★ 文語体で恐縮ですが...
『まことに汝ら告ぐ。 わが兄弟なる此等のいと小さき者の一人に為したるは、
即ち我に為したるなり』イェスのことば(マタイ傳25章40節)
★ 今日のように強風が吹く寒い冬の夕方の松亭洞の土手の上でのことでした。
『牧師さん。 お婆さんと3、4名の孫が震えています。 何とかなりませんか?』
梨花女子大生だったかと思いますが、ヴォランティアをしていたお嬢さんたちが、
ハ~ハ~と白い息を吐きながら注進に及びました。 『どこ?』 『あっち』
清渓川の堤防の反対側、すなわち米軍娯楽保養地ウォーカー・ヒルズに通じる一般
道路からは完全に見えなくなっていた清渓川堤防の傾斜面に、畳1畳分もないような
粗末な掘っ建て小屋がありました。 堤防に沿って吹きつける風は零下20度近い凍土
の上にビニール・シーツ1枚を敷いただけの小屋を遠慮会釈なく襲っていました。
拾ってきた有り合わせのベニヤ板で作った戸(とうてい「戸」などと呼べる品物で
はありません...)の中側には、老婆と幼児たちが、震えながら、お互いにしっかりと
抱き合って何とか暖を取ろうとしていました。
幼児の両親は、お婆さんに子供たちを託して仕事を捜しに出ていったまま、数日間
戻って来ていないのだそうでした。
松亭洞ソンジョンドン の教会堂(これも掘っ建てボロ小屋)に戻り、汚い布団でしたが、
それをお婆さんに渡し、幼児たちを囲むように立てかけた布団の内側で抱き合って暖
を取るように勧めました。 その間、女子学生たちに練炭焜炉コンロ で湯を沸騰ささる
ように依頼しました。 教会に小麦粉が少し残っていたのを思い出したからです。
小麦粉で水団スイトン を作ろうと考えたのでした。
ところが外気温が低過ぎて、七厘焜炉の火力だけでは水を沸騰させることができな
いのでした。 ほかになす術がなく、致し方なく、沸騰していない湯の中に小麦粉を
丸めて作った団子を放り込みました。 結果は、ドロドロとした、何とも表現できな
い、一見すると「くず湯」のようなものになってしまいました。 火の通った一部は
お団子に近いものでした。
それでも、その「宝物」を入れた鍋を、注意しながら、女子大学生たちがお婆さん
の掘っ建て小屋(スラムではそれをパンジャ・チップ=板子家と呼んでいました)に
運び込み、幼児たちに与えました。 おいしいとはお世辞にも言えない品でしたが、
幼児たちはそれをすすっていました。 お婆さんはそれをすべて幼児に与え、自らは
食べませんでした。 そして私たちに向かって、『コマワョ』(=ありがとさん)を
いくども繰り返していました。
そのような「食べ物」が、どれだけ幼児たちの役にたったのか、甚だ疑問ですが、
それでも、その時点において、その子たちの空腹を満たし、寒さを防ぐことができた
のかと思います。 清渓川スラムの6万人の空腹を満たすことなど、一人の外国人の
私にできるわけがありません。 それでも、その時のその幼児たちを一時的にであれ
救えたことは事実でした。 このような思いで話はいっぱいあります。
イェスが仰った、『此等のいと小さき者の一人に為したるは我に為したるなり』と
いうことは、そういうことではなかったのかと、今になって思い出すのです。
★ 韓国の人々のために役立つのであれば...という主旨で、1968年夏の最初の訪韓時
から何拾回かの訪韓ごとに秘かに撮り続けていた写真フィルム2万駒ほどを贈呈しま
した。 ソウル歴史博物館が、その中から2百点ほどを取り敢えず選び出し、写真集
を発行されました。 現在でも清渓川文化館には写真展コーナーがあるはずです。
注(日本の植民地支配から解放された直後に朝鮮戦争が勃発し、国土は焼土と化しま
した。 疲弊しきっていた韓国全土は、次に朴正煕軍事独裁政権下に置かれました。
北朝鮮との対決姿勢も厳しいものがありました。 1974年1月からは大統領緊急措置
令が続々と発令され、日本人留学生早川など2名もスパイ容疑で逮捕されました。
韓国には写真機もなく、フィルムの入手も困難な時代でした。 そのような状況下
で、日本人が韓国の恥部であるスラムを撮影するということには、それなりの覚悟が
