清渓川チョンゲチョン松亭洞ソンジョンドンで出会った二人の男 諸廷丘 チェ・チョング と金鎮洪キム・ジノン


(★  いきなり最初からお断りということになるが、本来は漢字語であったものを、
日帝支配から解放されたのち、南北共に民族意識の高揚と共に、朝鮮古来の優れ
た音声記号であるハングルで記載するようになったため、もともとの漢字に戻すこと
は極めて困難な作業となり、推測した漢字を当てざるを得ない。

  また、日本語にはない朝鮮の数多くの豊かな音を、日本語で表記するということは
極めて困難なことである。  そのために、本文中に間違いの可能性がたくさんあると
思われるが、朝鮮語学の専門家でないため、予めお赦し願っておきたい。

  さらに、本文は時間の余裕を見ながら、断片的にいろいろなことを思い出して執筆
しているため、まとまりがなく、放漫な文章となると予測している。  この点でも
あらかじめお赦しを願いたい。  何しろ1970年代初期のことを回想するのだから...


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 『億劫相別れて 須臾も離れず 旬日相対して 刹那も対せず』という言葉がある。
何でも1315年前後に、京都大徳寺の祖始大東国師が花園天皇と対話したときに語ったひとことであるようだ。
 
 諸廷丘と私の交わりは、彼が朴正煕軍事独裁政権下で官憲に追われて清渓川貧民窟、具体的には松亭洞の活貧教会と、そのすぐ近くにあった培達学壇などで、それとなく秘かに重ねられていたと記憶している。
 彼との交わりは、残念ながら、彼が朴正煕大統領緊急措置違反者として逮捕・監禁されてから、お互いに別れ別れとなり、絶えてしまった。 しかし諸廷丘に対する私の個人的な敬愛の念が、彼の逮捕・入獄で裂かれてしまったわけではない。
 すでに故人となった諸廷丘に対する私の感謝と親愛の念は、上記大東国師の名言のように、秘かに、そしてますます心の中で大きく膨れ上がっている。 私にとって偉大な師、偉大な友であったことを、そして今もそうであることを神に感謝する。

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  諸廷丘は、韓国東南部の慶尚道キョンサンド古城郡コソンクン 遊興里ユフンニ出身で、貧民救済にその生涯を捧げた優れた社会運動家で、政治家でもあった。

  大興デエフン小学校と中学校を卒業し、1962年に慶尚南道晉州チンジュ高等学校卒業。
1966年ソウル大学政治学科に入学し、学生運動に飛び込み、翌年除籍される。
1973年に復学したが、1974年に民青学聯事件に関連したとして大統領緊急措置令違で投獄される。
15年の刑を受けたが刑執行停止処分により出獄する。
1980年大学を卒業し、1983年西江ソガン 大学院宗教学科修士課程修了。
1984年に市民権を回復。
1986年マグサイサイ賞受賞。  (抗日戦士フィリッピン大統領 Ramon Magsaysay)
1992年第14代国会議員。
1999年2月9日死亡した。

  1972年ころから、官憲の監視と捜査を避けるため清渓川貧民窟に潜入し、疎外されて学校に行けない子供たちのための培達学壇 ペダルハクダン(6畳ほどの粗末な建物)などで子供たちと接することから貧民救済運動に身を投じることになった。

  諸廷丘を含め、多くの青年や学生たちが培達学壇や活貧教会に出入りしていた。
そのほとんどが、いわゆる反政府・民主化運動に何らかの形でかかわっていた者たちであったが、もちろん当局側の回し者も潜り込んでいたものと回想する。

  教会指導者など二、三の者に、食事に行こうと声をかけると、それらの学生や青年たちもぞろぞろと一緒にくっついて来て、各自めいめいが勝手に注文し、食べ終るとそのままどこかに散らばって行ったことがしばしばあった。  最初は驚いたものだ。
  時には流しタクシーで市内のマシな食堂に教会の青年たちと行こうとすると、彼らも2、3台のタクシーを拾って追従してきたことがある。

  これらの場合の支払いは、韓国の伝統的社会通念で、「持てる者」、すなわち野村が自動的に支払うことになっているのを学ぶのに、そんなに時間はかからなかった。

  訪韓時ごとに、自分自身の往復飛行機代のほかに、学童や病弱者のための文房具や医薬品や衣料品の調達も必要であったが、この「韓国式伝統の社会通念」に服従するという、予期せぬいろいろな出費を忘れてはいけないことであった。

  2週間しか滞在が許されていない時代、訪韓する度に飛行機代がおおよそ7万余円で全体の三分の一、文具や衣料品や医薬品などが三分の一 、自分自身の滞在費が大体三分の一を要した。
滞在費の割りが大きく占めたのには、この「伝統的社会通念」がスラムで働いたからであった。

  また、順子さんが予備費として持たせてくれた数万円も、寡婦や老婆それに子供の治療費や入院費や手術費、見るに見かねて生活費の一部として、羽根が生えたように飛び去ることが多かった。  粗末だが雨風を防げるオンボロ住宅1軒を1年間借り入れるための前払い金として、前払金のない子供連れの寡婦のためにと、金鎮洪伝道師を介して捧げたことも二、三度あった。

  それは、いったん「仲間・家族」とみなされたら、仲間や親族の中で「できる者ができない者の世話を見る」ということは「あたりまえ」だという、朝鮮古来の慣習であることを理解しておかなければならない。

  「クリスマス特集号取材報告」の中で、『清渓川貧民窟は私の神学校だった』との報告文と、それに対する私の補足や説明を記した文章がある。
  補足と説明の中で、「仲間・家族・一族」に属することから生じる伝統的な慣習をすでに加えておいた。  中央情報部(KCIA)=俗称南山の「野村担当官」のことも少し触れておいた。  また、北朝鮮軍が掘削した隧道見学を「南山」が用意した時、前線司令官と昼食を共にしたことと、そこで感じたことを紹介しておいた。
  それらを参照しながら、以下のことを理解して頂きたい。

  話を元に戻して...
ほとんど収入のなかったはずの諸廷丘にも、時としてなにがしかのものを、握手する手のひらに包んで渡すことがあった。  何も言わなくてもお互いに通じ合った。
雪印の6Pチーズと、「兎の糞」と呼んで栄太楼の飴を好んでいた好青年であった。
言語問題という大きな障壁があり、詳しく意志の疏通を図ることは困難であったかと記憶しているが、明日の明るい祖国を想う彼のほとばしる情熱は、並大抵のものではなかったように記憶している。

  私の信仰人生にとってそうであったように、青年諸廷丘にとっても、清渓川貧民窟での経験が彼の人生のその後の歩みを決定的なものとし、その生涯を徹底して貧しい弱者に仕えるものとしたと、私はそのように理解している。
諸廷丘を想うときに、こん日でも落涙を禁じ得ないことがある。

