1. 創世記1章
男と女との間の関係の聖書的理解は、まさに「初めに...」という創世記1章1節の句で始めるのが一番相応しいように思えます。 神さまが御自分の姿に似せて私たち人間を創造なさろうとお考えになったその時のことを、私たちは創世記1章26節で知るのです。
『我々に似るように、我々の形に、人を創ろう。 そして彼らに、海の魚、
空の鳥、家畜、地の総てのもの、地をはう総てのものを支配させよう』と
仰せられた。
神さまに似て、神さまの姿に似た存在(すなわち人間)を創り出すという神さまのお考えと分けては考えられないことは、その存在が創造された他の総てのものを支配するということです。 すなわち、創造された他の総てのものはその存在の下にあって支配される、その存在が他の創られたもの総ての支配権を持つということです。
それですから、支配するということは、支配権を持つということは、神さまの似姿を担う者であることを構成するのに絶対必要な部分であるということです。
その日その日の創造の典型的なパターンを考えますと、神さまの御声が発せられた直後に必ずそこに神さまの完成させられた創造のみ業(ワザ)を見ることができます。
『神はこのように人を御自身の形に創造された。 神の形に彼を創造し、
男と女とに彼らを創造された。』(創世記1章27節)
人間が創造された時のことを考えてみますと、人間が男と女とに創られたことと、人間が神さまの似姿に似て創造されたということとには、二つとも切っても切れない関係があるということが分かって来ます。
私たち人間の生きざまにあって、男と女の関係というものは、ある意味において、神さま御自身の存在の姿や似姿を反映させているとか、神さま御自身の姿に似ているとも言えるのです。 神学的にですが、26節の「我々に」という言葉の内に三位一体の教義を垣間見るのです。 三位一体、すなわち、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神という、はっきりした三位がいらっしゃるのと同様に、何らの混乱も全くなくその三位は一体であり、三位はお互いに対して同等であるのです。 そのことから、
神さまの似姿に似て創造されている私たち男と女も、男と女という、お互いに対してはっきりとした違いを持ちながら、しかも私たち男と女はお互いに対して同等であると推測することができるのです。 男と女は共に一緒になって、一緒であるということにおいて、神さまの祝福を受けることができ、また、共に一緒であることによって『生めよ、増えよ、地を満たせ...』という28節の命令を頂いたのです。
この生殖の祝福と命令には、しかしながら、そのあと、更に入念な祝福と命令が追加されているのです。 すなわちそれは『地を従えさせよ。 地の上のあらゆる創られたものを支配せよ。 海の魚も空の鳥や地を這う総ての生き物も、食物として与えられる植物類をも支配せよ...』という更なる祝福と命令です。 ここで強調しなければならないことは、支配の特徴、支配の性質、支配の内容だと思います。
まず最初に、この支配は神さまから人間に与えられたものです。 ここにこの支配を与えて下さったお方、この支配の源泉を覚えます。 このお方は総てのものの主である神さまであり、神さまの似姿を担う私たちを今もなお支配なさっている主でいらっしゃるのです。
ここで、支配する者と支配される者との関係、すなわち他者の上にある者と、他者の下にいる者との関係を*「相補関係」と呼んでおきましょう。
(*訳者注:私たち日本の読者に理解し易い言葉としては「上下関係」「主従関係」「優劣関係」「縦関係」などがあると思いますが、それらは著者の意図を正確に表現するものではありません。 そこで原文 complementary relationship の表す意味、「補足的」「補充の」「相互補足関係」「相互補充関係」「互いに補足し合う関係」などの言葉の中から「相補関係」が一番短いので以下そのように使用します。)
それに反し、*「二者またはそれ以上のものが同等の状態にある関係」、「左右が相称的な関係」、「体や全体が釣り合いのとれた均整のとれた関係」を「水平関係」とか「対等関係」とか「同等関係」と訳したほうが分かり易いかも知れませんが、ここでは敢えて「均整のとれた関係」と訳します。 そのほうが著者の意とされる symmetrical relationship をより良く表現していると思います。)
「相補関係」という上下関係を表す言葉は少しぎこちない響きを与えますが、「均整のとれた関係」という用語と共に、私の文章では最後まで出てきますのでそのように御了承願います。
この意味で、三位一体の三つの位、三つのお方の間の関係は「均整のとれた関係」と呼ぶことができます。 父なる神、子なる神、そして聖霊なる神は、三位一体において同等の地位をお占めになっています。 しかし、神さまと神さまの似姿を担う者との関係は、創世記1章において、明白に「相補関係」にあるとお分かり頂けると思います。 神さまは神さまの似姿を担う者たちの上にいらっしゃいますし、人間は神さまの下にいるからです。 それと同様に、神さまの似姿を担う者と、この地との関係、この地の上を這う総ての創られたものとの関係も「相補関係」にあるのです。人がそれらのものの上にあって支配しているからです。
