。  イリノイ州エルジンに息子のひとりと共に落ちこぼれて漂着し、寂しい生活を送っていました。

  1897年、偶然にも、かつて手伝った興行師コーディ、別名バッファロ・ビル一座が町にやって来たというので、見物人にまぎれて観に行きました。  コーディは観衆の中にダニエル・デ・マルベルを発見し、落ちぶれていた旧友をステージ前に用意した特等席に招き入れ、夕食を振る舞いました。
  食事の席には、トランプを空中に向け放り上げ、ピストルで撃ち、穴をあけるのを得意技にしていた有名なアニー・オゥクリーも同席しました。

  食事後、別れる時、コーディは、ダニエル・デ・マルベルに、「相当額の丸まった紙幣の束」を贈ったということ、ダニエル・デ・マルベルの葬儀の弔辞の中で語られたことでも有名です。

  ダニエル・デ・マルベルは、ほとんどの楽器を自由に操ることができたようです。腹話術も上手、演説も上手でした。  ブラス・バンドを組織し、メソジスト教会では聖歌隊員でもあり、町の名士らをスクエア・ダンスに誘って踊ったそうです。
 印税のすべてを盗まれ、無一文で、餓死寸前状態で死去したと言われています。

 

或る讚美歌史・希望の囁き


★  女学校の多くで歌われ続けてきた美しい曲に、緒園涼子オゾノ・リョウシ訳と津川主一訳の「希望の囁き」という美しい詩があります。  両者とも「作詞者」と紹介されているようですが、「Whispering Hope 囁く希望」を翻訳したものと私は捉えています。

  一般にはメアリー・アン・ホーソン Mary Ann Hawthorne 作詩作曲として知られています。  しかし作詞作曲者の実名は Septimus Winner(1827~1902)という米国人です。  セプティマスと発音するラテン語の「第七番」から採った名です。

  ヴァイオリン製作者ジョーセフ・ウインナ Joseph E. Winner (獨逸系? )を父とし、母メアリ・アンとの第七子としてフィラデルフィアで生まれ、フィラデルフィアで活躍し、フィラデルフィアで死去して、同じフィラデルフィアに埋葬された著名な音楽家です。  更なる詳細は、ここでは省略します。

★  母方の親戚には、有名な小説家ナタナエル・ホーソン(1804~1864)がいます。ホーソンの作品で、日本にも良く知られているものに、「緋文字」があります。
(愛が欠落した不幸な結婚をした女性が若い牧師と恋に陥り子を産むことから姦通罪に問われ、それを示す緋色の「A」の文字を胸に生涯を生きることになる。  牧師は会衆の前で罪を告白し死を選び、復讐心に燃えた夫も死に、残された彼女一人が贖罪の生涯を決然と生きて行く...という物語。  17世紀ボストンの清教徒世界が背景)

★  ホーソン家の先祖の一人にアメリカ史の中でも有名な「セーレムの魔女裁判」を担当した判事もいます。  かなりの名門であったように思えます。

(セーレムの魔女裁判 Salem Witchcraft Trialsは、1692年に行われた魔女信仰に対する裁判で19名が絞首刑にされ、55名が拷問により自白、 150名が投獄、 200名が逮捕された事件。  西インド諸島出身の奴隷が、西インドや米国南部の黒人奴隷の間で信奉されていたブーズ教を信じているという噂を聞いた白人女性たちが、悪魔に取り憑かれたと騒いだことから3名の女性が魔女として告発されたことから始まった事件。  牧師の扇動もあり、特別裁判所が設置され、魔女とされた女性たちが裁かれることとなった。  女性の一人にフィリップス総督の妻もいたということで大騒動)

★セプティマスはほとんど独学で音楽を習得した人でしたが、家族に音楽にゆかりの深い人々がいました。  彼自身は詩人であり、作曲者でもあり、さらにヴァイオリン奏者としても良く知られていた。  兄弟ジョーセフと音楽出版社と音楽店を経営していました。  諸種類の楽器演奏を個人教授し、フィラデルフィア金管楽器吹奏楽団や各種のアンサンブルでも活躍していたようです。  20種類の楽器の為に2百曲以上を作曲し、ピアノとヴァイオリンのために2千曲以上を作曲したそうです。