  それに比べ、同じ清渓川貧民窟で、私よりも遥かに多くの不条理を身近なものとして体験し、目撃したはずの金鎮洪キム・ジノンが、安養矯導所アニャンキョウドソ から出獄後に、驕慢不遜な、詐欺師同様の人物に変身してしまったことは、甚だ理解に苦しむものである。

  ソウル東南の衛星都市城南市ソンナムシ には同じ時代の仲間であった崔圭成チェ・ギュウソン牧師(活民ファルミン 教会)がいまなお黙々と青少年教育や地域社会に熱心に仕えていることを思うと、なおさらである。
  なお、清渓川スラムを撤去という形で追い出され、逃げ場を失った貧民たちの一部が城南市周辺に流れたどり着き、現在でも厳しい生活環境下にいる。  ホームレスも多い。

  清渓川には、疲弊しきっていた韓国農漁村から何となく当てもなく衣食住を求めてソウルにやって来たが落ち着ける居住区がない者たちが、落ち着き先を見いだすことができず、致し方なく清渓川河川敷を不法占拠し、人口6万人前後のスラムを形成してしまったものと、私は理解している。

  これに加えて、朝鮮動乱時に、北朝鮮軍と中共義勇軍の参戦で米韓連合軍が南方に退却せざるを得なくなったとき、当時38度線以北側=北朝鮮側に住んでいた住民の中で、撤退する米軍と共に南下できた避難民たちがいたとも理解している。
  それらの人々はようやくソウルまで避難して来たものの、安住の地を見いだせず、致し方なく清渓川河川敷を占拠するに至ったと、そのようにも理解している。

  いずれにせよ、市の中心部に徐々に出現することになった清渓川スラムは不満分子で満ち溢れていた6万人という大きな集団となった。  朴正煕軍事独裁政権側にしてみれば、スラムは政府転覆を企てる一大不穏分子のアジトと見えていたはずである。

  活貧教会にも、培達学壇にも、私が記憶している限り、常に二、三十人の大学生や青年たちが出入りしていた。  彼らの多くが朴正煕軍事独裁政権に対して激しい批判の念を抱いていたものと思う。  また、彼らの中には、そのように装いながら、どのような反政府運動が秘かに語られているのかを探り出す政府側のスパイも紛れていたのかも知れないと推測している。

  これらの名前もわからない、現場で初めて出会った学生や青年たちが、私の食事に勝手にくっついて来て、めいめいが好きな食事を注文し、食べ終ると食費の支払いを私にさせて、どこかへ消え去って行った。

  しかし、このことは、「仲間」であるからという伝統的な慣習として捉えておけばよいという単純なことでは済まされない、軍事政権側には有利で、私にとっては実に危険な要素を秘めていたとも言えるのであった。

  それは、これらの反政府不穏分子に、私が金銭援助をしたという罪名や、食事中に彼らと秘密に談話し、それを日本に帰国したとき、反政府運動者らに伝達する可能性があると、私を逮捕するデッチアゲの口実を与えることもできたからであった。

  当時ソウルに留学していた早川という日本人が、スパイ容疑で拘束され、禁固刑を受けたことがあり、日韓の政治問題ともなった。  日本という外国から政敵金大中を拉致することを平気でやった朴正煕政権であり、そのようなデッチアゲがまかり通る時代であった。  この頃から、北朝鮮官憲による日本人拉致も同様に始まっていた。

  そのような緊張した状況の中で、私自身も私の置かれている立場を、私なりに理解し、慎重に行動するように努めていた。  なぜなら、『今日は誰々が逮捕された』というひそひそ話を、活貧教会指導者たちや託児所の女性教師たちから、しばしば耳にしていたからである。  逮捕された学生や青年の名と顔が一致することがなくても、緊張した現場の空気は容易に理解できた。

  また、すでに説明しておいたように、南山側(KCIA)でも、英語を流暢に操っていた知的な「野村担当官」金学律キム・ハンギュルは、私が「韓国問題を愛する日本人」ではなくて、「韓国人を愛する福音伝道者」であることを理解していたはずだと推測する。

  最前線見学時に出会った司令官も、私を「親韓派」(=この場合は親朴政権派)にすることでも「反韓派」に押しやるのではなく、なるべく「知韓派」に導こうと努めたように感じていた。

  このように、私のような小者を、大統領緊急措置違反者として捕らえて国際的緊張をそれ以上に高めるよりも、「親韓派=韓国人を愛する」として利用する方が賢明で無難であると官憲側は捉えていたものと推測している。

 ドブ川化していた汚い清渓川に沿った踏十里タプシムニの託児所で数十人の幼児たちと、梨花女子大学生のヴォランティアの先生たちと一緒にいたある日のことであったが、『あす野村さんはこの近辺に近寄らないほうがよい...』というメッセージが私に届けられたことがあった。 
 
翌日その近辺で数多くの民主化運動家の大学生たちが一斉に逮捕されるという事件があった。 どのような経過で、どのようにして、誰がそのメッセージを届けたのかわからないままだが、おそらく前述の南山、すなわち、韓国中央情報部(KCIA)金学律「野村担当官」からではなかったのか...と推測する。 

 それが、いくどか説明しておいたように、いったん仲間、身内になった者をかばい助けるのが韓国の社会的慣習の実践であったのか、それとも、新たな日韓政治対決を招くのを避けたいという南山側の配慮が働いたのか、今もって私にはわからない。 
 しかし危険極まりない地域の中に私がいたことだけは確かである。 そして官憲側の秘かな監視の目が私にも注がれていたことは確かである。 
 逮捕された学生や若者の中に、諸廷丘が含まれていたのかどうか知る由もなかった。
 通常の緊張を遥かに超える緊張状態が常に清渓川スラムにはあった。

  さて、1973年8月、金大中が神田のホテルから韓国中央情報部員たちによって拉致され、これが韓国内というよりも世界中の世論を大きく揺り動かし、朴正煕パッチョンヒ大統領の維新体制に反対する声が起こった。  情報統制下にあった韓国内でも同様に、反政府運動をさらに煽る結果となった。

  9月の開校に併せて、韓国内の大学で、徐々に反独裁政治、反体制の運動が加速し始め、これが全国の高等学校にまで波及し始めた。  野党陣営からも、知識人層からも、宗教界からも民主改憲と民主主義政治の回復を要求する声が広がった。  共和党政権の人権弾圧政策を糾弾し、改憲署名運動、民主化要求運動へと発展し始めた。

