忘れられない韓国の聖徒たちのこと

韓国ソウル汝矣島  純福音教会系日刊紙 国民日報社掲載記事1

この記事は、韓国ソウル汝矣島の純福音教会系日刊紙 国民日報社特派員全正煕夫婦による野村取材掲載記事を翻訳したものです。
なお、翻訳ソフトに依存したため一部の意味不明部分は当方で補修し、記者の誤解または通訳者の誤解箇所には当方で訂正と補足を加えた。

★  1968年夏、ソウル禾谷洞Whagokdongにある、当時のKorea Christian College 、現キリスト神学大学 Korea Christian University の同窓会長であった金世福さんが日本のキリストの諸教会に対して書簡を送って来た。

  (特派員は、同窓会長が貧しい韓国の人々の救霊のために日本の教会が授乳のために一歩進み出るように(=支援をするように)要請した内容だと紙面に紹介したが、これは特派員の誤解であり、正確には、アジア各国の青年による国際キャンプを催したいという内容であった。)

  当時の韓国は(朝鮮動乱後の疲弊しきっていた時期であったが)、軽・重産業政策(を促進し始めた時期)のため大都市(ソウル)が(離農民と朝鮮動乱時に南下した避難民たち)で膨張し、それに応じて離農民が増加していた。
  しかし、根を抜かれた(=生活の場を失った)離農・漁民たちは、清渓川や禾谷洞など、ソウル近郊で都市貧困層として転落するだけだった。
  (彼らの多くは)日雇い労働者や行商人として延命をはかったし、子供たちは飢えていた。

★  野村牧師は、(以下の掲載文は特派員に提供した情報の完全な誤解に基づくものであるが、そのまま掲載文を紹介すると、)このニュースに触れ、日本の牧師たちと一緒に、*『韓国の教会を考える会』を組織した。
  (* 1970年代初期から始まった韓国民主化運動に応え、日本では主として NCC系の社会派有志牧師たちや出版関係者らが『韓国問題緊急会議』を結成したと理解している。  特派員はこのことを誤解して記事を書いたものであり、事実に反する。

  そののち野村牧師は4~5年間、韓国に出入りし、希望実践対象地を訪れた。
(これも特派員の誤解である。  1968年の単独訪韓以降、家族全員を連れての訪韓は1973年の夏休みを利用したものである。  そのときに済州島、釜山、慶州、東仁川、ソウル市内の都市産業宣教実践各地、そして最終的に清渓川貧民窟を訪れた。)

  都市産業宣教に従事していた人々や、野村牧師の母堂と同志社大学神学部で同級生であった延世大学教授故徐南同Soe Nam dong 教授らを訪問し、(韓国での奉仕活動に関する)助言を得た。

  (実際には徐教授訪問は少し後になってだが、クリスチャン・アカデミーの姜元龍Kwan Wongryong博士、延世大学の盧貞鉉 NoJunghyon 教授、エキュメニカル現代宣教協議会のチョー・スン・ヒョクなど数名の助言を得た。)

野村牧師は73年夏(現代宣教協議会チョー氏の秘書に)案内され清渓川貧民窟を訪問するに到った。  野村牧師の目の前に展開した世界とは、汚臭、騒音、ゴミの山などであった。  汚物(=人糞)が狭い路地にところ構わず散らばっており、足の踏み場もない状態であり、目を開けて熟視することができない悲惨な状態であった。
スラム住民が生きて行こうとする意志と希望を見いだすのが困難な状態であった。そのような状態のなかに6万人もの貧民たちがいて、その日その日を生きていた。

★  野村牧師はそこで金鎮洪Kim,jinhong 伝道者(現Doorae-=結い・絆な教会牧師)と出会い、宣教と救援奉仕活動に乗り出した。

★  その年の7月(実際は9月15日)、スラムの中でも最も劣悪な条件の「蟻部落」の一軒一軒の戸を叩いて(=実際には拾ってきたビニールや板切れで作った掘っ建て小屋なので戸はなく、声をかけながら)訪問伝道・問安訪問をした時のことであったが、16歳前後の少女が、一坪強の(窓が全くなく暗くて狭い)部屋の床に横になっていた。  少女の顔は蒼白(痩せさばらえて顔色が悪い)であった。

  少女の右臀部と大腿部の裏側には穴が開いていて白い骨が露出しており、膿が流れ出て床を濡らしていた。(膿が流れ出して床を濡らしていた‥部分は特派員の創作で事実ではない。)  (狭い部屋の天井部分を飛び回っていた)蠅が傷口部分に(降下し)侵入し(実際に傷口深くに蠅の侵入は不可能)卵を生みつけ、卵が孵化して蛆虫が涌いていた。

