『うちの教会の牧師は占いができるんです。 良く当るんですょ...』

 何年か前にクリスチャン新聞に私がポケット・マネーを出してOVC (オハイオ・ヴァレー・カレッジ)への支持と感謝の目的で同校を推薦する広告を出したことがありました。

 その『広告を見たので娘を留学させたい』と、或る母親が千葉からわざわざ来岳されたことがありました。  少し神がかったような感じのする母親でした。  『うちの牧師は極めて霊的な牧師で、しかも占いができるんです。  まぁそれがよく当るんですょ。  ご一緒にこんど如何ですか...』と熱心に私を誘いました。

 彼女の話し方からしますと、人が霊的であるとかないとかは、占いができるとか、豫言ができるとか、異言を語ることができるかできないかということで決まってしまうようでした。  私にはその総てが「まゆつば」ものに思えるのですけれど...
(注  豫言=何百年、何千年も後の事を或る程度具体的に予知・予告することで、預言は教会の徳を昂めることという意味で、私は二つを使い分けています。  為念)

 確かに神さまは現在でも奇蹟を行う能力と特権をお持ちだと確信しています。しかし、その能力を神さまがこの時点でお使いになる必要があるのかとなりますと、私はその必要はないと考えています。  神さまのお力や能力やお考えというものは、この時点に於いて、私たちが聖書を冷静に読めばわかる筈だと信じているからです。

 ヨハネ伝20章30節~31節を読みますと、ヨハネ伝の中でヨハネが書き記した幾つかの奇蹟、ヨハネは奇蹟という言葉を使わないで「しるし」という表現を使っていますが、それらの「しるし」=道標=人々の視線を或る特定の方向に向け、ある特定の方に人々の視線を向けられるよう手伝う「しるし」をとおして、人々がヨハネ伝の中の奇蹟=「しるし」を通して「しるし」の向こう側の意味を読み取れば、それによって
a.イェスが神の子であり、救い主であることを理解し、イェスを信じて、
b.イェスの名前によって永遠の生命を得るためである...
と淡々と語っているのです。
 
 コリント前書12章を読みますと、その後半部分で使徒パウロは異言に就いて語っています。  そして異言を語るということの意義をそんなに大きく考えていないことがわかります。  それよりもむしろ信望愛の方が遥かに優れた徳であり、人々が求めなければならないものであると13章で述べています。  更に14章を『愛を追い求めよ』という言葉で始めています。  14章の13節~19節では異言を語ることよりも、むしろ知性によって語ることの重要性を説いています。  それですから異言というものは、一部の人々が強調するほどに重要なものではないのです。  霊的な証拠ではないのです。
(参考までにですが、もともとの聖書には、現在の私たちの聖書に見られるような章や節の区分などはありませんでした。  それですから、私たちがこん日言うところの13章13節のすぐ後ろに何の区分もなく14章1節が続いていました。)

 まして「ある特定の人が霊的である」ということと占いとの関係、占いをすることや占いができるということ、そのことでその人が霊的な人であるかどうかということになりますと、答は実は否定的です。  なぜなら占いというものは旧約聖書時代から異教徒的慣習として禁じられて来ているものだからです。

 ここでは占いをそのように扱っている聖書箇所を列記しませんが、「霊的である」というよりは占いとは、「まことの神を信じない異教徒的なもの」とか「悪魔的」なものであると考えられていると言ったほうが良いかと思います。  そのようなわけですから、「占いをする牧師は霊的指導者だ」と私にはどうしても思えないのです。

 むしろ私には、「霊的である」ということは、ガラテヤ書5章22節~23節が語っていることであろうと確信しているのです。  『御霊の結ぶ実は愛』のことです。

 そこでは御霊の結ぶものとして愛が一番初めに語られています。  愛の次に喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制...と、そのように愛の後にそれらの徳を続けて訳す人もあります。  これは英語や他の言葉への翻訳にも見られるようです。

