神さまとの関係を「均衡のとれた関係」に、あるいは平等で対等な関係に変えてやろうという人間夫婦の試みにも拘らず、神さまは依然として常に神さまがお定めになった神さまの関係を維持され、総ての上にいらっしゃって、総てのものを支配なさっているのです。 人は神さまとの「補足関係」あるいは「上下関係」を何とかして神さまと対等な関係、「均衡のとれた関係」に変更しようと必死になって試みるのですが、そのような空しい努力は決して成功しないのです。 それでも人間はそのような企てをこりずにやろうとするのです。
それは、たとえば、人の姿に似せた偶像を自分の手で作ることにも見られます。そして人は彼の手で作ったいろいろな偶像の性質を支配し、定義することによって人は人の手で作ったいろいろな偶像の上に本当にいるのだ...、それらを本当に支配しているのだ...と、その転倒した上下関係の中で考えようとするのです。 しかも、人はその転倒した思いの中で、自分の手で自分が作った偶像に対する不安と、偶像の尻に轢かれるという、偶像の奴隷になり下がってしまう状態の中に自分自身を押しやってしまうのです。
旧約聖書の預言者たちをとおして、たとえばイザヤ書44章9節以下に書かれているように、神さまは人の愚かさを嘲笑されるのです。 人がどんなに努力してみても、人が神さまと同じになってやろう...などという驕慢さが成功した試しがないのです。なぜならば、ヤハ ウエ *でいらっしゃる主なる神さまは常に総てのものの上にましまして総てのものを支配なさっていらっしゃるのです。それは、昨日も今日も、そして永遠に変わることなく主は総てのものの主でいらっしゃるのです。(*原文どおり)
主なる神さまは常に主権を保っておられるお方、統治なさるお方としてだけではなく、創造主としてだけではなく、同時に神さまは人類を贖うお方として存在なさっているのです。 『私、この私が主であって、私のほかに救い主はいない』とイザヤ書43章11節は証言しています。
人の救いと回復・復元は、すなわち力の闘争に象徴されている呪いを解くことは、人が神さまの下にあるという関係、すなわち「補足関係」を、人が正しくし体験し、それを正しく告白するという現実の中にだけあり得るのです。
それは人間のあらゆる営みの中において常に真実であるのです。 とりわけそれは人の贖いにおいて真実なのです。 人の希望と救いは、まさに神さまと人とが上下の関係にあることを人が正しく認識するという、「補足関係」を正しく認定するという現実の中にあるのです。
それは、人が絶えず、常に、いつも、どこにいても、神さまを呼び求め、神さまの主権を告白し、神さまの契約を告白し、神さまの律法を告白し、神さまの救出・解放を告白し、神さまの恩寵を告白し、神さまの選びを告白し、神さまのメシアたることを告白し、神さまの救いの方法を告白し続けるということにかかっているのです。
人の希望は、創造から堕落までの間も堕落のあとも共に同じように、人の命と救いの両方のために神さまが全き備えをして下さっていることに対して人がどのように歓喜して応答するのかにかかっているのです。 だだこの方法によってのみ、神さまの方法によってのみ、人と人との間の「均衡のとれた関係」も回復し得るのです。
そのことによって、恐ろしく破滅し荒廃した悲惨な力の闘争の結果をも乗り越え得られるし、またその恐ろしい権力闘争の結果をも放棄することができるのです。こうして正真正銘の同等性、対等性というものが人と人との間に回復・復元し、更に人は男性と女性が創られたその創造の時のように、男と女が創られた時のように、お互いがお互いに対して「均衡のとれた関係」、均衡のとれた平等な関係にいる状態に戻れるのです。
1. 旧約聖書
旧約聖書は権力闘争という形が象徴する呪いというものが人と人との間でどれほどまでに無益な活動を繰り返していたのかを充分に演出しているのです。 兄カインは弟のアベルの上に力をふるいました。 ヤコブはエソウを欺いて優位に立ちました。
