★ 世界でいちばん美しい音楽とは...自分の名を正確に呼んで貰う時です...と、嘗て留学中に音楽の先生が教えて下さったことがありました。
「マタやッカイ・ナみゅラ」と、最初の留学先の卒業式で読み上げた先生がありました。 「チチロ・ネカへラ」、「テらカ・アバヤしゃい」というのもありました。ひらがなにアクセントが落ちます。 さてっ...? おわかりになりましょうか?答は「野村基之」、「中原七郎」、「大林照子」という外国人留学生の氏名です。
★ これらは微笑ましいとも言えましょう。 しかし、そうでないのもあります。「千年王国論者の共産党員」とか、「地獄行きの千年王国論者のジャップ」というのもありました。 「社会主義者」(この場合、米国人が言う暗示的意味は共産党員)と呼ばれたこともありました。
米政府は私を米国政府転覆を企てている外国人だと焼き印を押し、強制国外追放・強制送還者と決めつけました。 滑稽千万なこれらの悲喜劇的な話の裏には、宣教師Gと、その下で働いていた3名の日本人がいたようです。
以上は、嘗て敗戦直後に来日した宣教師たちや、留学中に訪問した幾つかの教会で体験したことです。 東西冷戦のただ中でマッカーシズムが猛威を振るっていた時代です。 私がこの地上で属していた教派は、アメリカ深南部の保守的なものでした。
数年前に、ある若い牧師さんが、根拠がまったくないのに、激しい思い込みから、公の席上、独りで激昂し、私を激しく罵ったことがありました。
英語で言う name-calling ネーム・コーリング=罵詈、非難、中傷...ということです。 人徳の到らなさが招いた誤解や糾弾だろうかと思っています。 一人の人間が生きて行くときに、予期せぬいろいろなことが起こって来るものだと学びました。
★ さて、ネーム・コーリングというものは、新約聖書にも登場して来ます。使徒行伝11章26節と26章28節です。
ここで初めて登場する「クリスチャン」という呼び名は、こん日私たちが何気なく使っている「クリスチャン」という意味とは違うように私には思えます。
そのような呼称は、それまでの人類の歴史の中で用いられたことはありませんでした。 ことばそのものの意味は、「キリストに属するもの」とか「キリストの者」という意味であったと、素人の私には思えます。 人々の戸惑いを含む呼称でしょう。
★ 私が幼かったころ、人々は「クリスチャン」という呼称を使いませんでした。むしろ「キリスタン」とか「耶蘇ヤソ」 という名で呼んで、「自分たちには関係のない一種のよそ者」、「非国民」、「異端者」などと考えていたように思います。
「俺たちには関係のないヨソ者」、「けったいな人」、「気をつけんとあかん人」などという意味合いを「耶蘇」という言葉は含んでいたように記憶しています。
「奴は耶蘇だ!」、「あいつは耶蘇教か?!」とか、「アーメンさんだ」などというようであったかと思います。 庶民の間では不信感と好奇心を誘う単語でした。
また、当時は皇国主義が日本を支配し始めていたころでしたから、「耶蘇」という呼称には否定的な響きが強かったと、子供の私ですら感じていました。特高刑事などが、「耶蘇」には強い関心を抱いて見張っていたと思います。
★ 使徒伝17章6節は、イェスを主キリストと信じていた熱狂的な庶民たちのことを「天下を掻き乱す者、天下をかき回す者、天下を転覆する者」などという、好意的でない呼称を用いて、まわりの人々がそのように呼んでいたことを示唆しています。
これも一種のネーム・コーリングでしょう。 しかし残念ですが、現在の私たちと教会には、「この日本や世界を含んだ天下をひっくり返す」力などありません。
★ 最初に申しておきましたが...
名を正しく呼ぶこと、呼ばれることは、世界中の美しい音楽よりも美しいものだ...と言うこととの関連で、世界で最も美しい名とは何か...ということを考えてみました。
その答を私は日本基督教団の讚美歌 168番、「イェス君の御名にまさる名はなし」に見出したように思います。 「There is no name so sweet on earth」です。
作詞者ベスン George Washington Bethune (1805~1886) はニューヨーク市生まれで、イタリヤのフローレンスで没したオランダ系の牧師で優れた学者でした。
私が調べただけでも十数曲の讚美詩を遺しています。
作曲者ブラッドバリー William Batchelder Bradbury (1816~1868) はメイン州で生まれ、ニュージャージー州で没しています。 童顔のベスンと異なり怖い顔の遺影が残っています。 彼の人生に就いては、いずれご紹介をしたいと思います。
わかっているだけでも五十数曲の讚美曲を遺しています。その中には、私たちにも馴染みが深い、「主、我を愛す」も含まれています。
★ 黙示録22章4節は、聖徒たちの額に「御名」が記されてあると語ります。この地上で主の栄光を顕すために何とか厳しい日々の信仰生活を耐え抜こうと真剣に祈って生活している私たちは、やがて御国で、主の御名を誉め讚える私たちの額に、主の御名が記されるようになるという約束です。 讚美歌 168番の本番となります。