光州市訪問記の最近の記事


★ 最後に...

 「私は兄弟の世話人でしょうか? 守者(マモリテ)でしょうか? 番人でしょうか? 介護者でしょうか? Am I my bother's care taker ?」 創世記4章9節

 上記ガラテヤ書6章に記されている三つの十字架と共に、創世記4章9節が問いかけていることを、今度は光州訪問ということと別に、考えてから終わりたいと考えています。 

 私が「この地上で、とりあえず、自分自身をどこかの群れに置かなければならないので、ある教派に属している」ということにしておいて、考えていることを二、三申し上げてから終ります。

 私が「属している」教派のことですが、北米ではけっこう大きな群れです。日本では相手にされないほど小さな教派だと言ってもよいかと思います。まぁそれは、可視的面というだけではなく、その内容においても小さな規模の教派だと思っています。 別に劣等感に苛まれているわけではありません。この群れの一部は、戦前、戦中、戦後に、自らの意志で、日本基督教団に所属することになり、行方不明になってしまいました。 この蒸発してしまった群れのことをここで問題にしようとしているのではありません。 為念

 私が、仮にこの地上で「属している」群れは、アメリカ深南部文化とそこで育った教会の極めて強い影響を受けたまま、個人の魂の救いとか、教会組織の在りかたであるとか、クリスチャンになるためには何をどうなすべきであるとか、公同礼拝の時の可視的面のことなどに、実に二百年ものあいだ、その殆どのエネルギーを使いすぎてしまい、悲しみと涙と溜息と恐怖で充満しているこの罪の世界に住んでいる人々のことをすっかり忘れ去ってしまい、自分自身をゲットー化して、私に言わせますと、「宗教酒をたっぷり呑んで、宗教的阿波踊りに興じ、自己満足をして来たように思えるのです。 もちろん、この地上に完全な姿の教会を見出すことは不可能です。どの教派、どの教団にも、それぞれいろいろな欠点があるのは事実です。

 北米では大きな教派であると申しました。 たしかにそうなのです。しかし、教会組織や、礼拝形式などにあまりにも多くのエネルギーを使いすぎて現在に到っているように思います。 

 たとえば、この大きな教派には、病院というものがないのです。 病気になると、常日頃はとかく相手の欠点を責めて軽蔑している他派の教会や教派が運営している病院を平気な顔をして利用しているのです。 
 メソジスト教会、長老教会、バプテスト教会、セヴンス・デー・アドヴェンチスト教会、カトリック教会...エトセトラ...の教会の病院を利用するのです。 人間の肉体的な生老病死に殆ど関心を示してこなかったようです。

 貧しい人々に仕えるという姿勢も、ほかの教派と比べてみますと、具体的に奉仕している姿を見ることができないのです。 南北戦争で敗者側に廻った教会ですので、孤児を収容する施設を運営したことはありますが、それ以外の教会の社会的貢献に関しては、恥ずかしいほど、そのような関心そのものが存在してきませんでした。明治時代に来日した二、三の女性宣教師以外に、社会的貢献で実績を残した宣教師は生まれて来ませんでした。 一人は東洋のナイチンゲールと呼ばれた宣教師でした。
 「貧しい人に仕える」ことで、「いと小さき者に仕える」いうことで、主イェス・キリストに仕えるという理解も発想もなく、イェスの教えをすっかり忘却してしまっていたと思います。 
 それでいて、「オイラは世界最高、唯一のクリスチャンだ!」というような、傲慢不遜な錯覚に陥り、宗教という酒に潰れて来たように見えます。 イェス・キリストの「平和ならしめる者」という重要な教えが、あたかも存在していないような錯覚と誤解をして、アメリカ政府という体制側に、為政者側に身をおいて来たようです。「オイラはキリストの教会だ!」と豪語して来ました。 イェス・キリストに対しても、主イェス・キリストが愛されたこの世に在る人々に対しても、まことにお恥ずかしい次第です。 優れた芸術家も、優れた音楽家も、卓越した学者も、優れた品格と技術を備えた医者も生み出せないままやってきました。 戦時中は大日本帝国政府が天皇の名によって命じたことを疑いもせず、そのまま鵜呑みにしていたと思います。 
 
 全世界と全宇宙を支配したい...とう、世界の警察官になりたいと願う、アメリカの精神を如実に示しているマニフェスト・デスティにー精神と、主イェス・キリストの福音が混合されたような「福音」を、あたかも福音そのものであるかのように誤解して、鵜呑みにして、現在に到っています。 そのような日本の教会の殆どはイェスの福音の社会面でのメッセージを理解も消化することも出来ないままで居ます。

 留学のため上陸したアメリカで最初に体験したのは、長距離バスの停留所や食堂の人種差別サインでした。 白人 white 専用と有色人 colored 専用とありました。どちらなのか戸惑いました。 留学中の数年間に同じようなことを多く体験しました。 
 黒人は劣等人種で、奴隷として白人に仕えるように神が定めたのだ...と、そのように教会で教わって育った学友がいました。 創世記9章18節が「聖書的根拠だ」とのことでした。 そのように教えていた教会が集まって支えている神学校でした。