必要でした。 北朝鮮の間諜と焼き印を押されてしまえば、15年以上の刑罰を受ける
ことになったと思います。 スラム内部を撮影するということは、そのような危険性
を孕んでいたのです。 スラム内には情報・公安機関員たちも多く潜んでいました)
その写真集の94頁右側に一人の初老の婦人の写真が掲載されています。
「祈りを捧げているおばさんと子供」という表題は博物館が適当に付けたものです。
実はこの婦人の所に私を連れていった人がありました。
その当時この婦人は或る婦人科の病を得ていました。 手術をする必要があったので
すが、その費用は彼女にとって高嶺の花、夢のまた夢でしかありませんでした。
相談を受けたからには断ることができませんでした。 日本金で数万円だったのか
は、今となっては確かなことを全く記憶していませんが、私にも大きなお金でした。
それでも何とか都合をつけて提供することができました。
次の訪韓時に、真っ先にこの婦人を訪問しました。
『ハナニム(韓国語で「天のおかた」 or 「ひとりのおかた」=かみさま)コマワヨ
(ありがとさん)とか、そのようなことを彼女が口にしていたのを覚えています。
私を神さまと捉えたということではなく、心から神を讚美していたのです。
そののち、この婦人と、そこに写っている子供がどうなったのかわかりません。
天国でこの二人にも再会できるであろうかと、そのように希望を抱いています。
★ 清渓川スラム住民の中から希望する数十世帯を連れ出して、黄海に面した牙山湾
アサンマン の一部を形成する南陽湾 ナミャンマン に集団移住させたことがありました。
当時はこん日とは違い、割引格安航空券などありませんでした。 ずいぶんと無理
をして西ドイツに飛びました。 西ドイツ教会に依頼して、韓国各地に託児所を建築
して貰い、毎日2千名の未就学児童に給食を与えて貰うことに成功しました。
南陽湾の託児所を訪ねたときのことでした。 元気のよい男の子がいました。
よく見ますと、彼のおでこにはピンポン球よりやや小さなできものがありました。
清渓川時代からの教会指導者のひとり、金終吉キム・ジョンギル さんに事情を尋ねましたら、
日本金数万円の費用がかかるので、治療することができないのだと教えられました。
帰国に必要な経費だけを残し、残りの日本金数万円を金終吉さんに渡し、ソウルの
大学病院で治療を受けさせるように依頼しました。 元気な子でしたが、自分の額の
おできを気にしていたのは確かでしたし、彼の親も同様でした。
次回の南陽湾訪問のとき、その男の子が滑り台に乗っているのを発見しました。
よく見ますと、おできは確かに小さくなっていましたが、まだ残っていました。
金終吉さんに事情説明を求めましたところ、『野村さんから預かったお金だけでは
充分でなかったので、医者は、とりあえず受け取った金額に応じた分だけの手術をし
た...』との答でした。 国民健康保険制度のようなものがない時代の韓国でした。
そののち私はその坊やと会う折を得ていませんので、その坊やは、今ごろは、40歳
前後になっていると思います。 きっと今では、残りのおできも除去されているもの
と推測しています。
『半分しか手術をさせてあげることができなかった!』ということで、そののちの
一時期、その坊やのことを思い出すたびに、つらい思いをしていました。
しかしあの時点で、1975年か76年時点で、持っている金子のすべてを捧げて手術を
受けさる機会を備えることができたということは、そしてそれ以上のことをその時の
私にはできなかったのだと思うとき、きっと神さまは私を赦して下さるであろうと、
そのように思えるようになりました。
あの男の子も亦、イェスが仰った、『いと小さき者の一人』であったのではないか
と、そのように今では思うのです。 再会できるものなら再会したいと願うのです。
★ これからも、いろいろなことを思い出しながら、ご紹介してみたいと願います。
そういえば、『主イェスの自ら言ひ給ひし《与ふるは受くるよりも幸福なり》との
御言葉を記憶すべきなり』...という聖句が使徒行伝20章35節にありましたね。