  この動きに対処するため、朴正煕大統領は1974年1月8日大統領緊急措置第1号、第2号を矢継ぎ早に発令し一切の改憲要求論議を禁止した。  この2ヶ月前には腰と大腿部に穴があき骨が見えていた、病院が治療を拒否した娘さんが死亡している。

  朴正煕パッチョンヒ軍事独裁政権は、緊急措置令を発布し、併せて違反者を裁く非常軍事法廷の設置を発表した。  これらの処置により学生運動は校内で地下新聞発行や同盟休校で抵抗した。  意識と勇気のある宗教人や知識人たちは時局宣言文を採択したり秘密署名運動を続けるなどの抵抗運動を講じた。

  日本で有志牧師や出版人の一部が「韓国問題緊急会議」を結成したのもこのころであった。  私の訪韓ヴィサ取得も徐々に厳しくなっていったが、ある程度の纏まった金子を民主化運動家に運ぶことを依頼された回数も増えたように回想している。
母カツ訪韓帰国時に下着の中に書簡を隠して金浦空港を摺り抜けたこともあった。

  1974年4月3日、朴正煕大統領は、反体制運動を調査した結果、全国民主青年学生総連盟という不法団体が不純勢力の操作している確証を得た‥と発表した。
  この発表と同時に、大統領緊急措置第4号を発令し、学生の授業拒否と集団行動を一切禁止した。

  中央情報部(KCIA)俗称「南山ナムサン」は、大統領緊急措置第4号発令直後に1,024 名の違反者を調査し、非常軍法会議の検察部は 180名を拘束・起訴した。 
起訴状によれば、これらの人々は1973年12月から暴力で政府を転覆するための全国的民衆一揆を企てていた‥ということであった。

  そしてその過程で、人民革命党系地下共産勢力、在日朝鮮人総聯盟系列、不純学生運動で処分された容共勢力、国内の反政府人士及びキリスト教界中の一部反政府勢力などと結託し、4月3日を期して政府を転覆し、四段階の革命を通じて労働者と農民による共産政府樹立を企てた‥というものであった。
 
いわゆる「民青学聨連事件」(全国民主青年学生総聯盟事件)と呼ばれた事件である。
民青学聯名義で民主化を求めるビラが撒かれたということで、KCIAが「政府転覆を企てた...」という名目で民青学聯を摘発し、詩人金芝河キム・ジハら千名以上を逮捕・連行した。 首謀者とされた8名は死刑を執行されてしまったことがあった。
 
 余談だが、そのとき週刊誌記者としてソウルに滞在していた太刀川正樹氏と、通訳をした早川嘉春氏も逮捕されて日韓の火種となった。 それは太刀川氏が取材謝礼金として$20(確か約1万ウォン、平和市場の縫製工の給料1ヶ月分相当)を渡したことが、騒動を励ました、反政府運動に対する「活動資金だ!」と言いがかりをつけられたからである。 二人は内乱罪と反共法などに違反したとの名目で軍法会議にかけられ、一審で懲役20年が宣告され、控訴も棄却、大法院で刑は確定した。
75年2月に保釈され帰国した。 
 盧武鉉ノ・ムヒョン政権になって民主化運動弾圧目的で朴正煕軍事独裁政権が捏造したものであると断定した。
 男から赤ん坊を生ませることだけは朴正煕にできないが、そのほかのことなら何でもできる...と怖れられていた朴正煕軍事独裁政権全盛時代であった。

 諸廷丘青年と幾度か出会い、韓国の明るい将来を語り合い、誘った食事を共にし、ポケットからいくばくかの金子を当座の生活費としてそうっと手渡したことなどを、当時の私服やその手下が察知しておれば、私は、おそらく太刀川氏以上に危険な政府転覆計画加担者として最低でも20年は食らっていたと思える。 または無期懲役...。

 すでに述べたように、拘束された 180名は、非常軍事法廷で、人民革命党の23名中の 8名が死刑判決を受けたのち刑を執行されてしまった。 狂気の沙汰であった。
民主学生聯盟首謀者は無期懲役を、そして残りの被告たちは、最高懲役20年から執行猶予刑までをそれぞれ宣告された。  しかし1975年2月15日に到り大統領特別措置によって、大部分の者は刑の執行停止となり、釈放された。

  以上の概要の如く、諸廷丘も亦、全国民主青年學生總聯盟(民青学聯)で逮捕された 180人中の中心人物として中央情報部(KCIA 俗称南山)によって、暴力で政府転覆を試みるために全国的民衆一揆を企てた...との名目で逮捕拘禁された。


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★  2009年10月8日~11月9日にかけソウル歴史博物館で、1970年代の清渓川貧民窟やソウル市内のフィルムを秘かに撮影した数千駒のフィルムやスライドをソウル市歴史博物館に贈呈してあったので、それを元に2回目の特別写真展が開催された。

  歴史博物館の希望に従い、1970年代の50数回の訪韓時に、秘かに記録し保管してあった詳細な旅行日記19冊と、当時使用したニコンFやライカとレンズを展示用に提供し、写真展終了後に参考資料として博物館に贈呈した。 ライカは青年に贈呈。

 ここで、カメラのことで、少々の脱線をお許し願いたい。
 歴史博物館側の最初の希望では、すべてのカメラとレンズも写真展会場に展示したいということであったが、ハセルブラッド500C/Mというカメラだけは提供できなかった。
 韓国農民のためニュージーランドに肉種牛を買いに行ったときにも使用したし、清渓川松亭洞活貧教会の水曜夕の祈祷会で幼児を背中に負って熱心に祈っていた婦人の白黒写真などを撮影した。 ハセルブラッドを写真展で展示できなかった理由だが、それは以下のような裏話があったからである。 ここでさらに脱線することになる。

 清渓川貧民窟から南陽湾干拓地に移住・帰農を希望した人々を現地に送り込んだ時、監視していた政府側に対し、国際ワーク・キャンプを開催することで南陽湾活貧教会が国際的な支援を得ているということを示したいと考え、独逸教会に訪韓を申し出た。 

 ドイツ側は最初、『地球の反対側の、独裁政権が支配する韓国の農村に、誰が行くと言うのか?...』と躊躇した。 しかし結局は個人的な信頼関係があったウエッツラーのエアハードが中心になって、とにかく数名の西独逸青年男女が八幡山まで到着した。ウエッツラーは世界的に有名なライカ本社があり、ウエッツラー教会の長老たちはライカ本社の重役たちであった。 エアハードもライカ社員であった。

 しかし、彼らはフランクフルト・羽田間の往復切符と、わずかな現金だけを手に来日したことがわかり、ウエッツラー青年男女数名分と、社会的適応性に問題があったアメリカ人青年一人分、それに加えて私の家族4名の羽田・金浦間の往復航空券符をクレジット・カードで購入し、「一粒の麦の会」員たちと共に南陽湾に向かった。 