 連邦政府が学校を含む公共の場所で人種差別を禁じるまで、私たちの教会が関係する大学では公然と人種差別をおこなっていました。 黒人の大学入学は拒否されていました。 「オイラこそ唯一の聖書的な教会だ」と、その一方で豪語していた教派です。 南北戦争終結後百年を経過していても、イェスの福音の社会面を読み取ることができなかった教派の一つでした。 主イェスの福音を溜息で満ち溢れている社会で実践するということに対して、現在に到っても、ほとんど無関心でいるのが現状です。 弁解の余地はありません。 教会の中のことだけに関心を奪われたままでいます。

 「仕える者・平和ならしめる者」という面が完全に欠落したままで来てしまったと私は私が愛する群れを見ています。 同じ交わりの中にいる多くの者が、これらのことに関して、何も痛みを覚えていないというあたりが悲劇です。 

 信仰一筋で、無一文で孤児院を運営し、多くの孤児たちを立派に育てたジョージ・ムラーも出現せず、ガンディーのような平和主義者も輩出できず、賀川豊彦のような福音伝道者を生み出すことも出来ないまま、百二十年ほどを過ごしてきました。 何かしらおかしいと私は痛みを覚えます。 希望を見出すことが困難な群れのようです。 福音と罪という次元から、侵略や差別や戦争責任などを洞察する作業を怠ったまま来てしまったように思えます。 常に為政者側に立ち、アメリカが関わる戦争を肯定し、植民地的発想が強い教派のように思えます。 アジアとう視点が不在です。

 今回の光州訪問で、田舎を廻り、ソウルの都会を訪れ、いろいろと複雑な気持ちに襲われました。 今年は日本が朝鮮を植民地にして百年目を迎える年です。
 侵略とは数百年も後に到るまでもその弊害を残す蛮行・愚行です。 絶対に良いことではあり得ないのです。 

 「涙一杯の目で主イェスを仰ぎ見るのはよいことだが、剣を持ったままの手でイェスを見ることは決してよくない...」と、英国叙情詩人トーマス・ワトソンが言ったそうです。 

 昨年秋にソウル歴史博物館が、立派な写真集第2巻を発行してくださいました。ご希望の方はご連絡下さい。 

★ 「私は兄弟の世話人でしょうか?  Am I my brother's care taker? 」
 答えが要求されているように覚えながら、のどかな田舎の風景と、そこに静かに住む農民の姿や、草を食む赤牛や、見事に開花した桜や連翹や紫躑躅の花を眺めながら光州を訪れました。 拙文を、長時間お読み頂きましたことを感謝いたします。
パソコンの操作ミスで、文脈が乱れ、繰り返しが多くなったことをお詫び致します。

八ヶ嶽南麓 2010年5月18日 光州事件勃発30年記念日 野村基之
www.bethanyhome.net/ 電話 0551-32-5579
408-0031 山梨県北杜市長坂町小荒間 1381


 朝鮮動乱に関しては グーグル Google をご利用になることをお勧めいたします。
5月19日から22日まで息子夫妻の招待で再度訪韓しました。 60回近い訪韓です。許されることなら、追加感想雑記を書いてみたいと考えています。 

★    文中で、全斗煥軍事独裁大統領により光州市民に対する武力鎮圧のことを書いておきました。 また、豊臣秀吉の朝鮮侵略時には、黒田長政が侵略軍の一端を担い、全羅道にも入り込んだことを書いておきました。 無等山頂から当時の光州村を見下ろしたことだろうと記しておきました。

★ そのほかにも、光州に関して書き忘れていた大切なことがありましたのでここに書き添えておきます。 それは私が生まれる2年前に光州で起こった抗日学生運動のことです。

1910年、日本は朝鮮を日本の植民地としました。 それから19年目の1929年には、光州の大部分の中学校や女子中学校、それに師範学校で行われていた読書会というものがありました。 朝鮮全土で主として学生のあいだ、植民地化された自国の現実を学び、将来への自立に備えていたと私は理解しています。 社会主義思想が学生たちの間に浸透していたという説もあります。 
 
 10月30日、水曜午後5時半に光州駅を発車した列車が光州の西南にある羅州ナジュ駅に到着したとき、日本人男子学生が光州女子高等学校生徒を侮辱する発言をしました。 これに憤慨した女子学生の従兄弟たちが翌31日に日本人学生と喧嘩をすることになりました。 これが引き金となり、11月3日、日曜日、明治天皇の誕生を祝って祝日と制定されてから2年目、多感な朝鮮人学生には腹立たしい祝日に、光州中学の日本人学生と光州高等普通学校の朝鮮人学生との間で大規模な喧嘩が起こりました。日本の警察が、朝鮮人学生だけを逮捕したということも人々の憤慨を招きました。
 