ここで顕著なことは、これらの権力闘争において、また、それをとおして、人は人の上に立ち支配する地位を獲得し、またそれを確保しようと試みるのですが、それにも拘らずヤハ ウエ なる神さまは神さまの不思議なお働きをとおして神さま御自身の御計画を着実に実行なさるということです。
ヨセフの兄弟たちは彼ら自身の優位性を確保するために彼らの夢見る弟を売り払ったのです。のちになって弟がエジプトに売られて行ったことを知るに到ったのです。
『あなたがたは私に悪を計りましたが、神さまはそれを、良いことのための計らいとなさいました。』(創世記50章20節)
パロはイスラエルの民の上に権力を振るいましたが、しかし結果的に、パロと彼のエジプト人たちはイスラエルの民が約束の地に向かって出発することに手を貸したことになりました。 それは神さまがアブラハムに約束なさったとおりでした。
旧約聖書の総ての物語をとおして、神さまは人と人との力と力の戦いを、権力闘争を許されているかのようにみえますが、実はその中にあって、またそれをとおして、神さまは神さま御自身の方法を、神さまの御旨を、神さま御自身のお約束にしたがってなし遂げられていらっしゃるのです。
約束の地で何年もの間、神さまだけが王でいらっしゃいました。 王なる神さまはイスラエルを救うために士師たちを興されました。 それにも拘らずイスラエル人は他の諸国のように自らを治める王を要求したのです。 神さまはその時にはっきりとそのような支配者を持つことはイスラエルにとって呪いとなるであろうと警告されたのですが、彼らは神さまの声に聞き従わず、彼ら自身の王を求め続けたのでした。
(エデンの園で起った)堕落の呪いの一部とは、人がしばしば誰か他人に支配されることを好むということです。 本来、それは人が神さまの下にあって、人と人とが「均衡の取れた関係」にあるという責任を自らの意志で受け入れるということではなくなっているからです。 本来あるべき人と人との間の水平関係よりも、人と人が上下関係にあることを好むということ、それが堕落のあとの呪いの一部なのです。
イスラエルに許された王政は、そしてそれは彼らにとってしばしば呪いとなるのですが、それにも拘らず、ダビデを媒介したものであり、そのダビデは神さまのお約束と来たるべき救い主・メシアへの主要な道筋となったのです。
旧約聖書の歴史の殆どは、神さまが呪いをすらお許しになって、呪いの働きを人と人との間の複雑な権力闘争のかたちで充分にさせ、そしてそのような人間の権力闘争にも拘らず、いやむしろそのような権力闘争の中で、権力闘争をとおして、神さまの救いの御計画を推進されていたのです。 もちろん、神さまは神さまがお定めになった神さまと創られた人間との「相補関係」をも、権力闘争に明け暮れしている人間の呪いの営みの中にあって、それをとおして、更にそれにも拘らず促進されていたのは言うまでもないことです。
この文脈の中では、旧約聖書における女性の地位は、殆ど普遍的にと言えるのですが、男性の地位と比較して、弱いものか従属するものとなっています。 その一例として男だけが契約のしるしの割礼を必要としていました。
そのような訳ですから、そしてそれにも拘らず、驚嘆すべきこととして、旧約聖書の中に見いだされる前兆としての女性たち、ラハブ、ルツ、士師のデボラ、エステルなどに与えられた卓越した地位があります。
これらの女性たちの中に、微かですが、来たるべき日の前兆、すなわち、キリストに在って女も男も共に同じように権力闘争の呪いから解放され、神さまの下に支配と責任を共に再び担うという「均衡のとれた関係」を再開する...という予示を、微かに見ることができるのです。
2. 新約聖書: キリスト
神さまの救世主・キリスト、すなわちイエスさまの中に、私たちは神さまが贖罪と復元計画を進めていらっしゃることを見るのです。 神さまのお働きをイエスさまの中に見るのです。 それは神さまがイスラエル人の中でお働きになっていることを遥かに超えたことなのです。 呪いは権力闘争という姿でいまだに働いています。そして、それ迄の最大の権力闘争がイエスさまを十字架に釘付けしたのです。
この人間の権力闘争の中にあって、人と人との力と力との争いをとおして、それでも神さまは人間の最終的贖いのために着々と準備を進めていらっしゃったのです。それはキリストの流された血潮をとおしての罪からの贖いです。
