★ そのような複雑な韓国人の心境を常に覚えて訪韓する私ですが、今回の光州への短い充実した旅で、写真展開幕式に出席してくださったお歴々のかたがたが、無名の日本人の私を暖かく受け容れてくださったことで、躊躇することなく感謝の気持ちで式に出席することができました。ありがたいことでした。
(本来、ひとつの国家が他の国に対して犯した国家犯罪に対しては加害者側の国家が被害者側の国家に対して、双方が納得できる交渉を重ね、償いをし、和解が成立するものだと私は理解しています。 しかし、韓国との交渉は、当時の日本の保守政治家たちと、朴正熙軍事独裁大統領の政府との交渉と、それに基づく両者の為政者たちを中心とした政治決着をしたような印象を与えます。 韓国民が納得したわけではないように思います。)
このあたりに、韓国人の日本人に対する「恨ハン」の心情を払拭できない要因があるのではないかと、訪韓ごとに私はそのように感じます。韓国人が訪韓する日本人に個人的に怒りを投げかけてきたり、個人的な謝罪を要求したりすることがありますが、国家犯罪を個人が償うことはできないのです。謝罪ばかりさせられる立場におかれてしまいます。未来志向の、建設的なことにエネルギーを注ぐことができないという悲しさが生じます。私はこのことを訪韓ごとに密かに心の中に覚えるのです。創世記4章9節の問題です。
次に、韓半島と呼ぶのか、朝鮮半島と呼べばよいのか、日本海なのか東海と呼ぶのか、黄海と呼ぶのか西海と呼ぶのか、韓国人と呼ぶのか、朝鮮人と呼べばよいのか、南北対決や日韓中露の国々を巻き込む感情的な論争になると思いますと、どちらの単語をどのようにつかったらよいのか、ほんとうに当惑し躊躇します。なるべく NHK的な発想で、日本のテレビなどで用いられている用語を使うことにします。日本の読者向けにこの拙文をしたためているからです。それ以外に悪意はありませんのでご了承を願います。
地域対立・対決・差別と言えば、地理的、社会的、教育的、政治的、経済産業的、社会基盤整理...などにおいて多くの露骨な差別が現在でも平然と行われているようだと、外国人の私ですが、そのように感じています。厳然たる事実だと思っています。そのような民族性があるように思うのです。
このことは、現在の日本では、ほとんどの人がそのことに慣れてしまって気づいていないのかも知れませんが、たとえば徳川幕府が長年にわたり長州藩を差別してきたり、薩摩藩や長州藩や土佐藩を基礎とする西日本側が明治維新前後に、朝敵とされた東北地方よりもいろいろな面で優遇されて来ているように私には思えます。新幹線ひとつを捉えて見てもそのように感じます。方言もそうです。東北弁を愚弄するような傾向があります。しかし韓国の地域差別は日本のそれと比較してみますと、実に酷いものだと私は思っています。
そのように差別されてきている状態の中に置かれている光州市で、光州民族博物館がソウル歴史博物館との共催で、「異邦人が嘗て見たソウル回想」と題した特別写真展を開催してくださいました。
嘗て恐ろしい朴正熙軍事独裁大統領時代に、大統領緊急措置令が発令されていた時に、密かに多くの写真を、ある意味ではある種の覚悟を決めた上で、撮影していた当事者でもあった「異邦人」が、日本から遥遥開幕式に参列するとは、誰も予測されていなかったようです。
口下手で社交べたな印象を受ける全羅道の人々でしたが、開幕式に現れた異邦人が日本の老人(韓国語でハラブジ)であると知り、過分な花を持たせてくださいました。
13世紀から16世紀にかけ朝鮮や中国の沿岸を略奪したと言われている、瀬戸内海の西部や北九州の海の男たちのことを、倭寇と呼んでいたようです。一方的に「略奪」と言われても、日本の歴史学者たちにしてみれば、それなりの説明があるようですが、とりあえずこの倭寇という海賊が朝鮮半島東西と南の沿岸の多くを襲撃したということのようです。朝鮮側では「ウエノム」とか呼んだようです。劇「チャングム」にも登場しています。
倭寇による特に朝鮮半島南部沿岸への度重なる侵略と略奪行為の他に、1592年から98年のあいだに繰り返された豊臣秀吉による朝鮮侵略(日本では文禄・慶長の役)がありました。ずいぶんとあくどいことをしたようです。五百年たった今でも韓国・朝鮮の人々は覚えていて、語り継いでいます。歴史教育も行われています。これらのことも「恨ハン」を培養する要因のひとつなのでしょうか。すぐに忘れ去る傾向の強い国民性を持つ加害者の日本人は、侵略の事実と、朝鮮側に与えた被害や、その影響をすっかり忘れ去っているようです。韓国・朝鮮側は決して忘れはしないのです。そのような粘り強い民族性があるように私は思います。