  作品発表に際して少なくても四つの雅号=ペンネームを使っていたようです。その中でも、母の婚前名 Alice Hawthorneアリス・ホーソンを頻繁に使いました。

  恋人を思う、滑稽なバラード *Listen to the Mocking Birdを作詞し2千万枚を売り上げた大ヒット曲の版権を僅か$5という破格の値段で売却したことでも有名です。  (* 北米南部に主として繁殖し、他の鳥の鳴き声を真似るマネシツグミ)

  テニソン作の「イーノック・アーデン」を想う詩や、迷子になってしまった犬や、自然界を題材にした詩が多いようです。

(尚、イーノック・アーデン物語は、漁船に乗って大海に出た漁夫イーノックの船が難破したようで消息不明となりました。  10年間も夫を待ち続けた妻アニーは、帰宅せぬ夫が死亡したものと思い、幼な友達フィリップと結婚して一児を設けました。
  一方、離れ島に漂流した夫と他の船員たちですが、同僚は孤島で死亡し、ようやく独り漁村に戻って来ることができた夫は、幼な友達で恋敵であったフィリップと結婚している妻の消息を知り、黙って彼女のもとを去って行く...という、悲劇の物語詩です。  敗戦直後の明治学院旧制高校の英語の授業で学んだことがあります。)

  イェスを「囁く希望」として作詞作曲したことからも、優しい心の持ち主であったように思います。  三位一体の神について具体的に触れていない異種の讚美歌です。

  アメリカの有名な子守歌の幾つかや、「十人のインディアン」の種曲(このような単語があるのかどうかわかりませんが、種本というもがありますので、「種曲? 」もあるのかなと思い使いますが...)の作詞や作曲もしたように私には思えます。

  彼自身の信仰・教会関連情報は調査が思うように進まず、不十分です。松慶燦マッケイサンに問い合わせ中ですが、清教徒=ピューリタンの雰囲気の中で生きた人ではないかと個人的には思っています。



 

低い方の燈台の炎を絶やすな


★  Let The Lower Lights Be Burning / Brightly Beams Our Father's Mercy は、アメリカで生まれた有名な福音讚美歌のひとつです。

  この讚美歌を作詞作曲したのはブリス Philip Paul Bliss, 1838~18776 です。ブリスは1838年7月9日(天保9年)にペンシルヴェニア州クリアーフィールド郡で生まれたとあります。  一説ではロームという僻地で生まれたとも言われています。
  同州の詳細な地図で調べてみましたが、いずれもアパラチア山脈の中の貧しい地区のようです。  建国時代から現在までほとんど変化のない山岳地帯です。

  生家はログ・キャビンであったそうですから、開拓時代には、私たちの想像を遥かに越える厳しい環境であったかと推測します。

  開拓入植者の一人であった父親はアイザック・ブリスと言い、極めて厳格でまじめなメソディスト教会員であったとのことです。  家族の姓を考えてみても、同教会員であったということからも、イングランドからの移住者ではなかったかと思います。

  父親のアイザックは家族に祈ることを熱心に教えたようです。  また、父は、音楽を愛した人であったそうです。  この場合の音楽とは、讚美歌のことだと思います。

  息子フィリップ・パウロ・ブリス(以下ブリス)は父親の影響を受けて、讚美歌を歌うことに早くから興味を抱いていたようです。  そのことから、ブリスは、のちに到って優れた作曲家、指揮者、バス・バリトン歌手、讚美歌の作詞家、そして讚美歌歌手に成長してゆくことになったのです。  信仰の強い極貧開拓者の父が息子の優れた音楽的才能の発見者であり、これを大きく伸ばす精神的支援者となったようです。

