清渓川の苦難は日帝の所為 韓国も現在は堕落の兆しあり
国民日報 聖誕特集号記事3 2009・12・24
貧民の聖者 野村牧師が愛する韓国
清渓川の苦難は日帝の所為
韓国も現在は堕落の兆しあり、心配して貰わなければ
遠くに富士山が向かい合って見える八ヶ嶽の原生林の中にあるベタニヤ教会
野村牧師は、去る13日の週報「ベタニヤ・つうしん」にマタイ傳10章42節からの(聖書の)言葉を述べた。
そしてこの日の週報で、70年初期の清渓川のスラム街にすんでいる6万人あまりの人々の惨状を初めて目撃した時に、自分が幼いときに父と死に別れて親族の家などに頼って暮らさなければならなかった、孤独で寂しく辛かった生活を思い出しながら、スラムの中にも主イェス・キリストが住んでおられると...直感したと書いている。
野村牧師は、5歳のときに同志社大学で行政法を教えていた父を喉頭結核で失い、親戚や他人の家で飯を食べて育った。 京都西陣で織物の下請けのまた下請けをしていた朝鮮人たちが差別され、蔑視されていた惨めな生活を5歳のころから目撃していた。 子供なりに何かおかしい Something must be wrong. と感じていた。
(京都西陣翔鸞尋常高等)小学校で学んだ6年間、同級生に朴という名の朝鮮人の男の子が二人いた。 日本が太平洋戦争を始め、インドシナに侵入した時、そこで取れたゴムでゴム毬を作って全国の小学校の学童に戦勝品として配ったが、二人の朴君はもらえなかった。 さらにまた、スフという繊維で作った学生服の配給があったが、二人は配給券を貰えなかった。 (おかしいと同情したが、その背後にあった大きな理由や詳しいことは、小学生には大きすぎてわからなかった。)
また、西陣の裏通りのさらに裏通りの劣悪な生活環境のなかで、西陣織の下請作業の下請作業をしていたのが、当時チョウセンと呼ばれていた朝鮮人たちであった。
彼らの貧しい生活ぶりも、その当時、幼かった自分なりに、何となくかわいそうだと感じていたし、朝鮮人を蔑視し、差別する日本人のおとなの態度も不自然に感じていたし、足先が尖ったゴム製の白い朝鮮靴を履くアジュンマ(おばさん)をからかう日本人の子供たちのことを、何かしらいけないことをしている...と感じていた。
1950年に(三軒茶屋の南方、下馬にあった)旧東京獣医学校に入学し、韓国からの留学生金五南Kim, Ohnam君と知り合った。
(1950年6月25日に)朝鮮戦争が起こり、金君への故郷からの送金が途絶えた。
食べ物や衣服を分け合った。 金君は私がアメリカへ留学中に祖国に帰り、済州島の大学で獣医学を教えていた。 のちに全羅道の光州大学に移り獣医学を教えていた。 それが最後だった。 現在は個人情報保護という壁ができて、金五南君の引退後の消息を探し出すことができなくなってしまった。 おそらく天国に戻ったものと考えている。
1954年から1961までアメリカに留学し、そこで今度は自分がジャップと差別され、蔑視される体験を得た。 朝鮮人・韓国人への差別と蔑視が自分のものとなった。
チョーセンと呼ばれ、鮮人と呼ばれ、朝鮮人と呼ばれて差別され、蔑視されていた小学校の二人の学友や金五南君たちの屈辱感を初めて理解できるようになった。 キリスト教国だと自称・他称するアメリカは、皮肉なことに、人種偏見と差別ということで、私にとっては良い反面教師であった。 日本の教会にも、白人に対してではなく、有色人、アジア人に対し、基本的に同じような、差別する体質があると思う。
池明観教授(のち岩波書店の雑誌「世界」T.K.の名で「韓国通信」の著者)が無名であったとき、世田谷の自宅にしばらく滞在されていた。 こうして少しずつ韓国の知識人との交流も始まったし、韓国で奉仕する気持ちも決まった。