『まことに汝ら告ぐ。 わが兄弟なる此等のいと小さき者の一人に為したるは、
即ち我に為したるなり』イェスのことば(マタイ傳25章40節)
★ 今日のように強風が吹く寒い冬の夕方の松亭洞の土手の上でのことでした。
『牧師さん。 お婆さんと3、4名の孫が震えています。 何とかなりませんか?』
梨花女子大生だったかと思いますが、ヴォランティアをしていたお嬢さんたちが、
ハ~ハ~と白い息を吐きながら注進に及びました。 『どこ?』 『あっち』
清渓川の堤防の反対側、すなわち米軍娯楽保養地ウォーカー・ヒルズに通じる一般
道路からは完全に見えなくなっていた清渓川堤防の傾斜面に、畳1畳分もないような
粗末な掘っ建て小屋がありました。 堤防に沿って吹きつける風は零下20度近い凍土
の上にビニール・シーツ1枚を敷いただけの小屋を遠慮会釈なく襲っていました。
拾ってきた有り合わせのベニヤ板で作った戸(とうてい「戸」などと呼べる品物で
はありません...)の中側には、老婆と幼児たちが、震えながら、お互いにしっかりと
抱き合って何とか暖を取ろうとしていました。
幼児の両親は、お婆さんに子供たちを託して仕事を捜しに出ていったまま、数日間
戻って来ていないのだそうでした。
松亭洞ソンジョンドン の教会堂(これも掘っ建てボロ小屋)に戻り、汚い布団でしたが、
それをお婆さんに渡し、幼児たちを囲むように立てかけた布団の内側で抱き合って暖
を取るように勧めました。 その間、女子学生たちに練炭焜炉コンロ で湯を沸騰ささる
ように依頼しました。 教会に小麦粉が少し残っていたのを思い出したからです。
小麦粉で水団スイトン を作ろうと考えたのでした。
ところが外気温が低過ぎて、七厘焜炉の火力だけでは水を沸騰させることができな
いのでした。 ほかになす術がなく、致し方なく、沸騰していない湯の中に小麦粉を
丸めて作った団子を放り込みました。 結果は、ドロドロとした、何とも表現できな
い、一見すると「くず湯」のようなものになってしまいました。 火の通った一部は
お団子に近いものでした。
それでも、その「宝物」を入れた鍋を、注意しながら、女子大学生たちがお婆さん
の掘っ建て小屋(スラムではそれをパンジャ・チップ=板子家と呼んでいました)に
運び込み、幼児たちに与えました。 おいしいとはお世辞にも言えない品でしたが、
幼児たちはそれをすすっていました。 お婆さんはそれをすべて幼児に与え、自らは
食べませんでした。 そして私たちに向かって、『コマワョ』(=ありがとさん)を
いくども繰り返していました。
そのような「食べ物」が、どれだけ幼児たちの役にたったのか、甚だ疑問ですが、
それでも、その時点において、その子たちの空腹を満たし、寒さを防ぐことができた
のかと思います。 清渓川スラムの6万人の空腹を満たすことなど、一人の外国人の
私にできるわけがありません。 それでも、その時のその幼児たちを一時的にであれ
救えたことは事実でした。 このような思いで話はいっぱいあります。
イェスが仰った、『此等のいと小さき者の一人に為したるは我に為したるなり』と
いうことは、そういうことではなかったのかと、今になって思い出すのです。
★ 韓国の人々のために役立つのであれば...という主旨で、1968年夏の最初の訪韓時
から何拾回かの訪韓ごとに秘かに撮り続けていた写真フィルム2万駒ほどを贈呈しま
した。 ソウル歴史博物館が、その中から2百点ほどを取り敢えず選び出し、写真集
を発行されました。 現在でも清渓川文化館には写真展コーナーがあるはずです。
注(日本の植民地支配から解放された直後に朝鮮戦争が勃発し、国土は焼土と化しま
した。 疲弊しきっていた韓国全土は、次に朴正煕軍事独裁政権下に置かれました。
北朝鮮との対決姿勢も厳しいものがありました。 1974年1月からは大統領緊急措置
令が続々と発令され、日本人留学生早川など2名もスパイ容疑で逮捕されました。
韓国には写真機もなく、フィルムの入手も困難な時代でした。 そのような状況下
で、日本人が韓国の恥部であるスラムを撮影するということには、それなりの覚悟が