 これは別の方法による朴正煕軍事独裁政権への抗議と示威行動という意味があった。国際ワーク・キャンプ初日には、華城郡郡主や現地警察署長も、「皆さまにご挨拶を申し上げたくて...」との名目で出席していた。 もちろん私服のKCIA関係者も監視の目を怠ってはいなかった。 西独逸の青年男女は陽気で、持参した笛で歌を歌い、踊り、日本人チームは汗水流してよく働いた。 官憲たちは安堵したようであった。

 帰国時、金浦空港で私たち家族は特別室に招き入れられ、当時貴重であったアイス・クリームを振舞われ、南陽湾での労苦をねぎらわれるという、居心地の悪いお世辞を頂くことになった。 彼らは順子さんが脚を蚊に刺されて苦労したことまで知っており、ねんごろに感謝の言葉を述べられたのには驚愕した。 あらゆるところに情報網が張られていることを改めて教えられた。

 話を歴史博物館側の希望で提出しておいたカメラのところに戻るのだが...
国際ワーク・キャンプに独逸から駆けつけてくれたヴォランティア青年の代表者であった、ウエッツラーのライカ本社で働いていた青年エアハードに、八セルブラッドを贈呈してしまったので、展示用代用品の入手ができなかったということである。 

 なお、エアハードは韓国でのワーク・キャンプに参加したのち、ライカの職を辞め、後述のルーアス氏が責任者であった西独逸の給食支援団体 Kindernothilfe略称 KNH で働くことになって現在に到っている。 恵まれない世界中の未就学児を対象に毎日十万人近い給食を与え続けるため世界中を駆け回っている。 

 なお、KNH =Kindernothilfe は、英語で言えば kids need help 幼児は助けを必要とする...というような意味のドイツ語で、ある引退した西独逸の初老がインドを旅していたとき、余りの酷さに心を動かされ、5名の子供たちが充分な職業訓練を受ける年齢に達するまで給食費などを約束したことから始まる。 
 この話を聞いた仲間の西独逸人たちも援助の輪に加わり始め、現在では世界中の貧困に喘ぐ未就学児おおよそ10万人に毎日必要な糧と、保育施設を提供している。
 以上で八セルブラッド500 C/Mカメラと、それに関するいろいろな脱線裏話を終了する。 

 話をふたたび写真展に展示されてあったカメラと共に、たびたびの訪韓中に秘かに取り続けていた訪韓メモに基づく旅行記19冊の説明に戻そう。

  この旅行記には、東京神田で拉致され、ソウルで釈放されて、自宅軟禁中であった金大中を秘かに訪問した時の会話内容などを含めて、清渓川スラムや刑務所訪問時の記録などが含まれている。  日本赤軍派が、私を介して金大中や清渓川住民たちを連帯させ、反朴正煕軍事独裁政権運動を蜂起させようと試みたことがあったことなども記載してある。 三菱ビル爆破犯人に近い人物で、東京神学大学近くに居を構えていた人物であったと記憶している。 彼からの封書も旅行日記帳に貼り付けてある。

 金鎮洪牧師の実弟が、信じられないようなことであったが、中央情報部= KCIA=南山で働いていたことや、叔父が陸軍高官であったということで、彼らから聞いた話なども丸秘マークをつけてメモしてあったと記憶している。

 日記帳19冊は現在ソウル歴史博物館に残してあるので、 現時点で日記帳を参考にすることができなくなっている。 今のところ記憶に頼るしか方法がない。

 この日記帳19冊は、渡韓中いつも厳しい監視を意識して、すべての行動を自分だけが理解できる方法で紙面に残し、帰国後ほぼ一週間をメモの解読に時間をかけて作成したものである。 メモや記号を見ながら旅行行程と、出会った人物や出来事を克明に思い出し、それをノートに書き移す作業は極めて緊張を伴うものであったようで、その間の約1週間、家族三人はヒリヒリ・ビクビクしながら静かに過ごしていたとのことである。 
 
 すでに述べたばっかりであるが、頁によっては、丸秘の赤いスタンプを押して、KCIA野村担当官らとの会話内容や、ほかのいろいろな情報源から得た情報を記してあったかと記憶しているが、現在では実物が手元にないので、正確なことをもはや記憶だけに頼ることはできない。 

 ソウル歴史博物館で永久保存していただけるのであれば、そのほうがよいと考えている。
 朴正煕軍事独裁政権下の状況を外国人としての日本人が、しかもジャーナリズムの世界とは縁遠い素人が韓国国内各地から眺めていた記録であるだけに...

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  清渓川スラムの住民たちはどこからか拾い集めてきた板切れ、ビニール・シート、筵などを巧みに組み合わせた掘っ立て小屋を河川敷一帯に建てていた。 
板切れで作った小屋という意味で、板子家パンジャ・チップと呼んでいた。
パンジャとは板を指す名詞で、チップは家という意味である。

 6万人の不法占拠者たちが住んでいた板子家panjachip村の中で、いろいろな意味で重要な意味をもっていたのが松亭洞ソンジョンドンンの活貧教会ファルビン・キョウフェイであった。 
表現できないほど汚い、酷い清渓川の向こう側の丘の上には漢陽ハニャン大学とその付属病院がそそり立っていたし、左手には下水処理場予定地の建設が始まっていた。

 下水処理場の前に木製の橋があり、長安橋ジャンアンギョウと確か呼んでいたと記憶する。
この橋は、松亭洞スラムと市内とを結ぶ、数少ないおんぼろ橋のひとつであった。ここから希望を失った人が投身自殺をして、死体探しやら、パンパンに膨れ上がった死体を引き上げて高価な水道水を購入して汚泥を洗い落とす作業もあった。

スラム住民の一ヶ月の肉体労働の収入では、日本で使っている18リットルの灯油ポリタンクの1杯半か、せいぜい2杯程度しか買えなかった。 きれいな水は高価なものであった。 そのために住民たちは汚水で満ち溢れた清渓川の流れのすぐ脇に井戸を掘り、その汚水を飲んでいた。 彼らがオートバイと呼んでいた下痢になるのは明白であった。 そのような高価な水を購入しなければならない時には、その仕事は、だいたいにおいて、私が請け負うことが多かったように記憶している。