この出来事を報じた光州日報社(親日派の御用新聞)に対して憤慨した学生たちが攻撃を加え、輪転機に砂をかけ、「朝鮮独立万歳」を叫びました。 もちろん警察、消防隊、在郷軍人会などが出動しました。 日本人も多く住んでいた町でした。

 学生たちの抗議運動は全国的な抗日運動へと発達し、朝鮮全土のほとんどの学校が同盟休校やデモをやりました。 194校、6万人もの学生が抗議運動に参加しました。学生の中で6百名近くが退学や最高5年の実刑判決を受けました。 2千3百余名が停学処分を食らっています。 
 光州学生運動は、このようにして、3.1運動以降、学生たちが起こした全国規模の抗日運動のはしりとなりました。 このことを記念し韓国では11月3日を「学生の日」として制定され、覚えられています。 北朝鮮でも記憶されているようです。
 全斗煥軍事独裁大統領に市民が身体を張って抵抗したことの背景だと思います。 

 朝鮮半島・韓半島のあちこちで、このような抵抗運動がいろいろあったようです。円高ウォン安と韓流ブームで多くの日本人が訪韓しています。 しかし韓国民の心の奥底に潜む痛み「恨ハン」を知る日本人があまりにも少ないように私は思います。歴史教育が正しくなされていないからです。 この点で日本は不幸な国だと思います。

 なお、朝鮮・韓国の近代史の中で、抗日運動として重視しなければならない、この光州学生運動に関しても、グーグル提供の情報を参考になさると良いでしょう。

 


★    マタイ傳5章9節で、私たちはイェスによって、「平和ならしむる者」とされいます。 13節と14節では「地塩世光」とされています。 ルカ傳22章26節でイェスは、私たちが「仕える者になるべきだ」と諭されています。使徒パウロの福音理解によれば、私たちは「和解の福音の使者」とされています。コリント後書5章19節がそのように証言しています。 創世記4章9節は、私たちは「兄弟の世話人、面倒を見る人 care taker である」と教えています。 

★ これとは別に、イェスが言い残された、別の重要な内容を含むものがあります。普通一般に「主の祈り Lord's Prayer」と呼ばれているものです。マタイ傳6章9節から13節に記録されています。 

 最初の部分は、天にいます神を崇め、神の平安がこの地上にも在るようにという祈りです。 次の部分は、地上に在る私たちの問題に触れています。 その中で、私たちに負い目を負っている者を私たちがまず赦しましたので、私たちの負い目をもどうかお赦し下さい...」という部分があります。 

 これを根拠に、日本の牧師が、韓国教会に対して、あなたがた韓国教会が最初に日本を赦しなさい!...と語ったことを聞いたことがありません。アメリカの宣教師がそのように説教したことを韓国で聞いたことがあります。大切なことです。 韓国のクリスチャンたちも、日本のクリスチャンたちも、考えたことがないか、或いは考えていても到底口に出せない種類の祈りだと思います。 しかし、この祈りはとても重要な点に触れていると思います。

 通常では加害者側が被害者側に対して、「あなたがまず私を赦しなさい...」などと要求できる筋合いのものではありません。 加害者が被害者に謝るのが先だからです。日本側が韓国・北朝鮮側に対して、「お前が先に赦しなさい」と要求することなど考えられないことです。 相手の怒りをますます買うことになりましょう。
 
 しかし、「この世に在りながら、この世に属していない者」とは、十字架の福音に触れた者、罪赦され、神の子とされ、永遠の命を与えられ、神の家族の一員とされた者、十字架と主イェス・キリストの再臨を切望する者は「天国に国籍がある者」だとコリント後書4章18節と5章7節、そしてピリピ書3章20節が教えています。
 
 このことから、キリストにのみ属する者とされている私たちは、同じようにイェス・キリストに在る韓国と北朝鮮の兄弟姉妹たちに対して、赦すことがイェスの福音の一部であることを思い出していただくようにお願いする智恵と勇気が必要であるように私は思うのです。 相手の兄弟姉妹に、そのように少しずつ話しかける雰囲気を作り出す努力を、謙虚に、誠実に、真剣に語りかけるよう努力をしています。 それは主イェス・キリストに在る者の特権と責任だと考えているからです。 「主の祈り」の一部であり、人間関係に関する最初の祈りの部分だからです。マタイ傳6章12節に記されている主の祈りは、ルカ傳11章4節にも記されています。

 この祈りを実現するためにも、私たち加害者である日本人が、被害者に対して日本の罪の赦しを具体的に述べて、誠実に赦しを求める必要があります。 真摯な赦しの求めに対して、謝罪の内容を納得した被害者側が赦しの念を表すことで、初めて和解が成立するものと私は考えています。 口先だけの謝罪ならば、相手側は鋭敏に察知します。 そこには完全な和解は成立しないでしょう。 

 このことが、マタイ傳9章17節でイェスが語られた「新しい皮袋」に「新しい酒を入れる」ことに繋がると思います。 国家がやらないことを、やれないことを、やりそうもないことを、主イェス・キリストに在る者たちが、キリストの弟子たちが実践することで、託された「地塩世光」の責任と特権を発揮できるものと私は考えます。 日本の教会が真剣に考える必要があると考えています。 如何でしょうか?

