★ ふたたび文語体で恐縮ですが...
『まことに汝らに告ぐ。 此等のいと小さき者の一人に為さざりしは、すなわち
我に為さざりしなり』 イェスのことば (マタイ傳25章45節)
★ 前回号では清渓川スラムで体験しました多くの体験の中でも「格好が好い」話を
ご紹介いたしました。 しかし、いつもいつも、そのような「格好が好い話」ばかり
あるわけではありません。
朴正煕軍事独裁政権下で、とりわけ大統領緊急措置令が次々に発令されていた厳し
い緊張状態の中で生きていたとき、無意識であれ、多くの失敗も出て来たのです。
今回は、私が生涯忘れることができそうもない、嫌で恥ずかしい思い出を致します。
★ 前回号で説明しましたが、清渓川貧民窟住民の中から、松亭洞ソンジョンドン にあった
教会の指導の下、朝鮮半島西海岸、黄海に面した南陽湾ナムミャンマン 開拓地に帰農したい
と希望する家族を連れ出したことがありました。
それは、まるでモーセが、イスラエルの民をエジプトから連れ出して、約束の地に
向かったときのようだった...などと言えば大袈裟なことですが、それでも当時の韓国
では画期的な計画でありました。 そういう中から「牛銀行」話も出てきたのです。
南陽湾は牙山湾アサンマン の一部を形成する地域です。
日本の植民地支配に抵抗する独立運動が、1919年3月15日を期に全国規模で起った
とき、その運動を弾圧する目的で、1ヶ月後の4月15日に到り、言葉巧みに村の住民
たち、とりわけ独立運動に参加していた人たちを堤岩里チェアムニ 教会堂に閉じ込め、外部
から機関銃の一斉射撃を加え、教会堂に火をつけて、住民29名を日本官憲が焼き殺し
たという、あの忌ま忌ましい堤岩里教会からはそんなに遠くない所にあります。
(私は家族全員を連れて同教会を1973年に訪れ、当時を記憶しているという80歳?
代の老婆に出会いました。 物資が極めて乏しいときなのに、砂糖をいっぱい入れた
砂糖水を長女と長男に差し出してくださったことがありました。 当時小学校低学年
であった二人の子供にとって、それは生涯忘れられないおもてなしとなりました)
また南陽湾は、在韓アメリカ軍基地問題で騒がしい平澤ピョンテク の西北方向に当たり
ます。 さらにまた牙山湾は、かつて日清戦争が戦われた場所でもあります。
★ 南陽湾干拓地は実に広大な土地でしたが、交通の便に恵まれない地域でした。
移住者と共に清渓川沿いの松亭洞の教会は南陽湾の梨花里イファリ に移動しました。
或る暑い夏の午後だったかと記憶していますが、私は梨花里から、南陽湾の堤防を
徒歩で渡り、数キロ離れた虎岩里ホアムニ に移住した人々を訪ねることになりました。
西ドイツにお願いをして建設して貰った託児所を訪ねる目的でした。
(疲弊しきっていた当時の韓国農村に、託児所が...と言えば格好が好いのですが、
実際には西ドイツ教会との約束を全く無視して、韓国式のドデカイ礼拝堂を建設して
しまったのです。 西ドイツの教会と韓国との間に立った私は、或る韓国人教会牧師
の国際的感覚欠落から来る重なる無責任なデタラメさの多くに辟易していたのです。
そういうことも背後にあって虎岩託児所を訪問する必要が生じていたのでした。
虎岩里に向かう、遠くて寂しい、砂埃だらけの未舗装道路を、重い心で歩んでいた
のでした)
★ そのような事情を抱えて寂しい一直線の道路を独り歩んでいました。
するとどこから涌いてきたのか、目の前に忽然と二人の男の子が現れました。
私の知らないどこかの近道を利用して、幹線道路に出て来たのだろうと思いました。
年長のほうの男の子は小学6年生か中学1年生前後に見えました。
もう一人の子は小学低学年生のように見えました。 私の前を歩いていました。
二人の男の子が出現して来たころから、空の雲行きが怪しくなり始めていました。
虎岩里までは、まだ相当な距離がありました。 そして、案じていたように、夕立の
雨が降り始めたのでした。 周囲に雨宿りができるような建物も樹木もありません。
韓国内を旅行するとき、私は常に洗面用具のほかに、トイレット・ペーパー1巻、
栄太郎飴を1鑵、6片のチーズが入っている薄い丸い容器1ヶ、それに乾パン1袋と
ポリエステル製の折りたたみ式のレイン・コートを携帯することが多かったのです。
飴とチーズと乾パンさえあれば、2日間程度なら何とか体力を維持できると知って