第二番目に、1章26節~28節で明白で重要なこととは、神さまの似姿を担う者に与えられた支配権というものは、男に対して与えられたものであると同時に女に対しても同様に等しく与えられたものであるということです。 それは片方がもう片方に対して支配権を持つということではないのです。 女が男の上に支配権を持つということでもなく、男が女の上に支配権を持つということでもないのです。 支配権というものは男と女に対し一緒に与えられたものなのです。 そして男と女が一緒になって、この地とそこにある総ての創造物に対して支配権を行使するという体験を共有するために、二人で一組としての男と女に与えられたものなのです。 これこそ本当にパラダイスです! ここでは片方がもう片方の上に支配権または権力を持つということはあり得ません。 ここでは明らかに一人の人間が他者との間で権力闘争をする必要がないのです。 ここでは男と女との間での力の行使の必要は存在しないのです。 それは後になって創世記3章で出て来ることなのです。 少し前に述べました用語を使ってみますと、創られた者としての男と女の関係、そして神さまの御旨によってそのように創られた男と女の関係というものは、それですから、「相補関係」では決してなく、むしろ「均衡のとれた関係」なのです。
こん日、私たちが女性について語り合おうとしている時、ここ迄に述べて来ましたことがどのような意味を持つのかということですが、初めに男と女が同等に創られたということ、神さまが彼らに、すなわち男と女に、分け隔てなく公平に支配権を託されたということと、その支配権を男と女が一緒になって公平に担うことを意図されたということ、そして男と女がお互いに他者の上に支配権を行使しないことなど、総てこれらのことを考慮にいれなければならない...ということになるのです。
女性は、創世記1章によりますと、男性と同様に、生得の本来備わっている可能性として支配権を行使できる存在なのです。 それは男性とて同じです。 その両者が神さまから等しく支配権を、神さまがお創りになった総ての創造物の上に、共に一緒の状態で行使するようにと任じられたのです。
それですから、創世記1章によりますと、神格・神性というものの中に私たちは「均衡のとれた関係」を見いだす一方で、神さまと人間との間には「相補関係」を見るのです。 そして更に、男と女の間において「均衡のとれた関係」を見いだす一方で、男と女とが一緒にあることにおいて、共に担って支配権を行使するということにおいて、その他の総ての被創造物との関係で「相補関係」を見いだすのです。
『そして、それは非常に良かった』(31節)のです。
2. 創世記2章
天地創造物語は2章4節以下で再び語られていますが、共通点もあれば異なった点もあります。 創世記1章においては、神さまの壮大さというものが神さまの御言葉の力という形で描かれています。 御言葉が創造の業に携わることでその真の威力を発揮しているのです。 そして御言葉による創造の最高点として、創造の業の冠として、神さまの似姿を担う者として男と女が描かれています。 そして更に、神さまがお創りになった他の総ての創られたものの上に男と女が共に、一緒になって支配権を担っているのです。 しかしながら、創世記2章においては、人と、人が神さまの創造的備えに対しどのように関わってゆくのか...が明らかにされているのです。
2章の幕が開きますと、舞台には命のない不毛の土地が出てきます。神さまは霧によって湿気を与えられ粘着力を得た地の塵埃から人を形造り、命の息を人の中に吹き込まれました。 そこで人はその両目を開いて周囲を見回し、命の知覚によって陽気になってゆく過程とその姿を私たちは容易に想像することができます。
しかし、人は、それでも自分が一体誰であるのか、そしてそのことが一体全体何を意味するのか、自分には何が求められているのか...、そのようなことで戸惑っている姿を想像できるのです。 なぜなら、それは人間が絶えず問い続けていることだからです。
次に神さまは、東の方に園を設けられます。 人間の五感には楽しくてたまらないような園です。 そしてそこに『主は主の形造った人を置かれた』のです。(8節)
そのような過程の中において人は神さまの備えの思慮・意義というものをどのように体験したのでしょうか! もちろん人にとってすでに明らかなことは、人は彼の創造者であり備えをなして下さる神さまと「相補関係」にあるということです。
しかしこの上下関係の本質というものは、主なる神さまが人に対し、園を耕し、園を守ることを命じられたことと、園のどの樹になる果実でも楽しんで食べて良いという許可を与えられたことと、更にまた人が死ぬことのないように、善悪を知る樹の果実だけは取って食べてはいけないと禁じられたことなどから明白なことであったのです。
創世記1章と同じように、神さまと人との関係は間違いもなく「相補関係」として設定されています。 すなわち、神さまは人の上にいらっしゃる主であり、人はその創造者に対して従う義務を負う者としての存在であること、彼の創造主から委ねられた仕事をするということで明らかです。 それと同じように、人と園との関係も人が園を支配するということで、同様に「相補関係」にあるのです。
そのことをここでは仕えるという形が表わしています。 すなわち、園の中に生えるどの樹の実でも楽しんで食べながら、同時にその園を耕しそれを守るということで神さまに服従するのです。