 真の和解とは、まず自分の犯した罪を、痛みと悲しみと共に深く自覚し、そのことに対して相手側に誠実に詫びることから始まると信じています。 表面上の、形式的な謝罪では意味がありません。 事態を悪化させるだけでしょう。
 先に述べましたが、独逸のワイツゼッカー大統領のような優れた政治家が日本にも、韓国にも、北東アジアの国からも現れて来ないということは大いなる悲劇です。そのような土壌の中に生きている私たちも不幸です。 聖書信仰が問われています。
 誠実に詫びて、相手側が納得して謝罪を受け容れてくれ、お互いが心からそのことを喜び、お互いが感謝できるような、明るい将来を夢見ることができるような和解を求めたいと願っています。

 国家というものは、その性質上、自国の利益のみを追求し、先行させるものです。日本がアジア諸国に行った国家犯罪の愚行に対して、日本政府が行った謝罪方法というものはカネとモノで解決を図ったということです。 それ以外に政府としては方法がないのかも知れません。 北朝鮮に対しては謝罪すらしていません。 

 国と国が対立しても、争っても、国民同士がおのおのの国の言うことを鵜呑みにして追従する必要は毛頭ありません。 このことを私たち「地塩世光」である者たちはよく洞察する必要があります。 国民と国民同士は、国家間の争いに左右されないで、国家に洗脳される必要もなく、相互に理解、相互に敬愛しあうことが出来るはずです。
 太平洋戦争中、日本の教会は、国家権力に屈して、宮城遥拝をし、君が代を歌って日曜礼拝らしきものを何とか維持できました。 その間、アメリカの教会では日本のために、日本の教会のために祈っていたことを私は教会史の学びの中で発見しました。衝撃でした。 日本の教会が、北朝鮮のクリスチャンのために祈っているのを聞いたことがありません。 異常なことだと、私は個人的に考えています。

 またさらに、国家が犯した国家の犯罪を一人の個人が償うなどということは到底不可能なことですし、またそうあってはならないことです。 為すべきことではありませんし、出来ません。 しかし和解と相互信頼と相互敬愛の作業は、国民一人ひとりにできることです。 これは特権と使命であろうかと考えています。 そのような個人個人の小さな苦労の積み重ねが重要な役割を果たすものだと確信しています。

 個人個人が相手の個人個人に誠実に対応することで、少しずつ相手のトラウマを癒すことができると、私は私自身のささやかな体験からそのように学び、そのように確信しています。 創世記4章9節の問いかけをどのように実践するかということです。

 創世記4章9節に、「私は兄弟の世話人、介護者 care taker でしょうか?...という問いかけがあります。 私たちクリスチャン一人ひとりの答を要求している問いかけだと思っています。 北東アジアの教会が、とりわけ日本と韓国・北朝鮮とその教会が、この聖書箇所と真剣に取り組む必要があると、私はそのように考えています。

 大きな教派や教団の改まった集会で、口先だけで日本の国家が行った愚行に対して、また、それに同調した戦時中の日本の教会の姿勢を自己反省して、聞こえのよい声明文を発表して、それでお茶を濁すというような姿勢では何も解決できません。そこから先の具体的な行動が生まれた...継続している...などと、そのようなたぐいの話をめったに耳にしたことがないのです。 絵に描いた餅でアジアの被害者たちを騙すことも、その傷を癒すことも不可能だと思います。 日本教会は口先が達者です。

 ガラテヤ書6章には三つの十字架が隠されています。 己が背負うべき十字架、他者の十字架、そして主イェス・キリストの十字架です。 「兄弟の世話人 care taker」である私たちには、この示された三つの十字架の意味を考える必要があるようです。

 


★    旧約聖書を読んでみますと、カナンの地に侵入したイスラエルも、大陸民の一部として、迫り来る敵を、そのたびごとに皆殺しにしたことを学びます。大陸に住む民とは、熾烈な生存競争の中で、したたかに生き延びる術を学びます。そうでなければ、自分の民族は生き延びることができないのです。 そしてその生存競争の戦いは現在この瞬間にまで延々と続いているのです。

 アジア大陸から適当な距離を置いて、四方を海で取り囲まれている日本に住む者にとって、すぐ隣の朝鮮半島に住む人々の歴史と、歴史過程の内で育まれてきた民族性や特徴を理解するのは困難なように思えます。 
 韓民族、朝鮮民族、呼び方はどうであれ、彼らはアジア大陸の一部なのです。釜山からストックホルムまで、大陸で繋がっているのです。 アフリカの喜望峰までも陸地続きで繋がっているのです。 島国日本とは違うのです。 有史以前から侵略や略奪や拉致や暴行の遣り取りの中で生き抜いて来た大陸民族の一部なのです。