ここで新しいことと言うのは、神さまが人と悪、すなわち権力闘争の悪魔的支配の上にお立ちになり、勝利されるということです。 それはたったの一回きりの出来事ですが総てのことに、総ての時間と空間にくまなく及ぶ出来事なのです。 そして、十字架につけられたお方と共に復活するという新しい神さまの新しい時の到来なのです。 このキリストにあって総てのものが新しくされるのです。 キリストが総てのものの中心となるのです。 キリストが新しい基準となり、新しい道となり、新しい真理となり、新しい命となるのです。聖書の総てが今やキリストの証人となるのです(ロマ書3章212 節)。
そしてキリストによって成就するのです。 キリストが総ての真理の中心となり、総て生ける者たちと総ての関係の基準となるのです。
教会(エクレシア) を構成している私たちは、あるいは教会としての私たちは、イエス・キリストを神さまの御子であり、人の子であると告白するのです。
神さまの御子として、イエス・キリストは神さまと等しく、神さまと同等であり、『神さまそのもの』でいらっしゃるのです。 イエス・キリストは誠に父なる神さまと聖霊なる神さまと「均衡のとれた関係」にいらっしゃるのです。
更に、救世主・メサイアでいらっしゃりながらも、人の子でいらっしゃるイエス・キリストは、エデンの園で女と男が受け容れることを拒んだもの、すなわち、神さまの下に人がいるという「相補関係」、神さまが人の上に立たれるという「上下関係」を受け容れられたのです。
『私は私自身のことを何もすることができない。 私が来たのは私の意志を行うためではない。 私をお遣わしになったお方の御旨を行うためである。 私の肉は父なる神の御旨を行うためであり、私の意志を行うためではない。 神の御旨が行われますように。』と繰り返し主イエス・キリストは証言されているのです。
(訳者注:ヨハネ6章51節~52節およびマタイ26章39節と42節のことと思われる)
『キリストは神の御姿であられるお方なのに、神の在り方を捨てることができないとはお考えにならないで、御自分を無にして、仕える者の姿をおとりになり、人間と同じようにお生まれになったのです。』(ピリピ2章6節~7節)
僕(シモベ) の姿をおとりになることでキリストは人としての本当の御栄光をお示しになったのです。 その御栄光とは、創世記1章26節~28節において予示されたものであり、また詩篇8篇において称揚されたものなのです。
キリストの全生涯とお仕事は力の操作や権力闘争にかかわるということと全く逆のことを具体化したものなのです。 それは創世記1章26節から28節にかけて示されているような男と女があるべき姿を具体化したものです。 キリストのみが本当の意味で『第2のアダム』でいらっしゃるのです。 キリストはその大能、その支配を風の上にも七つの海の上にもおき給うのです。 魚も、いちじくの木も、豚も、そして悪魔たちも、病も、死も...、総てのものがキリストの権能と支配の下にあるのです。
しかしキリストは決して他者を支配するための人間の権力・権能の地位を手に入れようとはなさったことはないのです。 キリストが荒野に導かれなさった時に、そのような方向にイエスさまを導こうとする誘惑があったことは事実ですが、イエスさまはそのような誘惑に負けるようなお方ではありませんでした。 イエスさまの弟子たちは、しかしながら、誰がイエスさまのいちばん偉い弟子になるか、なれるのか...などという権力闘争、力の遊びの誘惑には弱いようでした。ペテロはゲッセマネの園で剣を振り回してしまいました。 ピラトとヘロデは共にイエスさまは本当に権威・権能・力、そしてまた支配権いうものを一体全体お持ちなのかどうかと疑いました。『私の王国はこの世のものではない』というのがイエス・キリストのお答でした。イエスさまにはそのような権威、権能、力の回復、そしてそれを行使なさる機会がたくさんありましたが、そのような力の闘争、力への闘争を絶えず拒否なさり、放棄なさってのです。 なぜならそれは呪いの道、呪いの手段だったからです。
