★ 私が最初に韓国を訪問したのは1968年夏でした。 その夏にもう一度訪問したのかも知れません。 厳しかった空の旅でしたが、ソウルから釜山までを大韓航空機で往復したことや、翌年夏には提川ジェチョンを訪ね、蚊の大群に襲われながら一週間を過ごした記憶があります。 こん日では想像出来ないほど疲弊しきっていた韓国でした。 日本の植民地政策と、解放後の朝鮮動乱の悲劇を具体的に目撃しました。
現在でも、基本的な変化を感じることができませんが、その当時の韓国人の日本と日本人に対する憤りの姿勢は実に厳しいものであったと記憶しています。 1970年代初期においても厳しかったと思います。 特に日本軍や日本警察によって受けた酷い扱いを自分自身のこととして記憶している中年以上の人々の態度は厳しいものがありました。 教会堂の中で、説教台の前で、出席していた多くの人々に向かって、日本の侵略の数々の蛮行に対して謝罪を要求されたこともありました。 辛い通過儀式の時間でした。 ホーム・ページに「申玉女シン・オクニョ 」姉が書き遺された日本官憲による具体的な迫害回想文を紹介してあります。 彼女に接し、お話を伺い、胸が詰まったことを記憶しています。 『申玉女シン・オクニョ勧女クワンニョ略歴』をご覧下さい。
申さんだけではなく、スラムでも、衣服を脱いで、腕や胸や背中に残されていた傷を具体的に示したうえで、日本官憲による拷問や脅迫の話を幾度か聞きました。
少なくとも1970年代中期までは、中年以上の韓国のかたがたと話をするときには、私なりに智恵をしぼり、その人の年齢や出身地などを瞬間に推測するか、あるいは時には直接、または間接的に尋ねたりして、その人がどの程度の対日悪感情を抱いている人であるのかを秘かに推測し、誠実に平身低頭の姿勢で、彼らの深い「恨ハン」の叫び声に耳を傾けるように努めました。 日本人に個人的に叫びたかったのです。 それぞれが私に見せた、「拷問された」という傷跡など、痛ましいものでした。
国家による犯罪行為を、個人が代わって償うことも、詫びることも出来ないものですが、それでもそのような場合には、ひとりの日本人として個人的に詫びる以外に彼らの心に残されていた深い傷、トラウマを和らげる術はないと理解していました。
その人の年齢によって、日本帝国官憲による取扱い方法のほかに、どのような教育過程を経たひとであるのかなどを察知することが重要だと、緊張する場面を介して学ぶことが多かったように思います。
その人の出身地を知るということは重要だと、私なりに考えて接しました。
朝鮮動乱勃発直前に北から南に逃れてきた人なのか、朝鮮戦争中に中国義勇軍が越境して来て釜山近くまでアメリカ軍を中心とする国連軍や韓国軍を押し込めたときに退却する国連軍・韓国軍に付随して南に逃れた人であったのか、もともとソウル市を中心とする京畿道の人なのか、忠清道チュンチョンドの人なのか、慶尚道キョンサンド、=(嶺南ヨンナム)の人なのか、全羅道チョッラド=(湖南ホナム)の人なのか、はたまた済州島チェジュドの出身者なのか...それらをすばやく見抜く必要がありました。 年配者には直接尋ねないで、その人が語る方言に耳を傾ける必要もありました。 比較的年齢の低い人には出身地を尋ねることは容易でした。 また、その人の教育的水準を知ることも重要な要素でした。
出身地を知ることによって、その人が日本統治にどのような感情を抱いているのかなどを判断する材料の一つにできたからです。 また、その人が他の韓国人に対してどのような感情を抱いているのか...そのようなことの判断材料になりました。
何しろ慶尚道(=嶺南)と全羅道(=湖南)の熾烈で露骨な対立は三国史記、すなわち、現存する朝鮮最古の50巻からなる文献で 、1145年に完成した記録に記されているほど古い地域別対立、そして人種的対立も、遡って記録されているものです。
三国史そのものは、新羅シッラ、高句麗ゴクリョ、百済ペクチェの三国を扱った歴史書です。 韓国・朝鮮といえども、アジア大陸の一部を形成しているのです。 島国ではないとうことです。 そこには有史以前から人種の移動や対決の歴史があったということです。