 ところが、『御霊の実は愛である』と、ここで一旦切る訳者もいます。そしてそのように訳す訳者は、愛(アガペー)から改めて喜び、平和、寛容・忍耐・辛抱、慈愛・親切、善意、忠実・誠実、柔和・謙虚、自制というものが生まれて来ると訳すようです。  ギリシャ語の聖書でそこを読んでみても聖書のギリシャ語の学者でない私にはわかりません。

 しかし、私は後者の立場の翻訳を個人的になんとなく採っています。  霊的な人というものは、そういうわけですから、先ず「愛」をその人格を通して、その人の信仰を通して、その人の在り方を通して生み出すものだと確信しています。

 立て板に水を流すように流暢に祈祷を捧げる人が霊的な人だという意味では決してありません。  愛に関してはコリント前書13章1節以下に優れた定義があります。

 ガラテヤ書5章22節が使っている「愛」はアガペーという言葉です。  これは人間に対して神さまだけが持っていらっしゃる無条件の愛という意味です。  このような愛を私たちが醸し出すことができるとするのであれば、それはご恩寵の中に在って、その人が生涯を懸けて、御霊の助けを得ながら、醸し出すものだと私は思うのです。

 そのためには途方もない時間がかかるということを「実」というものが表します。インスタントに出来上がるものではありません。  信望愛の中で、恩寵の中で、長い時間をかけて培うものだと思います。  それが聖書的な「霊的」という意味だと理解しているのです。

 八ヶ嶽南麓で、この厳寒期に、夜間の外気温度が零下20度近くまで下がり、地面は凍土と化してコンクリートの塊のようになります。  そのような地面の中で、それでも植物はじっと耐えて春を待っています。  すべてが死んでしまったように錯覚するこの厳しい八ケ岳山麓の長い冬のあいだ、植物はじっと堪え忍んで復活の春の到来を待っているのです。  時には暗黒の、音の全くない原生林の夜の世界の中で、突如として立ち木の幹の部分が音を立てて割れることがあります。  樹木の中を流れている樹液の水分が凍えて膨張して、樹木が縦に割れる時に音を出すのです。

 秋を彩っていたコスモスの花からこぼれ落ちた種の一部は、野鳥がやって来て啄み命を失うのです。  野鳥の餌になるのを逃れることができた種は、厳しい凍土の中で生き抜いて、次の年の春から初夏に芽を出して、夏から秋に開花するのです。
 草の種ですら花を咲かすまでにも満一年を要するのです。  いろいろな厳しい試練をくぐり抜けて花を咲かせ、実を結ぶのです。  時間と忍耐とさまざまな困難と犠牲を経て、その一部だけが翌年の開花と結実に到るのです。

 八ヶ嶽南麓は火山灰のようです。  良い土壌は少ないようです。  ベタニヤ村周辺は海抜約千五〇メートルです。  地面の中は殆どが大小無数の岩石だらけです。
 ベタニヤ・ホームを建設する時に、50キロ以上数トンまでの重さの岩石が千個以上出土しました。  それより小さい岩や石は無数で数えられませんでした。  数百年の歴史をもつはずの小荒間の住民たちが、この辺りに住居を構えなかった訳がその時に初めてわかったような気がしました。

 そのような荒野の中でも樹木は育っています。  敗戦後に植樹したといわれている唐松でも20メートル近くになっている樹もあります。  イチイ(一位・あららぎ)と呼ばれている樹の中にも20メートルを越える大木に育っているものもあります。
  それらの樹木がこの荒れ地の中でどうやって育つのであろうかと、いつも不思議に思っています。
 答は根です。  岩石だらけの地下に各樹木は、その根を一本の線にまとめることがもし可能ならば、恐らく数キロ以上、あるいは10キロ以上の長さになるのではないかと思いますが、そのような努力をして生命を維持しているのです。  このようにして樹は実を結ぼうと努力をしているのです。  実を結ぶということは大変なことです。