そしてイエスさまは弟子たちにも同じことを行うようにお教えになったのです。ペテロとヨハネは他の弟子たちの上に立つ優位性を求めたのです。 右側に坐りたいとか、王国ではキリストの左側に坐りたい...などと要求したのです。 弟子たちは弟子たちで、誰が自分たち弟子仲間の中でいちばん偉いのだろうか...と論じ合ったのです。
もちろん私たちはイエスさまのお答を充分に知っています。 イエスさまは幼い子供たちを指されました。 また、イエスさまは弟子たちの足をお洗いになりました。イエスさまは、この世の支配者・権力者たちというものは他者のうえにその支配権を行使したがるものだが、イエスさまに従いたいと願う者の間においてはそうであってはならいと警告されたのです。 イエスさまを信ずるということ、イエスさまに聞き従うということは、仕える者の道を選び、*それを一人一人の日常生活の中で具体的に実行することです。(*訳者注: いくどか複写を重ねたものを入手したようようで述語部分の一部が欠落。 大意はこのようであろうと推測して補充した。)
人(または人間・人類)のいのちを神さまのもとに復元し、神さまと和解させようとするイエスさまのなさりかたは、その大切な節々で、人と人との権力闘争の策略、力のもてあそびの駆け引きというものを採用しようとする誘惑をことごとく拒否することに特徴づけられています。 ローマ占領軍を転覆し追い出すために熱心党と手を組むこともなさいませんでした。 イエスさまのなさりかたは、一貫して変わることなく仕える者の道、僕(シモベ) のやりかたでした。
この方法でイエスさまは御自分が常に神さまの下にあることを具体的にお示しになることで人間が本来神さまの下にあるべき本当の「相補関係」をお示しになったのです。 そしてそれと同時にそのことが意味することは、そのことによって人が他の人との間に純粋な、真に純粋な「均衡のとれた関係」、混じり気なしの水平関係が始まったことをお示しになったのです。
イエスさまの母マリアがルカ伝1章52節で預言したことは、『権力のある者をその座から引きずり降ろし、いと低い者を高く引き挙げられる...』ということでした。
パリサイ人たちと食事を共になさったイエスさまは、同時に取税人や罪人たちとも飲み食いをなさったお方です。 このようなことをなさることによってイエスさまは前者を引きずり降ろし、後者を高められたのです。 そして両者を同じ位置に置き、平等となさったのです。
イエスさまの極めて近しい、ごく親しい内輪の人たちの間では、女性が男性と同じ*同じ水平の位置に?同じ水平の関係に?見出されるのです。(訳者注:*同問題)
イエスさまが具体的に御自分の在り方によってお示しになった僕の道、仕える者の方法・手段というものは、弱さなり消極的なり受け身であるというような意味に誤解してはならないものです。 まあ、世の権力者や力のあそびに溺れ奢る者にとってはそのように誤解したり受け取ったりする傾向があるようですけれども...。
実際にイエスさまは、創世記1章28節に語られている、神さまから神さまの似姿を担う者としての男と女に与えられた支配権にも似たものを、御自身で具体的に実行なさっていたのです。
仕える者の道というものは、僕(シモベ) のとる手段というものは一貫してそのような意味での支配のことであり、その中においてこそイエスさまの純粋な、真の、確実な権威が横たわっているのです。 それはマタイ伝7章28節に描写されているような、学者たちやパリサイ人たちを遥かに超えて優った権威であり、また同時に彼らのものとは全く別種類の純粋な権威なのです。
イエスさまが12名の弟子をお選びになった時、12名の男性をお選びになったこと、その12名総てが男であったということは、実はイエスさまのなさりかた、イエスさまの一貫したなさりかた、イエスさまの方法に完全に一致しているのです。
男たちだけを御自分の弟子に選ばれたということは、男性だけがキリストの教会を治めることに適し、教会の権威を持つことを許されているのだ...と単略的に論じることは、論点を誤るばかりでなくイエスさまのなさりかた、イエスさまの方法を全く理解していないということです。
