私 は 兄 弟 の 世 話 人 で し ょ う か ?(4)


★    ここでどうして私が韓国とかかわることになったのかを説明しておきます。
 私は5歳の時に同志社大学で行政法を教えていた父が凱旋帰天しました。病名は当時治癒不能の喉頭結核というものでした。極めて真面目な人物で、イェスの福音を、当時の封建社会の中で、どのように具現化して行けばよいのかを真剣に考えていたとのことです。
 『これから父なる神の下に帰ります。よき人生を与えられ感謝を捧げます。あとに残る子供たち二人を頼みます』と言い遺して、その日の内に帰天したと聞いています。壮絶な凱旋帰天のさまであったそうです。そんな話だけですと格好がよいのですが...

 しかし、そこから私の家族は文字どおり分解、瓦解、崩壊、消滅したのです。私は母方の西陣の家に引き取られることになりました。一種の孤児です。5歳の子供にしてみれば、厳しい、寂しい、悲しい居候孤児生活が始まりました。辛い思い出がたくさん、たくさんあります。親族の方々は優しい人々でした。 感謝です。しかし居候生活は幼い子供であっても、寂しい、辛い、悲しいものでした。叱られたことも、ぶたれたこともありません。考えてみると、おかしなことです。

 神の摂理と恩寵だと信じていますが、父母が通っていた聚楽教会の日曜学校に戦時中も通っていました。母も父と同じような発想の女性でありますので、父母から主イェスの福音の社会実践化という遺伝子をどうやら私も受け継いだようです。 
 
 幼いときから、「他人さまの飯を食らう」という弱者側の辛い立場が、どういうことを意味するのかを身にしみて学びました。しかしこれが私の魂に、父母や日曜学校で学んだことと共に、極めて重要な種を宿すようになっていったのです。長い人生を今になって振り返って考えてみますと、疲れ果てたヤコブが、厳しく寂しい人生を嘆きながら、石を枕に一夜を過ごした人生の終わり、墓場のように思えた場所が、実は天に通じる祝福の場所であることを悟ったように(創世記28章16節)、幼い私の場合にも、「他人さまの飯を食らう」場にも主の摂理と恩寵があったのです。
 それは、有名な西陣織を生み出す地域の最低層の更にその下にチョーセン人と呼ばれていた人種が惨めな生活をしていたことを5歳の私が身近で目撃し、「なにかがおかしい...どうしてなのだろうか? Something must be wrong...」ということを意識し始めたことだと思います。 

 何色であったのかは忘れましたが、チマ・チョゴリを着て、足先の尖った幅の狭い独特の白いゴム製の朝鮮靴を履き、頭の上に荷物を置いて歩く朝鮮人のアジュンマ(おばさん)を見かけるごとに、子供たちが一斉に。「チョーセン・チョーセン」と嘲りながら揶揄し、「チョーセンの山奥で、確かに聞こえる豚の声、アッブー、アブー・アッブッブウブー」と囃し立てていました。 
 そうすると朝鮮人のおばさんが、板切れや棒を片手に、「チョーセン、チョーセン(と)ヒト・パカ(馬鹿)スルナ! オナチ・メシクッデ(食って)トコチカウ!」と子供たちを追いかけていました。トムとジェリーの漫画なら見ていても楽しいのですが、それは子供のレヴェルまで徹底していた具体的な人種差別であり、誰も子供を注意しませんでした。そのようなことをしばしば目撃していました。 おかしい、よくないことだと、そのように感じていていたのです。

 北野神社のすぐ東側にある翔鸞尋常高等小学校時代での六年間、同じ組で二人の朝鮮人と学びました。腕力と喧嘩が強い二人の朴君でした。日本がマレーシアやインドネシアに侵攻したとき、そこで採れたゴムで作ったというゴム鞠が京都中の学童に配給されました。しかし二人の朴君は貰えませんでした。戦争が激しくなり、衣料品が極端に不足し始めました。スフという、一種の人工綿花、人造短繊維で作られた学生服の配給が珍しくありました。少しも暖かくない薄っぺらな繊維でできた、重たい「国防色」の学生服でした。それでも保護者たちは喜んでいました。しかし朴君二人は貰えませんでした。おかしいなぁ...かわいそうだな...と思いました。朴ゲンショウ君は、解放後祖国に戻ったようです。あとの朴君は新井と改名したまま、いまだに西陣で生活しているように聞きました。このことが始まりです。