 春が来ると近隣のお百姓さんたちは短い春~夏~秋を巧みに利用します。冬の間に降積雪が少なくて地下水が少ない時もあるようです。  そして旱魃と続く年もあります。  また、その反対に、梅雨の折りに雨が降り過ぎてベト病という病気が植物を襲う時もあるようです。  夏になって雨が多過ぎると鉄砲水が生じ、火山灰の土壌は弱く、植物が簡単に流されてしまう時もあります。  薪として伐採される樹もあります。  植物が開花し結実するということがこんなにも大変なことであるなどと私は八ヶ嶽南麓に来るまで全く知りませんでした。

 繰り返しますが、樹木が果実を実らせるというのは、そのような厳しい気象条件、旱魃やら颱風や洪水、地震、落雷などいろいろな厳しい条件を乗り越えた末にやっと可能となるのです。

 信仰生活も同じだと思います。  「聖霊の実」を宿し実らせるのには時間がかかるのです。  絶えざる祈りの姿勢の中で主の御旨を求道し続け、御旨の中に留まりたいと願い続ける祈りと努力が必要だと思うのです。  とんでもないほどの忍耐が必要な作業です。  現在の日本人、インスタント生活に慣れきってしまった日本人には耐えられないことなのかも知れません。  そのような厳しい信仰生活が要求されているのだと私は思います。  その生涯を賭けて・懸けるに相応しい願いだと思います。
 
 『キリストの再臨と、再臨の時に神さまによる厳しい最後の裁きがあるなんて説教するんじゃ駄目だ。  そんなこと言えば人々が教会に来なくなるよ!』とある知人の牧師が私にささやきました。  このような甘い考え方で「御霊の実である愛」というものが果たして結ばれるものなのだろうかと私は思わず彼の呟きを疑いました。なんでもイージー・ゴーイング時代なのです。  牧師がその調子なのですから...

 「アーメン・ソーメンの宗教ゴッコ」が主イェス・キリストの名前をつけた教会でも行われているのです。  そのような教会ゴッコを日曜の朝の一時間前後繰り返したからといって「御霊の結ぶ実である愛」をどうやって結べるというのでしょうか?
 外見は立派でカッコイイ豪華な礼拝堂で、目に美しく見える宗教儀式が執り行われて、聖書の厳しさの部分を意図的に避けて、耳に聞き易く賢くなったような気がする訓話が語られている今日の日米の多くの教会にとって、「御霊の結ぶ実としての愛」をどのようにして結べるのだろうかと私は案じます。  余計なお節介でしょうか?

 米国では昔から鳴り物入りのラジオ放送で、そして1960年代以降には派手なテレビ伝道で、「癒しの奇蹟」を巧みに取り入れて、名を売っているショウ・ビジネス的な伝道者・説教者が何人か次から次に出て来て、テレビ網を活用して、全米を網羅しているようです。
 彼らは「霊的な牧師たち」だそうですが、私には芸能人、エンターテイナーとしか見えません。  カネ稼ぎの上手な人だとしか私には思えませんでした。

 次のようなことがあったのを記憶しています。

 義眼の或る男の子がそのような「霊的大衆説教者」が主催する、何千人かの会衆が集まっていた集会の席で、また、そのような大勢の人々が醸し出す宗教的陶酔状態というものは極めて異常な雰囲気だと思うのですが、その「偉大な霊的大衆伝道者」がその子の目の上に手を置いて「熱狂的な祈り」を絶叫しながら捧げ続けていた時に、その男の子が『見える! I can see! 見える! I can see now! 』と突然両手を挙げて叫びました。  会衆の間にどよめきの声が一斉に起り、同時に『ハレルヤ、主ょ』という讚美の言葉が止みませんでした。

 次に、或る婦人が壇上に上がって来ました。  『お名前は?』  『〇Xです』...
そこ迄は良かったのですが、その「偉大な霊的説教者」が『あなたは〇X病があってそれでお悩みのようですね!』と問いかけました。  その婦人を初めとして会衆からは驚嘆のどよめきが再び起りました。  そして「癒し」と称する祈祷が始まったのは当然のことでした。