清渓川貧民窟の悲惨な状況の後ろには、朴正煕大統領の軍事強権政治があった。
朴正煕の強圧的軍事政権の後ろには朝鮮動乱があったし、その後ろには日本帝国主義の久しい侵略と植民地政策があった。 離農民や北から逃れて来た避難民たちが形成した清渓川貧民窟は、直接的にも間接的にも日本の侵略というものと無関係ではありえないと、そのように個人的に感じている。
現在の日本は動物的な若者で満ちあふれるようになっている。 希望を喪失した、悲しい国だ。 ソウルの新村Shincheonや弘益Hongik大学の周辺の、「ホンデアップ」といいましたか、あの辺りの青年の姿を見ていると、韓国も注意しないと、東京の原宿や六本木などの繁華街にたむろする現在の日本の若者たちのような動物的な雰囲気が、伝統的な儒教の教えで礼節を弁えている韓国にも、こん日の日本のような、物質中心、カネ中心、快楽中心主義が培養されることになると、個人的に案じている。
70年代初期、物資が極めて不足していたころ、清渓川活貧教会で、すでにそのようなことにやがて韓国もなるのだろう‥と、予測はしていたのだが...
日本はキリスト教が盛んでない。 その反対に、韓国は極めて異常なほどに豪華な箱物を作って、その中に引きこもって、アーメン主よっ!とやっている。
(漢江ハンガンの南側?で、常識を遥かに逸した超巨大な教会堂を建設するとかいう、サラン(愛)教会があるとも聞いているが、私には異常だと、ずっとそのように韓国教会のあり方を見ている。 大きな箱を作ることがイェスを喜ばすことではない。
ソウル歴史博物館の写真展開幕式に出席するための今回の短期訪韓で、多くの常識ある韓国人が、日本に対する根強い不信感と憎悪感を抱いているのと同じほど、韓国一般市民の多くが韓国のキリスト教に対しても強い不信感と嫌悪感を抱いているのをあちこちで痛感した。
これは特に韓国の教会指導者たちが真剣に反省し、解決しなければならない大きな問題だと考えている。 教会のゲットー化は主イェスから自らを乖離させることだ。
(取材記者を派遣した国民日報社は、日刊紙としては韓国第4番目の日刊紙であり、購読者の多くは保守的クリスチャンが圧倒的に多い。 その母体はソウルの中心地、汝矣島ヨイドにある純福音教会である。 この教会も、とてつもない大きな教会堂を誇っている。 そのことを批判的に評することを怠らなかったし、記者はうなずいていたが、紙面に文字化されるはずはなかった。)
キリスト教が盛んだとされている北アメリカや韓国では、イェスさまはいつも多忙で、お疲れになっている。 しかし、この八ヶ嶽南麓の家庭集会には、一人とか二人、または四、五人の者が集まって、主の食卓に与り、主を讚美している。
それだからイェスさまは寛いでおられる...(笑い)
マタイ傳18章20節に、イェスの名で二、三人が集まれば、そこには主イェスが一緒にいらっしゃると約束されている。 日蓮仏教の根強いこの寒村僻地で、イェスの名によって集まり、主の食卓に与れるのは感謝である。 数ではない。 質が大切だ。
今後は、韓国の教会も、日本の教会も、礼拝堂から外に出ていって、仕えることを学び、実践しなければならないと思う。
★ 以上は取材に来られた全正煕記者に語ったことの要旨の一部であったが、残念なことに、通訳者または記者の聞き間違いや、通訳者あるいは記者の思いこみもあったようだし、韓国読者のために取材内容を敢えて変更した可能性もあったと思う。
国民日報クリスマス特集号に掲載された記事には、取材時に語ったこととの違いも生じているので、もともと特派員夫婦に語ったことを思い出しながら掲載された文章に添って、修正・訂正・追加・補足などを試みたものである。