 幼児期に目撃した人種差別というものを、平等と自由と独立精神に溢れ、民主主義の模範国、理想国と占領軍に教えられていたアメリカに私自身が留学して、今度はそこで、こともあろうに教会堂の中で長老によって、「ジャップ出て行け Jap, get out of here!」と呼ばれた時に、初めて人種差別・人種偏見が人間に対する罪であると、自分自身のこととして理解し、人間が本質的に内包している人間自身に対する恐ろしい罪として感じて、静かな憤りとして開花し始めたのです。 

 日本が戦争に敗れた直後、私は大学に行くことになりました。しかし、そのころの私は、全く異なる環境を備えていた二軒の家族に引き取られ、「他人の飯を食らった居候」として、すっかり萎縮した青年になっていました。すべてのことにおいて自信喪失状態にありました。親族などからの大学進学方向への圧力のようなものを感じていましたが、実力が無いことを知っていましたので独り悩んでいました。それで一番入り易い大学を考えました。寂しい幼少年時代をほとんど独りで過ごしましたので、その間に動物をこよなく愛しました。いとおしく思っていました。それで獣医大学を選びました。

 それまでの獣医学校は、大日本帝国陸軍という後ろ盾があり、軍用馬や軍用犬を扱っていましたので、鼻高々でした。しかし敗戦という現実と、食料不足という深刻な問題が日本中を覆っていました。田舎を除いてほとんどの動物はいなくなっていました。犬ですら毛皮を軍用に使うというので、家庭から犬まで取り上げられていたのが戦時です。

 獣医学校は開店休業です。青息吐息状態でした。そこに目をつけて入学願書を出しました。三軒茶屋の近くにあった獣医大学は、赤絨毯を敷くように私を歓迎してくれました。問題なく大学に入学しました。親族に対しても顔が立ちました。大萬歳です。

 当然のことですが、解剖学という授業がありました。敗戦直後の日本に、首都東京に、麻酔薬も、解剖する動物も共に存在しません。
 それでも元軍医殿であった教授は私たちに麻の頭陀袋を手渡し、『大田区か蒲田区の方面に自転車で行って、どこかで野良犬を見つけたらかっぱらって来い!』と命じました。自転車ですら高価な貴重品という時代でした。その日の食料にも事欠いていた都民が、犬を飼うなどということはほとんど不可能な時代でした。すきっ腹を抱えながら自転車に乗って太田区や蒲田区や多摩川の土手で野良犬を探し回りました。ようやく見つけても捕獲することと、頭陀袋に抵抗する犬を入れるのは、これまた難儀なことでした。袋の中で暴れまわる犬を肩に、ようやく学校に戻りました。麻酔薬がないので、犬を学生たち数名が袋の上から棒で叩いて半殺しにし、活体解剖が始まりました。血をみて失神した私は獣医学校を辞めてしまいました。耐えられないことでした。 

 しかし獣医学校で私は韓国から東京獣医大学に留学して来ていた金五南キム・オナム君と出会いました。小学校以外で身近に初めてできた韓国人の友人でした。無口な人でした。寂しそうで、恥ずかしそうで、心の暖かい、忍耐強い赤ら顔の人物でした。朝鮮動乱のために、故郷からの送金が途絶えて困っていました。朝鮮人であるということで、下宿を確保することができず、困っていました。三軒茶屋から遠くない下馬のある路地の突き当たりに、幼児を連れて隠れて住むような朝鮮人の未亡人の所で、何とかその日その日の糧を得ていたようでした。差別と蔑視の惨めな生活を強いられていた婦人の情けを得ていたようで、列王記上17章に登場する寡婦とエリヤをどこか彷彿させました。衝撃でした。泉さんと名乗っていたと記憶します。

 朝鮮動乱が1950年6月25日に始まったので、韓国では6・25、発音に従いユギオと呼びます。朝鮮動乱のお蔭で、疲弊しきっていた日本は、アメリカ軍が日本で調達する物資や役務や修理の需要が急速に増え、「特需」と呼び、日本経済は急速に向上しました。このことは、戦争に巻き込まれてしまった一般韓国人には、面白くないことでした。