私に向かって嘗ての大日本帝国による植民地支配時代に受けた屈辱のトラウマを一気に吐き出そうとする年配者に対しては、その人の受けた教育の内容をその人から割り出そうと秘かに試みました。 ちょっとした何気ない会話から推測できました。
日本支配下で日本が朝鮮人の皇民化の一環として強制した創始改名という、朝鮮人にとっては侮辱的・屈辱的な日本の要求を体験した年齢の人なのか、日本語の使用を小学校時代に強制させられた人であったのか、それとも日本の植民地支配から解放された直後に初代大統領に就任した李承晩イ・スンマン大統領による徹底した反日教育を受けた人なのか、祖父母や両親が日本人によって屈辱的な体験を受容させられた人なのか、あるいは、そのような苦しい不幸な体験談を聞いて育った人なのか......を即座に推測する必要がありました。 訪韓ごとに絶えず緊張を迫られた時代でした。
余談ですが、創始改名のことである知的な韓国人は、「どうせオイラは植民地支配を受けいれなきゃなんない側なのさ。 屈辱的な要求を逆手にとって大いに楽しんでやろう」...という発想で創始改名に応じたそうです。 「犬養健太郎」と創始改名しました。 「犬」は、オイラは日本帝国にとってはイヌ同然だ...という意味です。「養=カイ」を敗戦までの日本では、クヮイと発音していました。 朝鮮語で犬をクゥエkwaeに近い「ケ」と発音しますのでクヮイとクゥエは通じます。 イヌのことです。 「帰れ!」を早口で言うと、ケエーレとなります。 その発音に近い音です。 「健」も「犬=ケン」と発音が同じです。 「太郎」は、当時の日本で犬を呼ぶときに多かった呼び名です。 つまり、犬養健太郎は、イヌ・イヌ・イヌ・イヌという皮肉です。 自分自身をアメリカ人の前で「ジャップ」と呼ぶのと同じ発想です。
1970年初期から中期までは、相手の出身地や年齢を常に意識しながら、誠実で謙虚に対応する必要があったと記憶しています。 現在では、日本帝国主義の悪夢を体験された韓国人の多くが他界されましたので、ある程度は楽になったと感じています。
これからは、どのようにして不幸な過去を乗り越えて、肯定的な日韓関係を構築してゆけばよいのか...このことに努力を払うべきだと思います。 しかし、日本側は、嘗て日本が韓国・朝鮮を蹂躙したという歴史理解と認識を基本的に堅持すべきでありましょう。 そして、いろいろな面で日本という国家権力が、韓国民に対して充分な償いや謝罪をしてこなかったのではないか...という疑念を持ち続ける必要があるように思います。 とりわけ、北朝鮮に対しては、日本人拉致を糾弾するだけで、全く何も償いをしていないという現実を忘れてはならないと、私は、そのように考えます。
★ 次にまた韓国・朝鮮内の地域闘争や差別に話を戻します。私は朝鮮史・韓国史を学んだことが全然ありません。 50数回にわたる個人的な訪韓で得ました旅行体験だけが頼りです。 耳学問、目学問、舌学問、足学問、手学問の範囲を出るものではありません。 主観的なものであり、専門学術書ではありません。この点をどうぞ充分にご理解願いますし、多くの誤りがあると思いますのでお詫びを致しておきます。 いろいろとお教えを賜りたいと願っています。
日本の植民地統治から解放されて樹立した韓国の李承晩イ・スンマン大統領の政権を軍事クーデターで奪い取り、強権弾圧軍事政治を行った慶尚道出身の朴正煕軍事独裁大統領が、全羅道に対する露骨な差別政策を採ったことで、両道の地域対立をさらに激化させました。 この朴正煕政権を引き継いだ、同じ慶尚道出身の全斗煥チョン・ドゥファン軍事独裁大統領が、結果的に光州事件(5・18事件)を生み出しました。少なくとも私個人はそのように理解しています。 もちろん慶尚道人が同意するかどうかはわかりません。 きっと同意しないで、彼らなりの弁明をすることでしょう。