 これらを疑問視していた他のクリスチャン・グループが調査したところ、会場入口の受付に「癒して欲しい希望者」が登録を済ませると、実はそこから壇上の説教者に無線で癒されたいという人の病名や経歴が逐次ことごとく報告されていたのです。
 超小型マイクを耳に隠した「偉い霊的指導者」説教者は、緊張して壇上に上ってくる癒しを求める希望者を言葉巧みに操っていたのです。  『あなたは〇Xを煩っていらっしゃるんではないでしょうか?』  ドン・ピシャリです。  本人も会衆も驚きます。  『あの先生は偉大な霊的指導者だ!』となってゆくのです。

 脚の不自由な老婦人が車椅子ごと壇上に連れて来られたのをテレビ画面で見たのを覚えています。  『信じる者は救われるが信じない者は滅びる』と、例えばヨハネ伝3章16節の聖句を巧みに歪めて、大勢の会衆の異常な雰囲気の中で、壇上に連れられて来た車椅子上の老婦人に熱心に激しく怒鳴るように語っていました。

 もう緊張の限界にある「被害者」に対して『信じます I do belive !』と発言するように説教者は言葉巧みに誘導していました。  「信じたら直った、癒された」と告白することを強要していたのです。  いろいろな色彩のスポット・ライトが当てられて、感情を鼓舞するような大きな讚美の歌と音響効果に包み込まれてしまった老婦人の頭の中は恐らく真っ白になっていただろうと推測します。
 『信じます』と言わないと「不信仰者」というレッテルが何千人かの人々の前で、いや、テレビを視ている全米の人々に思われてしまうという強い圧力の中で、彼女は『ハイッ、信じます』と言わざるを得なかったと思います。

 そのように答えた車椅子の老婆に、「偉大な霊的説教者」は、『それでは車椅子を降りて、私が差し出す両腕の中に向かって歩きなさい』と誘い、命じました。老婦人は車椅子を降り、一、二歩だけ「偉大な霊的伝道者」の方に歩いたのです。
 その結果は、『ハレルヤ、主ょ』という大きな歓声でした。  異様でした。

 その後、別のキリスト教の団体がその集会参加者たちを訪ねて調査をしました。結果は明白で、何も癒されてはいなかったし、義眼で見える筈もなかったのです。

 私には、このような「癒し」をする「大衆伝道者」を「とても偉い霊的な指導者」だなどと認めることは到底できないのです。  それはガラテヤ書5章22節以下の聖句が証する「御霊の実」の数々から遥かに離れた、むしろその反対の、売名行為でありインチキ商法以外の何ものでもないと思っているからです。  勿論、裁きをなさるのは神さまであって私ではありませんのでそれ以上のことを言うのは差し控えますが、それでも「Something is wrong. 何かおかしい」と思っているのです。

 韓国では、なるべく大きな教会堂を建てる牧師が「偉い牧師センセイ・サマ」なのだそうです。  しかし私個人は、そのようなことは聖書的な意味での霊的とか霊性というものとは全く別の、全く関係のないものであり、聖書が語る「霊的な指導者」とは全然違うものだと考えています。  可視的世界の異常な雰囲気や体験というものがそれがそのまま「霊的である」ということにはならないと考えています。

 日本のような宗教的土壌・文化的土壌・社会的土壌の中で、福音宣教が極めて困難な中で、なお誠実にコツコツと多くの間接的な迫害に耐えながら地道に福音伝道に、愛の業に黙々と従事なさっている多くの伝道者・牧師たちが沢山いらっしゃいます。
  そして、それは神さまからの十字架の贖罪の業を通して一方的に示されたご恩寵があってのことだと、感謝の念を込めて、喜んで厳しい伝道者の道を自らの意志で選び主イェスに仕えておられる同労者であると、神さまに感謝しているのです。

 私は、霊的な人というのは、パンテオン神殿の偶像の神々と共に鎮座ましますことを拒否し、オリンポス山頂で偶像の神々と共に崇め奉られることを自らの意識で拒否して、赤貧のド真ん中に在ってもひたすらに主に仕えている、仕えようとしている、男が惚れ込む男たちであり、その夫人と子供たちだと考えているのです。
 彼らこそ素晴らしい「霊的指導者」たちだと私は尊敬せざるを得ません。