 頭髪も皮膚の色も同じです。 瞳の色も同じです。 背丈も同じです。それですから、無意識に、私たちは韓国人・朝鮮人も私たちと全く同じだと錯覚してしまうのです。 しかし、彼らは大陸民族の一部です。 異なった歴史や風土や文化を持った異なった民族なのです。 多くの点で価値感覚も違うのです。

 1945年後に自由を得て、経済力を回復させ、朝鮮動乱時に特需景気で散々儲けて、近代化が急激に進んだ日本は、ある意味で、オカミ主導で全国画一化が進みすぎたように思えます。 どこに行っても駅前商店街は同じ風景です。 方言があたかも悪いかのように、明治維新以降これまた政府指導で「標準語」というものに統一されてしまいました。 マスコミも便乗して国民総白痴方化の手助けをしています。NHK=「日本放送協会」だと思っていましたが、最近では「日本白痴狂会」となり、民放の愚劣な真似をして日本文化の破壊の指導的役割を果たしているように見えます。 個性が喪失し、国民から希望が消えました。 大本営発表時代と変わらないようです。

 しかし、韓国のほうが、そういう点では独立精神、クェンチャナョ(大丈夫・平気・イイョ・イイョ勝手主義)精神、個人主義精神...が旺盛なように思えます。
 地域差や地域差別など、まだまだ日本人が統一された、(させられた)価値基準で韓国人・朝鮮人を裁くという傾向が強いように思います。 

 敗戦後急激に西洋化した日本が、脱亜入欧した日本が、最近の自称民主化した日本の価値基準で、あたかも日本が民主主義国家の模範国であるかのように錯覚して、傲慢に振舞い、無意識であれ、そのような姿勢で韓国や北朝鮮を劣等国であるかのように誤解して、そういう姿勢で臨むのは、それは傲慢不遜なことだと、私は思います。彼らの反感と反発を招くだけです。
 
 日本の自称「クリスチャン」の多くも、こと北朝鮮当局による日本人拉致問題となると、自分があたかも民主主義の模範生か、それとも自分が神さまであるかのように錯覚して、一方的に北を叩いているようです。 
 このことは、その逆さを考えてみますと、南の韓国のキリスト教が、あたかも東洋のエルサレムのように錯覚している可能性があるようだと、私は考えます。
 これら二つの姿勢は、クリスチャンとして採るべき態度ではないと、私はかねがね考えています。 なかなか理解を得ることが難しいのですが...

 もう少し冷静に、そして謙虚に相手の国の歴史や文化や風土を学び、日本が侵略者であった事実を常に肝に銘じて、日韓政府高官同士のなぁなぁ式の国交回復ではなく、民衆レヴェルで誠実な謝罪の姿勢を示すことが必要かと思います。 北に対してはいまだに謝罪をしていないという事実をも充分に理解しておく必要がありましょう
 そのようなことを覚えながら、今後の日本が採るべき道を、祈りの中に求めるべきであろうかと私は考えています。 そうすれば、そのような謙虚で真摯な姿勢の中で、新しい日韓・日朝を培う視野が自然に備えられてゆくのではないかと考えます。
 そうでないと、希望溢れる未来が全然見えてこないと思います。 自尊心の極めて強い朝鮮人・韓国人との無意味で不必要な感情的対立からは何も生まれてきません。

 今回の光州旅行で、光州事件の跡地を訪ね、韓民族・朝鮮民族の歴史やものの考え方を思い、もう少し日本人が冷静に、公平に、敬愛の念を抱いて、隣国のことを眺める余裕を養う必要があると強く感じました。 彼らもイェスが愛されている民です...
 日本の侵略と植民地政策に対する誠実な謝罪を、民間レヴェルに到るまで、誠意をもってまっとうする必要があると痛感しました。 偏見を捨て、誤解をただし、蔑視を捨て、ありのままでお互いを評価しあい、相手を受け容れる必要を感じました。

 好きでも嫌いでもその国をそのままの姿で受け容れ accept て、評価 appreciate する必要があります。 自分の国こそ最高規準を持っている立派な民主主義国家であるなどという傲慢な思い込みを、まず自ら吟味して、捨て去る必要があります。
 韓国・北朝鮮を日本と比較 compare するという姿勢は褒められる態度ではないのです。 そのような態度で他国のことを非難 complain するのは成熟した者の採るべき態度ではありえません。 これは個人的に人間同士の間でも同じでしょう。
 
 拉致問題に対する私たちの態度も根本的に見直すべき必要があると、かねてから考えています。 日本国家が犯した国家犯罪を速やかに謝罪し、補償すべきだと思います。 誠実な態度、謙虚な態度、公平な態度で国交回復を願う姿勢を祈りたいと私は考えています。 一方的な締め付け政策はますます相手を硬直させるだけです。

 長い韓国・朝鮮の歴史過程をありのままで考えないで、そこで培われてきた文化や価値感覚を理解しようとすることなしに、北朝鮮当局による日本人拉致事件だけを殊更に感情的に煽りあげて、日本国民を拉致・煽動してきた日本政府とマスコミの在り方に対して、何とも言えない違和感を、今回の光州事件発生現場を訪ねてみて改めて覚えました。