いたからでした。 寒いと感じれば、レイン・コートを羽織ればよいのです。
雨が降り始めましたので、無意識にレイン・コートを取り出して着用しました。
目の前の男の子二人のことを考えない、無意識のことでした。
雨が降れば疑うこともなくレイン・コートを着る...という無意識さからでした。
すぐ目の前を歩く二人の男の子のことを全く考慮に入れていませんでした。
★ 雨がひどく降り出して来ました。
そのときのことです。 あたりの畑の中をキョロキョロ見回していた年長の男の子が
急に畑の方に走り出しました。 何をするのだろうと私は立ち止まって眺めました。
男の子は、捨ててあった、空っぽの肥料用の袋を拾って道路に戻って来ました。
空き袋の長い方の一端を切り開いて即席頭巾を作った男の子は、それを年少の男の子
の頭にかぶせました。 頭巾が飛ばされないように右手で年少の子供を押えるように
して歩き始めたのです。 本人はずぶ濡れ状態でした。
★ そのとき初めて自分という成人が、しかも「持てる国」から来た「持てる者」で
ある私が、しかも自称「クリスチャン」と称している者が、幼い男の子たちのことを
考えないまま、自分だけレイン・コートを着用していたということの鈍感さを痛烈に
教えられたのでした。
そればかりではなく、私から見れば幼い男の子が、より幼い後輩のために、智恵を
働かせて、即席のレイン・コートを作って、それを幼い男の子の頭にかぶせたという
生活の智恵を目前にして、大きなハンマーで私の頭を叩き割られたように思えたので
した。 持てる国の安易な生活に慣れてしまった私は、無いものの中から工夫をして
他者を助けるという発想を、そのときすでに喪失していたのでした。
★ マタイ傳25章40節は、『わが兄弟なる此等のいと小さき者の一人に為したるは、
すなわち我に為したる也』とイェスが仰ったと語っています。
すなわちこの地上で私たちが他者、とりわけ自分より弱者に対して何かを「する」
ということが、そのままそれが主イェスに対して「する」or「した」ことになると、
肯定的なこととして捉えて教えています。
しかし、すぐあとの45節には、『此等のいと小さき者の一人に為さざりしは、即ち
我に為さざりしなり』と、他者に対して、とりわけ自分よりも弱者に対して私たちが
「しない」or「しなかった」ということは、それはそのままイェスに対して、私たち
が「しない」or「しなかった」ということになる...と警告しているのです。
★ 私はあのとき、韓国の南陽湾で、梨花里から虎岩里に向かう寂しい路上で、私が
「やるべきであったはずのこと」を、私が私の不注意と、少年たちへの思い遣りの心
の不足から「やらなかったこと」で、そしてまた、幼い男の子が「やったこと」を、
「やれたこと」を、私が「できなかった・やらなかった」ということで、主イェスに
対して、私は申し訳のないことをしでかしてしまったと、あれから30余年たった今も
心の奥底に、秘かに重荷を覚えているのです。
そのむかし、ケンタッキーで聖書を学んでいたときに、何でも sin of commission
と sin of omission というのがある...とか習ったことがありました。
前者は意図的に行う遂行の罪で、後者は怠慢の罪、事にかかわろうとしない罪...とか
でした。 この二つは、一種の「ことわざ」として英語圏で使われている表現だった
と思いますが、当時は英語の実力不足で、そこから先のことを覚えていません。
しかし聖書が語る「罪」には、「為すべきでないことを知りながらやる」ことや、
「為すべきであるとわかっていることを意図的にやらない」ということだけではなく
て、「気付かない罪、隠された罪、行わなかった罪、無意識の内の自己中心的な罪」
も含むものだと、加齢と共に、少しずつ理解するようになって来たのです。
ルカ傳10章28節~29節が語る律法学者も、頭ではわかっていても、実際にはそれを
実践するということができない、職業的宗教教育者の典型的な一例でしょう。
「いと小さき者に為す」ということもむつかしいことですが、「為さざる」という
ことには「気がつかない要素」を含みますので、もっとむつかしいかと思います。
南陽湾でたまたま遭遇した男の子二人に対する私自身の配慮の足りなさが、今でも
私には一つの恥ずべき汚点として残っているのです。 主よ、憐れみ給え...です。
Kyrie eleison!