必要でした。 北朝鮮の間諜と焼き印を押されてしまえば、15年以上の刑罰を受ける
ことになったと思います。 スラム内部を撮影するということは、そのような危険性
を孕んでいたのです。 スラム内には情報・公安機関員たちも多く潜んでいました)
その写真集の94頁右側に一人の初老の婦人の写真が掲載されています。
「祈りを捧げているおばさんと子供」という表題は博物館が適当に付けたものです。
実はこの婦人の所に私を連れていった人がありました。
その当時この婦人は或る婦人科の病を得ていました。 手術をする必要があったので
すが、その費用は彼女にとって高嶺の花、夢のまた夢でしかありませんでした。
相談を受けたからには断ることができませんでした。 日本金で数万円だったのか
は、今となっては確かなことを全く記憶していませんが、私にも大きなお金でした。
それでも何とか都合をつけて提供することができました。
次の訪韓時に、真っ先にこの婦人を訪問しました。
『ハナニム(韓国語で「天のおかた」 or 「ひとりのおかた」=かみさま)コマワヨ
(ありがとさん)とか、そのようなことを彼女が口にしていたのを覚えています。
私を神さまと捉えたということではなく、心から神を讚美していたのです。
そののち、この婦人と、そこに写っている子供がどうなったのかわかりません。
天国でこの二人にも再会できるであろうかと、そのように希望を抱いています。
★ 清渓川スラム住民の中から希望する数十世帯を連れ出して、黄海に面した牙山湾
アサンマン の一部を形成する南陽湾 ナミャンマン に集団移住させたことがありました。
当時はこん日とは違い、割引格安航空券などありませんでした。 ずいぶんと無理
をして西ドイツに飛びました。 西ドイツ教会に依頼して、韓国各地に託児所を建築
して貰い、毎日2千名の未就学児童に給食を与えて貰うことに成功しました。
南陽湾の託児所を訪ねたときのことでした。 元気のよい男の子がいました。
よく見ますと、彼のおでこにはピンポン球よりやや小さなできものがありました。
清渓川時代からの教会指導者のひとり、金終吉キム・ジョンギル さんに事情を尋ねましたら、
日本金数万円の費用がかかるので、治療することができないのだと教えられました。
帰国に必要な経費だけを残し、残りの日本金数万円を金終吉さんに渡し、ソウルの
大学病院で治療を受けさせるように依頼しました。 元気な子でしたが、自分の額の
おできを気にしていたのは確かでしたし、彼の親も同様でした。
次回の南陽湾訪問のとき、その男の子が滑り台に乗っているのを発見しました。
よく見ますと、おできは確かに小さくなっていましたが、まだ残っていました。
金終吉さんに事情説明を求めましたところ、『野村さんから預かったお金だけでは
充分でなかったので、医者は、とりあえず受け取った金額に応じた分だけの手術をし
た...』との答でした。 国民健康保険制度のようなものがない時代の韓国でした。
そののち私はその坊やと会う折を得ていませんので、その坊やは、今ごろは、40歳
前後になっていると思います。 きっと今では、残りのおできも除去されているもの
と推測しています。
『半分しか手術をさせてあげることができなかった!』ということで、そののちの
一時期、その坊やのことを思い出すたびに、つらい思いをしていました。
しかしあの時点で、1975年か76年時点で、持っている金子のすべてを捧げて手術を
受けさる機会を備えることができたということは、そしてそれ以上のことをその時の
私にはできなかったのだと思うとき、きっと神さまは私を赦して下さるであろうと、
そのように思えるようになりました。
あの男の子も亦、イェスが仰った、『いと小さき者の一人』であったのではないか
と、そのように今では思うのです。 再会できるものなら再会したいと願うのです。
★ これからも、いろいろなことを思い出しながら、ご紹介してみたいと願います。
そういえば、『主イェスの自ら言ひ給ひし《与ふるは受くるよりも幸福なり》との
御言葉を記憶すべきなり』...という聖句が使徒行伝20章35節にありましたね。