 死体埋葬のため、医者や警察に少々の賄賂を渡し、火葬場でも少々の心づけを渡して何とか焼いてもらい、遺骨を再びこの橋の上からメタンガスが湧き出る、どす黒い鉛色に近い、何とも表現するのが難しい、沈殿したドブ川に讃頌歌を歌いながら散骨したことがある。
 この歌は日本語だと聖歌 467番、「御国の心地す」である。
『悲しみ尽きざる浮世に在りても...』という歌を、もちろん韓国語で歌いながら散骨したとき、歌詞の内容にはとうてい同意できない気持ちで、やるせない気持ちで、誰を恨んでよいのかわからない気持ちで、二、三の者が涙と共に口ずさみ、散骨したものである。 二度とあのようなことは体験したくない。
 
 漢陽大学の前を走る市内の一般道路からは、長安橋と下水処理場のコンクリートの建物だけが見えた。 土手の裏側にあった板子家スラムは、市内側からは見えない。
活貧教会前の土手上の汚い通り道には、ハングル文字で「下水道建築予定地」と書かれた畳2枚弱の大きさの看板がハングル文字数だけ立っているのが市内側からは見えたが、まさか大きな看板のすぐ後ろの土手下に数千個?の板子家が建っていることを感じさせなかった。 それは長安橋に一番近い市内側の舗装道路を経て、アメリカ軍の娯楽施設であったウォーカ・ヒルズに到る市中の道路であったからである。 享楽に行くアメリカ人にスラムの存在を知らせたくないというので、市内側に面した清渓川の土手に板子家建設を市当局が絶対に見せたくなかったからである。

 さて、松亭洞ソンジョンドンの活貧教会は、スラム住民にとって重要な拠点であった。
たとえば、クリスチャン系の大学や、ソウル大学の医師や看護婦、それに栄養士などの協力を得て、定期的に乳幼児に無料医療相談や無料診察を行っていた。 劣悪環境に住む母親にとって、このサーヴィスは大きな重みを持っていた。 母親と祖母さえしっかりと教会で把握しておけば、無料相談をしてくれる活貧教会のことを、働きにでかけてなかなか戻らない父親が感謝しないわけがない。 
 これがスラム住民の意識化と組織化に役立ったことは言うまでもない。
6万人もの不満分子で溢れるスラムだが、彼らがバラバラである限り当局にとって何も怖れることはない。 当局が最も怖れたのは、殆ど基礎教育らしいものさえ得ることができなかった人々が、意識化され、組織化されることであった。 

  ミッション・スクールである名門校梨花女子大からも意識ある大学生たちが常に奉仕に訪れていた。 彼女らは託児所や日曜学校でも教師として奉仕していた。
堤防の上で体操の指導もやっていた。 6畳ほどの粗末な建物、培達学壇ペダルハクダンに子供たちを集めて無料個人教育のような塾を熱心に施してもいた。 遠足にも子供や母親を促して連れて行ったこともあった。 日曜朝と夕、それに水曜日夜には大勢の住民たちがぎっしりと詰め掛けて礼拝や聖書研究、それに熱心な祈祷を捧げていた。

 住民にとって、松亭洞の活貧教会と、そこに集まる熱血漢の奉仕者たちは、精神的に大きな支柱となっていたことは間違いない事実であった。 もちろん情報部や警察がこの事実を見逃すわけはなかった。 だが過激な反政府演説でもしない限り、奉仕活動や宣教活動に手を出すことはできなかった。 住民の反発を怖れていたようだし、外国人、とりわけ日本人としての私の存在を無視することはできなかったものと思う。
 
 板子家スラムの住民の中にはいろいろな種類の人々が雑居していた。
税金を払うのが嫌でわざわざ市内から移り住んだ人もいた。 もちろんヤクザもいた。
犯罪者も隠れ潜んでいた。 しかし、手作りの超おんぼろ活貧教会の中にカメラや現金や旅券を入れた鞄を置いておいても、それが私の物であることを知っているので、誰も手をかけるとか盗もうとする人はいなかった。 活貧教会が完全に住民たちから信頼されていたしるしであった。

 当時の私は松亭洞と、特にその中にあった活貧教会ファルビン・キョウヘイや培達学壇ペダルハクダンの官憲側から見た政治的意味を充分に理解できないでいた。 まあそれはそれなりに良かったと考えている。 もちろん心の中では反朴正煕軍事独裁政権・韓国民主化に共鳴をしていたが、そのような政治的発言は控え、人々の物質的な求めや、精神的な支援に専念していた。 政府にとって極めて危険な分子たちがたむろする活貧教会のド真ん中にいたのであるが、その辺のことを政府側のスパイたちも理解していたものと考えている。

△   △   △   △

ところで、松亭洞活貧教会に集まっていた多くの意識ある学生や若い社会人たちが苦労して集め、編集した資料があった。 「松亭洞板子村実態調査報告」書である。
 この資料が金浦空港税関の厳重な捜索を潜り抜けることは殆ど不可能であった。しかし、何とかこの資料を巧みに隠して持ち出すことに成功した。 捕まっていればタダでは済まなかったものと推測する。
 
 帰国後すぐに、読むことができないので、亡命中?の池明観教授に手渡した。 おそらくそこから複写されたものの内の1セットが、岩波新書1976年3月22日発行の『韓国の経済』を書いた隅谷三喜男の手に渡り、その書籍の中 (63頁以降)に堂々と無断転用されていたのを見出した。 命がけで持ち帰った資料であったのだが...

ニューヨーク在住の隅谷三喜男に抗議と問い合わせの電話をし、航空便を出した。
 『本の性質(大衆的)を考えて...無視する意図はありませんでしたのでご了承ください』としたためた絵葉書が送られて来ただけであった。
 有名な大学の教授というものは、学生や他人にやらせたものを自分の名前で発表することが多い...と親切に忠告してくれる友人の牧師が囁いた。 ことがキリスト教界でも有名な人物だけに、おかしいと思うが、まあそういうものなんだそうだ...

日本であれ韓国であれ、あるいは日本に実質上の亡命生活をされていた偉い先生さまであれ、自分の手を汚さないで、けっこうじょうずに世渡りをなさる先生方がいらっしゃるようだと、すこしずつ学ぶことになった。 これは「余言者」の「余言」...