 その頃の日本では、まだ米穀通帳とか、外食券というものが無いと米を入手したり食堂で米飯を食べることができない状態でした。金君に外食券を渡したり、米を渡したり、冬にはアメリカからの救済物資の中から選んだ厚手の衣服や毛布など、また布団を供給し続けました。
 その当時、母校明治学院のチャペルが酷く痛んでいました。コーヴァー宣教師のご好意で、金君と二人でチャペルの床をアメリカ製の大きなブラシで擦ったり、チャペル内の白壁を全部塗り替えたりするアルバイトをさせて貰ったこともあります。都電の電車賃がないので、芝白金の明治学院から金君の下宿先があった下馬まで徒歩で帰りました。

 解剖の授業で失神した私は獣医学校を止め、宣教師の誘いでケンタッキーに留学しました。数年間の留学期間中に金君との交信はありませんでした。現在のように簡単に連絡などできるような時代ではありませんでした。1968年になって済州島の獣医大学で教鞭を採っていた金君との交信に成功しました。金君をずいぶんと探した結果でした。
 蒸発した獣医学校でしたが、獣医大学で金君と出会い、そのことが結果的に私と韓国との絆を更に強めることとなったのです。これが第2番目の理由です。

★ 私がなぜ韓国・朝鮮に関心を抱くようになったかという第3番目の理由です。それは私をジャップ!Jap!と呼んだアメリカで心に温めたことなのです。

 そしてまた、最初に留学したケンタッキーの小さな神学校で、キリスト教教育の目的とは、私が死ぬ瞬間に到るまで、どのようにして私自身が他者に仕えることで神に仕えることができるのかという課題を、いつも追求し続けることであると、そのように悟らされたからです。とりわけ「いと小さき者に仕える」ということです。

 それは、イェスが十字架の上で痛くなるまでご自身をお捧げになったように、痛くなるまで自分を捧げきるようにと、そのように学んだからです。私の人生の中で、無名でしたが最高の師マレンズ先生に出会って初めて学び得た真理でした。
 ジョージ・ミュラーの生き方を耳にしたからです。なんら勲功やいさおしのない私が、ただただ恩寵によってのみ救われ、神に仕える者とされたという特権と責任を、聖書を通して学ぶことができたからです。 

 教会堂の中で、ある白人長老の一人が私をジャップと呼んだことで、その反面教師から人種偏見や差別がどれほど恐ろしい罪であるかを学べたことと、自分自身を他者のために生きた供え物として捧げきることで神に仕えることができると学んだことが、結果的に私の心の目を韓国・朝鮮に向けさせたものと考えています。
 
 もちろんこの教会の長老一人だけが私をジャップと蔑んで呼んだというわけではなく、留学中の数年間に各地で人間が人間を差別し、蔑視し、軽蔑するという恐ろしい個人的体験を多くしています。私だけに対してではなく、黒人やヒスパニック系の人々に対する北アメリカ全体の根源的な人種偏見と露骨な差別を到る所で私自身のこととして目撃し、経験しました。もちろん善良で偏見のない人たちもおりました。

 1951年に日韓国交回復予備会談が始まり、1965年6月に妥結、日韓で国交が回復しました。1968年夏に初めて訪韓を決意し実行しました。ソウルや釜山や春川など韓国国内各地で目撃した韓国の実情を目撃するに到り、日本の侵略の残酷さ、侵略と植民地化の間接的結果としての朝鮮戦争のむごさを痛く心に刻むことができました。

 どうしても韓国で韓国の人々に自分ができる仕えるすべを見出して、生涯にわたり仕えたいと切望したのです。1973年に到り家族全員を韓国各地に案内し、奉仕できる場所を捜したのです。済州島、釜山、慶州、仁川、春川などを訪れた末、結果的に人口6万人の清渓川貧民窟を選びました。酷いスラムでした。 

 その後、香港やマニラやタイや印度のスラムも訪れましたが、清渓川は酷かったです。そしてそこが私の信仰求道人生にとって、最高の神学校であると、そのように学ぶことになっていったのです。懐かしい、愛すべき人々でした。多くの素晴らしい出会いを体験できました。そこに潜んで、貧民救済と民主化運動に徹していた二、三の親友を得ることもできたのです。感謝でした。

 幼いときに目撃した日本人による朝鮮人への蔑視と差別、獣医畜産大学で出あった金五南君との四年間、そして私をジャップと呼んだアメリカでの、いとも小さき者へ仕えることによって主イェスに仕えることができるという、聖書の学びの結果でした。主イェスがそうなさったように、死に到る瞬間まで、痛くなるまで与え続けよ...という求道の日々の生活、ケンタッキーの田舎の小さな聖書学校で気付かせてくださった恩師の教えの結果だと考えています。御国で恩師との再会が楽しみです。