続く
貧民の聖者 野村牧師が愛する韓国
清渓川の苦難は日帝の所為
韓国も現在は堕落の兆しあり、心配して貰わなければ
遠くに富士山が向かい合って見える八ヶ嶽の原生林の中にあるベタニヤ教会
野村牧師は、去る13日の週報「ベタニヤ・つうしん」にマタイ傳10章42節からの(聖書の)言葉を述べた。
そしてこの日の週報で、70年初期の清渓川のスラム街にすんでいる6万人あまりの人々の惨状を初めて目撃した時に、自分が幼いときに父と死に別れて親族の家などに頼って暮らさなければならなかった、孤独で寂しく辛かった生活を思い出しながら、スラムの中にも主イェス・キリストが住んでおられると...直感したと書いている。
野村牧師は、5歳のときに同志社大学で行政法を教えていた父を喉頭結核で失い、親戚や他人の家で飯を食べて育った。 京都西陣で織物の下請けのまた下請けをしていた朝鮮人たちが差別され、蔑視されていた惨めな生活を5歳のころから目撃していた。 子供なりに何かおかしい Something must be wrong. と感じていた。
(京都西陣翔鸞尋常高等)小学校で学んだ6年間、同級生に朴という名の朝鮮人の男の子が二人いた。 日本が太平洋戦争を始め、インドシナに侵入した時、そこで取れたゴムでゴム毬を作って全国の小学校の学童に戦勝品として配ったが、二人の朴君はもらえなかった。 さらにまた、スフという繊維で作った学生服の配給があったが、二人は配給券を貰えなかった。 (おかしいと同情したが、その背後にあった大きな理由や詳しいことは、小学生には大きすぎてわからなかった。)
また、西陣の裏通りのさらに裏通りの劣悪な生活環境のなかで、西陣織の下請作業の下請作業をしていたのが、当時チョウセンと呼ばれていた朝鮮人たちであった。
彼らの貧しい生活ぶりも、その当時、幼かった自分なりに、何となくかわいそうだと感じていたし、朝鮮人を蔑視し、差別する日本人のおとなの態度も不自然に感じていたし、足先が尖ったゴム製の白い朝鮮靴を履くアジュンマ(おばさん)をからかう日本人の子供たちのことを、何かしらいけないことをしている...と感じていた。
1950年に(三軒茶屋の南方、下馬にあった)旧東京獣医学校に入学し、韓国からの留学生金五南Kim, Ohnam君と知り合った。
(1950年6月25日に)朝鮮戦争が起こり、金君への故郷からの送金が途絶えた。
食べ物や衣服を分け合った。 金君は私がアメリカへ留学中に祖国に帰り、済州島の大学で獣医学を教えていた。 のちに全羅道の光州大学に移り獣医学を教えていた。 それが最後だった。 現在は個人情報保護という壁ができて、金五南君の引退後の消息を探し出すことができなくなってしまった。 おそらく天国に戻ったものと考えている。
1954年から1961までアメリカに留学し、そこで今度は自分がジャップと差別され、蔑視される体験を得た。 朝鮮人・韓国人への差別と蔑視が自分のものとなった。
チョーセンと呼ばれ、鮮人と呼ばれ、朝鮮人と呼ばれて差別され、蔑視されていた小学校の二人の学友や金五南君たちの屈辱感を初めて理解できるようになった。 キリスト教国だと自称・他称するアメリカは、皮肉なことに、人種偏見と差別ということで、私にとっては良い反面教師であった。 日本の教会にも、白人に対してではなく、有色人、アジア人に対し、基本的に同じような、差別する体質があると思う。
池明観教授(のち岩波書店の雑誌「世界」T.K.の名で「韓国通信」の著者)が無名であったとき、世田谷の自宅にしばらく滞在されていた。 こうして少しずつ韓国の知識人との交流も始まったし、韓国で奉仕する気持ちも決まった。