 教会という一種のゲットー、神殿の中には沢山の偶像が潜んでいるようです。
 例えば、盲信的な信者さんたちの上に、そして得てして宗教団体には女性が多いのですが、信者たちの上に「牧師先生」として鎮座でき得る誘惑、教会の敷地に建てられた学習塾や幼稚園やマンションの運営、各種の社会福祉事業の経営、キリスト教系の学校や団体に名前を貸したり、天下ったり、長として、或は理事や役員として納まること、またそれらに付随してくる各種の肩書き、「牧師先生」だの「先生」という敬称などがもたらす驕りの権威への誘惑や錯覚、社会的地位や名誉や経済的安定など...いろいろとあるようです。  人間はこれらの誘惑の前に実に弱く脆いものです。

 然し、すべての伝道者がそれらの偶像の誘惑に呑まれてしまっているわけではありません。自らの決意で、恩寵への感謝の念から、自らをゲットー化することを拒否して、誘惑という偶像と一緒に諸神殿に祭られることを拒否して、偶像たちと一緒に目立つ丘の上に立つことを拒否している伝道者たちも沢山いるのです。霊的指導者とはそのような信仰の隠れた巨人たちだと私は思うのです。  如何でしょうか?

 隠れたところで黙って他者に与えることに豊かであり、目立たぬ方法で微笑みつつ分かちあうことに優れた者、悩める者、迷える者、悲しむ者の傍に黙って一緒に居ることができる人、疲れ果てて涙する者を優しく包み抱えて慰めと励ましを与え、心に必要なものを備え、迷える者に方向を示しながら一緒に歩き始めることができる人、仕えることをいとわぬ人、男が惚れ込む男の中の男、そして黙って後ろから彼を支える妻や家族、そのような伝道者とその家族も沢山いるのを私は知っています。彼ら自身が主イェス・キリストの十字架とその恩寵を知って居るからだと思います。

 そういう伝道者は、隠れたところにいます神さまに隠れたところで祈る人であり、そして何よりも、祈りの力というものを充分に知っている人だと思います。
 ガラテヤ書5章22節以下の「御霊の結ぶ実」を実らせている人だと思います。例えば、マザー・テレサのような信望愛の聖徒を「霊的な人」と呼ぶことに誰も反対をしないでしょう。  それに比べて、占いだ、癒しだ、異言だ...虚しいですね。

 先週号で述べました「そっちの教会、どっちの教会?」どころの問題ではないのです。  エゴイストの自分が、恩寵と聖霊の助けを得て、徐々に愛の実を実らせ得る者に創り変えられて行く、これこそイェスに従う者の願いでありたいと思います。
 
 霊的である、霊的でありたいということは、そのような祈りの姿勢の求道者のことだと思うのです。  御霊の実を結びたいと真剣に願い求める姿勢だと思います。
 己をそのために日々の生活の場で十字架に架けて、もはや自分が生きているのではなく、主イェス・キリストが自分の中で生きておられるのだと意識し、御旨を求めて求道を続けて行く姿勢だと思います。  巡礼者の在り方を言うのだと思うのです。

 意気込む必要もなく、出来ないことを頑張る必要もなく、与えられた才能、託された能力を、ゆっくりと、しかも一生懸命に、恩寵に応えながら、誠実に最後まで果たし、主に従う姿勢が大切だと思います。  やれ占いだ、やれ豫言だ、やれ癒しだ...このようなことは人が「霊的である」ということと全く関係のないことです。

 またその他にもロマ書12章を何度も熟読してみますと、そこから聖書的な霊性というものがどのようなものであるのかを明白に学ぶことができます。  これは理想ではなく、そこに示されていることは私たちの日常生活に在っては当たり前のことでなければならないと教えられるのです。

 数行前で述べたばかりですがガラテヤ書2章19節~20節にはその秘訣が明白に示されていると思います。  そこを読むだけならば20秒もかかりませんが、実行するには人の一生を要すると思います。  この聖句を前にして、『うちの牧師は異言や豫言や占いができるからとても偉い人で、霊的な人です』などということはとうてい言えないと思うのです。  みなさんはどのようにお考えになりますか?