  (少女の傍には巫術=シャーマニズムを信奉する母親が立ちすくんでいたので、)伝道者金鎮洪が(右手の親指と人差し指に)唾を塗って蛆虫を抓み出そうと試みた。(その度ごとに蛆虫は傷口の奥に逃げ込もうとし、少女は痛みで体をもがいた。)
(傍に立ちつくす巫術信者の母親を意識した金鎮洪伝道者が)『イェスが勝たなければならない Jesus must win!』と(呟きながら)蛆虫を(二本の)指で抓みだそうとした。  もちろん、病院に行く都合が妨げられていた(治療費がない)家族だった。少女の母親はそれでもまだ占い師のことばを信じていた(ようだった。)

  (野村の提案で活貧教会の幾人)一行は、清渓川を渡った(対岸の丘の上に立つ)大規模の病院(漢陽大学病院)に連れて行くため、(現華城郡南陽湾活貧教会長老)金終吉が少女を背負った。  病院はすぐ目前に見えるのだが、(スラムと市内を結びつける)橋がないので相当に遠回りをしなければならなかった。
少女は、栄養失調に起因する複雑な病を得ていたのだった。

  (暑い遠回りの道を経てようやく病院に辿りついたが、受付が)『カネあるか?』と聞いてきた。  『ない』と答えると、『連れて帰れ』と命じた。

  私はそのとき、神さまがどこにおられるのか?  神さまはいないのではなか?神さまは何をなさっておられるのか?‥と真剣に問いかけ、神さまの存在がわからなくなった‥と野村牧師は語った。

  野村牧師の物心両面での助けと、金伝道者と彼女の母、そして金終吉長老らの祈祷や看病に支えられたが、11月の終わりのころに少女は息を引き取った。

  先週、取材のために記者がベタニヤ・ホームを訪れて牧師に出会ったとき、老牧師は少女を回想し、涙を我慢できなかった。  少女を失ったことを自分の責任だと自責していた。  (これは記者の誤解で、別の寡婦、趙金子Cho,Kumja さんが降誕祭前夜に提供して下さった食事と混乱しているようである。)

★  自殺した青年の遺体(問題)を(野村牧師が)解決したことも(取材記者には)忘れることができない。  1974年のある日、現在の長安Jang-an橋(当時スラムと市内を結びつける木製の唯一の橋)の下の(淀んで、メタン・ガスが吹き出て、ほとんど流れのない)汚水に身を投げた男性がいたが、誰れも気にかけなかった。
(当時、スラム住民のことは、警察にとって、どうでもよいことであった)

  金終吉長老が(長い竹の)棒で(ドブ底を突いて捜しまわり)死体を取り出した。(カネがないので汚れ切った死体を洗うことができず、野村牧師がカネを出して有料水道水を買い、死体を洗った。  ドブ底には割れたガラス瓶が多くあった。)
  貧乏で育ったので、(生涯貧しく、医者に掛かったことがないので)死亡診断書を得ることができなかった。  医者から診断書を入手するのはオカネが一番だった。
    野村牧師がパスポートに日本円を鋏んで医者に提出し、診断書を入手したんです。
警察で埋葬許可書を、(同じように)賄賂で得て、許可証とともにリヤカーに乗せて焼却場に行った。  そこでも少々の裏金が必要だった...

  本当に悲しいことは、火葬が終わってから遺骨を再び清渓川の長安橋の上に持って帰って、橋の上からドブ川に向かって撒いたことだった。涙を流しながら讚頌歌 425番、『私の霊魂は恩寵を着ている』を歌いつつ散骨した。(=日本語聖歌 467番、『御国の心地す Where Jesus is 'Tis Heaven 』)

★  清渓川のスラム街は、そのように野村牧師を表彰台にした。
(以下の前後関係も特派員記者の誤解によるものだが、結果的には同じことになる)

  彼は貧民のために東京の(母の)自宅を売却して、韓国各地(十数ヶ所)に託児所の建設に乗り出した。  しかし政府(市当局)は、ものともせずにスラム街の撤去を敢行した。  (これに対して)貧民側に立つ活動家(活貧教会に出入りしていた学生たちによって運営された培達学壇Baedal hakdang で教師を引き受けていた)諸廷丘Che cheongu 、故人・前国会議員、野村牧師の友人は、大統領府に請願書を出すなど、特別に努力を試みたが徒労に終わった。  (結果的に)スラム街の撤去は活貧教会の尖塔部分の十字架を残したまま終了した。