 双方に相手側を理解しようとする態度が完全に欠落しています。北朝鮮当局も、日本を憎むだけで、戦後の日本が思想的に大きく変化していることを理解しないまま、北朝鮮の価値基準や判断基準に従って、あのような愚劣な暴挙にでたものと思います。 お互いに理解しあえないということは悲劇だけを生み出します。

 先日の新聞で、北海道で酷使され死亡した朝鮮人労働者の遺骨の発掘作業があり、遺骨が新たに発掘されたと報道されていました。 沖縄やニューギニアで日本軍兵士の遺骨探しが行われていますが、朝鮮人労働者の遺骨探し作業は進んでいないようです。 どれだけ多くの朝鮮人や中国人を厳しい労働に使ったということを私たちの多くは無関心で過ごしています。 どれだけたくさんの朝鮮人を関東大震災のときに荒川の堤防で虐殺したのか...拉致を騒ぐ日本政府と日本人が問題にしたということを聞いていません。 豊臣秀吉がどれほど多くの朝鮮人技術者を日本に拉致してきたのか、何百人とも、千人単位とも言われている朝鮮女性を性奴隷として日本に拉致してきて、南蛮方面に売り飛ばしたのか...私たちはそれらのことに対して一言も語らないままでいるのです。 これら日本による蛮行に対して、それに相応しい対応を誠実に対応してこなかったことを、拉致を感情的に糾弾する日本人、特にクリスチャンはどのように応対しようとしていましょうか? 不公平で不誠実ではありませんか? 

 


★    豊臣秀吉の数年間にわたる朝鮮侵略のときに、すべての日本の侍たちが帰国したわけではありません。 15万人もの侍たちの中には隊列から脱走した者もいました。 現地に留まることを欲した者もいました。 残らざるを得ない理由が生じた者もいたようです。 今回訪問した光州を中心点とする全羅南道には、そのような日本の侍の血を引く末裔が確認されています。 特に朝鮮半島西南部の海岸線に沿った地域です。慶尚道の海辺近くでも同じようなことを耳にしています。

 また、豊臣秀吉軍が当時のいろいろな分野における優れた技術者たちを、二万人とも三万人単位とも聞いていますが、あるいはそれ以上の数の技術者たちを日本に拉致して九州に引き上げていたと聞いています。 
 九州は陶芸の場として広く知られています。 拉致された技術者、あるいは請われて渡来した技術者の末裔が、優れた陶芸家として現在九州で活躍しています。九州に拉致されて来て陶芸を続けた人々の影響が現在まで残っているようです。
 
 そのほかにも、私の研究不足で、人数を確認したことがありませんが、多くの朝鮮人女性たちが拉致されて九州に連行され、そこから更に南蛮方面に奴隷売春婦として売られていった者たちが多く居たと聞いています。 もちろん、日本の最底辺層に住んでいた若い女性たちも南蛮方面に奴隷として売られていったとも聞いています。

 人が動けば、カネとモノとアイデアが一緒に動くものです。 侵略とは、軍隊とは、恐ろしい、のちのちまで痕を引く、むごい、非人間的なことを平気でやってしまうのです。 『剣で立つ者は剣で倒れる』と、マタイ傳26章52節でイェスがおっしゃいました。 どのような名目であれ、戦争や侵略はいけません。

 現在の南北軍事対峙姿勢ということではなく、古くから朝鮮半島南部に住む人たちが、北のほうに住む人を信用しないという偏見や蔑視や差別の現実のうしろには、私たち日本人には理解できない複雑な負の歴史が潜んでいるように私は感じています。

 幾度もすでに述べていますが、北東アジア大陸各地から朝鮮半島に侵入した諸部族が、南のほう、すなわちコメを収穫できる南のほうの住民に対して繰り返し行った侵略、略奪、拉致、エトセトラを、南の人々は忘れていません。 
 北の威鏡道や平安道の人々に対する南の人々の不信感と憎悪感の陰には、かつての高句麗によるむごい蛮行を未だに観念的に覚えているのではないかと思います。

 そして南と言えば、すでに述べていますように、朝鮮半島南東部の慶尚道人による全羅道民に対する歴史的な抑圧の歴史があって、これが日本海側(韓国では東海)の慶尚道と、黄海側(同じく西海)の全羅道との関係を絶えず不安定なものにしている歴史的過程があると、私は見ています。
 そのような歴史や風土が、韓民族・朝鮮民族の間に極めて強くて旺盛な権勢欲闘争を絶えず煽り立て、手段や方法を選ばず、いつも誰よりも最強で在りたいと願う政治風土を生むことになるのではないのかと、そのように私は考えています。

 光州事件にせよ、北朝鮮当局によるソウル青瓦台チョンワデ大統領公邸襲撃事件であれ、ラングーン事件であれ、大韓航空爆破墜落事件であれ、あるいは日本人拉致事件であれ、確定はされていませんが、海上軍事境界線近くで発生した韓国海軍の哨戒艇爆破撃沈事件の可能性を含めて、目的達成のためならばどのような手段も選ばないという激しい性格を有している民族のように思われます。