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 次に、中央情報部(KCIA)=通称「南山ナムサン」等の官憲からの懐柔誘惑に関して一言付け加えておきたい。 すでに別項で『アンニョーン嬢』のことに触れておいた。
「アンニョーン嬢」で陥落させることができないことと、酒をいっさい嗜まないことを熟知していた「親切な機関」は、韓国大使館付き(KCIA出向の)鄭参事官を八幡山の自宅に派遣してきた。 桜上水に出迎えた鄭参事官をラビットというスクーターの後部座席に乗せて自宅に迎えた。 スクーターのお出迎えには驚かれたようであった。
 
 後述の出版物「暁を呼び覚ます鐘」の出版を止めてくれるのであれば、ある韓国人実業家が野村さんのために鉄筋三階建ての建物を贈呈したいと言っているのだが...
そして、高麗人参茶や深紅無地の絹のような反物を手土産に置いていかれた。
 無地に寿という漢字が織り込まれていた豪華な反物は、のちにルイジアナの友人に日曜学校教材として送った。 高麗人参は、大好きだという人に差し上げた。

 『野村牧師さまのお住まいは、失礼だが、清渓川の板子家と同じ程度にお粗末ですから、この話はいかがでしょうか? 良い話だと思いますが...』と宣うたのであった。 丁重にご好意をお断りし、参事官殿のミッションは失敗に終わった。

 これによって南山の頭脳たちは何か別の対策を考えなければならなくなったようだ。
それ以降、ずいぶんと時間が経ったが、チューインガム1枚くれるという話はない。

 
 さて、前述の出版物、「暁を呼びさます鐘」、1975年6月15日、新教出版社出版のことだが、実質的には「一粒の麦の会』の自費出版物であった。  
 品川バプテスト教会牧師日隈光男先生や池明観教授のご指導とご協力を頂きながら、長野県の小林爽子さんが翻訳の労をとってくださった。 翻訳料などと呼べる金額ではなかったが、有り金をはたいて、10円玉や100円玉を紙袋一杯にぎっしり詰めて、10万円そこそこの金子を吉祥寺駅で翻訳者に手渡したことを鮮明に記憶している。 

 そもそも事の始まりというのは、清渓川松亭洞の活貧教会伝道師金鎮洪キム・ジノンが朴正煕パッチョンヒ大統領緊急措置違反第1号主犯として逮捕された直後、母野村カツ子が偶然のことだが、ソウルの消費者運動団体を訪問していたのであった。 
 
そのときに、金鎮洪伝道師夫人の李聖徳義イ・ソンドギが、鐘路チョンノにあるYMCAホテルに野村カツ子を訪ねてきて、金鎮洪が書き残しておいた手記があることと、それを日本で発表して欲しい...と、ハングルで書かれた小さなメモを手渡した。 金浦空港での厳重な検査を承知していた野村カツ子は、メモを下着の内側に忍ばせて帰国した。 

 こうしてメモ回収のために、「相当な覚悟を要したソウル訪問旅行」を決行した。
いつものように往路ではたくさんの医療品、文房具、衣料などを持ち込んだ。

 紙質の悪い、ごわごわした B5判サイズの原稿用紙 494頁にインクで達筆に記されたハングル原稿を、どこかの誰か支援者の所に隠してあったようだが、李聖徳義夫人と二、三のボディー・ガード役の男性、そして李聖徳義の実父李英和? イ・ヨンファ が周囲に気を配りながら YMCAホテルに持ち込んで来た。

 その他にも、「安養教導所未決73番被告:金鎮洪」から「大法院長貴下」宛てに記された「上告理由書」という、極めて薄いカーボン複写用紙を使った抗議文のカーボン複写文を受け取った。 

 『北朝鮮と最前線で戦わなければならない軍人が、国内の基本的人権を護ることをしないで、国内の言論を統制し、国民から基本的人権や自由を奪うことに手を貸すということは、それが国を護る軍隊のやることなのか?...』と、厳しく朴正煕軍事独裁政権追求した、大法院長に上告した内容である。

 スラム生活を綴った手記よりも、この1974年4月25日付けの、朴正煕軍事独裁政権に対する激しい数頁の抗議文のほうが、金浦空港の検査をどのようにして潜り抜けるのか...が、最大の緊張を強いるものとなった。 空港税関の厳しい検査で見つかれば、この自分も大統領緊急措置違反者として15年は収監されるだろう...ということは目に見えていた。 唸ってしまって言葉がなかった。 しかし持ち帰ることを決意した。

 そこで聖徳義夫人に、なるべく汚い大きな頭陀袋と、韓国語聖書や韓国語讃頌歌、そして昆布や海産物を用意するように伝え、そのための資金を提供した。
彼らが戻って来るまでの半日だったか丸一日だか、ホテルの部屋から出てゆくこともできず、廊下を歩く足音や隣室のドアーを叩く音がするたびに緊張した記憶がある。要求した品々を持って戻って来たとき、YMCAの食堂で共に食事するように誘った。「最後の晩餐」を覚悟したからであった。

 金浦空港の出国検査を通るとき、心臓が破裂するかと思うほど緊張した。
税関検査員は、汚い大きな頭陀袋を開け、聖書を見つけ、昆布の束を見つけ、さらに讃頌歌を見つけ、その下に海産物を見つけ、また聖書や讃頌歌を見出した。
そして訊いてきた... 『あなたは牧師さまですか?』 『ハイッ』...『OKです』

 帰国して原稿を池明観教授が目を通し、翻訳者を紹介してもらった。新教出版社の社長Mが話を聞いて飛びついてきた。 同社の名で出版するが、実際は自費出版しなさい... こうして「暁を呼びさます鐘」は世に出た。
出版社の社長に利用されたのか、それで良かったのか、未だにわからないでいる。

 しかし、韓国民主化運動=反朴正煕軍事独裁政権ムードが高まっていたことが幸いしたのか、野村カツ子の友人が毎日新聞に勤めておられたので、同新聞が大きな紙面を使って全国版で清渓川松亭洞の活貧教会と金鎮洪伝道師の手記を掲載してくれた。
 キリスト新聞社の五十嵐記者も清渓川を見たいというので案内し、キリスト新聞に報告文が掲載された。 これらのマスコミの側面的援助もあって秘かにさらに千部を「初版として」さらに増版したが、「2回の初版」はすぐに売り切れてしまった。

 日本での韓国民主化運動支援=反朴正煕軍事独裁政権フィーバーにことのほか鋭敏に反応したのがKICA=南山=韓国中央情報部であった。
 そのことで、麻布の韓国大使館へ出向していた鄭参事官が八幡山の自宅を訪問し、想像を絶するような「ありがたいご配慮」を申し出てこられた次第であった。

 丁重にお断りをした以降、ヴィサ発給が厳しくなってしまったことは明白である。
また、八幡山の家庭集会 house church にも、毎週のように見知らぬ初老の韓国人男性が、『自分もクリスチャンです...』と自己紹介して出席されることが増えた。そのわりに讃美歌をご存知でなかた。 時には皮ジャンバーをお召しになった韓国人が、ハーレー・ダビッドソンにお乗りになって集会に出席くださったこともあった。
 
