清渓川貧民窟は私の神学校だった
韓国ソウル汝矣島 純福音教会系日刊紙 国民日報社掲載記事2
ソウル汝矣島 純福音教会系 国民日報社
降誕節特集号 取材報告 2009・12・24
70年代貧民宣教の聖者 野村牧師
日本で隠遁 初インタヴュー
降誕節特集号 取材報告 2009・12・24
70年代貧民宣教の聖者 野村牧師
日本で隠遁 初インタヴュー
(特派員夫婦をベタニヤ・ホームまで案内して来られ、かつ通訳役を引き受けられた洪昌熹 Hong,Changhee牧師の誤解による誤通訳や、特派員の誤解による掲載文のミス、韓国の読者のために取材記者がある程度自分で解釈した部分などは、できるだけ自然な日本語に直すために、また、当方の発言を正確に残すために、一部に訂正・補足・説明を加えた。 しかし、掲載文章の意とすることから大きく外れているということはない。)
★ 1970年代のソウル清渓川 チョンゲチョン Cheonggyecheon 宣教は世界のキリスト教会の貧民宣教の代表的事例であり、屈指の歴史的作業であった。
この作業は、全財産を捧げつくした或る日本人牧師の血と汗から始まったこととして知られる。
野村基之(78)牧師。 野村牧師はその若さを清渓川での奉仕に捧げたのち、作業が根づくと、1985年に日本に帰って隠遁し、韓国教会から忘れ去られた存在となった。
(注: 取材中に金鎮洪キム・ジノン牧師の金銭乱用問題など、多くの恥ずべき真実を知った特派員が、苦慮の結果、上記のように書いたものと思われる。
すなわち、西獨逸教会から送金された韓国内10ヶ所前後の託児所建築資金が乱用され、南陽湾地域では託児所ではなく教会堂が建設されたり、給食費が乱用されたり、ニュージーランドで購入した種牛が韓国到着直後に蒸発するという種類の、主として金銭を巡る多くの深刻な問題が相ついで露見したため、朴正煕パッチョンヒ大統領緊急措置1号違反で収監されていた金鎮洪伝道師と活貧教会を支援するために結成されていた「一粒の麦の会」を初めとし、西獨逸教会も野村本人も、出獄後に傲慢不遜な人物と変わり、悔い改めを拒否する金鎮洪牧師から手を引かざるを得なくなった。
私から初めて聞いたこれらの不祥事以外にも、韓国内で 同様に多くの問題が金牧師を巡りすでに多く存在していたことを記者として把握していた特派員全正煕 Jeon,Jeonghee氏としては、以上のように書かざるを得なかったものと推測する。)
★ 記者が長年のうわさを頼りに牧師を捜した挙げ句の果てに、去る14日、東京から4時間の距離にある山梨県八ヶ嶽南麓の山里教会に牧師を訪ねたとき、『ついにここまで訪ねて来ましたね!』と言いながら乾いた手を差し出した。 痩せた手だったが強い手だった。
野村牧師は、『今まで(記者の記憶違いで、実際には金鎮洪伝道者が朴正煕大統領緊急措置第1号違反で収監されていた間の留守の活貧教会を支援していた時のこと)千切れる漁業網のような下着を着る貧しい生活をお許しくださった神さまに感謝している‥と言いながら、寒村僻地の山里教会で25年間も牧会するかたわら、遺棄された大型犬たちを世話している』と、近況を聞かせてくれた。
牧師は、「韓国は聖霊の実を結ぶ国だ」と言いながら感激していた。
(☆この一行は、私が特派員にも洪牧師にも、絶対にそのようなことを語ったことがないが、記者が「記者側の都合で」つけ加えて掲載したものと推測する。)
野村牧師は、68年~85年(この年代に関しても記者の誤解あり)、清渓川一帯で、1999年死亡の前国会議員で貧民救済活動家の諸廷丘Jae,jeongguや、当時近所で塩工場を経営していた黄和子Whang,whaja 、金鎮洪伝道師(現・九里の Doorae 絆・結び教会牧師)たちと共に福音傳道と救済活動に尽力した。
(尚、諸廷丘チェ・チョングに関する紹介は別記紹介の予定)
野村牧師は、清渓川貧民の惨状と、そこに住む子供たちがボロを着て、飢えている姿に衝撃を受け、73年には東京の自宅を売り払って貧民救済と託児所建設費用を捻出した。
(73年に土地を売却したというのは記者の誤解。 母カツ名義の土地売却は1984年。
託児所建設の話は1976年末の西獨逸訪問以降に具体化した。)
野村牧師は、朴正煕政府が清渓川一帯の貧民窟を撤去したので(日本から輸入する地下鉄車両を収納する車庫基地を建設する計画を発表したので)、金鎮洪伝道師たちと協力して、京畿道華城郡南陽湾にイェス共同体建設と帰農移住計画を提案し、その費用数億ウォンを用意するなど(費用額については記者側の推定?)、貧民宣教救済に乳腺をつけた。=「乳腺をつける」は韓国の表現で「糧の供給源をつける」の意。
野村牧師は自費で西獨逸と豪州を訪問し、難民の子供たちに対して援助してくれる教会を捜し歩き、支援を訴え、託児所建設費用と、2,000 人の絶対貧困層の未就学児たちが20年間にわたり(バランスの採れた、暖かい)給食を受けられるように給食費を導き出した。
