★ 話がばらばらで恐縮ですが...
韓国・朝鮮内のことに関しては、とりわけ政治や経済などの話題に関しては、どちらの地方の人と話をしているのか、どちらの地域の人から話をきいているのか...このことを確かにしておく必要があるように私は考えています。 極めて重要な注意点であり、微妙な要素だと思います。 いくどもすでに申しましたが、私は韓国史・朝鮮史を学んだ者ではありません。 耳学問、目学問、舌学問、手学問、足学問という雑学を1968年からの初体験を通して独りで勝手に考えながら蓄積しただけです。
古くから、少なくとも新羅、百済、高句麗の三国の時代から、ほとんど千年ほど前からの地域別対立抗争、地域差別蔑視感情などを充分に学習したわけでもありません。しかし、これを無視・軽視すると、韓国人・朝鮮人の心や文化などを充分に理解できないのではないかと考えています。 それから、在日コリアンの場合、あとで述べますが、済州島ということの歴史的位置付けをしておかなければならないでしょう。
追い追い述べるつもりですが、朝鮮半島の歴史と、朝鮮半島内の地域抗争を理解するのは、私のように韓国学・朝鮮学 Koreanologyを一度も学んだことのない者には、実に難しいことです。 しかし、次第に理解し始めたことは、自分がどちらの地域の出身者と話をしているのか...ということです。 そのことによって、同じ出来事を、違った角度で眺めることができます。 もちろん、或る程度の偏見を聞くことにもなります。 結論づけるのは最終的に自分の判断となりますが、難しいものです。
現在の南半分、すなわち韓国内でも、慶尚道人と全羅道人との政治的対立は極めて熾烈なものがあります。 金大中、金泳三、金鐘泌という「三金」による政治闘争はこん日に到っても公然と熾烈に闘われています。 どちらの出身者なのかで話は天地ほどの、あるいはそれ以上の違いを招くときもあります。 前者は差別されて来た全羅南道出身で、朴正煕軍事独裁政権時に韓国中央情報部、通称 KCIA または「南山」の手によって神田から拉致された金大中、拉致責任者だとされているのは慶尚道出身の金鐘泌です。 金鐘泌は同じ慶尚道出身の朴正煕大統領の指示か暗黙の了承を得て拉致実行を命令したと考えられています。
朴正煕軍事独裁大統領が韓国民主化運動を訴えていた金大中を拉致したということで、日本では金大中に同情的な傾向があります。 金大中は北朝鮮を訪れ金正日とも面会していますし、北に対して「太陽政策」を採っていました。 ノーベル平和賞を受賞しています。 慶尚道の人々には好まれていない人物です。 光州事件のときには、慶尚道出身の全斗煥軍事独裁大統領によって死刑判決を受けた人物です。
個人的なことですが、拉致されてソウルで自宅軟禁中に、私はKCIA 監視下の金大中さんの自宅を訪問し、今後の日韓のグラス・ルート運動について40分ほど教えを受けたことがあります。 規模の大きな人物との印象を受けました。 ローマ教会員です。
このような政治的、地域的対立経過と差別蔑視の歴史を長年にわたり引きづって来た背景がある光州を今回訪問しました。 嘗て素通りしたことがあったかと思いますが、今回は初めて光州訪問を目的に訪韓した次第です。
光州市内で、光州事件についての情報をいろいろな人々から聞くことができました。しかし、皆さん光州人、全羅南道人です。 その全羅道人からの説明ですので、多少の躊躇もありましたが、耳にしたこと、目で見たことを、一応ここで書いてみます。
★ 光州と言えば何と言っても「光州事件」、現地では「5・18事件」のことです。 韓国軍による同国人の一般市民に対する武力行使の暴行です。 これに抗して民衆側も手にできるあらゆる物を用いて抵抗したという抗争事件でした。 軍の最高司令官の過激な判断と実力行使に対して、民衆の一部も激昂して軍に対し、身近な限られた物を手にして徹底抗戦したようだったと、当時の新聞報道などを思い出しました。