『まことに汝らに告ぐ。 此等のいと小さき者の一人に為さざりしは、すなわち
我に為さざりしなり』 イェスのことば (マタイ傳25章45節)
★ 前回号では清渓川スラムで体験しました多くの体験の中でも「格好が好い」話を
ご紹介いたしました。 しかし、いつもいつも、そのような「格好が好い話」ばかり
あるわけではありません。
朴正煕軍事独裁政権下で、とりわけ大統領緊急措置令が次々に発令されていた厳し
い緊張状態の中で生きていたとき、無意識であれ、多くの失敗も出て来たのです。
今回は、私が生涯忘れることができそうもない、嫌で恥ずかしい思い出を致します。
★ 前回号で説明しましたが、清渓川貧民窟住民の中から、松亭洞ソンジョンドン にあった
教会の指導の下、朝鮮半島西海岸、黄海に面した南陽湾ナムミャンマン 開拓地に帰農したい
と希望する家族を連れ出したことがありました。
それは、まるでモーセが、イスラエルの民をエジプトから連れ出して、約束の地に
向かったときのようだった...などと言えば大袈裟なことですが、それでも当時の韓国
では画期的な計画でありました。 そういう中から「牛銀行」話も出てきたのです。
南陽湾は牙山湾アサンマン の一部を形成する地域です。
日本の植民地支配に抵抗する独立運動が、1919年3月15日を期に全国規模で起った
とき、その運動を弾圧する目的で、1ヶ月後の4月15日に到り、言葉巧みに村の住民
たち、とりわけ独立運動に参加していた人たちを堤岩里チェアムニ 教会堂に閉じ込め、外部
から機関銃の一斉射撃を加え、教会堂に火をつけて、住民29名を日本官憲が焼き殺し
たという、あの忌ま忌ましい堤岩里教会からはそんなに遠くない所にあります。
(私は家族全員を連れて同教会を1973年に訪れ、当時を記憶しているという80歳?
代の老婆に出会いました。 物資が極めて乏しいときなのに、砂糖をいっぱい入れた
砂糖水を長女と長男に差し出してくださったことがありました。 当時小学校低学年
であった二人の子供にとって、それは生涯忘れられないおもてなしとなりました)
また南陽湾は、在韓アメリカ軍基地問題で騒がしい平澤ピョンテク の西北方向に当たり
ます。 さらにまた牙山湾は、かつて日清戦争が戦われた場所でもあります。
★ 南陽湾干拓地は実に広大な土地でしたが、交通の便に恵まれない地域でした。
移住者と共に清渓川沿いの松亭洞の教会は南陽湾の梨花里イファリ に移動しました。
或る暑い夏の午後だったかと記憶していますが、私は梨花里から、南陽湾の堤防を
徒歩で渡り、数キロ離れた虎岩里ホアムニ に移住した人々を訪ねることになりました。
西ドイツにお願いをして建設して貰った託児所を訪ねる目的でした。
(疲弊しきっていた当時の韓国農村に、託児所が...と言えば格好が好いのですが、
実際には西ドイツ教会との約束を全く無視して、韓国式のドデカイ礼拝堂を建設して
しまったのです。 西ドイツの教会と韓国との間に立った私は、或る韓国人教会牧師
の国際的感覚欠落から来る重なる無責任なデタラメさの多くに辟易していたのです。
そういうことも背後にあって虎岩託児所を訪問する必要が生じていたのでした。
虎岩里に向かう、遠くて寂しい、砂埃だらけの未舗装道路を、重い心で歩んでいた
のでした)
★ そのような事情を抱えて寂しい一直線の道路を独り歩んでいました。
するとどこから涌いてきたのか、目の前に忽然と二人の男の子が現れました。
私の知らないどこかの近道を利用して、幹線道路に出て来たのだろうと思いました。
年長のほうの男の子は小学6年生か中学1年生前後に見えました。
もう一人の子は小学低学年生のように見えました。 私の前を歩いていました。
二人の男の子が出現して来たころから、空の雲行きが怪しくなり始めていました。
虎岩里までは、まだ相当な距離がありました。 そして、案じていたように、夕立の
雨が降り始めたのでした。 周囲に雨宿りができるような建物も樹木もありません。
韓国内を旅行するとき、私は常に洗面用具のほかに、トイレット・ペーパー1巻、
栄太郎飴を1鑵、6片のチーズが入っている薄い丸い容器1ヶ、それに乾パン1袋と
ポリエステル製の折りたたみ式のレイン・コートを携帯することが多かったのです。
飴とチーズと乾パンさえあれば、2日間程度なら何とか体力を維持できると知って