そののちも、そしてそれは現在に到るまで続いていると見ていますが、慶尚道出身の盧泰愚ノ・テウ軍事大統領、金泳三キム・ヨンサン大統領、金鐘泌キム・ジョンピル(KCIAによる金大中拉致事件責任者 ?)など慶尚道出身者の歴代のお偉方たちが、全羅道出身の故金大中大統領と全羅道に対する露骨で熾烈な対立と差別政策が現在に到っても続いているように私には見えます。
私たち日本人には、坂本竜馬時代の政情よりも理解するのが難しい、徹底した地域対立姿勢です。 部外者を排斥・排除する思考であり、現実のように思えます。 北東アジアと地続きの、長い抗争の歴史を抱く朝鮮半島なのでしょう。
古くは李氏朝鮮時代に遡ることですが、例の北朝鮮の貨客船マンビョンボンの基地で有名な、現北朝鮮北東部の威鏡道ハムギョンドに対する偏見と差別は昔から厳しいものがあったようです。 「奴らと喧嘩をすれば、奴らは13年間も忘れないで攻撃して来る...」といわれているほど、南の人間は威鏡道の人を忌み嫌い、信用しないと言われてきました。
また、現北朝鮮北西部、黄海に面した、中国と国境を接している平安道ピョンヤンドに対する南の偏見と差別や蔑視も厳しいものがあったそうです。 (この場合の「南」というのは、現在の南北分裂後の南=大韓民国という意味ではありません。 為念)
ソウルを中心とした「南」の人間は、北の人間を官僚に迎えるなどということは絶対にありえなかったようですし、嫁女を北から娶るなど、とんでもないことであったようです。 こん日では、これに現在の南北対立・不信感が、古くからの地域差別意識に拍車をかけているのではないかと推測しています。
いくどか申しておりますが、兎さんのような格好をした朝鮮半島は、頭の部分に相当する北限を、鴨緑江アブノックガンと豆満江ドゥマンガン という二つの流れで自然の国境線を築いて、対岸の中国と、北東部のごく一部はロシアと接しています。 このため、北東アジアの部族や民族が長いあいだにわたって二つの川を渡って南に侵入して来ました。 現在の中国北東部には朝鮮人の広い自治区があります。 間島地区と呼ばれています。 朝鮮人の往来が古くから盛んであったしるしです。 こん日のように国境意識が存在しなかった時代から、たとえば前漢時代には夫余プヨとか、鮮卑センピとか、沃沮オクソなどという部族が居たようですし、唐の時代には高句麗ゴクリョウなどが、朝鮮半島と地続きで現在の中国北東部に居ました。 沃沮は東沃沮と北沃沮というふうに二つに分かれていたといいます。 掲婁ユウロウ ?という、耳にしたことのない部族もあったようです。
通古斯ツングース族や、すでに紹介しました鮮卑族はアルタイ語系統の民族もいました。 契丹キッタン族や女真チョシン族や満州族をも網羅した勢力で、狩猟や漁労に従事し、トナカイや牛馬の飼育もやっていたようです。 侵入して来た騎馬民族の蒙古人もいました。 13世紀に日本を侵略しようとした元寇の張本人の蒙古人たちは現在のハンガリーや北欧までその機動力を用いて制圧した騎馬軍団民族です。
もちろん、中国勢力の侵入は長く続きました。 現に、北朝鮮は中国に頼らなければ生存できないような関係にいます。
私たち日本人にとって殆ど聞いたことのない北東アジア民族が蒙古や旧満州などで勃興を繰り返していたようです。 朝鮮半島に住んでいた諸部族・諸民族も川を越えてそれらの地域に入り、交易し、結婚もしていたものと想像します。 そのような位置関係に朝鮮半島は陸続きで繋がっているのです。
これらの諸民族の侵入や往来で、たくさんのサマリア人が生まれて来たものと思います。 南のほうの人々が、北のほうの人々を信じない理由に、南進してきたこれら「野蛮人」の血を引く者たちが北に多い...ということがあるのかも知れません。
南のほうに居た新羅シッラと百済ペクチェが、北の高句麗ゴクリョ族に対する不信感と反抗心を無視することはできないと思います。 脱亜入欧を果たして久しい日本人にとって、隣国とその周辺の歴史を学ぶ折が少な過ぎるように思います。 それで難しいのでしょう。 なお、英語のコリア Koreaは、高麗コリョから派出した言葉です。