古くは新羅、百済、高句麗などの対立という歴史的背景以外にも、李朝末期、19世紀末期半ばに、シャーマニズムに儒教、仏教、道教を折衷して、西学と呼ばれていたキリスト教を排斥した民族宗教を中心とした東学党という動きがありました。1894年には甲牛農民戦争という、一種の農民一揆を起こしたことがあります。また、朴正煕軍事独裁政権時には、学生を中心とする民主化要求運動がありました。このような、民のほうから権力者への闘争史が朝鮮・韓国には古くからあり、その精神構造は伝承されて来ていると私は思っています。 そこに朴正煕軍事独裁政権への民主化要求運動という潮流があったと、そのように理解しています。
1980年5月18日午前、全南大学校門付近で、慶尚道人である全斗煥による軍事独裁に対して抗議するデモが起こりました。 学生百名弱が集まったデモだったそうです。
19日夜になって、学生たちを乗せたタクシー運転手4名が、鎮圧に来た国軍兵士によって銃剣で突き殺されたという噂が流れました。 私がその現場に居たわけではありませんので、正確なことを証言できる立場にいません。 そのように聞いたということです。 事件発生直後から、軍と警察によって、全国が警戒態勢下に置かれ、光州では駅や各バス停にまで軍と警察のチェック体制が布かれていたそうです。
ソウルの名門ミッション・スクール、梨花イファ女子大学生が光州に駆けつけ、男子学生と合流しようとして、百五十名が大量検挙されたとか聞きました。 彼女たちにはリーダー格が居なかったとも聞いています。
タクシー・ドライヴァー4名刺殺というニュースを聞いた光州市と周辺の市町村から、あるいは全羅道各地から、タクシー・ドライヴァーやバスの運転手が2百台ものタクシーとバスを動員して光州に駆けつけたそうです。 私が利用した年配タクシー運転手は、私が当時のことを尋ねますと、笑いながら右腕を振り上げて、『オイラもデモをやったさ!』と誇り顔で答えてくれました。
光州人が語った光州事件と、ソウルで聞いた光州事件とでは、受け止め方に相当な開きがあるように感じました。 ソウルでは、光州市民が軍隊の武器弾薬庫を襲撃したので、ソウル人などは、『そりゃチトやり過ぎだ!』と受け止めたようです。また、そのような反政府行動が全国に拡散すれば、北朝鮮軍が介入して来るに違いない!...と、深刻に受け止めたのがソウル人であったとかです。 ここでも、地方によって、同じ事件が違った目で受け止められているように感じました。 ソウル人の理解は、軍事政府の見解と共通しているように思います。光州人にしてみれば、北朝鮮軍が下って来て、全斗煥軍と交戦しても構わない!...というような発想が事件のさなかにはあり得たのかなあ...とすら私は感じました。
戒厳令下で鎮圧に当たった軍隊が、慶尚道人によって編成された軍人たちであったという噂が流れました。 このことは、長く露骨に抑圧されていた全羅道人、とりわけ光州市民の不満と地域感情を爆発させ、民主化要求がますます高揚したとのことです。
すでに述べましたが、ソウル人たちには「光州蜂起」と見えた民主化要求運動ですが、韓国主要マス・メディアの多くが、「暴動、暴徒、煽動、乱動」などという表現で捉えて報道したということです。 これらの過激な見出し用語が、光州市民80万人の激しい憤慨を招いたと言われています。 マス・メディアがソウルを中心とするもので、ここにも私たち日本人には理解するのが難しい朝鮮・韓国の地域的対立意識が背後にあったものと、私はそのように理解しています。
歴代大統領を生み出した慶尚道に対する全羅道民の古くからの地域対立や政治風土が背後で、大きく影響を与えていたものと私個人は捉えています。 すでに述べましたが、「三金」権力闘争というものが、現在でも各方面に露骨に顔を出しています。 これが韓国内の地域的、政治的対立の現実です。