 韓国人・朝鮮人には、『以和為貴』という精神や、『まぁまぁそこは何とか玉虫色に...というような日本式妥協は通用しないのです。 皮膚の色や髪の毛の色が似ていても完全に外国なのです。 キムチ・パワーのひたすらなゴリ押し一辺倒です。
 
 そのような民族性を取り上げて、韓国人・朝鮮人が日本人より劣等であるとか、遅れているかのように誤解して判断することは、日本人側の無知によるものであって大きな間違いです。 お互いに相手をありのままで受け容れあって、理解して、尊敬しあって、対等なパートナーとして共存共栄の道を模索することが肝心です。

 現在の北朝鮮のことを私はまったく知りえる立場にありません。 しかし韓国の政治家も、宗教界の指導者も、特に自称プロテスタント系の指導者たちも、弱い立場の人々に「仕える」という意識も発想もほとんど完全に欠落しているように私は見ています。 とにかく、俺さまがお山の大将でなければならないのです。
 
 そういう意味では、朴正煕軍事独裁政権下の清渓川スラムで、極めて厳しい緊張の中で一緒に明るい韓国の将来を語り合った仲間の一人に諸廷丘チェ・チョング君がいました。 朴正煕政府によってたびたび逮捕され、刑務所で多くの日を過ごした青年でした。 のちに国会議員に当選し、貧民に仕えることに徹底した好青年でした。 私利私欲のない優れた奉仕者でした。 不幸にして病に倒れ、戻らぬ人となりました。 ソウルに諸廷丘記念奉仕会という組織が設立され、遺志を引き継いでいます。榮太楼の飴と雪印の6Pチーズが大好きな青年でした。 例外的な存在でした。ホームページに諸廷丘君の紹介文があります。『諸廷丘 チェ・チョング と金鎮洪キム・ジノン
 
 殆どの国会議員にせよ、多くの教会の牧師にせよ、とにかく主人公になりたい一心です。 出世街道を駆け登って頂点に立ち、そこで踏ん反り返って威張るためには、手段や方法を選ばない傾向があるようです。 政敵が居れば徹底的に引き摺り下ろし、妥協せずに打倒します。 何としても頂点に立ち、主人公になりたい一心です。 相手の存在を強く意識しながら、同時に相手の存在を完全に無視したいようです。 目的達成、初志貫徹に徹します。 仕えるという発想はありえないようです。 そのような精神構造が多くの韓国人・朝鮮人の背後に潜んでいるように感じています。

 韓国教会の牧師が絢爛豪華な教会堂を競って建てたがります。 教会堂正面を特に一段と高くし他の部分よりも豪華に見せ、踏ん反り返って鎮座ましまして、信者たちを支配している姿を見て、無知蒙昧な日本のクリスチャンの多くが、牧師を含めて、一種の憧れと尊敬・敬愛の目で眺めていることがあります。 実に滑稽なことです。 あまりにも無知であり、相手側の民族性や精神構造を見抜けていないからです。

 また、韓国の牧師と自称する男たちの一部が、日本を含めた世界各地で、女性信者蹂躙問題をしばしば起こしています。 その種の牧師や教会指導者たちは、ことが公にされたあとでも強硬に自己主張を繰り返します。 謝罪するということはほとんどあり得ないのです。 親分絶対崇拝主義という姿勢があるように感じます。

 金銭的にルーズな有名な牧師を私は個人的に知っています。 巨額な詐欺ですが、本人はケロリとしています。 謝罪はいっさいしません。 たとえどのように問われても、『クェンチャナョ!...大丈夫だよ!...気にすんな!...』です。信者たちも、『たいしたことじゃない!...赦してやんなさい!...』となります。

 このような発想、このような精神構造というものの背景には、どうやら家長制度といいましょうか、家長的権威といえばよいのでしょうか、縦社会的権威を有する者に対しては、無条件に尊敬し信頼し、無条件に絶対服従するというような政治的、宗教的、文化的な土壌が存在しているように、外国人の私には何となく感じています。
 統一原理教会、すなわち世界基督教統一神霊教会の文鮮明ムン・センミョンや、北朝鮮の金正日首領サマに対する信者や国民の絶対的な信奉姿勢にも、シャーマニズム化した同じような精神構造を見ることができるように私は考えています。

 そういう人物に共通していることは、「仕える」という発想が完全に欠落している点ではないかと思います。 栄華を極めたい...名声を得たい...という願望が顕著だと考えます。 そしてそのことを国民なり信者が肯定していると思ってみています。
 韓国の政治「屋」や宗教「屋」には、善いとか悪いとかの感覚を超越して、そのような発想が強く、それを容認する気配も強いように私は個人的に思っています。

 永田町にもそれと似た発想をするセンセイさまも存在しているようですし、それを容認する姿勢が存在していることも似ているように見えます。 またさらに、日本人の多くの心の奥底に、天皇や皇室に対して、同じような精神構造があるのではないかと、そのように感じています。 靖国神社や日の丸や君が代にも通じているようです。 人間には、そのような要素があるのでしょうか? 「余言者」の邪推でしょうか?