加えて1910年からの日本による朝鮮植民地化政策がありました。ロシアやアメリカの東洋進出との関係もありますが、韓国・朝鮮の人々にはそのような国際的な動きを理解しようとはしないでしょう。侵略者日本だけを責めるのです。
この愚かな植民地化政策は、1945年8月に日本が連合国に降参するまで続きました。たくさんの韓国人・朝鮮人が、さまざまな痛ましい、屈辱的な個人的体験をすることを強いられました。これから先、幾世代にもわたって語り継がれてゆくことでしょう。
★ 開幕式では、これらのことを覚えながら、愚かな日本の侵略と蛮行の数々を下手な韓国語で述べ、心から赦しを求めました。 そして更に、今後の健全な日韓の相互互恵・相互尊敬・相互相愛精神に基づく発展のための願いを述べました。緊張するかとある程度の覚悟をしていましたが、思いのほか寛ぐことができ、メモもなく、下手な韓国語で挨拶を述べることができました。
(韓国語と日本語には共通点が多くあります。しかし、発音は極めて難しいです。まあ、それでも大体は通じたようです! 聞いてくださった方々の努力のおかけです。)
列席者の多くが教養ある方々のようでした。 年配者が多くいらっしゃいました。より日本植民地時代の記憶に近い皆さんです。日本語の使用を強制されたかたもいらっしゃったかもしれません。また、そのかたがたのご両親や祖父母が傲慢不遜な日本軍人や警察官によって酷い目にあわされたはずであろうと推測もしました。創氏改名という、皇民化政策の一環として朝鮮人に日本式姓名への改名を強制したことがありましたが、そのような苦い経験を記憶されているかたがたも出席されていたものと推測しました。私にとって、そのような苦い過去を考えますと、もし私が反対側に立っておれば、どのような気持ちであろうかと、そのように痛みを覚えました。
また、イェスならば、被害者側にお立ちになって、加害者側の人間をどのようにごらんになり、どのようなことをおっしゃるであろうかと、今回もまた、そのようにおもいました。訪韓ごとに私はそのように、被害者側にできるだけ自分を置いて考えるように努めています。
ソウル歴史博物館学芸員の金亮均キム・ヤンキュンさんが私を紹介するため補足説明をされました。開幕式に列席にされていたのは、全羅道や光州市の各界の指導的な人々でした。
金亮均さんの補足説明によって、「無名の異邦人」写真家である日本人のハラブジが、全羅道の人々が好きでない慶尚道出身の朴正熙軍事独裁大統領時代に、疲弊しきっていた韓国各地に、ハラブジが西独逸の諸教会に働きかけた結果、託児所を設立してもらい、託児所を中心として未就学児童たち2千人に毎日バランスの採れた暖かい給食を20年間にわたって提供できた事実や、首都ソウルの最悪の清渓川チョンゲチョン貧民窟で奉仕活動を行ったことなどを報告されたので、開幕式に出席されていたかたがたが初めてお知りになることとなり、「異邦人ハラブジ」の謝罪の言葉に涙されたご婦人たちがいらっしゃったことを目撃できました。 硬く凍っていた氷が少しだけでも融けた思いがした、ありがたい感謝の瞬間でした。
(韓国での奉仕活動の結果として世田谷の土地家屋を売却した...という話を金亮均さんが始めようとされましたので、慌てて静止しました。 たいしたことではないのです。)
★ 写真展というのは、四、五年前にソウルの反体制的なハンギョレ新聞の元論説員であった李仁哲イ・インチョルさんを通して、すでに説明しておきましたが、1968年から85年にかけて密かに撮影を続けていたフィルムやカラー・スライド、私どもの長女と長男が小学校の夏休みのレポートに提出した写真日記、私が蒐集しておいた朝鮮半島の詳細な大きな地図、日本の植民地時代の写真集や朝鮮動乱中に発行された写真集、韓国の紙幣や硬貨などをソウル歴史博物館に寄贈したことがあったのです。それらを使っての写真展のことです。
そのころ、ソウル市長選で清渓川復元工事を謳って当選した李明博イ・ミョンパク市長、現韓国大統領が大量の貴重なフィルムの寄贈を知ることとなり、大規模な写真展を清渓川文化館で最初開催することとなったのでした。
そのあと二人のアメリカ人が贈呈したフィルムを加えて、ソウル歴史博物館が更に大きな特別写真展を2009年秋に開催しました。 今回はソウル歴史博物館で昨年秋に展示したものを、規模を縮小して、光州民族博物館で展示したのでした。
写真をご覧いただいた全羅道民や光州市民にとって、私どもの蟻の涙よりもさらに小さな努力でしたが、韓国人が固定観念で、ステレオ・タイプで憎しんでいる日本人の中にも、そしてキリストの弟子の中にも、謝罪と赦しと和解を求めている者が存在していることを知って頂けたことは望外の感謝であり、ありえがたいことでした。歴史を導きたまう神と、その恩寵と摂理に対して、心からの感謝と讃美をお捧げするものです。