  6歳の時、私の推測ですが当時の西漸運動の波に乗った家族は、ペンシルヴェニア州とオハイオ州の州境からほんの僅かオハイオ州側に入った所の湖畔のキンズマンに移動しています。  今でも人口の少ない静かな村です。

  しかしこの動きは、開拓者ブリス家の期待に反した結果であったようで、3年後には再びペンシルヴェニア州に戻り、エスパイヴィルに住まいます。  二つの寒村間の距離は20キロ前後です。  当時の幌馬車で行けば半日程度の距離だと思います。

  それからさらに1年後の1848年、ペンシルヴェニア州中部で、アパラチア山脈北側のトイガ郡に家族は移動しています。  ここも現在に到って相当な寒村僻地です。当時の家族の生活苦を何となく地図を眺めるだけでも推測できるような気がします。

  これらの移動期に、フィリップ・パウロ・ブリスは、もちろん、開拓僻地に住んでいたので、正規の教育を受けることはできませんでした。  母親が教師として息子を教えました。  教科書は、多くの開拓者たちが経験したように、聖書でした。

★  10歳になったフィリップ・パウロ・ブリスは自分たちで作った野菜を売り歩いて家計を助けていました。  そしてその時、初めてピアノの音色を聞いたのでした。
  翌年ブリスが11歳になった時、開拓者家族の若者たちがそうしていたように、彼も家を出て自力で生きることになりました。  アパラチア山脈内の製材所などで重労働に従事しました。  そこで得た賃金の一部を使って学校に行き学んだそうです。

★  苦学の甲斐があって、17歳の時に教師の資格を取得しました。翌年、ニューヨーク州ハーツヴィルで学校の教師になりましたが、夏には農場で働いたようです。  生活は厳しいものであったようです。

  (尚、この村は現在では廃墟になっているようです。  国際的に権威のある4種類の地図帖で調べようとしましたが記載されていませんでした。  グーグルで検索してようやく廃村になっていることを知りました。 ペンシルヴェニア州境の北部にあるステューベン郡のホーネル町の傍にあった村で、初代入植者ハーツヴィルの名を記念して付けられた村でした。  2000年度人口調査時の人口は5百人弱とのこと。)

  1857年、ブリス19歳の時にタウナー J.G. Townerに出会いました。タウナーは、ブリスが歌手としての才能を備えた青年であると見抜き、本格的に歌うことの指導を施しました。

  また、同じ年、ブリスはブラドバリー William B. Bradburyにも出会いました。ブラドバリーはブリスが音楽教師になることを強く勧めました。

  この二人の出会いはブリス青年にとって極めて重要な出会いとなったのです。この年ブリスは初めて作曲をし、その曲を売った代金でフルートを購入しました。

  翌1858年、ペンシルヴェニア州ロームの学校で職を得ています。この村も小さな寒村で、ニューヨーク州境の旧連邦道 US 220 沿いにありました。現在はノース・ロームとしてかろうじて残っています。  ビンガムトン Binghamton というニューヨーク州側の町がローム北東50キロにあります。

  この年の6月1日、20歳になったブリス青年は、ロームでミス・ルーシー・ヤングLucy J. Young 嬢と出会い結婚しました。  いわゆる「6月の花嫁」です。
  ルーシー嬢の実家は音楽的雰囲気の濃い家族でしたので、彼女は新郎ブリスを励まし、彼の音楽的才能をさらに伸ばすようにと励ましたそうです。  彼女が長老教会員であったことから、ブリス自身も長老教会に身を置くことになりました。

  22歳の時、ブリスは巡回音楽教師になって開拓者の村や町を訪れました。今で言う小型オルガン、当時のメロディオンを搭載した馬で村々を巡回したのです。

  妻ルーシーの祖母がブリスに$30を貸してくれたので、新郎ブリスはニューヨーク音楽師範学校で6週間の特訓を受けることができました。
  このことで、ブリスはニューヨーク州とペンシルヴェニア州に跨がる彼の地元で、ますます巡回音楽教師としての信頼度を増すことができたのです。
  この時期、ブリスは作曲に力を注いでいましたが、作品の著作権を登録しませんでした。  おおらかな性格の人物であったものと憶測しています。