清渓川貧民窟の悲惨な状況の後ろには、朴正煕大統領の軍事強権政治があった。
朴正煕の強圧的軍事政権の後ろには朝鮮動乱があったし、その後ろには日本帝国主義の久しい侵略と植民地政策があった。 離農民や北から逃れて来た避難民たちが形成した清渓川貧民窟は、直接的にも間接的にも日本の侵略というものと無関係ではありえないと、そのように個人的に感じている。
現在の日本は動物的な若者で満ちあふれるようになっている。 希望を喪失した、悲しい国だ。 ソウルの新村Shincheonや弘益Hongik大学の周辺の、「ホンデアップ」といいましたか、あの辺りの青年の姿を見ていると、韓国も注意しないと、東京の原宿や六本木などの繁華街にたむろする現在の日本の若者たちのような動物的な雰囲気が、伝統的な儒教の教えで礼節を弁えている韓国にも、こん日の日本のような、物質中心、カネ中心、快楽中心主義が培養されることになると、個人的に案じている。
70年代初期、物資が極めて不足していたころ、清渓川活貧教会で、すでにそのようなことにやがて韓国もなるのだろう‥と、予測はしていたのだが...
日本はキリスト教が盛んでない。 その反対に、韓国は極めて異常なほどに豪華な箱物を作って、その中に引きこもって、アーメン主よっ!とやっている。
(漢江ハンガンの南側?で、常識を遥かに逸した超巨大な教会堂を建設するとかいう、サラン(愛)教会があるとも聞いているが、私には異常だと、ずっとそのように韓国教会のあり方を見ている。 大きな箱を作ることがイェスを喜ばすことではない。
ソウル歴史博物館の写真展開幕式に出席するための今回の短期訪韓で、多くの常識ある韓国人が、日本に対する根強い不信感と憎悪感を抱いているのと同じほど、韓国一般市民の多くが韓国のキリスト教に対しても強い不信感と嫌悪感を抱いているのをあちこちで痛感した。
これは特に韓国の教会指導者たちが真剣に反省し、解決しなければならない大きな問題だと考えている。 教会のゲットー化は主イェスから自らを乖離させることだ。
(取材記者を派遣した国民日報社は、日刊紙としては韓国第4番目の日刊紙であり、購読者の多くは保守的クリスチャンが圧倒的に多い。 その母体はソウルの中心地、汝矣島ヨイドにある純福音教会である。 この教会も、とてつもない大きな教会堂を誇っている。 そのことを批判的に評することを怠らなかったし、記者はうなずいていたが、紙面に文字化されるはずはなかった。)
キリスト教が盛んだとされている北アメリカや韓国では、イェスさまはいつも多忙で、お疲れになっている。 しかし、この八ヶ嶽南麓の家庭集会には、一人とか二人、または四、五人の者が集まって、主の食卓に与り、主を讚美している。
それだからイェスさまは寛いでおられる...(笑い)
マタイ傳18章20節に、イェスの名で二、三人が集まれば、そこには主イェスが一緒にいらっしゃると約束されている。 日蓮仏教の根強いこの寒村僻地で、イェスの名によって集まり、主の食卓に与れるのは感謝である。 数ではない。 質が大切だ。
今後は、韓国の教会も、日本の教会も、礼拝堂から外に出ていって、仕えることを学び、実践しなければならないと思う。
★ 以上は取材に来られた全正煕記者に語ったことの要旨の一部であったが、残念なことに、通訳者または記者の聞き間違いや、通訳者あるいは記者の思いこみもあったようだし、韓国読者のために取材内容を敢えて変更した可能性もあったと思う。
国民日報クリスマス特集号に掲載された記事には、取材時に語ったこととの違いも生じているので、もともと特派員夫婦に語ったことを思い出しながら掲載された文章に添って、修正・訂正・追加・補足などを試みたものである。
続く