(この託児所建築費と給食費を金鎮洪牧師が乱用した結果、西獨逸教会とのあいだで深刻な問題となった。 私の説得で、黄和子が塩工場の経営を放棄し、国内各地の託児所の運営と給食の責任者となることに同意し、これが後日「弱者奉仕宣教会」を生むことに繋がった。
また、西獨逸側(具体的にはKNH=kindernothilfe, Duisburg)に対しても黄和子を新しい責任者として強く推薦し、結果的に提案が受け入れられ、それ以降20年間無事に託児所維持と給食プログラムは着実に進行した。 その間、黄和子と共に韓国各地の農漁村の託児所、孤児院、ハンセン氏病院内の託児所、地方都市やソウル近郊に散在していた託児所を訪問し、その報告を随時西獨逸に送信し続け、西独教会の黄和子への信頼を強化していった。 黄和子の昇天凱旋後の現在、韓国教会内でこのようにして無名の日本人が最初から託児所建設と20年の長きに亙った給食プログラムに関与していたことを知る者は存在しない。
国内各地で幼児が与った給食の数は、推定でも14,000,000余食となろう。
当時、スラム内にも張りめぐらされていたKCIA当局要員に逮捕されれば、間違いなく北朝鮮諜報員として矯導所、すなわち刑務所で15年を過ごすことになるという不安感が常にあったが、それでも秘かに撮影を続けたおびただしい写真をソウル歴史博物館に最近に到り寄贈したことと、博物館側が2度にわたり特別写真展を催して下さった結果として、清渓川での奉仕活動が韓国内では脚光を浴びることに到ったが、むしろ
託児所・給食計画のほうが、韓国の人々になし得た最高の特権であったと考えて感謝している)。
野村牧師は、南陽湾に帰農移住民の自立のために(記者の誤解で、実際には韓国内の疲弊しきっていた農民たちが金鎮洪牧師の呼びかけに応じて集めた虎の子資金を携えて)、自費でニュージーランドを何回も(実際は1回)訪問し、(獣医学校に学んだこともあり)種肉牛(妊娠している未経産雌牛)6百頭と最新式の酪農器具(実際は韓国農村にはなかった牛を制御する道具を私費で選び)仁川港に送った。
(スコットランド原産の食肉牛で、角のない黒牛、アバディーン・アンガス6百頭と器具類は、仁川港到着後に、金鎮洪牧師の金銭乱費問題が絡み、「蒸発」するという不可解な事態が生じた。 牛を選ぶとき、牛の胎に右腕をつっこんで妊娠を確認し、赤目でないかどうかも1頭ずつ確認した。 獣医学校で学んだことで、実際に役立ったのは、この2点だけであった!)
当時、野村牧師は韓国中央情報部(KCIA)から調査を受けるなど、多くの弾圧を受けた。
(記者は弾圧と書いたが、常に緊張感を与える「監視下にあった」というのが正確であろう。 わかっているだけでも、中央情報部には「野村担当官」が二人いた。そのほかにも、絶えず地方警察や陸軍保安部の監視下にあったことも事実である。
KCIA関連では、「野村担当官」が二人いた。 一人は日本語を話す低俗な老人で、おそらく日本支配時に日本警察の下働き的な現地警察官経験者と見ていた。訪韓ごとに飛行機の中での免税洋酒や日本の煙草などを要求した哀れな男だった。
あとの一人は英語を自由に操る青年で、金学律 Kim,Hangyulと名乗り、豪華な私宅に住んでいた。 反政府・民主化運動が盛んな時であり、官憲は緊張していた。「韓国民を愛する野村」なのか、「韓国問題を愛する野村」なのか、その違いをよく知って貰いたい‥と訴え、それからの金学律は私を疑うことが減ったように感じた。
陸軍情報部(CIA) からは、ライオンズ・ホテル?で24時間の任意尋問があった。
尋問内容の中心は、東京神学大学院にソウルから留学していた孫仁禾ソン・インファ軍牧に北朝鮮系女性が接近していたはずだ‥との質問が中心であったように記憶している。
執拗に質問を受けているあいだ、友人ミス柳ユーの叔父であった軍牧とその家族をどのようにして守れば良いのかで苦労したと記憶している。 麻浦マポに住んで居られたご家族は、そののち無事にニューヨークへ移住されたような噂を聞き、よかったと安堵している。 ミス柳もその後ニューヨーク方面に永住して行ったそうである。
またそのとき、係官の隙をみて澤正彦牧師に電話し、明日夜までに東京から澤牧師に直接電話をしなければ、日本大使館に対して野村が監禁された可能性があると報告して欲しい‥と告げたことを記憶している。 そのことがあってかどうか不明だが、事態は急変し、YMCAホテルに送り届けてもらったと記憶している。 翌日夜になって八幡山の自宅から澤牧師に無事帰国したことを電話で伝えた。 緊張の尋問であった。
その他に、宿舎としてソウルYMCAを利用することが多かった関係から、鍾路警察の刑事が監視に当たっていたようである。 日本語を話す初老の男で、上記KCIA担当者と同じような立場の人物であったものと推測するし、今となっては深く同情している。
鍾路Cheongno 署のこの刑事は、金浦空港入国時直後からの金銭の流れや、宿泊場所などを熱心に調べていたようである。
いつどこで、いくら日本円をウォンに換金をしたのか‥、宿泊先に異性が同宿しなかったか‥など、脅迫材料捜しを執拗にやっていたようである。
蛇足ついでだが...
