創世記3章に入りますと、神さまが男におっしゃっていたことが女にも同じように当てはまる...ということを彼女自身が理解していたことが分かります。(2節)
蛇が彼女を誘惑する場面は、聖書に描かれている誘惑の描写以外にも、いろいろな描写が可能だろうと思いますが、そこで語られていることは次のようなことです。
すなわち、蛇はそれまでの彼女と神さまとの「相補関係」あるいは上下関係というものを「均衡のとれた関係」に変えようとそそのかして誘惑しているのです。
(まさにそれこそがサタン=悪魔がすでにやってしまったことであり、それが彼と他の一部の天使たちの堕落を促進し、彼らを奈落のどん底へと叩き落とし込んだ理由だったのです。)
創世記2章は、1章と同じように、誰の目にもはっきり分かるように、神さまと人との関係の本質、人から彼の主でいらっしゃる神さまへの関係の本質を定義しています。 それは決して神さまと人が対等・平等の関係ではあり得ないこと、すなわち「均衡のとれた関係」ではないことを明白に宣言しているのです。
それにも拘らず蛇は誠しやかにうそぶいたのです。 『あなたがたは決して死ぬことはありません。 あなたがたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです...』と。
この4節と5節に含蓄されていることとは、まず男と女は、何が善であり何が悪であるのかを自分たち自身で決めることができるようになることです。 そしてさらに、彼らは神さまの下にいる必要がなくなり、むしろ神さまと平等になる、神さまと対等になる、神さまと同じ土俵に立ってわたり合うことができる...ということです。神さまとの関係は、それですから、それまでのように「相補関係」ではなくなり、「均衡のとれた関係」にとって代わるということです。 このようにして男と女は神さまと彼らの関係を改めるという誘惑に屈してしまったのです。
神さまと自分たちとの関係を再定義しようとする誘惑に負けてしまった男と女は、すなわち神さまと対等な関係、同等な関係に変えようとした結果として、彼ら自身の関係、すなわち男と女との関係にも再定義の必要性を招いてしまったのです。
今までのように男と女との間に保たれていた「均衡のとれた関係」は崩れ去ったのです。 二人は、お互いに自己に目覚めてしまったのです。 そしてお互いに相手が裸であることにも気がついたのです。 二人ともお互いに自分自身が傷つき易い、攻撃され易い、弱い者であるということに気がついたのです。
そこで二人はお互いに自分自身を相手から隠すためにいちじくの葉で覆い物を縫い合わせ、自分自身を隠そうとしたのです。 そして更に、互いに相手から自分を隠そうとしただけではなく、園を歩かれる神さまのみ前から彼ら自身を隠そうと試みたのです。
彼ら自身が何をしでかしたのかを神さまに問われた時、そこで、いや、そこから、彼らは一人ずつ、おのおのが相手を責めあう、おのおのが相手を破壊しようとする、止むことのない「なすりあい競争ゲーム」を始めたのです。
そこには創世記1章でみられた支配権を共有しようとする姿勢も、また創世記2章でみた二人で一つであるという意識も完全に失われてしまったのです。
そこには、それまで彼らの共通の喜びと遺産であった生殖の歓喜にも、共に一緒に他の被創造物を支配するという祝福にも、何かしら変化が生じてしまったのです。それは、女には子供を生む時に痛みを経験するという事態が生じたのです。 そしてそれだけではなく、男に依存して生きてゆくという事態に追い込まれたのです。『しかもお前は夫を恋い慕う』とされたのです。 しかもそれだけではなく、彼女は 彼女よりも肉体的に大きく、力強い彼(夫)の支配を受ける者とされたのです。
『彼はお前の上に君臨してお前を支配する...』となったのです。(16節)
最初に二人は二人一緒に、二人で共に、彼らよりも低い地位にいた他の総ての神さまの被創造物の上に立ってそれらを支配するという関係にいましたが、お互い同士をお互いに支配するという関係にはなかったのです。