★  貧民聖徒の部は、イスラエルのキブツのような共同体を夢見て、教会指導の下、出エジプトするような気持ちで、南陽湾Nam yang man干拓地に向かった。

  『私は貧民の貧困が、あとあとの代にまで残らないようにするために、子供たちに教育の場を与え、親たちを組織化し、意識化し、教育することが重要であると思っていました。
  そのために保育施設を充実しなければならないと考えていました』と、野村牧師は語った。
  そのために野村牧師は自宅を売り払って数億ウォンを用意した。

(これは取材記者の誤解で実際には家具、稀少な郵便記念切手、書籍などを売却し、西獨逸教会に託児所建設と給食資金を訴えるための旅費に充てた。  八幡山の母所有の土地家屋を売却して韓国奉仕活動の赤字を埋めたのは1985年に到ってからである)
  その間に日本人牧師(品川バプテスト教会日隈光男牧師)が励まして下さった。

  (清渓川貧民窟奉仕と南陽湾帰農運動中に)妻と私は漁師の網のような下着を着ていたが、(育ち盛りの幼い子供二人には、そこまでの犠牲は強いられなかった)と、牧師は回想していた。

★  これにより、私たちは現代教会史の貧民宣教運動の象徴とも言える、清渓川活貧教会が、南陽湾活貧教会時代を迎えることになった。

  野村牧師は何百万ウォンかをかけて西獨逸に赴き、清渓川貧民窟住民に対する支援を訴え、当時のオカネ数億ウォンの支援を得て保育所を作った。

(正確な金額は把握していないが、韓国全土にわたって十数ヶ所の託児所を建築し、未就学児用の給食活動を開始した。  バランスの採れた暖かい給食が毎日 2、000名、20年間継続された。  推定延べ数でも1千4百万食を超えるものと思う。

  この託児所建築と給食活動開始時に、不幸にして金鎮洪牧師による西獨逸資金乱用問題が暴露し、西獨逸教会による資金援助が中止される危機に当面した。
  予期せぬ緊急事態に対処するため、清渓川奉仕活動の同労者、黄和子Whang Whaja を説得し、亦、西獨逸教会に黄和子女史を強く推薦することで危機を脱出することを得た。  黄和子女史の献身的奉仕で、託児所運営と給食活動は20年に亙り順調に運営された。  この事業を基に「弱者救援奉仕宣教会」が生まれ、現在でも活躍中である。

  野村が特派員に語ったことは、野村個人が韓国民になし得た最大の感謝は、清渓川での難民宣教奉仕ではなく、むしろ、疲弊していた韓国各地の農村や漁村に託児所が設立され、栄養価充分の給食活動がなされたことである。  日韓合同サッカー大会の会場を埋めた多くの韓国人のなかに、西獨逸からの給食を食べた人がいるはずだと、感動しながら試合を見守った...と語った。
  しかし、2度に亙る清渓川写真展のせいで、託児所と給食の話は極めて簡略に掲載されたままであった。)

★  また、ニュージランド産の種肉牛仔牛を韓国農村に輸入して、分譲する(実際は牛銀行を設立する目的も含めた)事業も、野村牧師の献身なしには不可能なことだった。  (ここでも、金銭感覚の麻痺した金鎮洪牧師の失策から、牛6百頭が仁川港に到着直後、「蒸発する」という悲喜劇が生じた。  もちろん、仔を孕んだ未経産肉牛と共に、牛を管理し易いために購入した器具類も、仁川港到着後行方不明となった)

60年代後半から70年代前半に私が見たほとんどの韓国人の顔は極度の緊張で満ち溢れており、微笑みが見られなかった。  公の場所ではどこであっても、天気と孫の話のほかは大声で話をすることがなく、お互いの耳元に口を寄せて、ひそひそと話しあっていた。  そのような憂鬱な時代であった。

  こん日の韓国人の顔には愛と喜楽(喜び)が満ち溢れており、そのような韓国を私は誇りに思う。
  キリストへの信仰で韓国人が暮らして来たからです、と語った。(これは取材特派員が、韓国の読者のために付け加えたものと思う。 そのようなことを記者にも通訳者にも語ったことはない。 為念)


  (尚、1973年ころの$との交換レートは、1万ウォン=$20前後で、勤労青年男女の賃金1ヶ月分相当であったと記憶している。)

続く