そのこととの関係で、深夜12時の外出禁止令が施行される直前になると以下のような不思議なことが二度ほどあったことを記憶している。
ホテルのドアーを叩くものがあり、開けるやいなや、妖艶な女性が微笑みながら室内に入って来たことがあった。
大急ぎで階段を駆け下りてフロントに駆け下りて聞くか、電話で事情説明を求めると、笑いながら、『それはね、野村さんの韓国語会話の先生ですよ』との返事だった。 その間に女性はシャワーを浴び、タオル一枚で現れたことがあった。
『アンニョーン...!』
韓国キリスト教界で超有名なある著名な牧師先生サマが、珍しく KCIAの同意を得て香港に出国することができたことがあった。 久しぶりで自由を得た牧師先生さま、仕掛けられていた同じような罠にかかり、秘かに写真撮影をされ、帰国直後にKCIAの脅迫を受ける羽目に陥ったことがあると、かねがね聞いていたので、どこのホテルを利用するにしても緊張し、警戒したものだった。
当時多くの日本人男性が「妓生キーセンパーティー」と称した買春旅行でソウルなどを訪れていた時代であった。
その当時こちらは片言の韓国語しか話せず、旅行に必要な日本金のすべてを財布に入れてあり、当時の交換レートから所有していた10万円程度の現金でも一般 韓国人には大金であり、旅券もあるし、カメラ類も所持しているので、おちおち眠れなかった。 美女殿は美女殿で、夜中になって、『旦那さんは男か?』と、何かされるのではないかと不安がって声を掛けてきた。 ベッドを彼女に提供し、私はバネが露出していたカウチで仮眠を取った。
翌朝、美女殿には「相場」の金子を手渡して送り出した。 入り口が見える窓から見下ろしてもそれらしき女性がホテルから出て行く姿を確認できなかった。
官憲が差し回した罠の女性ではなかったかとの疑念を今でも捨て去ることができない。
たとえそうでなかったとしても、刑事が彼女を脅かせばすぐ悪事露見となったことであろう。 そのようなことが二、三度あったと記憶している。 常に緊張を強いられる不幸な時代であった。
脱線ついでだが...
清渓川スラムの中にあった不潔極まりない「おでん」(日本語がそのまま使われている)の屋台で、ある夜、疲れ果てて座っていたとき、従業員らしい若い女性が、周囲を警戒しながら近づいて来て、『今夜$2でホテルに連れてって』と囁いたことがあった。 彼女の願いの本音をすぐに気づいた。
わずかなカネのために売春するというのではなく、清潔な水で沐浴をしたいというのが彼女の本音であった。 彼女は目的を果たし、翌朝おでんの屋台に戻って行った。
もちろん、沐浴を切望したおでん屋の娘さんのことを、周辺にいつもぶらついていた筈の私服官憲の誰かが嗅ぎつけていれば、格好の脅迫材料となったものと推測している。あるいは、すでに把握していたが、政治的判断が働いて、何事もなかったこととしたのかも知れない。
当時の韓国は、特にスラムの中では、誰を見ても北朝鮮のスパイか、官憲側の回し者か、あるいは反政府・民主化運動家なのか...と、お互いに疑わざるをえなかった。 そのような恐怖政治の時代であった。 人々の顔が常にひきつり微笑みがなく、安心できる人と話をするたびに、相手の耳元に口を近づけて、ひそひそと話をしなければならなかった時代であった。 普通の声でどこででも話せたのは、孫の話か、農作物の話か、天気の話をするくらいが関の山であったと記憶している。
脱線の脱線ということになるが...
朴正煕軍事独裁政権下の金浦での入国時の税関検査は極めて厳しいものがあった。明治学院同窓会がソウル旅行を企てたことがあった。 機会を利用して、個人所有物としては多すぎるほどの荷物を羽田空港に持ち込み、グループ旅行客の荷物に混ぜて金浦に到着した。 予測どおり引っかかって同窓会のメンバーに迷惑をかける結果となった。 税関長が明治学院卒業生ということで、何とか無罪放免となり、相当量の救済物資や、個人的に友人に頼まれていたキャノンの写真機と交換レンズ数本を無事に贈呈することができた。 宿泊先は市内中心地のプレジデント・ホテルだった。
プレジデント・ホテルは、一応は有名ホテルということである。
しかしホテルは、殆ど日本人男性の「妓生パーティー」=買春団体旅行客で賑わっていた。 ロビーなどで目のやりどころのないようなことを目撃することが多かった。
ホテルのボーイさんの一人を捉まえて、妓生パーティーのことを尋ねた。
『旦那さん、私たちの国は貧しいんですょ。 私たち男性は、失業者が溢れているこのソウルで、まともな仕事を得ることは難しいんです。 それで若者の多くはアメリカ政府と韓国政府の合意のもとに、ヴェトナムに軍人として出兵し、命を賭けてカネを稼いでいるのですよ。
そのほかにもね、私たちが韓国兵としてヴェトナムに出兵するというので、これはアメリカ兵の最前線での人命損失防止に大いに役立っているわけだから、その代償として、アメリカ政府が韓国人のアメリへの移民制限を撤廃し、現在ではたくさんの韓国人家族がアメリカの永住許可を貰ってアメリカに移住しているんです。
こういうわけですから、それに比べて、女の子が命の心配をしないで、ソウルで簡単にカネを稼いで国を助けているんです。 その辺の事をちょっとは理解してもらいたいですなぁ...』との答えが返ってきたが、それに対してボーイさんの言葉に何も反論することはできなかったことを今でも覚えている。
国が経済的に貧しいということには、そういう精神的な貧しさを含んでいるんだと、ボーイさんから教わったのであった。 私には悲しく寂しい記憶となってしまった。
人間が持っている本質的な問題なのか、それとも日本人特有の問題なのか、或いはそれらが一緒になったものなのか、時代のせいだったのか、専門家でないのでわからない...と告白しておくが、1973年から1975年後にかけて、いわゆる「妓生パーティー」全盛期と平行して観察することができたひとつの社会現象が、一部の日・韓教会間にあったことをもこの際少しだけ触れておきたい。
それは、日本のプロテスタント教界の超保守的な諸教派に共通して見られた現象であった。 進歩派・社会派の諸教団や諸教会では、反朴正煕軍事独裁政権=韓国民主化運動支持・支援傾向が見られた時期と重なるのだが、いわゆる福音派と称されている保守派・超保守派の中で、「韓国教会=東洋のエルサレム」と憧れる時期があった。
「デッカイ教会ほどよい教会」という、可視的な数やサイズが強調される傾向を崇拝する姿勢とも言えるだろう。 福音派教会が得てして陥る罠であるが...