★  次に、「福音伝道者ブリス」として眺めて見ましょう...
 1864年ブリスが26歳の時、夫婦はシカゴに転居しました。  南北戦争中のことです。
  その頃のブリスは歌手として、あるいは教師として一目置かれる存在になっていたようです。  そして、多くの福音讚美歌を作詞作曲していたようです。

  あるコンサート旅行に出た時のことでしたが、2週間の旅行で$100の収入を得たとのことです。  当時としては大金です。  僅か2週間で百ドル...驚愕したそうです。

  予期せぬ高額の謝礼金に戸惑っていた翌週、北軍への召集令状が届きました。しかし、南北戦争は北軍側の一方的な勝利で終わりつつあったので、召集されてから半月ほどでペンシルヴェニア陸軍第 149隊から除隊になりました。

  そこで再びコンサート旅行に加わりましたが、柳の下にいつも泥鰌がいるわけではないのです。  前回のような豪華な報酬を得ることはできなかったようです。

  ルーツ・アンド・キャディー音楽出版社  Root & Cady Musical Publishersから月給$150ドルで働かないか?...との誘いがありました。  1865年から1873年まで勤めました。  その間に、出版社のために音楽大会を司会したり、歌手養成学校の運営に携わったりコンサートを開催したりしました。  出版社のために讚美歌の作詞作曲も手がけていたようです。

★  そのころ、北米と欧州英語圏内で活躍をしていた大衆福音伝道者にムーディーがいました。  Dwight Lyman Moody, 1837~1899です。  会衆派教会の伝道者です。
  讚美歌の創作者、独唱者、指揮者  サンキー Ira. David Sankey, 1840~1908と組んで、二人で大衆伝道に励んでいたのです。

  1869年に到りブリスは大衆福音伝道者ムーディーと知り合うようになりました。ムーディーとムーディーの大衆伝道隊員たちは、ブリスに音楽出版社の仕事を辞めて讚美伝道歌手、歌う宣教師  missionary singer になるよう説得したのです。

  1874年ブリス36歳の時、神が自分を人々の魂を救うためにお召しになっている...と納得したブリスは、フル・タイム歌手として福音伝道に参加する決意をしたのです。
  その時点までに、ブリスには相当額の印税収入がありました。それらすべてを慈善事業と福音伝道のために捧げる決意もしました。

★    1876年12月29日、金曜日の夕方、ブリスが38歳の時、ブリス夫妻を乗せた汽車、パシフィック・エキスプレス列車がオハイオ州アシュタビュラ Ashtabula, Ohioに差し掛かっていました。

  アシュタビュラはオハイオ州北東部で、五大湖のひとつ、エリ湖沿いの港湾都会です。  クリーヴランドの北東百キロに位置し、1801年に定住が始まりました。
  同じ年には、ケンタッキー州ケイン・リッジでは、北米教会史の中でも有名な、B.W.ストーンらによるキャンプ・ミーティングが開催されています。
  ニューイングランド地方に旧世界から到着した西部開拓者の多くが、水路を利用してアシュタビュラに到着して来ました。  1850年代になると、深南部から黒人奴隷を北部やカナダに脱走するのを手伝う、いわゆる「地下鉄道」という秘密組織の拠点にもなっていました。  アパラチア山脈で採れた石炭や鉄鉱石の搬入・搬出で繁栄した港湾・産業都市です。  ブリス夫妻が最終的に何処を目指していたのかは不明です。

  汽車が構脚橋の上を通過していた時に橋桁が壊れ、全車両が峡谷の底に転落したのです。  ブリスは何とかかろうじて客車から脱出できました。  しかし、客車が炎に包まれているのを目撃し、妻ルーシーを救出しようと炎の中に飛び込みました。