そのような解釈、そのようにイエスさまのなさりかたを憶測するということは、イエスさまの関心事が堕落以降ずっと人間の間に引き継がれて来ている権力闘争構造というものを正当化し更に強化することにある...と誤解しているのです。
しかし、イエスさまが弟子たちをお選びになったのは、彼らにイエスさまに従うということがどのような意味を持つことなのかを教えるためであったのです。 それは具体的には、自分自身を無にする、空にする、むなしくするというやりかたです。それが僕の道、仕える者のやりかた、在り方なのです。
イエスさまは、そのようなことを教えるために女性をお選びになる必要がなかったのです。 女性たちは改めてそのようなことを特に学ぶ必要がなかったのです。一般的に女性は長いこと家財道具か奴隷のような扱いを受け続けていたからです。
イエスさまに従って来た女たちとイエスさまが接し、女性を扱われるイエスさまの方法というものは、女たちを高めて弟子たちと同等の者、「均衡のとれた関係」に実質的に在る者とされたということです。 イエスさまがその墓から復活された直後の最初の福音説教者たちは、実にこれら女性たちであったのです。
イエスさまは、力によって女性を解放し、女性を男性と「均衡のとれた関係」にしようとする、闘争によって男女均等を獲得しようとする婦人解放運動を願われたり開始ならそうとは、もちろん、なさいませんでした。 そのようなものは*新たなる権力闘争を招くか、新たなる闘争を更に激化させるだけで、イエスさまのなさりかたとは全く反対のものとなるのです。
また、女が男と同等であり、平等であり、対等であると認識され、そのように受け容れられる前に、人(または人間)は、弟子も含めて、彼ら自身が本当に僕である、召し使いであると理解することを学ばなければなりません。 それはとてつもなく時間がかかることでしょう。
3. 使徒たち パウロ
それでは使徒たちはどのようにキリストのなさりかたを立証し具体化したのでしょうか? 呪いの影響と結果、力のあそび、権力闘争の現実というものは、この世界のあらゆる場所で明らかでした。 それはイエスさまの復活後もそうだったのです。
しかし復活なさったキリストの内に、使徒たちが必要としていた総ての証拠を見いだしていたのです。 すなわちイエスさまのなさりかたこそ神さまの凱旋の仕方であるということをです。
ローマ帝国はパレスチナへの暴虐を続けていました。 奴隷制度はその当時の当然の社会制度の一部として維持されていました。 男が女をあたり前のこととして支配していました。 けれども使徒たちは軍隊を率いてローマを転覆しようとはしませんでした。 使徒たちは廃止運動や~廃絶運動を組織しませんでした。 彼らは女性の権利を力ずくで得ようと力を使った争いに訴えることもしませんでした。
現に、ロマ書13章1節や第1ペテロ2章13節を読んでみますと、あたかも使徒たちが暴政を支持しているかのような印象すら受けるのです。
第1コリント11章と14章、エペソ書5章22節~23節、第1テモテ2章と3章、更に第1ペテロ3章1節から7節を読んでみますと(訳者注:一部聖句箇所に明白なミスがあり、筆者の意図とする正しい箇所と思われるものと入れ替えと補足を加えた)、女性が男性に服従するのに貢献するような箇所すら見られます。
これらの聖句に含まれているいろいろな論題において、男たちは新約聖書に最終的権威を訴えています。 すなわち、奴隷制度を擁護するために王たちが持っていた「聖なる権利」について触れるとか、教会の職務・職責から女性を除外することを保持することなどです。
ロマ書13章においてパウロは、まつりごとを司る権威に対して各自がこれに従うように指示を確かに出しているのです。 これは絶対専制君主制度のローマ帝国政府を意味していたことです。 そのような権力に服従するということが神さまに服従するということである...とされたのです。 しかしこのような指示を出すことによって、パウロは同時に、本当の人間が治める人間の政府・政治政体というものがどういうものでなければならないか...、人間の政治がどのような使命を帯びたものであるのかを示しているのです。