その福音派、福音原理派の諸教会でおそらく最大の新聞の編集長をしていた人物であったかと思うが、毎週何台かの大韓航空のボーイング機を事実上チャーターして、何千人もの日本人クリスチャンをソウル汝矣島のある大きな教会に送り込んでいたことがあった。 「超陽気」牧師さまの煽り立てる感情的なメッセージに酔い痺れて、『ハレルーゥイヤ! 主よっ!』と、フラダンスを踊るように身体を振っていた。
「東洋のエルサレム」で「超陽気」牧師先生サマを称える興奮が、それから数年間は日本中の福音派教会にこだましていた。 いまでもそのような傾向があるようだが...
ボーイング1機に3百数十名をぎっしり詰め込んだ大韓航空機が日本の善男善女を「エルサレム参り」のために送りこんでいたのである。 韓国側に莫大なカネが転がり込んでいたことは明白である。 この責任者、ある有名な福音派の新聞編集長さまも、韓国側の仕組んだ「アンニョーン!嬢」の餌食となってしまったようである。結果的に彼は職と家族を失うことにとなったと、間接的にそのように聞いている。
アダムとエヴァの話も、ダビデとバテシバの話も、ソロモンとデリラの物語といい、『アンニョーン!』嬢はいつの時代でも恐ろしいものである。 官憲側もこの点を充分に理解して、活用していたようである。 いつ何処でも桑原桑原...である。
話を再び元に戻して...
陸軍保安部関係では、いわゆる「鉄の三角地帯」と呼ばれていた、北朝鮮軍が軍事境界線を越えて南に向かって秘かに掘削した隧道二つに招待され、守備軍最高司令官との昼食に招かれたことがあった。
北朝鮮軍が人力を動員して掘削したことは、壁面に刻まれていた鶴嘴の跡の角度や、 掘りあげたトンネルが南に向かって上り坂になっている事実からも明白であった。
そのような、一種の政治目的で私を「疑韓派」から「親韓派」にしようとした試みよりも、司令官が国際世論によく通じていることや、日本の新聞や雑誌類をとおして日本の世論がどのように朴正煕大統領軍事独裁政権を見ているのか‥などに精通していることに驚きを禁じ得なかった。
当時の韓国に外国の印刷物を一般人が持ち込むことは絶対に不可能な厳しい規制があったが、司令官は、岩波書店の雑誌「世界」に連載されていた「韓国通信」などにも精通していた。 あの「通信」内容の収集と、日本への送信方法は、あの司令官のような特権階級によって秘かに集められ、おそらくアメリカの外交行嚢などによって韓国側の情報機関が手を触れることができない方法で日本に送り出されていたのかも知れない。 何となくそのような気がしないわけでもない...
司令官殿は、それとなく、朴正煕大統領を取り巻く中央情報部(KCIA)の蛮行愚行を非難するようにも受け取れる発言をされていて、この国は大丈夫だ...との感触を得た。
そして朴正煕大統領を葬り去ることができるのは、このような隠された実力者たちによるのではないか?!‥と感じさせられた。 毒を制するのは毒であり、毒を隠すには劇薬や毒薬を収納する薬品貯蔵庫が最高である!?‥と確信させてくれた。)
野村牧師が韓国で再び知られるようになったのは、清渓川貧民窟関連フィルムなど関係資料2万余点を、(ソウル歴史博物館の一部である)清渓川文化会館に寄贈したことである。
(当時のソウル市長は、今は大統領となった李明博イ・ミョンパク であった。
市長選に臨み、悪名高い清渓川を改造復元してみせる...と公約したので、清渓川復元直後に古い清渓川の予期せぬ写真フィルムが大量に贈呈されたため、市長自身が野村夫妻を公費で招聘し、特別写真展開幕のテープ・カットを一緒にやったことで、写真の存在と寄贈者が明らかになった。)
しかし野村牧師は、自分が韓国で行った宣教活動を少しも表さないで、ただ一人の日本人ハラブジ(お爺さん)だと強調するだけである。
野村牧師は1973年夏、家族全員で堤岩里チアムニ教会を(嘗て3・1 独立運動決起の際、村の住民と教会の若者を甘言で教会堂に招き入れたうえ、外側からガソリンを撒き、逃れようとした住民らを機関銃で虐殺した教会)訪問したとき、教会の粗末な牧師館に住む老婆が、同伴した二人の子供たちのために、当時貴重であった砂糖をコップにいれた砂糖水を何杯も提供して下さったことを、生涯忘れることができない...と、涙ぐんで語った。
牧師は、『清渓川貧民窟は私の神学校であった』と、(いくつかの実例を挙げて)語った。 清渓川で見たものは主イェス・キリストの顔であり、(イェスの涙を住民たちの涙の中に見ながら)、どのようにして韓国貧民宣教奉仕をしたのかという長い話を特派員取材記者に話し始めた。
(文と写真 全正煕 ジョン・ジョンヒ 記者jheon@kmib.co.kr)