  乗客 160人中、92人の遺体は炎の中で行方不明となったままです。  ブリス夫妻もその中に含まれています。  アシュタビュラの大惨事として知られています。  二人の息子、ジョージ George とフィリップ・パウロ Philip Paul、当時4歳と1歳は無事でした。

★  事故調査中にブリスの行李が発見され、その中から讚美詩が回収されました。この遺稿にマッグラナム James McGranahan が曲を付けたのが『I Will Sing of My Redeemer  十字架の上にて成し遂げられし』です。
 バプテスト教会系の新生讚美歌 315番、聖歌 440番、新聖歌 107番、インマヌエル讚美歌 194番に掲載されています。  残念ながら、讚美歌には掲載されていません。
  しかし、ブリスの別の優れた作品は、讚美歌332、501、508、520、523 にそれぞれ紹介されています。

★  それでは最後にこの紹介欄の題名として挙げておきました『燈台は遥か沖を照らせど Brightly Beams Our Father's Mercy / Let the Lower Lights be burning』に関してです。  ブリスが遺した有名な作品の一つです。

  ムーディー伝道隊の活動拠点はシカゴです。  こん日でもムーディー聖書神学校が存在しています。  シカゴの前には大きな五大湖の一つ、ミシガン湖があります。
  五大湖周辺の人々にとって、巨大な湖は日常生活に密着しています。湖水でのできごとから逃れることはできません。  そのような環境の中にあります。

★  ある日、福音伝道者ムーディーが、以下のようなことを語ったのです。そのできごとを聞いたブリスが作詞・作曲をしたのが『燈台は遥か』です。
  大きな嵐が暗黒の湖水を襲ったとき、まるで山のように大きな荒波が湖水に拡がっていたとき、いつも船男たちが頼りにしている星の姿が見えない荒海で、一艘の船がクリーヴランド港を目指して、荒波と闘いながら、必死の努力をしていた。

  『あそこにかすかに見える燈台の光は、確かにクリーヴランドの燈台からの光だと言うのか...?』と、船長は舵手(パイロット、水先案内人)にしつこく繰り返しながら訊ねていました。

  『ハイッ、船長。  確かにあの光はクリーヴランドの高い燈台の光りです。絶対に間違いはありません!』と舵手は答えました。

  『それじゃ、いつも目標にしている低いほうの燈台の光はどうなっているんだ?』『消えてしまっているので目視できません!』  『港に着けるって言うのか?』

  『船長、お言葉ですが、やってみるしかほかに方法がありません!  そうじゃないと、船長、私たちは沈んでしまいます。  滅んでしまうのです!』と舵手。

  それまでにも数多くの嵐を乗り切って来ていた、経験豊かな舵手、勇敢な船員魂の舵手、低いほうの燈台の光を見つけ出すことができないままで、クリーヴランド港を目指して必死で舵を操作し続けました。

  けれども、低いほうの燈台の光を捜し出すことができないまま、多くの客を乗せた渡し舟は水路を誤り、岩礁に乗り上げ、船は座礁し、多くの人々が暗黒の荒海の中に放り出されたのでした。

  55年前、留学中のケンタッキーでこの話を初めて聞いたとき、幾人が命を落とし、幾人が助かったか...と、具体的な数字を聞いたことがありましたが、記憶していません。  そののちしばらくのあいだ、生存者たちがその日を記念して、追悼礼拝を捧げていたと聞いたことがあります。  留学当時には、この事故を記憶している年配者が存在していたようでした。  今となっては、遠い昔の話となってしまっています。

  「低いほうの燈台守り」はその夜、「でっけい燈台があるってものさ、  俺の燈台なんぞ役に立つこともあるめ~」と考えて、独り酒に浸ってしまったのだそうです。

★  福音伝道者ムーディーは、この話を用いて、『天の父なる神さまは、永遠の命の光という、「高いほうの燈台の光」をこの地上に送り続けていて下さるのだから、我々は、「低いほうの燈台の光」をこの世に在って送り続けなければならない!...』と、説いたのだそうです。