まず最初に、パウロは、人間が人間を治める政体というものには、神さまが与えられた権威というものを除いて、本当は権力も権威もあり得ないのだ... ということを示しているのです。 そしてそれら人間の政体・政治というものは、神さまに対して責任があり、神さまに負うものなのだ...と、そのようにパウロは訴えているのです。
世の支配者・世の権力者もまた神さまの下にあり、神さまとは「相互補充関係」・「補足関係」にあるということです。 それが彼等自身の権力とまつりごとの根拠と本質と目的なのです。 それがパウロの定義なのです。 政治権力というものは、善なる者には良く仕え、邪悪を働く者に対しては制限を加える...というのです。
『なぜなら彼はあなたの善きことのために遣わされた神さまの召し使いであるから』
なのです。 ここでは、通常どこでも行われているような、横暴や残忍な政治政体を正当化する余地はなく、自己保存的権力の行使を弁解する余地もないのです。 治める者の使命と、治めることの意味とは、召し使いであるということ、仕えるという視点でのみ定義されるべきものなのです。 それは主イエス・キリスト、私たちのメシア(メサイア、救世主)がそうでいらっしゃったようにです。
パウロは暴虐政治に正面から反対をしませんでしたし、力でそれを転覆するようなことを扇動もしませんでした。 しかし、「仕える」という物差しで、そのような視点で「治める」という意味を定義したのです。(第1ペテロ2章11節~17節)
この定義をキリストのみ心にもう一度しっかりと据えてみましょう。 そうすれば新しいかたちの支配が現れてくることでしょう。 しかし、このような根源的に新しい原理・方針が人々の集まりや集団に浸透して行くには時間がかかると思います。
新しい原則、新しい方針が世に現れる時、私たちが「民主主義」と呼ぶ新しい政治形態が出現する時、そしてそれは「公に仕える・パブリック・サーヴィス」という姿の政治政体ですが、治める者は、為政者は「公僕・パブリック・サーヴァント」として人々に彼自身を仕える者として意識しているのか、仕えている姿勢があるのか...を、彼が市選挙に臨む時に示さなければなりません。 庶民が彼の上にいるのと同様に彼も庶民の上にいるのです。
「治める」ということを「仕える」ということで定義するということで、エデンの園の堕落からこのかた、治める側と治められる側との間で、「均衡のとれた関係」に可能な限り最も近いものを私たちは手に入れたのです。
使徒パウロはエペソ書5章と6章において別の種類の関係を語っています。6章5節以下でパウロは奴隷たちに宛てて『奴隷たちよ、あなたがたは、キリストに従うように、畏れおののいて真心から地上の主人に従いなさい』と教えています。
この世での主人に謀反を起し反乱しなさいと教えていないのです。 しかしまた言われるままに、消極的に、盲従しなさい...ともパウロは教えていないのです。
奴隷たちは自分自身を積極的に、肯定的に「召し使い」であると認識し、心の底
から神さまの御旨を行うようにすべきだ、そのようにあるべきだ...と言うのです。
そして再びその理由についてですが、主人たちも奴隷たちも、共に天において一人の同じ主人を戴いているのです。 そしてそのお方は偏り給うことがないお方なのです。 パウロは奴隷たちに対し、奴隷保持者たちに力で対決することを迫っていないのです。 パウロは奴隷たちと奴隷所持者たちとの関係を、主なる神さまの下にあっては「両者は共に召し使いである」という定義において同じ土俵に立たせているのです。 「上下関係」という「相補関係」から離れて、両者が「均衡のとれた関係」へと向かうようにと再定義されているのです。
この同じ精神で、パウロは奴隷であるオネシモをその所有者であるピレモンのもとに送還しているのです。 それは、パウロがピレモンに対してオネシモを『もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち主にある愛する兄弟として』受け入れることを当然のこととして期待しているからです。(ピレモン書16節。 第1ペテロ2章18節以下と比較のこと)