(尚、野村に対する南山(KCIA)の懐柔誘惑作戦に就いては、別項「諸廷丘」の末尾に紹介する予定である。
★ 1970年代のソウル清渓川 チョンゲチョン Cheonggyecheon 宣教は世界のキリスト教会の貧民宣教の代表的事例であり、屈指の歴史的作業であった。
この作業は、全財産を捧げつくした或る日本人牧師の血と汗から始まったこととして知られる。
野村基之(78)牧師。 野村牧師はその若さを清渓川での奉仕に捧げたのち、作業が根づくと、1985年に日本に帰って隠遁し、韓国教会から忘れ去られた存在となった。
(注: 取材中に金鎮洪キム・ジノン牧師の金銭乱用問題など、多くの恥ずべき真実を知った特派員が、苦慮の結果、上記のように書いたものと思われる。
すなわち、西獨逸教会から送金された韓国内10ヶ所前後の託児所建築資金が乱用され、南陽湾地域では託児所ではなく教会堂が建設されたり、給食費が乱用されたり、ニュージーランドで購入した種牛が韓国到着直後に蒸発するという種類の、主として金銭を巡る多くの深刻な問題が相ついで露見したため、朴正煕パッチョンヒ大統領緊急措置1号違反で収監されていた金鎮洪伝道師と活貧教会を支援するために結成されていた「一粒の麦の会」を初めとし、西獨逸教会も野村本人も、出獄後に傲慢不遜な人物と変わり、悔い改めを拒否する金鎮洪牧師から手を引かざるを得なくなった。
私から初めて聞いたこれらの不祥事以外にも、韓国内で 同様に多くの問題が金牧師を巡りすでに多く存在していたことを記者として把握していた特派員全正煕 Jeon,Jeonghee氏としては、以上のように書かざるを得なかったものと推測する。)
★ 記者が長年のうわさを頼りに牧師を捜した挙げ句の果てに、去る14日、東京から4時間の距離にある山梨県八ヶ嶽南麓の山里教会に牧師を訪ねたとき、『ついにここまで訪ねて来ましたね!』と言いながら乾いた手を差し出した。 痩せた手だったが強い手だった。
野村牧師は、『今まで(記者の記憶違いで、実際には金鎮洪伝道者が朴正煕大統領緊急措置第1号違反で収監されていた間の留守の活貧教会を支援していた時のこと)千切れる漁業網のような下着を着る貧しい生活をお許しくださった神さまに感謝している‥と言いながら、寒村僻地の山里教会で25年間も牧会するかたわら、遺棄された大型犬たちを世話している』と、近況を聞かせてくれた。
牧師は、「韓国は聖霊の実を結ぶ国だ」と言いながら感激していた。
(☆この一行は、私が特派員にも洪牧師にも、絶対にそのようなことを語ったことがないが、記者が「記者側の都合で」つけ加えて掲載したものと推測する。)
野村牧師は、68年~85年(この年代に関しても記者の誤解あり)、清渓川一帯で、1999年死亡の前国会議員で貧民救済活動家の諸廷丘Jae,jeongguや、当時近所で塩工場を経営していた黄和子Whang,whaja 、金鎮洪伝道師(現・九里の Doorae 絆・結び教会牧師)たちと共に福音傳道と救済活動に尽力した。
(尚、諸廷丘チェ・チョングに関する紹介は別記紹介の予定)
野村牧師は、清渓川貧民の惨状と、そこに住む子供たちがボロを着て、飢えている姿に衝撃を受け、73年には東京の自宅を売り払って貧民救済と託児所建設費用を捻出した。
(73年に土地を売却したというのは記者の誤解。 母カツ名義の土地売却は1984年。
託児所建設の話は1976年末の西獨逸訪問以降に具体化した。)
野村牧師は、朴正煕政府が清渓川一帯の貧民窟を撤去したので(日本から輸入する地下鉄車両を収納する車庫基地を建設する計画を発表したので)、金鎮洪伝道師たちと協力して、京畿道華城郡南陽湾にイェス共同体建設と帰農移住計画を提案し、その費用数億ウォンを用意するなど(費用額については記者側の推定?)、貧民宣教救済に乳腺をつけた。=「乳腺をつける」は韓国の表現で「糧の供給源をつける」の意。
野村牧師は自費で西獨逸と豪州を訪問し、難民の子供たちに対して援助してくれる教会を捜し歩き、支援を訴え、託児所建設費用と、2,000 人の絶対貧困層の未就学児たちが20年間にわたり(バランスの採れた、暖かい)給食を受けられるように給食費を導き出した。
(この託児所建築費と給食費を金鎮洪牧師が乱用した結果、西獨逸教会とのあいだで深刻な問題となった。 私の説得で、黄和子が塩工場の経営を放棄し、国内各地の託児所の運営と給食の責任者となることに同意し、これが後日「弱者奉仕宣教会」を生むことに繋がった。