  これを聞いたブリスが、「低いほうの燈台の炎を絶やすな!」という讚美歌を作詞作曲したのです。

★  世田谷からこの八ヶ嶽南麓の寒村僻地に入植して26年になります。日蓮宗が数世紀にわたって根強く定着している、極めて排他的な小荒間です。

  世の中の基準から考えれば、私たち夫婦は、どのように眺めても、「ショーバイ」が実に下手な、最低・最悪の、うだつのあがらぬ福音伝道者ということになります。

  しかし、私たちは私たちなりに、感謝して、喜んで、楽しみながら、「低いほうの燈台の炎を絶やさないように、常に細心の注意を払って、燈芯を整え、イェスさまの愛のメッセージを、私たちなりに、放ち続けていると、感謝しているのです。

  「Let the lower lights be burning!  低いほうの燈台の炎を絶やすな!」です。

 

感謝祭と讚美歌のこと


あなたがたに賜った極めて豊かな神の恵みの故に、
あなたがたを慕い、あなたがたの為に祈るのである。
言い尽くせない賜物の故に、神に感謝する
コリント後書9章14節~15節

あらゆる善い贈り物、あらゆる完全な賜物は、
上から、光の父から下って来る
ヤコブ書1章17節

★  先週木曜日(日本時間金曜日)北米では、私たちの想像を遥かに越えた数の教会や家庭で一斉に感謝祭を祝い覚える讚美歌が歌われたものと推測しています。

  その中でも、「Come, Ye Thankful People, Come」という曲が最も多く歌われたであろうかと私は思っています。  もともとの英語の詩に比較的忠実に邦訳されたものとして、日本福音ルーテル教会讚美歌で、バプテスト系の新生讚美歌 110番があると考えています。  「恵みを受けて...」と題した讚美歌です。

  この有名な讚美歌は、しかしながら、アメリカ人が自分の国で感謝祭を祝うために作詞・作曲したものではありません。  もしそうであったのなら、上記の聖句を念頭において作詞・作曲されたはずではなかったのか?...と、そのように私は思います。

  この讚美歌は、二人の英国人が作詞・作曲したものです。上記二ヶ所の聖句を念頭に置いて、当時はまだ充分に余り知られていなかった新世界アメリカを目指し、1620年に 180トンの帆船メーフラワー号に希望と運命を託して、イングランドから移住して行ったピルグリム・ファーザーたちの最初の秋の刈り入れを共に祝うために作詞・作曲されたものではありません。

  むしろ、この地上における神の国の姿を、マタイ傳13章でイェスが語られた毒麦と麦の成長になぞらえ、更に終末の裁きを経て、その両者の行く先を物語っているものです。  マタイ傳13章以外にも、コリント前書15章や黙示録を充分に念頭に置いて、警告と励ましのメッセージを籠めて作詞されたものと、私は理解しています。

★  作詞者はヘンリー・アルフォードHenry Alford, 1810~1871です。イングランドのミドルセックス州ブルームズバリーで生まれ、ケント州カンタベリーで死亡しています。墓はカンタベリーのセント・マーティン教会にあります。
  16歳の時に神に献身を誓った自筆のメモが残っています。学者でもあり、詩人でもあり、新約聖書ギリシャ語の権威者でもありました。  多くの讚美詩を書いた人物です。  調べた限りでは、30篇ほどあります。

  その内の1篇が、「感謝する者よ、来たりて刈り入れの歌を挙げよ」(仮私訳)です。  「Come, Ye Thankful People, Come」という詩は、アメリカの感謝祭の季節になると最も頻繁に歌われる讚美詩です。

  残念ですがこの讚美歌は、わが国ではほとんど歌われていません。ルーテル教会讚美歌集に紹介されているこの曲の詩は、実に良く翻訳されています。今回その曲をバプテスト教会系讚美歌集から選び出しました。