朴正煕軍事独裁政権の治世に続き、維新憲法維持、政治活動の凍結、そして先輩格の朴正煕大統領の思想と政治姿勢を嘉とするのが全斗煥軍事独裁大統領の思想でした。全斗煥は、在韓アメリカ軍や、名目だけの崔圭夏チェ・ギュハ大統領など「目じゃない」というような姿勢の支配者であったと聞いています。 安定した国では、だいたいは中道派が多いようですので、当時の韓国は独裁政治体制下にあったことは疑いのないことでした。 全斗煥にしてみれば、挙国一致の軍事国家イスラエルを先輩・見本としていたのかも知れません。 いまでは北朝鮮が「先軍思想」を実行しています。
デモ隊が商店街を襲い、略奪するということはなかったと市民は語っています。 国軍兵によって多くの市民が負傷し、虐殺された犠牲者たちを、光州市民みずからが助け、援助したと、今回の訪問時に、そのように証言したタクシー運転手がいました。 略奪行為皆無というのは、光州市民にとって大きな誇りだと言っていました。 市民による一連のボランティア行為は、如何に光州市民がソウルと慶尚道の為政者に対して憤りを覚えていたかということの証拠になると市民の一人が語っていました。
朴正煕軍事独裁大統領の治世に続き、全斗煥軍事独裁大統領の治世が、全羅道市民の反発を激しく招いたものと思います。 そして全羅道を圧倒的な国家権力、武力を用いて抑圧しようと、平気な顔で考え、また実行したのが慶尚道出身の大統領たちでした。 反共主義・反共陣営というものは、その目的を達成するなり、維持するためなら、手段を選ばないものです。 チャップリンも容共主義者とされました。
まして自分の権力を堅持するためには、相手を完全に抹殺することを厭わないようです。 政敵を共産主義者という名目にすれば抹殺が容易です。 金大中が死刑判決を受けたのも、民衆を暴徒化し、煽動したということであったかと思います。反共主義を国是とする南半分は、北との対決姿勢があるので、自分自身の国を民主化するのに困難を覚えたのでしょう。 金泳三や金大中になってようやく光明が見え始めたと言えます。 これ以上は深入りをしないことにします。 話を戻します。
★ 全羅道への短期間の駆け込み旅行でも、再び強く感じたことがありました。
かねてから朝鮮半島内での有史以来の激しい地域対立、地域差別という、私たち日本人には想像も理解もできそうもない深刻な問題がありそうだ...ということです。
=おわび=「親韓派シナンパ」という単語と、「知韓派チナンパ」という単語があります。朴正煕軍事独裁政権時代の日本では、ちょうど韓国民主化運動支持という趨勢が極めて盛んであった時代です。 日本国内では、朴正煕軍事独裁政権支持派と、反朴正煕派がありました。 これに加えて北朝鮮軍事独裁政府支持派と、反対派がありました。これらが更に複雑に組み合わされて日本人支持者を得ようと虎視眈々状態でした。 私に対しても北朝鮮系の人物や、韓国大使館からも、反朴正煕派=民主化運動諸派からも露骨な勧誘・懐柔作戦が展開されていました。 監視もされていました。 この時すでに私はいずれかの勢力から拉致されるのではないかと怖れていました。
かねがね作文をするときには、キャノワードという、相当に古い機械を使って執筆して来ました。キャノワードで入力した文章を、コンピューター用に変換したのち、最終的に編集し、印刷します。
今回もそのような過程を経てコンピューターに変換しようとしましたが、初めて変換に失敗し、せっかく書いた文章の多くが支離滅裂状態になってしまいました。
ここまでの文章は、消滅または混乱状態に陥っていましたキャノワードで入力した原稿を、何とか思い出しながら繋ぎ合わせて漕ぎ着けることができました。
しかし、一部が消滅してしまいましたので、以下の文章と繋ぐことができません。文脈がおかしいのですが、残っている原稿を活用するために、文脈の乱れを承知の上で継続して執筆を続けます。 お赦しを願います。
