私 は 兄 弟 の 世 話 人 で し ょ う か ?(16)


★    マタイ傳5章9節で、私たちはイェスによって、「平和ならしむる者」とされいます。 13節と14節では「地塩世光」とされています。 ルカ傳22章26節でイェスは、私たちが「仕える者になるべきだ」と諭されています。使徒パウロの福音理解によれば、私たちは「和解の福音の使者」とされています。コリント後書5章19節がそのように証言しています。 創世記4章9節は、私たちは「兄弟の世話人、面倒を見る人 care taker である」と教えています。 

★ これとは別に、イェスが言い残された、別の重要な内容を含むものがあります。普通一般に「主の祈り Lord's Prayer」と呼ばれているものです。マタイ傳6章9節から13節に記録されています。 

 最初の部分は、天にいます神を崇め、神の平安がこの地上にも在るようにという祈りです。 次の部分は、地上に在る私たちの問題に触れています。 その中で、私たちに負い目を負っている者を私たちがまず赦しましたので、私たちの負い目をもどうかお赦し下さい...」という部分があります。 

 これを根拠に、日本の牧師が、韓国教会に対して、あなたがた韓国教会が最初に日本を赦しなさい!...と語ったことを聞いたことがありません。アメリカの宣教師がそのように説教したことを韓国で聞いたことがあります。大切なことです。 韓国のクリスチャンたちも、日本のクリスチャンたちも、考えたことがないか、或いは考えていても到底口に出せない種類の祈りだと思います。 しかし、この祈りはとても重要な点に触れていると思います。

 通常では加害者側が被害者側に対して、「あなたがまず私を赦しなさい...」などと要求できる筋合いのものではありません。 加害者が被害者に謝るのが先だからです。日本側が韓国・北朝鮮側に対して、「お前が先に赦しなさい」と要求することなど考えられないことです。 相手の怒りをますます買うことになりましょう。
 
 しかし、「この世に在りながら、この世に属していない者」とは、十字架の福音に触れた者、罪赦され、神の子とされ、永遠の命を与えられ、神の家族の一員とされた者、十字架と主イェス・キリストの再臨を切望する者は「天国に国籍がある者」だとコリント後書4章18節と5章7節、そしてピリピ書3章20節が教えています。
 
 このことから、キリストにのみ属する者とされている私たちは、同じようにイェス・キリストに在る韓国と北朝鮮の兄弟姉妹たちに対して、赦すことがイェスの福音の一部であることを思い出していただくようにお願いする智恵と勇気が必要であるように私は思うのです。 相手の兄弟姉妹に、そのように少しずつ話しかける雰囲気を作り出す努力を、謙虚に、誠実に、真剣に語りかけるよう努力をしています。 それは主イェス・キリストに在る者の特権と責任だと考えているからです。 「主の祈り」の一部であり、人間関係に関する最初の祈りの部分だからです。マタイ傳6章12節に記されている主の祈りは、ルカ傳11章4節にも記されています。

 この祈りを実現するためにも、私たち加害者である日本人が、被害者に対して日本の罪の赦しを具体的に述べて、誠実に赦しを求める必要があります。 真摯な赦しの求めに対して、謝罪の内容を納得した被害者側が赦しの念を表すことで、初めて和解が成立するものと私は考えています。 口先だけの謝罪ならば、相手側は鋭敏に察知します。 そこには完全な和解は成立しないでしょう。 

 このことが、マタイ傳9章17節でイェスが語られた「新しい皮袋」に「新しい酒を入れる」ことに繋がると思います。 国家がやらないことを、やれないことを、やりそうもないことを、主イェス・キリストに在る者たちが、キリストの弟子たちが実践することで、託された「地塩世光」の責任と特権を発揮できるものと私は考えます。 日本の教会が真剣に考える必要があると考えています。 如何でしょうか?

 真の和解とは、まず自分の犯した罪を、痛みと悲しみと共に深く自覚し、そのことに対して相手側に誠実に詫びることから始まると信じています。 表面上の、形式的な謝罪では意味がありません。 事態を悪化させるだけでしょう。
 先に述べましたが、独逸のワイツゼッカー大統領のような優れた政治家が日本にも、韓国にも、北東アジアの国からも現れて来ないということは大いなる悲劇です。そのような土壌の中に生きている私たちも不幸です。 聖書信仰が問われています。
 誠実に詫びて、相手側が納得して謝罪を受け容れてくれ、お互いが心からそのことを喜び、お互いが感謝できるような、明るい将来を夢見ることができるような和解を求めたいと願っています。

 国家というものは、その性質上、自国の利益のみを追求し、先行させるものです。日本がアジア諸国に行った国家犯罪の愚行に対して、日本政府が行った謝罪方法というものはカネとモノで解決を図ったということです。 それ以外に政府としては方法がないのかも知れません。 北朝鮮に対しては謝罪すらしていません。 

 国と国が対立しても、争っても、国民同士がおのおのの国の言うことを鵜呑みにして追従する必要は毛頭ありません。 このことを私たち「地塩世光」である者たちはよく洞察する必要があります。 国民と国民同士は、国家間の争いに左右されないで、国家に洗脳される必要もなく、相互に理解、相互に敬愛しあうことが出来るはずです。
 太平洋戦争中、日本の教会は、国家権力に屈して、宮城遥拝をし、君が代を歌って日曜礼拝らしきものを何とか維持できました。 その間、アメリカの教会では日本のために、日本の教会のために祈っていたことを私は教会史の学びの中で発見しました。衝撃でした。 日本の教会が、北朝鮮のクリスチャンのために祈っているのを聞いたことがありません。 異常なことだと、私は個人的に考えています。

 またさらに、国家が犯した国家の犯罪を一人の個人が償うなどということは到底不可能なことですし、またそうあってはならないことです。 為すべきことではありませんし、出来ません。 しかし和解と相互信頼と相互敬愛の作業は、国民一人ひとりにできることです。 これは特権と使命であろうかと考えています。 そのような個人個人の小さな苦労の積み重ねが重要な役割を果たすものだと確信しています。

 個人個人が相手の個人個人に誠実に対応することで、少しずつ相手のトラウマを癒すことができると、私は私自身のささやかな体験からそのように学び、そのように確信しています。 創世記4章9節の問いかけをどのように実践するかということです。

 創世記4章9節に、「私は兄弟の世話人、介護者 care taker でしょうか?...という問いかけがあります。 私たちクリスチャン一人ひとりの答を要求している問いかけだと思っています。 北東アジアの教会が、とりわけ日本と韓国・北朝鮮とその教会が、この聖書箇所と真剣に取り組む必要があると、私はそのように考えています。

 大きな教派や教団の改まった集会で、口先だけで日本の国家が行った愚行に対して、また、それに同調した戦時中の日本の教会の姿勢を自己反省して、聞こえのよい声明文を発表して、それでお茶を濁すというような姿勢では何も解決できません。そこから先の具体的な行動が生まれた...継続している...などと、そのようなたぐいの話をめったに耳にしたことがないのです。 絵に描いた餅でアジアの被害者たちを騙すことも、その傷を癒すことも不可能だと思います。 日本教会は口先が達者です。

 ガラテヤ書6章には三つの十字架が隠されています。 己が背負うべき十字架、他者の十字架、そして主イェス・キリストの十字架です。 「兄弟の世話人 care taker」である私たちには、この示された三つの十字架の意味を考える必要があるようです。