  すでに述べましたように、本来は収穫を歌うというよりも、マタイ傳13章でイェスが警告なさった、神の畑に蒔かれた毒麦への言及や、刈り入れ時に毒麦が天使の手で選別され、焼却されることを述べ、最後に良い麦が神の国という倉庫に納められるという、イェスの再臨と、最後の裁き、栄光の内へと勝利することなどを述べている、終末に対する聖書の教えを述べる信仰告白詩だと、そのように私は理解しています。

★  作曲を担当したのはジョージ・ジョブ・エルヴィーGeorge Job Elveyです。1816年3月27日イングランドのカンタベリーで生まれ、1893年12月9日にサーレー郡ウインドルズアムで死亡し、墓も同じ村のセント・ジョージ教会にあります。

  音楽家一族に生まれ、幼い時からカンタベリー教会で歌い、正規の音楽教育を受けています。  国王からサーの称号を受け、続いてナイト爵の称号も得ています。ルイーズ王女の結婚式で彼の行進曲作品をオルガンで弾いています。

  エルヴィーが作曲したほかの讚美歌で、わが国で歌われている曲に、讚美歌 164番と 271番があります。  164 番は比較的よく歌われている曲だと思いますが、271番の詩は別の曲で歌われることが多いように思います。

★  それにしも、日本語の讚美の歌の種類と数が余りにも少な過ぎるという現実を、この国に住むイェスの弟子たちは、どのように捉えているのでしょうか?

 


  追加情報です。  主イェスの十字架上の受難を表現するに相応しい讚美の歌として
いろいろなものがありますが、讚美歌 136番・聖歌 155は特に有名だと思います。

  『血潮したたる主のみかしら』(讚美歌)にせよ『いばらの針』(聖歌)にせよ、
この荘厳な讚美歌はバッハの受難曲によって多くの人々によく知られています。
英語では" O Sacred Head, now wounded "としてよく知られています。
  この讚美詩は原文のラテン語から直訳されたものだと考える人が多いようですが、
実は獨逸人で敬虔な詩人パウロ・ゲアハードが、クレルヴォーのベルナール Bernard
のラテン語で作詞した十字架のイェスに関する詩文をまず獨逸語に訳したものである
とされています。  しかし、この学説に対して疑義を抱く人も少なくないそうです。

  ベルナールはフランス語読み、獨逸語ではベルンハルト、英語ではバナードです。

使役犬セント・バナードの語源ともなっています。  西方修道院制度の父とも呼ばれ
ているベルナール神父はフランス人で、優れたキリスト教思想家、神秘主義者として
も有名です。  基督者としての敬虔な品性や優れた芸術文化的才能の持ち主としても
秀でていますが、同時にそのことで、回教徒たちの手から聖地奪回を謳った十字軍を
賞賛激励したり、同じ基督教界の中で論敵を撃破するという理論家でもありました。

  ベルナールの作詞したこの讚美歌は極めて中世期的な響きと修道僧的な薫りが漂う
ものです。  修道僧は十字架の数珠を使いながら祈祷していましたので原文の詩にも
そのような配慮がなされてあったのです。

  即ち、私たちが現在讚美している歌集にはふつう四節しかありませんが、元来の詩
では十字架に架けられた主イェスの体を両脚、両膝、両手、両脇、胸、心臓、頭部の
七つに分けて考察し、主のみ体の各部分について更に五十行を割いて詳しく描写し、
それらのことを想い唱えながら十字架の数珠を手に黙想するように作詞されていたの
です。  また、私がバイオラ大学で習った時には、主イェス・キリストの体を十二に
分けて、修道僧たちは主イェスのお苦しみを想ったのだとの説明もありました。
七と言い、十二と言い、共にそれらは完全数を表しているからです。

  いずれにせよ、そのような敬虔な黙想のために、時間をかけて主の十字架の苦悩を
記憶するために作詞された讚美詩です。  私たちも同様に心して讚美したいですね。

                              《十字架のこと いろいろ》完

 

