★ 昨年5月に留学第三番目の母校、ペパダイン大学の聖書講演会に私ども老夫婦が
招聘され、その際に予想だにしなかった過分の表彰の栄を母校から頂き、そのことで
勇気付けられ、肝落ちして中断していました「トーマス・キャンベル物語」第4巻の
執筆に再度挑戦することができました。 4月下旬までにはお届けできるでしょう。
アメリカ建国時のことを本格的に学んだことのない、田舎者の末期高齢者が書こう
ということですので、物事が起こったことの背景がわからないことばかりでした。
その中でも、どうしてユニヴァーサリズム universalism やユニテリアン理解が
新生国アメリカの教会内に起こった‥わかっていたようで、わからない課題でした。
この国に生を受け、この国で育ち、この国でイェス・キリストの福音に接した者の
一人として、たくさんたくさんの人々がイェスとその十字架の意味を知ることなしに
死亡して行くのを目撃して来ました。 そしてそのたびに、それらの魂がどこに行く
のであろうか‥裁かれて、とこしえの滅びに到るのであろうか‥と独り悩みました。
福音宣教が極めてむつかしいこの国ですが、日蓮宗が深く人々の文化と心のなかに
根づいているこの山梨県下の辺境寒村僻地に1985年に入植して以来、たくさんの人々
の死を目撃しました。 福音を聞いたこともなく他界した人々の魂の行方をいくども
考えてみました。 カルヴァン主義を信じているわけではありませんが戸惑います。
そんなときユニヴァーサリズムということをまじめに考えることがありました。
すなわち、神が愛の神である以上、十字架のできごとの意味を知ることなしに死んで
いった人々の魂を、神さまが裁きと滅びに向かわせられることはあり得ない、むしろ
救われるのではないのか‥という、普遍救済論 universalism の誘惑がありました。
そしてまた、ロマ書2章12節~16節を幾度もいくども読み返して見て考えました。
★ 1968年夏に私は韓国を初めて訪問しました。 そののち50回かそれ以上の訪韓を
経験しました。 観光というものをしたことはありませんでしたが、いつも辛くて、
悲しくて、寂しくなるようなところを訪ね歩き、そこでイェスさまの涙を見たように
思っています。 あれから35年~40年の年月が過ぎ去って行きました。
数多くの訪韓の中でも、済州島脇にある牛島ウドゥ と、釜山のいわゆるハンセン病棟
と、ソウルのド真ん中を流れる清渓川チョンゲチョン スラムの中で、忘れることができない
幾つかの衝撃的な出会いを経験しました。 特に清渓川ではそうでした。
今となっては、懐かしいそれらの人々と再会することはできませんが、一度も彼ら
を忘れたことがありません。 しかし、多くの人はすでにこの世にはおりません。
壮大な教会堂を競うように建て、華やかで賑やかに宗教儀式を盛り上げて、東洋の
エルエサレムだと自負し、ハレルヤッ!主よッ!と全員が熱狂的に叫ぶソウルの教会
から完全に見放された清渓川の捨民たち、自分が何の病気で死んで行くのかすら知ら
ない数多くの懐かしい仲間たちでした。
救いを求めていた彼らの寂しそうな目の中に、彼らの涙の中に、私はイェスの涙を
いくども、いくども、何べんも、つらいほど見たように思っていました。
そしてハレルヤを絶叫することで自らをゲットー化している韓国の多くの教会と、
救いを求める声なきうめき声を発する清渓川の仲間たちの叫び声を両方の耳で聞いて
混乱した私は、神さまはいったいぜんたい何をどうお考えなのだろうか?‥と、困惑
しきってしまい、私自身の救いをスラムの中で求めていたのです。
そのような極限状態の中で私はユニヴァーサリズムを考えざるを得ませんでした。
彼らを神さまがその愛の故に救ってくださらないと困るんだと私は念じていました。
★ しかしいま、末期高齢者となり、人生の経験を恩寵の内に重ねることを得て、
私の心は安らかになっています。
神さまに属することを、人間の憶測に属さないことを、「ユニヴァーサリズム」と
いう人間の推理で云々することは、それは一見まじめな追求のようにも思えますが、
僣越なことです。 むしろ慈愛に満ちた神さまにお任せするのがよいと思います。
そう思うようになって来ました。 自分は清渓川の中で、自分に出来る最大の奉仕
を、全身全力を込めて遣り抜いたのだから、あとは恩寵の主に委ねるのがよい‥と、
そのように心の休みを得ることが出来るようになりました。 六万人もの住民の世話
を独りで出来ると思うこと自体が傲慢なことです。 出来るわけがありません。
★ マルコ傳1章40節~42節は、「重い皮膚病」に罹って、生きたまま社会的に抹殺
されていたひとりの人のことを紹介しています。 たぶんハンセン病患者でしょう。
当時は、たとえその人がハンセン病患者でなかったとしてもハンセン病患者である
と断定し、社会から追放し、穢れた者として非人間的に扱っていたのです。
当時の衛生状態や食生活など、自ら求め招いたものでもないのに、病を得てしまい
ました。 それだけでも苦痛なはずでしたが、それに加えて、肉体的な病の苦痛より
も更に辛いことは、人々から蔑視され、差別され、社会的に抹殺されるという二重苦