また、西獨逸側(具体的にはKNH=kindernothilfe, Duisburg)に対しても黄和子を新しい責任者として強く推薦し、結果的に提案が受け入れられ、それ以降20年間無事に託児所維持と給食プログラムは着実に進行した。 その間、黄和子と共に韓国各地の農漁村の託児所、孤児院、ハンセン氏病院内の託児所、地方都市やソウル近郊に散在していた託児所を訪問し、その報告を随時西獨逸に送信し続け、西独教会の黄和子への信頼を強化していった。 黄和子の昇天凱旋後の現在、韓国教会内でこのようにして無名の日本人が最初から託児所建設と20年の長きに亙った給食プログラムに関与していたことを知る者は存在しない。
国内各地で幼児が与った給食の数は、推定でも14,000,000余食となろう。
当時、スラム内にも張りめぐらされていたKCIA当局要員に逮捕されれば、間違いなく北朝鮮諜報員として矯導所、すなわち刑務所で15年を過ごすことになるという不安感が常にあったが、それでも秘かに撮影を続けたおびただしい写真をソウル歴史博物館に最近に到り寄贈したことと、博物館側が2度にわたり特別写真展を催して下さった結果として、清渓川での奉仕活動が韓国内では脚光を浴びることに到ったが、むしろ
託児所・給食計画のほうが、韓国の人々になし得た最高の特権であったと考えて感謝している)。
野村牧師は、南陽湾に帰農移住民の自立のために(記者の誤解で、実際には韓国内の疲弊しきっていた農民たちが金鎮洪牧師の呼びかけに応じて集めた虎の子資金を携えて)、自費でニュージーランドを何回も(実際は1回)訪問し、(獣医学校に学んだこともあり)種肉牛(妊娠している未経産雌牛)6百頭と最新式の酪農器具(実際は韓国農村にはなかった牛を制御する道具を私費で選び)仁川港に送った。
(スコットランド原産の食肉牛で、角のない黒牛、アバディーン・アンガス6百頭と器具類は、仁川港到着後に、金鎮洪牧師の金銭乱費問題が絡み、「蒸発」するという不可解な事態が生じた。 牛を選ぶとき、牛の胎に右腕をつっこんで妊娠を確認し、赤目でないかどうかも1頭ずつ確認した。 獣医学校で学んだことで、実際に役立ったのは、この2点だけであった!)
当時、野村牧師は韓国中央情報部(KCIA)から調査を受けるなど、多くの弾圧を受けた。
(記者は弾圧と書いたが、常に緊張感を与える「監視下にあった」というのが正確であろう。 わかっているだけでも、中央情報部には「野村担当官」が二人いた。そのほかにも、絶えず地方警察や陸軍保安部の監視下にあったことも事実である。
KCIA関連では、「野村担当官」が二人いた。 一人は日本語を話す低俗な老人で、おそらく日本支配時に日本警察の下働き的な現地警察官経験者と見ていた。訪韓ごとに飛行機の中での免税洋酒や日本の煙草などを要求した哀れな男だった。
あとの一人は英語を自由に操る青年で、金学律 Kim,Hangyulと名乗り、豪華な私宅に住んでいた。 反政府・民主化運動が盛んな時であり、官憲は緊張していた。「韓国民を愛する野村」なのか、「韓国問題を愛する野村」なのか、その違いをよく知って貰いたい‥と訴え、それからの金学律は私を疑うことが減ったように感じた。
陸軍情報部(CIA) からは、ライオンズ・ホテル?で24時間の任意尋問があった。
尋問内容の中心は、東京神学大学院にソウルから留学していた孫仁禾ソン・インファ軍牧に北朝鮮系女性が接近していたはずだ‥との質問が中心であったように記憶している。
執拗に質問を受けているあいだ、友人ミス柳ユーの叔父であった軍牧とその家族をどのようにして守れば良いのかで苦労したと記憶している。 麻浦マポに住んで居られたご家族は、そののち無事にニューヨークへ移住されたような噂を聞き、よかったと安堵している。 ミス柳もその後ニューヨーク方面に永住して行ったそうである。
またそのとき、係官の隙をみて澤正彦牧師に電話し、明日夜までに東京から澤牧師に直接電話をしなければ、日本大使館に対して野村が監禁された可能性があると報告して欲しい‥と告げたことを記憶している。 そのことがあってかどうか不明だが、事態は急変し、YMCAホテルに送り届けてもらったと記憶している。 翌日夜になって八幡山の自宅から澤牧師に無事帰国したことを電話で伝えた。 緊張の尋問であった。
その他に、宿舎としてソウルYMCAを利用することが多かった関係から、鍾路警察の刑事が監視に当たっていたようである。 日本語を話す初老の男で、上記KCIA担当者と同じような立場の人物であったものと推測するし、今となっては深く同情している。
鍾路Cheongno 署のこの刑事は、金浦空港入国時直後からの金銭の流れや、宿泊場所などを熱心に調べていたようである。
いつどこで、いくら日本円をウォンに換金をしたのか‥、宿泊先に異性が同宿しなかったか‥など、脅迫材料捜しを執拗にやっていたようである。
蛇足ついでだが...
