自宅軟禁中の金大中先生を訪問
2009・08・18 野村基之
★ ソウル歴史博物館が、10月8日~11月8日に亙り展示を計画している写真展に、私がすでに贈呈しておきました2万駒前後の写真フィルムの中から選んだ写真を展示するので、撮影に使用した写真機や、数十回の訪韓旅行記19冊をも併せて展示したいのだが...ということで、旅行記を太陽光線に当て、風通しをしていた時に、金大中氏が召天凱旋されたとの報道に接しました。
ちょうどそのとき、偶然でしたが、日誌の中から、1974年3月27日に金大中先生のご自宅を、無謀にも、大胆にも、予告なしで、突然に訪問した頁を読んでいました。
韓国中央情報部(KCIA)による厳重な監視体制が敷かれていました。
新村シンチョン と金浦空港との間にある東橋洞ドンギョンドン ロータリー三叉路の近くに先生のご自宅があるということは、タクシーの運転手たちから聞いていましたし、確かにその近辺を通るたびに、中央情報部員たちが乗っている自家用車があちこちの要所に常時駐車していることからわかっていました。
東橋洞の三叉路ロータリーから市内に向かって三つ目の通りを右折して、下り坂を少し行くとY字路があり、その角が先生の自宅であることや、官憲筋の監視下にあるために人通りがほとんど途絶えていることなどは、あらかじめ知っていました。
韓国人の一戸建ての住宅の場合、だいたいは、正面入口の鉄製の門の右上か左上の内側のどこかに呼び鈴のボタンが隠されているということも知っていました。
しかし、金先生のご自宅のどこに呼び鈴のボタンが隠されているのかは知りませんでしたので、手を伸ばして探り出さなければならず、時間の経過と共に、迫って来るはずのKCIA要員のことを思うと、ずいぶんと焦りました。
ようやく探り当ててボタンを押しました。 家の中から誰かがやってみえる気配を感じました。 誰だ?という問いかけに、日本から来た無名の福音伝道者だと返答して、鉄壁のような門がようやく開き、中に入れて頂くことができました。 ずいぶんと緊張しました。 わずか2、3分のことでしたが、長い時間のように感じました。
よくもまあ無事でご自宅を訪問できたものですし、ホテルに戻ることができたものでした。 逮捕されていれば大統領緊急措置違反で数年間を刑務所で過ごさざるを得なかったものと思います。 もちろん、そのことも覚悟の上の単独訪問でした。
ブルーのダブルのスーツを召され、手には紫煙のパイプがありました。
李姫鎬イ・ヒホ令夫人も同席なさっていらっしゃいました。 正面門から室内までを案内してくださった若い男性が、息子さんであったのか、用心棒であったのかはわかりませんでした。 盗聴を警戒して、小声で話し合うとか、筆談で話をするとか、わざとラジオの音量を大きくするなどということは、なかったように記憶しています。
顔に傷跡だか痣が残っていたような記憶がありますが、先生は落ち着いた姿勢で、熱心に韓国やアジアの平和をどのように構築して行けば良いのかを語られました。
クリスチャンは、社会に対して、社会不義に対して、とりわけ貧しい人々、社会的に、政治的に、経済的に、謂れもなく虐げられている人々に対して、大きな責任があると、クリスチャンの社会正義具現化の責任を熱心に、そして淡々と説かれました。
主イェス・キリストがこの世においでになったのは、僅か数人の選ばれた者たち、特権階級の人たちのためではなく、おびただしい数の貧しい人々、この国のブルー・カラーの人々のためであった。
しかし、この国、韓国の教会の在り方、自称・他称「牧師先生サマ」中心主義や、豪勢な教会堂など建物中心主義信仰は、どう考えて見てもおかしい‥ なぜならば、牧師も教会も、貧しい人々を忘れているからだ‥ 福音が社会との関係で正しく把握されていない、独り善がりなものになってしまっている‥ そして結果的に、権力者に利用されてしまっている‥ こういうキリスト教はイェスのものではない‥
また、一部の日本人上層部と、韓国上層部の一部が手を握り合うというようなことではなくて、草の根の人々の交わりでなければならない‥ 特に両国の将来、アジアの将来のために、クリスチャン同士の草の根の交わりを培養して行かなければならない‥ モノやカネを基礎にした交わりは意味がない‥ 人と人、キリストの愛に基づいた愛をベースにした交わりを拡張してゆかなければならない。