また再び、この原則をキリストのみ心に合わせて見てみましょう。 そうすればキリストに従う者たちは、やがて奴隷たちも、奴隷制度も、またどのような姿や形を採る人間社会の人種差別であっても、それは神さまの御旨に明らかに反するものであり、イエス・キリストの福音に敵対するものである...ということを理解するようになるのです。 この確信が人間社会の受け容れられるようになり、発展して来るまでに
は、本当に長い月日がかかったのです。
また使徒パウロは同じようなやり方で妻と夫との間の関係についても語ります。
『妻たちよ、あなたがたは主に従うように自分の夫に従いなさい』(エペソ書5章21節以下)。
教会がキリストに従う如く...と比較文が用いられています。 しかし全体の文脈は『キリストを畏れ尊んで、お互いに従い合いなさい...』(5章21節)によって導入されているのです。
妻たちが夫たちに従うということはお互いに従い合うということの片面を指しているのであって、それはクリスチャンの結婚を特徴づけるものなのです。 互いに従い合うということのもう片面はと言いますと、それはキリストがキリストの教会を愛されるのと同様に、夫たちはその妻たちを愛さなければならない...ということです。それは、夫は妻のために己を捧げるということです。 そのことによって妻は夫がそうであるようになり、とりわけその輝きにおいて、染みも傷もなく、清く責められるべき一点の曇りもなく...(27節)(訳者注:以下に一部欠落あり不明)
キリストが僕(シモベ) 、召し使いの姿をおとりになったように、そして御自分を放棄なさったように...というのが、夫が彼の妻に対する関係のモデル、模範となすべきことなのです。
夫と妻との間の関係の転換とは、つまり普通一般に広く受け容れられている関係、すなわち「相補関係」または「上下関係」、別な言い方をすればアダムがエヴァの上にあって支配するという呪いの関係からの転換とは、キリスト御自身が僕の姿をおとりになったことが意味する視点で眺めた結婚、つまり夫と妻とがキリストとその教会との関係のように互いに仕え合い従い合うという「水平関係」「均衡のとれた関係」という物差しで計る時にのみ可能となるのです。
そして第1コリント7章ではこの「相互関係」、お互いに仕え合う関係というものが結婚生活における夫婦の性的関係に適用されています。 そこでは性から力を媒介とする関係、力の闘争関係を削除しています。
結婚生活におけるそのような「均衡のとれた関係」・「水平の関係」は、妻たちが新しく力による闘争に訴えて夫たちに反抗を企てるということではなく、妻たちがそうであるように、夫たちも、キリストを見習って、召し使いの役割、仕える者の地位を担うことによって可能となるのです。(第1ペテロ3章1節~7節と、7節の「共に受け継ぐ者」を参照のこと)
また更にパウロは同じ文脈の中で、すなわちエペソ書6章1節以下で両親から子供へ、そして子供から両親への関係についても語っています。 この点でもひとこと述べておきましょう。
いろいろな人間関係がありますが、それの中でも生得的に「相補関係」・「上下関係」にあるものとして親子関係があります。 この関係は、誰も否定も妥協もできない、明白に「相補関係」です。
ここでも使徒パウロは両親と子供たちを神さまの下に置き、両者がお互いに尊敬し合うように呼びかけています。 子供たちは主にあって両親に従うように勧めています。 それと同時にパウロは父親に対し子供を怒りに駆り立てるようなことがないように勧めています。 ここでパウロが母親に対してはそのような進言をしていないのです。 男というものはいろんな意味で力を振るうこと、あるいは権力を使うことが多いので、父親に敢えて一言つけ加えたのでしょう。 子供たちを怒らせるのではなく、むしろ主の教えを守り、自己節制するよう育てあげるよう勧めています。
子供たちを訓練するということは怒りや力ずくですることではないのです。『お父さんがそう言っているんだからお前は黙ってやれ!』というようなことではないのです。