 都心に出て、山手線に乗るときなど、ドアーとドアーの中間に立って、両腕で吊革をしっかりと握りしめるようになった。 拉致を警戒するようになったからであった。
 また都内での、北朝鮮系であれ、南の民主運動支援派であれ、南の朴正煕軍事独裁政権支持派の集会であれ、いっさい出席しないことにしていた。 
自宅から交通の便のよい南新宿で、寸又峡で発砲事件を起こし逮捕された金嬉老(本名:権禧老)を救う会が主催していた朝鮮語語学教室への出席も取りやめた。

 しかし、その後、ソウルで野村担当官をしていた金学律キム・ハンギュル らの政治的判断が働いたものなのか? しばらくしてヴィサ発給が再開し、清渓川と南陽湾での宣教奉仕活動や、西独逸との交渉でようやく成立した全国各地の託児所建設と給食支給計画に奔走することになった。 


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 その少し前、安養矯導所から釈放された金鎮洪は、大韓イェス長老教会から牧師という肩書きを貰い、南陽湾梨花里を根拠地として活動を開始した。(大韓キリスト長老教会と称する教派もある。 イェス長老教会よりは知的な群れであろうかと個人的には考えている。 韓国民主化運動では大きな役割を果たした。)

 しかし、『俺様は朴正煕に勝ったのだ!』という自負心があってなのか、彼を大胆不敵、傲慢不遜な詐欺師にも似た言動を取る、大言壮語の哀れな男に変節してしまった。 多くの恥ずべき、深刻な、山積した金銭問題を抱え込むようになってしまった。

 『稲は実れば実るほど頭を低く下げるものだ...と幾度か忠告したが、激怒して耳をかさなかった。 『独逸の犬めっ!』と、そのたびに激しい罵詈雑言を投げかけてくる気の毒な男となってしまった。 それとも、本来の彼自身が出てきたのかもしれない。 
 日本海側(韓国・朝鮮では「東海」と呼ぶ)寄りの慶尚道の男性は気性の荒い男が出るものだと、韓国では一種の常識である。 大統領の多くの出身地がそうである。まあ日本で同じようなこととしては、「薩摩隼人」といった感じであろうか...

西独逸からリューアース氏が梨花里を訪れ、金鎮洪に託児所建築費と給食費の行方を追及したことがあった。 悔い改めれば、再びやり直すことを勧めたが、悔い改めることを拒否してしまった。 悲しいことだった。 このとき以降、「一粒の麦の会」を初めとし、西独逸や豪州の教会との交わりも途絶えてしまった。

 出獄直後のある日、金鎮洪から八幡山に電話があり、『緊急事態が生じた。 KCIA対策として日本金百万円を来週までに電信送金欲しい...』という突然の要請があった。
貧しい独立伝道者にとって二、三日で現金百万円を準備するというのはジェット機が縫い針の穴を通るよりも遥かに困難なことであった。 

 それでも何とか都合をつけて、有楽町の韓国外換銀行から百万円を電信送金した。 そしたら再び同様電話があり、『足りない』と要請され、娘名義で再度追加百万円を電信送金した。 詳しい説明を求めることは盗聴されている可能性があり訊けない。
南山(KCIA)対策だと言われれば信用する以外になかった。

 そのあと、再び同じ要請があった。 もう搾り出したくても搾れなかった。
品川バプテスト教会の日隅光男牧師が個人的にバプテスト連盟から百万円を借りて揃えてくださった。 八幡山集会の吉田昭雄さん夫婦が新婚旅行先をソウルとして下さり、ふところに日隅先生が用意してくださった百万円の現金を忍ばせて訪韓し、金鎮洪牧師に手渡して貰った。 合計3百万円は貧しい伝道者や牧師にとても大金であった。 そのときにも、その後にも、謝礼のひとことも、使用目的の説明も金鎮洪牧師からは全くない。 
 品川教会の日隅牧師の方に足を向けては眠ることはできない。 お借りした百万円はおろか、利息の1円たりとも、未だにお支払いできていない。 心が常に痛い。
 
 日本金3百万円、当時の為替交換レートでは、極めて巨額な韓国ウォンになったはずだが、離婚に伴う慰謝料と渡米費を要求していた李聖徳義夫人と、長男・長女と、実父と実母の渡米費に充当されたようであることを知るに到った。 詐欺である。
 それは、金鎮洪牧師が、あちこちで金銭問題を惹起していたことから判明した。
詐欺者、または詐欺者同様に転落していたのであった。 

 大言壮語で巧みな話術に長けた金鎮洪牧師は、とりわけ海外在住の韓国人系教会ではトップ十人の有名な牧師とされているようで、現在では李明博大統領のチャプレンを勤めているともいわれている。 そのために韓国内では敢えて金鎮洪牧師の否定面に触れたがる者はいない......とのことである。 韓国教会史の汚点であろう。 
大言壮語といえば、人々を煽動することにおいて実に優れた話術を利用できる人物であり、常に大きな計画を発表して人々を煙に巻き込むことがよくできる男だが、
中途報告も、結果報告もそのようなものをいっさいしたことを聞いたことがない。
失敗を問われれば、これからの肥料・投資であって決して無駄ではなかったのだ...と、たとえばコリント後書5章17節を引き合いに出して、『古いものは過ぎ去ったのだ。 見よ、すべてが新しくなったのである...』と、ことば巧みに人々を説得する話術を実に小憎らしいほどよく心得ている人物であったし、現在もそうのようである。

 いろいろと金銭をめぐる問題が次から次に起こってきた時、南陽湾でイェス共同体を作るのだ!...農業共同体を築くのだ!...純粋な農民たちを巻き込んでそれらしきことを始めたものの、肉牛6百頭の蒸発事件直後のことであり、キブツ計画は金鎮洪牧師が吹いたホラのようには進まなかった。 イェス共同体が駄目になると、今度は韓国農民の言葉で Doorae、すなわち「絆・結い」という名称の信仰共同体を結成し、南陽湾から離脱してソウルに戻り、現在も Doorae 教会の牧師として君臨しているようである。 典型的な慶尚道の頑固な男性であろう。 
 
 イスラエルの農業共同体 kibbutz キブツを真似た発想のことであるが...
最初はそれにイェスを着けて、イェス共同体とそのように呼んでいたが、いつの間にか Dooraeドゥーレー、古くからの朝鮮民族の農業用語で、「結い」とか「絆」を表す名詞が用いられるようになった。 これはソウル市内に移住した現在でも使用している名称のようである。 

 ニュージーランドからの肉種牛問題が起こった直後に金鎮洪牧師は再婚した。
ソウル歴史博物館のすぐ横にある西小門の長老教会で結婚式があった。
 出席したところ、出資した牛の代金を返済しろ...と、結婚式場に怒った農民たちが詰め掛けていた。 ところが何と、何も知らないのは私だけで、いつの間にか私が農民たちに牛の代金を返還する責任者ということになっていた。 農民たちは私に詰め寄り、驚愕してしまったことがあった。
 