韓国教会の自己主張には、下層部の貧しい難民に対する目はないと言える。
日本赤軍派が清渓川チョンゲチョン スラムの住民と、私と組んで反乱を起こすなどという提案には、極めて慎重にならざるを得ない。 活貧教会のことは関心を抱いている。活貧教会が日本赤軍と組む気がないのなら、それ以上の無理をする必要はない。
あなたのようなグラス・ルーツの奉仕の活動が今後の日韓のために、アジアのために極めて重要である。 そのために、今後もよく学んで、良く働いてもらいたい‥などとおっしゃり、椅子から立ち上がるのが困難なようで、そのまま握手の手を差し伸ばしてくださいました。 大きな手であったような記憶が残っています。
会話は、英語や韓国語を交えながら、主として日本語で行いました。記念写真は遠慮して撮影しませんでした。 万が一、帰路で官憲に尋問を受けたときに、先生側に不利な証拠となるかも知れないという配慮を私のほうでしたからです。
なお、会談時間は午後3時半から四、五十分間であったかと思います。
★ 日本赤軍に直接関係のある人物のひとりで、住所が〒181 三鷹市深大寺 3903 佐々木一郎という男性が八幡山の自宅を訪ねて来て、活貧教会と金大中を連係させ、さらに韓民統の指揮で、清渓川貧民窟住民を活貧教会が扇動し、蜂起させ、金大中と連絡を採るように仕向けて欲しいと、そのようなことを申し込みに来たことがありました。
その当時、東京に住んでいましたが、相当な緊張下で生活していました。
まさか日本赤軍が私に目をつけ、私を利用しようとしたことに衝撃を受け、警戒心を深めたものでした。 キリスト新聞か毎日新聞に紹介された清渓川スラムの記事から調べあげたのではないかと、推測します。 彼らは情報網を持っていたはずです。
同じ深大寺の住所に住んでいた佐々木則夫の兄の佐々木詳が、丸の内連続企業爆破事件や日航機ダッカ・ハイジャック事件に関係していたような記憶が残っています。
続く
★ ソウル歴史博物館が、10月8日~11月8日に亙り展示を計画している写真展に、私がすでに贈呈しておきました2万駒前後の写真フィルムの中から選んだ写真を展示するので、撮影に使用した写真機や、数十回の訪韓旅行記19冊をも併せて展示したいのだが...ということで、旅行記を太陽光線に当て、風通しをしていた時に、金大中氏が召天凱旋されたとの報道に接しました。
ちょうどそのとき、偶然でしたが、日誌の中から、1974年3月27日に金大中先生のご自宅を、無謀にも、大胆にも、予告なしで、突然に訪問した頁を読んでいました。
韓国中央情報部(KCIA)による厳重な監視体制が敷かれていました。
新村シンチョン と金浦空港との間にある東橋洞ドンギョンドン ロータリー三叉路の近くに先生のご自宅があるということは、タクシーの運転手たちから聞いていましたし、確かにその近辺を通るたびに、中央情報部員たちが乗っている自家用車があちこちの要所に常時駐車していることからわかっていました。
東橋洞の三叉路ロータリーから市内に向かって三つ目の通りを右折して、下り坂を少し行くとY字路があり、その角が先生の自宅であることや、官憲筋の監視下にあるために人通りがほとんど途絶えていることなどは、あらかじめ知っていました。
韓国人の一戸建ての住宅の場合、だいたいは、正面入口の鉄製の門の右上か左上の内側のどこかに呼び鈴のボタンが隠されているということも知っていました。
しかし、金先生のご自宅のどこに呼び鈴のボタンが隠されているのかは知りませんでしたので、手を伸ばして探り出さなければならず、時間の経過と共に、迫って来るはずのKCIA要員のことを思うと、ずいぶんと焦りました。
ようやく探り当ててボタンを押しました。 家の中から誰かがやってみえる気配を感じました。 誰だ?という問いかけに、日本から来た無名の福音伝道者だと返答して、鉄壁のような門がようやく開き、中に入れて頂くことができました。 ずいぶんと緊張しました。 わずか2、3分のことでしたが、長い時間のように感じました。