いたからでした。 寒いと感じれば、レイン・コートを羽織ればよいのです。
雨が降り始めましたので、無意識にレイン・コートを取り出して着用しました。
目の前の男の子二人のことを考えない、無意識のことでした。
雨が降れば疑うこともなくレイン・コートを着る...という無意識さからでした。
すぐ目の前を歩く二人の男の子のことを全く考慮に入れていませんでした。
★ 雨がひどく降り出して来ました。
そのときのことです。 あたりの畑の中をキョロキョロ見回していた年長の男の子が
急に畑の方に走り出しました。 何をするのだろうと私は立ち止まって眺めました。
男の子は、捨ててあった、空っぽの肥料用の袋を拾って道路に戻って来ました。
空き袋の長い方の一端を切り開いて即席頭巾を作った男の子は、それを年少の男の子
の頭にかぶせました。 頭巾が飛ばされないように右手で年少の子供を押えるように
して歩き始めたのです。 本人はずぶ濡れ状態でした。
★ そのとき初めて自分という成人が、しかも「持てる国」から来た「持てる者」で
ある私が、しかも自称「クリスチャン」と称している者が、幼い男の子たちのことを
考えないまま、自分だけレイン・コートを着用していたということの鈍感さを痛烈に
教えられたのでした。
そればかりではなく、私から見れば幼い男の子が、より幼い後輩のために、智恵を
働かせて、即席のレイン・コートを作って、それを幼い男の子の頭にかぶせたという
生活の智恵を目前にして、大きなハンマーで私の頭を叩き割られたように思えたので
した。 持てる国の安易な生活に慣れてしまった私は、無いものの中から工夫をして
他者を助けるという発想を、そのときすでに喪失していたのでした。
★ マタイ傳25章40節は、『わが兄弟なる此等のいと小さき者の一人に為したるは、
すなわち我に為したる也』とイェスが仰ったと語っています。
すなわちこの地上で私たちが他者、とりわけ自分より弱者に対して何かを「する」
ということが、そのままそれが主イェスに対して「する」or「した」ことになると、
肯定的なこととして捉えて教えています。
しかし、すぐあとの45節には、『此等のいと小さき者の一人に為さざりしは、即ち
我に為さざりしなり』と、他者に対して、とりわけ自分よりも弱者に対して私たちが
「しない」or「しなかった」ということは、それはそのままイェスに対して、私たち
が「しない」or「しなかった」ということになる...と警告しているのです。
★ 私はあのとき、韓国の南陽湾で、梨花里から虎岩里に向かう寂しい路上で、私が
「やるべきであったはずのこと」を、私が私の不注意と、少年たちへの思い遣りの心
の不足から「やらなかったこと」で、そしてまた、幼い男の子が「やったこと」を、
「やれたこと」を、私が「できなかった・やらなかった」ということで、主イェスに
対して、私は申し訳のないことをしでかしてしまったと、あれから30余年たった今も
心の奥底に、秘かに重荷を覚えているのです。
そのむかし、ケンタッキーで聖書を学んでいたときに、何でも sin of commission
と sin of omission というのがある...とか習ったことがありました。
前者は意図的に行う遂行の罪で、後者は怠慢の罪、事にかかわろうとしない罪...とか
でした。 この二つは、一種の「ことわざ」として英語圏で使われている表現だった
と思いますが、当時は英語の実力不足で、そこから先のことを覚えていません。
しかし聖書が語る「罪」には、「為すべきでないことを知りながらやる」ことや、
「為すべきであるとわかっていることを意図的にやらない」ということだけではなく
て、「気付かない罪、隠された罪、行わなかった罪、無意識の内の自己中心的な罪」
も含むものだと、加齢と共に、少しずつ理解するようになって来たのです。
ルカ傳10章28節~29節が語る律法学者も、頭ではわかっていても、実際にはそれを
実践するということができない、職業的宗教教育者の典型的な一例でしょう。
「いと小さき者に為す」ということもむつかしいことですが、「為さざる」という
ことには「気がつかない要素」を含みますので、もっとむつかしいかと思います。
南陽湾でたまたま遭遇した男の子二人に対する私自身の配慮の足りなさが、今でも
私には一つの恥ずべき汚点として残っているのです。 主よ、憐れみ給え...です。
Kyrie eleison!