 
 黒人霊歌の中に Were you there when they crucified my Lord ? という曲があり
ます。  『君もそこにいたのか』で、讚美歌II集177 と聖歌 400がそうなのです。
  あなたと私がそこに居たのです。  そしてあなたと私の罪が、私の手が、あなたの
手が、主イェスの両手首と両足の甲羅にあの太い釘を打ち込んだのです。  どのよう
に主にお詫びを申し上げたら良いのでしょうか?  唯ただ罪を悔い改める以外にあり
ません。

  『あなたが口でイェスを主と告白し、あなたの心で神さまがイェスを死者の中から
よみがえらせて下さったと信じるならば、あなたは救われる...』とロマ書10章9節は
勧めています。  イェスさまを救い主として心の中にお招きする必要があります。

      讚美歌 136、聖歌 155、 437 の歌詞を噛み締めながら讚美しましょう。
  私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んで下さったことに
  より、神は私たちに対する御自身の愛を明らかにされておられます。

  神は罪を知らない方(即ちイェス)を私たちのために罪とされました。  
それは私たちがこの方に在って神の義となるためです。

  なぜ生きている方を死人の中に捜すのですか?  復活されました!

(上から順にロマ書5章8節、コリント後書5章21節、ルカ伝24章5節~6節)

感謝です!  讚美歌  146

2003年3月21日八ヶ嶽南麓    野村基之
〒408-0031  山梨県北杜市長坂町小荒間1381  電話 0551-32-5579
motofish@eps4.comlink.ne.jp
www.bethanyhome.net/


 (注  以上は八ヶ嶽南麓ベタニヤ集会用に毎週発行している「ベタニヤつうしん」と
いう週報に、2003年2月21日に掲載した文章を改めてご紹介するものです。)

  太平洋戦争敗戦直後に私は盲腸炎を患い旧大日本帝国陸軍軍医殿の執刀で切開手術
を受けたことがあります。  荒っぽい軍医殿で医療品の極度の不足もあり、痛い手術
でした。  醜い傷跡がそのまま残っています。  外科手術は大嫌いです。

  同じく敗戦後に旧制の明治学院高校を卒業して東京獣医畜産大学に入学し、解剖学
の授業がありました。  麻酔薬の不足から野良犬の活体解剖があり失神しました。
  ますます外科手術が嫌いになり、獣医学校卒業を前に中退しケンタッキーに聖書を
学びに転校しました。

  1954年~1961年の赤貧留学生活を経て帰国、翌年に或るおかしな交通事故に巻き込
まれて左腎臓を失いました。  その時にも適切な抗生物質がなく、治癒が難航し、
大量輸血でC型肝炎ウイルスを得ました。  更に酷い傷跡が残っています。  そして

現在でも常に左脇に鈍痛と違和感があり、これは私が死ぬまで絶えず私を悩ませるも
のです。  贖罪主イェスさまの十字架上の痛みを記憶させて頂くために神さまが私に
与えて下さった特別な恩寵だと考えています。

  交通事故は熊谷で起きました。  その日の朝、軽井沢でホイートン神学大学教授の
テニー博士が「主イェスの十字架の苦痛」の話しをなさり、それを伺ってから帰路に
ついたのでした。  そしてその日の午後に独りで手術台の上に乗せられたのでした。

  次に数年前に脱腸で再び手術台の上に乗りました。  全身麻酔といっても医師たち
の会話は聞こえて来るものです。  その時も主イェスさまの十字架を想いました。

  このような個人的な外科手術の体験が重なった人生を経た者ですので、どうしても
十字架上の主イェスの肉体的・精神的・心理的・信仰的なお苦しみの一端を推測して
しまいます。  けれども、ロマ書8章28節が語るように『総てのことは相働いて益と
なる』のです。

  ここに改めてご紹介致します拙文が、主イェスに対する皆さまがたの感謝の思いを
更に深められるのに役立つことを心から願っております。  とりわけ、皆さまがたが
聖晩餐に陪席なさる時に、主のお苦しみと愛の深さを、皆さまがたがより善くご理解
なされるようにと心から願うものです。
                            >>>讃 美歌 136番 血潮したたる