を、その死に到るまで、生涯背負って生きて行かなければならない‥という悲劇でし
た。
皮膚病患者が、万が一にも道を歩くときには、「皮膚病患者が通ります!」と叫び
ながら通り過ぎなければならなかったそうですし、人々が投石したそうです。
これと同じようなことが、基本的に、現在でも統合失調症(いわゆる精神分裂症)
に悩む人々に対して採られていると言えましょう。 家族も気の毒です。
自分で病を招いたわけではありません。 それだけでも一生涯の大きな重荷です。
それに加えて、社会から蔑視され、差別され、隔離され、抹殺されてしまうのです。
映画「ベン・ハー Ben-Hur」のクライマックスの始まりの部分は、主人公ベンが、
旧約聖書の掟を破って、ハンセン病患者たちが隠れて生きる洞窟に下って行き、母と
妹を捜すという場面です。 誰もそのようなことを敢えてする人などありません。
人が神の名で作り上げ、人間を縛りつけてしまっていた律法を、愛の力で打ち破る
というのが見せ場の始まりです。
一般日本人観客には、旧約聖書の背景理解が欠けているために、映画の強力な衝撃
を充分に伝えることができなかったものと、そのように映画を観ていました。
★ マルコ傳1章41節は、この人のイェスに対する強い信仰と、気の毒な惨状を深く
憐れまれた主イェスの姿勢を語っています。 隔離され、人目を避け、オドオドして
かろうじて生きていた病人に対して、掟を破ってまで、イェスご自身がその手を伸ば
して患者の身体に触り、「清くなれ!」と宣言されたと聖書は語っています。
それは、生きたままで死んでしまっていた人が、いやむしろ生きたままで社会から
殺されてしまっていた人が、最後の力を全部絞り出して、途中で投石されて殺される
ことをもいとわず、ひたすらにイェスのもとに辿り着きたいと願い、その命を懸けて
主イェスのもとにやって来たという、この人のひた向きな生き方、極限状態の中から
最後の力を出し切った激しい在り方によって示されています。
皮膚病と社会からの迫害の中で生き抜いて来た男のその激しいイェスへの絶対的な
信頼感、彼のその信仰を、イェスはいたくめでられたのでした。
イェスはその人と、その人の内に秘められたイェスへの信仰、その人の一生懸命に
生きることへの情熱をお感じになったのです。 ヨハネ黙示録3章15節~16節が指摘
するような生温い信仰でも、生温い生き方でもありませんでした。
生ぬるい生き方と言えば、この人の主イェスに対する真摯な、真剣な、一所懸命な
生き方に接するとき、主イェスを求めるそのような強い意欲、主イェスにすがろうと
するひたすらな姿勢が、お恥ずかしい次第ですが、私には決定的に欠けていることを
この人から示されるのです。 皆さんは如何でしょうか? 大丈夫ですよね?!
イェスは、虐げられながらもひたすらに生きようとするこの人に対して、深く同情
され、憐れみの心を覚えられました。 憐れみの心は必ず行動を伴うものです。
当時のユダヤ教の祭司や学者や長老たちは、ハンセン病患者を穢れた者として断罪
し、蔑視し、差別し、生きたままで殺すことに手を貸していました。
しかし主イェスはこの人に深く同情し、憐れみの心を抱かれたのです。
そして憐れみは、イェスがその人の方に手を伸ばすという行動を招きました。
何のために手を伸ばされたのか?‥ それは人々が忌み嫌っていたこの皮膚病患者の
からだに触れるためでした。 律法が拒み、職業的宗教人たちが断罪したこの人を、
主イェスは無限・無条件の愛で受け容れられたのです。 感動を伴う姿です。
愛の人としての主イェスの病める者、差別された者、虐げられた者に対する姿勢、
ここに神さまが私たちに主イェスを見なさい、イェスに倣う者となりなさい‥と語ら
れていることを学びます。 そして、私たちもイェスに倣う者となる必要性が示され
ていると思います。
この世の中には、私たちのすぐ隣に、私たちのような者ですら必要としている人々
がいるのです。 そのことに私たちが気づいて、私たちのような者ですら必要として
いる人々が存在していることを私たちが捜し出して、愛の手を差し延べ、共に恩寵の
中に生きることを学ぶ必要があります。 それが「地塩世光」の意味だと思います。
★ このようにマルコ傳1章40節~42節を静かに読んでみますと、大きな感動を自然
に覚えるようになるのです。 清渓川スラムから他界した多くの懐かしい仲間のことを、
このようにすてきですばらしい主の御手に委ねるとき、私はユニヴァーサリズムなどを
考える必要がまったくないのだと、深く教えられるのです。
主の御手の中にすべてのことを、すべての仲間のことを、委ねることができるよう
になったのです。 それですからいま、静かにスラムでのできごとを追憶することが
出来るようになったのです。 そして私は先に他界して行った人々との再会を楽しみ
に待っているのです。 憐れみに富み給うイェスを、わが主と信じているからです。
『主の恵み深きことを味わい知れ』 詩篇34篇8節
『主は恵み深く、憐れみに満ち、怒ること遅く、慈しみ豊かです』 詩篇 145篇8節