これら総てのことにもかかわらず、そして人が人自身の必要や感覚を完全に気付く前に、主なる神さまは人の胸中に開いた穴の痛みを既に認識されていたのです。そして神さまはここで『良くない』と宣言されたのです。 すなわち人が独りでいるのは良くないとおっしゃったのです。 神さまは、私たち自身が私たちの求めや必要を認識する前にすでにそれらを御存知であり、すでに行動に移されるのです。
創世記2章全体の物語は、神さまが人のためにいろいろと備えをなし給うこと、この世において人が必要とするものを総て必ず備え給うということに向かって次第にその歩調が昂り強くなって行くという筋書きなのです。 人が心ごち良く住めるようにと、人が住み易いような世を念頭に、神さまがいろいろな備えを用意して下さっているというシナリオです。 これが創世記2章です。
人が人の必要を意識した時、主なる神さまは地の塵埃からいろいろな動物を創造なさいました。 それは神さまが人をお創りになったのと同じようにです。神さまはお創りになったこれらの動物を人のところに連れておいでになりました。今や人は多くの点で彼に似ている被創造物によって取り囲まれることになりました。それらの動物は園の樹木とは全く異なるものです。 生きていますし、動き回ります
し、呼吸をしているのです。 頭もあり、首もあり、手足がくっついた胴体もあります。 主なる神さまがそれまでにも増して人のために用意して下さった神さまの備えを前に、人がその時に経験したであろう狂喜の状態を、私たちは何となく良く分かるように思うのです。
しかし、それらの動物は人がそれにどのような『名を付ける』かどうかをみるために人のところに連れて来られたものでした。 それが何という名であれ人が付けたものがその動物の名前になったのです。 他の創られたものに名前を付けるということは、その創造物の上にあること、権威なり支配権を持つということを意味します。
他人が私たちに、たとえ私たちが子供であっても成人であってもです、勝手に名前を付けたりレッテルを張ったりしようとすれば、私たちは良い気がしないという理由の一つに、このようなことがあるのかも知れません。 どのようなあだ名であってもレッテルであっても、私たちにそのようなことをしようとする人は、その人が私たちの上にいる人、私たちに権威や力を持つ人と認めさせようということになるのです。
話しを元に戻して、人が動物たちに名前を付ける作業が終わった時、それらの動物のどれも人の助け手としては相応しくないものだったのです。 なぜなら、それらは人の「下」にあるものだったのです。 人はそれらの動物の上にあって「補充関係」もしくは「相補関係」にあったからです。 そして、人は依然として独りだったのです。
人を創り給うた創造主なる神さまは引き続き人の求め、すなわち彼が独りでいるということを充分に御存知でした。 今度は、人が眠っている間に、主なる神さまは人の脇腹から「一つの存在 one being」をお創りになり、それを「女 women」と認識された(identify)のです。(22節)
女が人(または男)のところに連れて来られた時、人(または彼)は有頂天になって歓喜の声をあげて彼女を認識した...と23節は語ります。
『遂に、これこそ私の骨たちの中の骨、私の肉の中の肉だ!
男から彼女は取り出されたのだから、彼女は女と呼ばれる』
この劇的な創造物語は人(または男)がただ独りで立っているという筋書きでまず始まります。 そしてそこから神さまがお創りになった他の被創造物(人が名付けた園と動物たち)の上に人(または男)がいるという筋書きへと展開して行くのです。
そしてこの創造記録は、人(または男)に文字道理ぴったりの人(訳者注:またはこの場合女・存在・他者)を神さまが彼のために備えて下さったということで最高潮に達するのです。 すなわち、真に一体であり同等な者と認識することができて、瞬間的に何らのためらいも羞じらいもなく抱擁することができた、対等の相手だったのです。 ここについに、それまでの彼と彼を創造なさった神さまとの関係、または彼よりも低いところに置かれていたほかの被創造物との関係を表す「相補関係」」、言い換えれば「上下関係」ではなく、ここで初めて彼と対等な関係・「均衡のとれた関係」にある「人」(訳者注:共なる人格を有する他者)と出会ったのです。
二つの創造物語は互いに対立したり矛盾したりするものでは決してありません。むしろ、その二つの創造の物語は、その二つの底辺に潜んでいる共通の調和を、実に美しく浮上させているのです。 両方の創造物語において主なる神さまは創造の初めから終わりまで、創造の総てにおいて創造主としてずっと存在され君臨されているのです。 もちろん創造主の似姿を担う者たちの上にもです。
二つの創造物語の総ての詳細な部分にいたるまで、すでに私たちが使ってきました用語「相補関係」を示しているのです。 すなわち、神さまと人との関係です。
主なる神さまと、その神さまに創られてその下におかれている、仕える者としての僕(シモベ) との関係を指し示しているのです。
それと同様に、二つの創造物語において、その細部に到るまで、一組とされた人間が他の創られた総ての被創造物の上に高く挙げられて意気揚々としている状態を示しているのです(詩篇8篇と比較)。 そしてこれも、もう一つ別の「相補関係」を表しているのです。
そして同時にこの二つの創造物語は、その詳細部分に到るまで、無比無類の関係、すなわち独特の「均衡のとれた関係」を強調しているのです。 男性と女性との間の同等性、男と女との間の認識された対等性、認められた平等性を表しているのです。