そのこととの関係で、深夜12時の外出禁止令が施行される直前になると以下のような不思議なことが二度ほどあったことを記憶している。
ホテルのドアーを叩くものがあり、開けるやいなや、妖艶な女性が微笑みながら室内に入って来たことがあった。
大急ぎで階段を駆け下りてフロントに駆け下りて聞くか、電話で事情説明を求めると、笑いながら、『それはね、野村さんの韓国語会話の先生ですよ』との返事だった。 その間に女性はシャワーを浴び、タオル一枚で現れたことがあった。
『アンニョーン...!』
韓国キリスト教界で超有名なある著名な牧師先生サマが、珍しく KCIAの同意を得て香港に出国することができたことがあった。 久しぶりで自由を得た牧師先生さま、仕掛けられていた同じような罠にかかり、秘かに写真撮影をされ、帰国直後にKCIAの脅迫を受ける羽目に陥ったことがあると、かねがね聞いていたので、どこのホテルを利用するにしても緊張し、警戒したものだった。
当時多くの日本人男性が「妓生キーセンパーティー」と称した買春旅行でソウルなどを訪れていた時代であった。
その当時こちらは片言の韓国語しか話せず、旅行に必要な日本金のすべてを財布に入れてあり、当時の交換レートから所有していた10万円程度の現金でも一般 韓国人には大金であり、旅券もあるし、カメラ類も所持しているので、おちおち眠れなかった。 美女殿は美女殿で、夜中になって、『旦那さんは男か?』と、何かされるのではないかと不安がって声を掛けてきた。 ベッドを彼女に提供し、私はバネが露出していたカウチで仮眠を取った。
翌朝、美女殿には「相場」の金子を手渡して送り出した。 入り口が見える窓から見下ろしてもそれらしき女性がホテルから出て行く姿を確認できなかった。
官憲が差し回した罠の女性ではなかったかとの疑念を今でも捨て去ることができない。
たとえそうでなかったとしても、刑事が彼女を脅かせばすぐ悪事露見となったことであろう。 そのようなことが二、三度あったと記憶している。 常に緊張を強いられる不幸な時代であった。
脱線ついでだが...
清渓川スラムの中にあった不潔極まりない「おでん」(日本語がそのまま使われている)の屋台で、ある夜、疲れ果てて座っていたとき、従業員らしい若い女性が、周囲を警戒しながら近づいて来て、『今夜$2でホテルに連れてって』と囁いたことがあった。 彼女の願いの本音をすぐに気づいた。
わずかなカネのために売春するというのではなく、清潔な水で沐浴をしたいというのが彼女の本音であった。 彼女は目的を果たし、翌朝おでんの屋台に戻って行った。
もちろん、沐浴を切望したおでん屋の娘さんのことを、周辺にいつもぶらついていた筈の私服官憲の誰かが嗅ぎつけていれば、格好の脅迫材料となったものと推測している。あるいは、すでに把握していたが、政治的判断が働いて、何事もなかったこととしたのかも知れない。
当時の韓国は、特にスラムの中では、誰を見ても北朝鮮のスパイか、官憲側の回し者か、あるいは反政府・民主化運動家なのか...と、お互いに疑わざるをえなかった。 そのような恐怖政治の時代であった。 人々の顔が常にひきつり微笑みがなく、安心できる人と話をするたびに、相手の耳元に口を近づけて、ひそひそと話をしなければならなかった時代であった。 普通の声でどこででも話せたのは、孫の話か、農作物の話か、天気の話をするくらいが関の山であったと記憶している。
脱線の脱線ということになるが...
朴正煕軍事独裁政権下の金浦での入国時の税関検査は極めて厳しいものがあった。明治学院同窓会がソウル旅行を企てたことがあった。 機会を利用して、個人所有物としては多すぎるほどの荷物を羽田空港に持ち込み、グループ旅行客の荷物に混ぜて金浦に到着した。 予測どおり引っかかって同窓会のメンバーに迷惑をかける結果となった。 税関長が明治学院卒業生ということで、何とか無罪放免となり、相当量の救済物資や、個人的に友人に頼まれていたキャノンの写真機と交換レンズ数本を無事に贈呈することができた。 宿泊先は市内中心地のプレジデント・ホテルだった。
プレジデント・ホテルは、一応は有名ホテルということである。
しかしホテルは、殆ど日本人男性の「妓生パーティー」=買春団体旅行客で賑わっていた。 ロビーなどで目のやりどころのないようなことを目撃することが多かった。
ホテルのボーイさんの一人を捉まえて、妓生パーティーのことを尋ねた。
『旦那さん、私たちの国は貧しいんですょ。 私たち男性は、失業者が溢れているこのソウルで、まともな仕事を得ることは難しいんです。 それで若者の多くはアメリカ政府と韓国政府の合意のもとに、ヴェトナムに軍人として出兵し、命を賭けてカネを稼いでいるのですよ。
そのほかにもね、私たちが韓国兵としてヴェトナムに出兵するというので、これはアメリカ兵の最前線での人命損失防止に大いに役立っているわけだから、その代償として、アメリカ政府が韓国人のアメリへの移民制限を撤廃し、現在ではたくさんの韓国人家族がアメリカの永住許可を貰ってアメリカに移住しているんです。
こういうわけですから、それに比べて、女の子が命の心配をしないで、ソウルで簡単にカネを稼いで国を助けているんです。 その辺の事をちょっとは理解してもらいたいですなぁ...』との答えが返ってきたが、それに対してボーイさんの言葉に何も反論することはできなかったことを今でも覚えている。
国が経済的に貧しいということには、そういう精神的な貧しさを含んでいるんだと、ボーイさんから教わったのであった。 私には悲しく寂しい記憶となってしまった。
人間が持っている本質的な問題なのか、それとも日本人特有の問題なのか、或いはそれらが一緒になったものなのか、時代のせいだったのか、専門家でないのでわからない...と告白しておくが、1973年から1975年後にかけて、いわゆる「妓生パーティー」全盛期と平行して観察することができたひとつの社会現象が、一部の日・韓教会間にあったことをもこの際少しだけ触れておきたい。
それは、日本のプロテスタント教界の超保守的な諸教派に共通して見られた現象であった。 進歩派・社会派の諸教団や諸教会では、反朴正煕軍事独裁政権=韓国民主化運動支持・支援傾向が見られた時期と重なるのだが、いわゆる福音派と称されている保守派・超保守派の中で、「韓国教会=東洋のエルサレム」と憧れる時期があった。
「デッカイ教会ほどよい教会」という、可視的な数やサイズが強調される傾向を崇拝する姿勢とも言えるだろう。 福音派教会が得てして陥る罠であるが...