しかし、今やこの関係は転倒・転位してしまったのです。 二人で一緒になって神さまがお創りになった他の総ての被創造物を治める筈になっていた二人でしたが、今度はそれが彼ら自身に向けられてしまい、男が女を支配するという関係になってしまったのです。
ここに堕落を招いた原因とその結果というものが明らかになったのですが、それは人間生活の中に、そして人間同士の関係の中に、実に力の闘争、権力闘争というものが入り込んでしまったということです。 人間同士が互いに一緒になって他の創造物を支配するということではなく、一人の人間が他者の上に立ってこれを支配するという事態となったのです。
かつては男と女の間にあった「均衡のとれた関係」は、今や不平等な「相補関係」に、「上下関係」へと転倒してしまったのです。 そして、一人が他者の「上」に立って支配する、一人は他者の「下」にあって支配を受けるという係です。
そして更にその上下関係・権力闘争の基本的原理は人とこの地にあるものとの関係においても明らかになったのです。 それは地がいばらとあざみを生えさせ、地に働く男の顔に汗をかかせることとなったのです。 実に人の生きるということは苦労の連続となり、人間社会とは格闘・悪戦苦闘・生存競争・権力闘争となったのです。
(訳者注:この部分の原文は struggle か strugglesと思われるが、その部分とそれ以下が欠損しているので、このように判読して訳してみた。)
実際、共に治めるという「均衡のとれた関係」から、人が他者の上にいる力の闘争という「上下関係」「相補関係」なり「補充関係」にとって代わったということは、創世記3章に描写されているように、それ以降の人類の殆どの歴史を一貫して流れている特徴であると言えるのです。
卑近な例として私たちが体験し目撃するものの一つに、その力の闘争の原則・原理は、結婚の破滅というかたちで知ることができます。 そこに私たちは力の闘争原理を必然的に見せつけられるのです。
治める者と治められる者との関係においても、経営者と労働者との関係においてもそれを体験していますし、競合するイデオロギーの違いが国と国とを戦争にと叩き込むことも知っています。
キリスト教会の歴史というものも、いろいろな権力闘争の見本で飽きるほど一杯になっています。 人類の堕落以来こん日に到るまで、純粋な「均衡のとれた関係」をどのような人間の営みの中においても、それを維持しようとすることは絶えず困難なことであり、それを達成することはさらに至難の業なのです。 またそしてたとえ、仮にそれが成就されたとしても、どんなにうまくいっているように見えても、結局のところそれは不安定で危険な状態にあり、他人頼みの状態、相手次第ということで、実に不安定なものなのです。
創世記3章20節を読みますと、瞬間的に、人間の罪に対して述べられた呪いというものがどのようなものであったのかを知ることができます。 『さて、人は、その妻の名をエヴァと呼んだ。 それは、彼女が総ての生きている者の母であったからである。』 ここに私たちは転倒した力関係が始まったことを学ぶのです。
それは男が女の上にあって彼女を支配し始めたからです。 彼女を対等の者、同等の者としてではなく、彼の下にある者として扱い始めたからです。 堕落の前に彼が動物たちに名前を付けたのと同じように今度は彼女に名前を付けたのです。 彼女に名前を付けることによって彼は彼女の存在そのものと彼女の役割を再定義する特権、君主としての大権を行使したのです。 彼女を「エヴァ」と命名することによって彼女が子供を産むという生物学的機能との関連で彼女の役割を再定義したのです。
こうして今や支配権は彼一人だけの手にしっかりと握られた...と思えるように見えるのです。
男が女の上に支配権を持つ、権威を持つということは、こうして堕落以降の人類の歴史の中で、一部の例外を除き、ほぼ確定的なものになったと言えます。 それは人が神の下にあるという「補足関係」を神さまと対等な、同等な「均衡のとれた関係」に変更しようと試みた時から起ったものであり、その結果が天地創造の時に設けられ た男と女との間の「均衡のとれた関係」を転倒させ、不平等な「上下関係」なり「補足関係」に変え、人類の歩みを、人の生涯を、絶えることのない権力闘争の関係にと置き換え、争いで満たしてしまったのです。