よくもまあ無事でご自宅を訪問できたものですし、ホテルに戻ることができたものでした。 逮捕されていれば大統領緊急措置違反で数年間を刑務所で過ごさざるを得なかったものと思います。 もちろん、そのことも覚悟の上の単独訪問でした。
ブルーのダブルのスーツを召され、手には紫煙のパイプがありました。
李姫鎬イ・ヒホ令夫人も同席なさっていらっしゃいました。 正面門から室内までを案内してくださった若い男性が、息子さんであったのか、用心棒であったのかはわかりませんでした。 盗聴を警戒して、小声で話し合うとか、筆談で話をするとか、わざとラジオの音量を大きくするなどということは、なかったように記憶しています。
顔に傷跡だか痣が残っていたような記憶がありますが、先生は落ち着いた姿勢で、熱心に韓国やアジアの平和をどのように構築して行けば良いのかを語られました。
クリスチャンは、社会に対して、社会不義に対して、とりわけ貧しい人々、社会的に、政治的に、経済的に、謂れもなく虐げられている人々に対して、大きな責任があると、クリスチャンの社会正義具現化の責任を熱心に、そして淡々と説かれました。
主イェス・キリストがこの世においでになったのは、僅か数人の選ばれた者たち、特権階級の人たちのためではなく、おびただしい数の貧しい人々、この国のブルー・カラーの人々のためであった。
しかし、この国、韓国の教会の在り方、自称・他称「牧師先生サマ」中心主義や、豪勢な教会堂など建物中心主義信仰は、どう考えて見てもおかしい‥ なぜならば、牧師も教会も、貧しい人々を忘れているからだ‥ 福音が社会との関係で正しく把握されていない、独り善がりなものになってしまっている‥ そして結果的に、権力者に利用されてしまっている‥ こういうキリスト教はイェスのものではない‥
また、一部の日本人上層部と、韓国上層部の一部が手を握り合うというようなことではなくて、草の根の人々の交わりでなければならない‥ 特に両国の将来、アジアの将来のために、クリスチャン同士の草の根の交わりを培養して行かなければならない‥ モノやカネを基礎にした交わりは意味がない‥ 人と人、キリストの愛に基づいた愛をベースにした交わりを拡張してゆかなければならない。
韓国教会の自己主張には、下層部の貧しい難民に対する目はないと言える。
日本赤軍派が清渓川チョンゲチョン スラムの住民と、私と組んで反乱を起こすなどという提案には、極めて慎重にならざるを得ない。 活貧教会のことは関心を抱いている。活貧教会が日本赤軍と組む気がないのなら、それ以上の無理をする必要はない。
あなたのようなグラス・ルーツの奉仕の活動が今後の日韓のために、アジアのために極めて重要である。 そのために、今後もよく学んで、良く働いてもらいたい‥などとおっしゃり、椅子から立ち上がるのが困難なようで、そのまま握手の手を差し伸ばしてくださいました。 大きな手であったような記憶が残っています。
会話は、英語や韓国語を交えながら、主として日本語で行いました。記念写真は遠慮して撮影しませんでした。 万が一、帰路で官憲に尋問を受けたときに、先生側に不利な証拠となるかも知れないという配慮を私のほうでしたからです。
なお、会談時間は午後3時半から四、五十分間であったかと思います。
★ 日本赤軍に直接関係のある人物のひとりで、住所が〒181 三鷹市深大寺 3903 佐々木一郎という男性が八幡山の自宅を訪ねて来て、活貧教会と金大中を連係させ、さらに韓民統の指揮で、清渓川貧民窟住民を活貧教会が扇動し、蜂起させ、金大中と連絡を採るように仕向けて欲しいと、そのようなことを申し込みに来たことがありました。
その当時、東京に住んでいましたが、相当な緊張下で生活していました。
まさか日本赤軍が私に目をつけ、私を利用しようとしたことに衝撃を受け、警戒心を深めたものでした。 キリスト新聞か毎日新聞に紹介された清渓川スラムの記事から調べあげたのではないかと、推測します。 彼らは情報網を持っていたはずです。
同じ深大寺の住所に住んでいた佐々木則夫の兄の佐々木詳が、丸の内連続企業爆破事件や日航機ダッカ・ハイジャック事件に関係していたような記憶が残っています。
続く