 そのあと、夫婦は梨花里の活貧教会に住み、キブツ=イェス共同体で畑仕事をしばらくのあいだしていた。 多くの人が来ては去ってゆくという、騒然とした雰囲気であった。 このような時、山形県の基督教独立学園を卒業した若いお嬢さんたち二人が同校の姉妹校であるプルム学園に留学されていたが、この二人が活貧教会と金鎮洪牧師、そしてイェス共同体農業計画を聞きつけ、南陽湾のキブツを体験したいと金鎮洪牧師を訪ねて来た。 西独逸から先に国際ワーク・キャンプに参加した女性も
一人戻って来た。しかしこれら三人は、食費や宿舎費などをしっかりと徴収されたものの、まったく無視され、放置された状態に置かれた。 金鎮洪夫婦にとって、これら女性国際客の存在などどうでもよいことであり、重荷にもなっていたようで、もはやまともに彼らをもてなせる状況にはいなかった。 私の訪問時にそのことも明らかになった。

 鯨のような大物になる可能性を含めた男が、小さな蝦のようになってしまったこと、そして、そのままやがて神の最後の審判の座に立たなければならないことを思うとき、悔い改める日が金鎮洪牧師の魂に到るように祈らざるを得ない。

 金鎮洪牧師が南陽湾に帰農希望者を連れて清渓川スラムから出エジプトして以降、余りにも無統制・無計画で、充分な理性的判断能力とスタッフ・メンバーを欠いたまま、独裁者として実力を遥かに超えたいろいろな計画を南陽湾周辺各地に急速に同時進行させてしまった。 

 この辺りから、刑務所から出てきたという金鎮洪牧師の評判を聞いて各地から多くの善良な青年男女が駆けつけたが、青年たちのほとんどは失望の内に立ち去って行った。 まるで梨花里の活貧教会はバスの終着点のように人々の入れ替えが激しかった。 
 大言壮語のアジテーションだけでは人心を把握できないことに本人自身が気づかないからであった。 忠告しても聞くような男ではなくなっていた。
 次から次に起こる金銭問題だけではなく、霊的面にも大きな隙が生じてしまったようであった。 彼の名誉という面から、それ以上の言及は避けたいとおもう。

 金鎮洪牧師も十字架上のイェスの贖罪の業を通して神にて愛された魂である。
彼には彼にしかできない使命が託されているはずである。 謙虚にそのことを自覚し、嘗て清渓川松亭洞に奉仕の根を下ろそうとしたときの原点に戻り、また、そのときの謙虚で純粋な心を取り戻し、頭を低くして「仕えるしもべ」に戻って欲しいと願う。
 
 嘗て大邱テグの啓明大学在学中、哲学の教授に、「死ぬるに値する真理は何か?」と問い詰めたことがあった。 命を賭けてまで、徹底して人々に仕える者となることが金鎮洪牧師の決意であったはずである。 その初心を取り戻してもらいたいと願う。
 
 ほかの人に与えられていない能力を神から託された人物であると私は確信している。
しかし神は一人の人にすべての才能を与えられてわけではない。 彼に託された使命を達成するためには、彼を愛し、彼を支える人々がなければ、彼一人では何事もできない。 内助の功を勤めてくれる友や師が彼にも必要である。
 
 しかし、金鎮洪の致命的な欠点は、自分ひとりで何でもやれると錯覚し、誤解しているところにある。 ここに決定的な落とし穴がある。 彼には善き友と善き師がない。 I am sorry. と、Thank you. と、Please. と、What can I do for you?
という基本的な語彙が彼にはない。 心の奥底に感謝と満足と平安が生まれない。

 金鎮洪は、細かい自己管理、金銭管理、物質管理、人間関係の調整などの能力がない。 自分ひとりがすべてである。 ここに彼が極めて単純明快で常識的なミスを犯してしまう落とし穴がある。 それに気づいていないのが悲劇である。

 何人かの尊敬と信頼を寄せることができる補佐役が必要である。 しかし彼の個性、彼の独裁的で傲慢な人生観が、よい人々、よい仲間を彼自身で彼から遠ざけてしまう。彼を愛する者たちの誠意ある忠告に対して、謙虚に耳を傾けるということができない慶尚道男子の悲劇的な特徴を忠実に具現していると、外国人としての私は理解する。彼が初心に戻り、原点に戻り、よき霊的指導者に戻ることを心から祈っている。

 松亭洞における余りにも厳しい状態を考慮してみると、先の妻、李聖徳義夫人が二人の幼児を抱えながら金鎮洪伝道師を充分に補佐できなかったものと推測する。
良妻賢母役を発揮できないような状況下にあったことに対しては同情したい。
再婚後の二人のことは、交わりが断絶してしまったままなので、わからないでいる。

 金鎮洪の生い立ちなどは、それだけの題目で書き残しておきたいので、これ以上をここで述べることを控えたい。 彼の悔い改めを心からねがいたいと書き添えておく。


一方で、刑務所から出てきた諸廷丘チェ・チョングは、カトリック教会の神父らと組んで、清渓川スラムで得た経験から、貧民に奉仕する情熱を燃やし続け、国会議員になり、政治家として誠実に貧民救済運動に献身する道を邁進して行った。 
不幸にして健康を害し、1999年に凱旋帰天した。 
 同じ清渓川スラムで、具体的には松亭洞の活貧教会や培達学壇を中心に、ことばで表現できないような悲惨な難民たちの涙と叫び声に接しならが、諸廷丘はそののちもスラムで学んだこと、すなわち、貧民に仕えることの聖書的意味を誠実に求め続けて育っていった。 

 金鎮洪牧師の不誠実さと、詐欺を含む多くの出費が重なり、韓国の人々への奉仕を断念せざるを得なくなり、八幡山の母名義の土地建物を売却して八ヶ嶽南麓に移住した私ではあるが、諸廷丘と同様に、人々に仕えるということがイェスに仕える、私が採りえる最高の求道・巡礼の道だと学ぶことができた。 
 感謝極まりない人生最高の聖書の読み方を、清渓川スラムに生きた愛すべき韓国人から豊かに学ぶことができたことを、神に感謝せざるを得ない。

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 清渓川松亭洞でのその後の彼の情報を、「諸廷丘記念事業会」に問い合わせ中であり、入手次第追加紹介をしたいと考える。 日本語資料はないとのことである。
記念事業会のご好意で諸廷丘著、「人の道」または「人間の道」、「神父と煉瓦工」、そして仮私訳で「命を賭けた政治の道」の三冊の恵贈を受けた。 英訳文も日本語訳もないので、読むのに千年もかかるかもしれないと戸惑っている。



続く