=再開=
頻繁に訪韓し、訪韓ごとに清渓川スラムに出入りする私を、韓国中央情報部や鐘路警察は、北朝鮮のスパイではないか、民主化運動資金の運び屋ではないかと、「野村担当官」たちが監視していました。 陸軍保安部員たちによって、24時間「任意同行」という形式で尋問を受けたこともありました。 決して楽しいものではありません。
ソウル市内を一望できる南山ナムサンの一角に、韓国人なら誰でも怖れていた、韓国中央情報部(KCIA)の根拠地があったので、通常は「南山ナムサン」と呼ばれている組織がありました。 金大中を東京神田から拉致した組織で、男性に赤ん坊の出産を強要することだけはできないが、それ以外のことなら何でもできる...と怖れられていた組織です。 特にその組織が、私を「親韓派シナンパ」にしようと、「いろいろ」な手を尽くしました。 在日韓国大使館にもその筋の参事官がいました。 表面上ソウルで私に接触をしていた人物は、私の知る限り、少なくとも二人いました。
金学律キム・ハンギョルという知的で英語を自由に操ることができる若い「野村担当官」の私宅に招かれたことがありました。 豪勢な住居で、それに相応しいような韓式食事を提供されました。 ただし、いまだに私は韓式食事を、その強い香辛料のゆえに、好みません。 命を受けて海から北朝鮮に侵入したことがあるとも言っていました。
その時、私が金学律に英語と韓国語で、紙に絵を描きながら、語ったことがあります。 『私から「親韓派シナンパ」を作り出そうとするような、つまらない空しい努力をするよりも、私から、歴史の重みに耐えられるような、公平で肯定的な、コリアの友となる、日本人「知韓派」を育成することに協力してくれるほうが遥かに日韓交流のためによいし、そのようになりたいと私自身が切望しているのだから、そのように理解してくれたほうがよい...と告げました。
「親韓派」というのは、「朴正煕軍事独裁政権支持派」ということで、そのような政権が、人類の歴史を見れば、聖書的に考えれば、長続きしないことは明白であり、実に空しい努力だ...と語りました。 私が「知韓派チナンパ」になることには、時間と忍耐がかかることだが、将来の肯定的な日韓・日朝のためにはやりがいのある人生となる...と、そのようなことを英語で説明したかと記憶しています。
当時の日本では、とりわけ東京では、キリスト教界の一部の社会派の偉い先生さまがた御歴歴が口にされていた、無意識であれ、善意に基づくものであれ、旧宗主国的発想から、朴正煕軍事独裁政権が統治することで生じた、歴史的に眺めれば日本統治時代から朝鮮戦争を経て、ようやく独立を模索し始めたばかりの過渡期の韓国にあって、そこから生じた問題を、「韓国問題」として採り上げて叩く傾向があったかと思います。 もちろん、そのことが、結果的に韓国の民主化を強力に、背後から促進したという功績を否定しているのではありません。 そのために、私も秘かに幾度か、「さる筋の人々」の委託を受けて、大きな額の$紙幣の活動資金を、「ある種の覚悟」をしたうえで、ソウルに運び込んだことがありました。 雑誌「世界」の「TK生」先生を、暫くのあいだ八幡山の自宅にお引き受けしたこともありました。
金学律に私が語ったことは、私は日本のキリスト教界の一部で騒がれているような意味で、「韓国問題を愛している日本人」ではなく、「ありのままのコリアを愛して、仕えたいと願っている日本人である」と強調した点でした。 そしてそれが正解であったと今でも確信しています。 金学律は理解をしてくれたようで、渡韓用査証が再び発給されることになりました。 一時は要注意人物として、麻布の韓国大使館でヴィサの発給が停止されていた時期がありました。
「知韓派」になりたいという願いは、世田谷から八ヶ嶽南麓に移住して、末期高齢者となってしまった現在でも、少しも変わっていません。 生涯学習の一つです。