その福音派、福音原理派の諸教会でおそらく最大の新聞の編集長をしていた人物であったかと思うが、毎週何台かの大韓航空のボーイング機を事実上チャーターして、何千人もの日本人クリスチャンをソウル汝矣島のある大きな教会に送り込んでいたことがあった。 「超陽気」牧師さまの煽り立てる感情的なメッセージに酔い痺れて、『ハレルーゥイヤ! 主よっ!』と、フラダンスを踊るように身体を振っていた。
「東洋のエルサレム」で「超陽気」牧師先生サマを称える興奮が、それから数年間は日本中の福音派教会にこだましていた。 いまでもそのような傾向があるようだが...
ボーイング1機に3百数十名をぎっしり詰め込んだ大韓航空機が日本の善男善女を「エルサレム参り」のために送りこんでいたのである。 韓国側に莫大なカネが転がり込んでいたことは明白である。 この責任者、ある有名な福音派の新聞編集長さまも、韓国側の仕組んだ「アンニョーン!嬢」の餌食となってしまったようである。結果的に彼は職と家族を失うことにとなったと、間接的にそのように聞いている。
アダムとエヴァの話も、ダビデとバテシバの話も、ソロモンとデリラの物語といい、『アンニョーン!』嬢はいつの時代でも恐ろしいものである。 官憲側もこの点を充分に理解して、活用していたようである。 いつ何処でも桑原桑原...である。
話を再び元に戻して...
陸軍保安部関係では、いわゆる「鉄の三角地帯」と呼ばれていた、北朝鮮軍が軍事境界線を越えて南に向かって秘かに掘削した隧道二つに招待され、守備軍最高司令官との昼食に招かれたことがあった。
北朝鮮軍が人力を動員して掘削したことは、壁面に刻まれていた鶴嘴の跡の角度や、 掘りあげたトンネルが南に向かって上り坂になっている事実からも明白であった。
そのような、一種の政治目的で私を「疑韓派」から「親韓派」にしようとした試みよりも、司令官が国際世論によく通じていることや、日本の新聞や雑誌類をとおして日本の世論がどのように朴正煕大統領軍事独裁政権を見ているのか‥などに精通していることに驚きを禁じ得なかった。
当時の韓国に外国の印刷物を一般人が持ち込むことは絶対に不可能な厳しい規制があったが、司令官は、岩波書店の雑誌「世界」に連載されていた「韓国通信」などにも精通していた。 あの「通信」内容の収集と、日本への送信方法は、あの司令官のような特権階級によって秘かに集められ、おそらくアメリカの外交行嚢などによって韓国側の情報機関が手を触れることができない方法で日本に送り出されていたのかも知れない。 何となくそのような気がしないわけでもない...
司令官殿は、それとなく、朴正煕大統領を取り巻く中央情報部(KCIA)の蛮行愚行を非難するようにも受け取れる発言をされていて、この国は大丈夫だ...との感触を得た。
そして朴正煕大統領を葬り去ることができるのは、このような隠された実力者たちによるのではないか?!‥と感じさせられた。 毒を制するのは毒であり、毒を隠すには劇薬や毒薬を収納する薬品貯蔵庫が最高である!?‥と確信させてくれた。)
野村牧師が韓国で再び知られるようになったのは、清渓川貧民窟関連フィルムなど関係資料2万余点を、(ソウル歴史博物館の一部である)清渓川文化会館に寄贈したことである。
(当時のソウル市長は、今は大統領となった李明博イ・ミョンパク であった。
市長選に臨み、悪名高い清渓川を改造復元してみせる...と公約したので、清渓川復元直後に古い清渓川の予期せぬ写真フィルムが大量に贈呈されたため、市長自身が野村夫妻を公費で招聘し、特別写真展開幕のテープ・カットを一緒にやったことで、写真の存在と寄贈者が明らかになった。)
しかし野村牧師は、自分が韓国で行った宣教活動を少しも表さないで、ただ一人の日本人ハラブジ(お爺さん)だと強調するだけである。
野村牧師は1973年夏、家族全員で堤岩里チアムニ教会を(嘗て3・1 独立運動決起の際、村の住民と教会の若者を甘言で教会堂に招き入れたうえ、外側からガソリンを撒き、逃れようとした住民らを機関銃で虐殺した教会)訪問したとき、教会の粗末な牧師館に住む老婆が、同伴した二人の子供たちのために、当時貴重であった砂糖をコップにいれた砂糖水を何杯も提供して下さったことを、生涯忘れることができない...と、涙ぐんで語った。
牧師は、『清渓川貧民窟は私の神学校であった』と、(いくつかの実例を挙げて)語った。 清渓川で見たものは主イェス・キリストの顔であり、(イェスの涙を住民たちの涙の中に見ながら)、どのようにして韓国貧民宣教奉仕をしたのかという長い話を特派員取材記者に話し始めた。
(文と写真 全正煕 ジョン・ジョンヒ 記者jheon@kmib.co.kr)
(尚、野村に対する南山(KCIA)の懐柔誘惑作戦に就いては、別項「諸廷丘」の末尾に紹介する予定である。