★    すでにお断りとお詫びを繰り返しておきましたように、初稿に混乱と、一部喪失を見ましたので、文脈が通じなくなったり、同じような内容が重なってしまったりする部分があります。 

 地続きの北東アジア各方面から、朝鮮半島の長い歴史の中で、強力な民族・部族が暖かい南を目指して侵入して来たことが繰り返されていたことを考えました。 南に住む人々が、そのような侵略者とその末裔に対して限りない不信感と憎悪感を抱いていることも考えてみました。 また、南は南で、慶尚道と全羅道との対立があることや、南の人の済州島人に対する偏見と差別と蔑視があることも考えてみました。 

 そのような侵略と略奪と殺戮と拉致と暴行の繰り返しが、そこに住む人々にどのような影響や結果を与えるのかということに対して、私たち日本に住む者は理解しがたい面があると思います。 日本とは全く異なった地理的位置と環境の中で生き抜いてきた朝鮮民族・韓民族です。 日本の尺度で韓国や朝鮮を計るというのは正しくありません。 公平でありません。 

 日本が朝鮮半島を、倭寇の時代から、豊臣秀吉の時から、そして最近は大日本帝国による朝鮮植民地化を実施したときから、日本は朝鮮半島に住む人々に対して多くの苦悩を押し付けたことになります。 最近の植民地化政策は多くの韓国人・朝鮮人の脳裏に残酷な事実として未だに残っています。

 それらのことをすっかり棚上げにして、謝罪しないで、胸にブルー・リボンを着けて、北朝鮮官憲による日本人拉致だけを感情的に取り上げる姿勢に、私は何かしら不自然で、不公平なものを感じています。

 今回、光州市の東側にある無等山を訪れたとき、山頂に嘗て日本軍の日の丸が翻ったことを知りました。 そしてそれより遥か昔、豊臣秀吉の朝鮮侵略時に黒田長政が全羅道にも侵入していました。 黒田軍も光州を襲ったとき、無等山頂から光州の村を眺めたことでしょう。 韓国・朝鮮の人々は日本の侵略を忘れてはいません。
 北朝鮮がどんなに好きでない国であっても、日本が犯した国家的犯罪の事実と、それに対する謝罪がいまだ全然なされていないというのは厳然とした事実です。
 
 西独逸ではワイツゼッカー大統領が、ナチス独逸が犯した国家的犯罪に関して近隣諸国に対し、諸問題を冷静に、誠実に解決しようと努力をしました。ワイツゼッカーが採ったように、東北アジア諸国に対して、その国民に対して、真摯に対応することができる政治家 statesman がこの日本にも出て欲しいと、光州の無等山を眺めながら、そのように心から願いました。 無理な願いのようですが...


 


★    私が最初に韓国を訪問したのは1968年夏でした。 その夏にもう一度訪問したのかも知れません。 厳しかった空の旅でしたが、ソウルから釜山までを大韓航空機で往復したことや、翌年夏には提川ジェチョンを訪ね、蚊の大群に襲われながら一週間を過ごした記憶があります。 こん日では想像出来ないほど疲弊しきっていた韓国でした。 日本の植民地政策と、解放後の朝鮮動乱の悲劇を具体的に目撃しました。

 現在でも、基本的な変化を感じることができませんが、その当時の韓国人の日本と日本人に対する憤りの姿勢は実に厳しいものであったと記憶しています。 1970年代初期においても厳しかったと思います。 特に日本軍や日本警察によって受けた酷い扱いを自分自身のこととして記憶している中年以上の人々の態度は厳しいものがありました。 教会堂の中で、説教台の前で、出席していた多くの人々に向かって、日本の侵略の数々の蛮行に対して謝罪を要求されたこともありました。 辛い通過儀式の時間でした。 ホーム・ページに「申玉女シン・オクニョ 」姉が書き遺された日本官憲による具体的な迫害回想文を紹介してあります。 彼女に接し、お話を伺い、胸が詰まったことを記憶しています。 『申玉女シン・オクニョ勧女クワンニョ略歴』をご覧下さい。

 申さんだけではなく、スラムでも、衣服を脱いで、腕や胸や背中に残されていた傷を具体的に示したうえで、日本官憲による拷問や脅迫の話を幾度か聞きました。
 少なくとも1970年代中期までは、中年以上の韓国のかたがたと話をするときには、私なりに智恵をしぼり、その人の年齢や出身地などを瞬間に推測するか、あるいは時には直接、または間接的に尋ねたりして、その人がどの程度の対日悪感情を抱いている人であるのかを秘かに推測し、誠実に平身低頭の姿勢で、彼らの深い「恨ハン」の叫び声に耳を傾けるように努めました。 日本人に個人的に叫びたかったのです。 それぞれが私に見せた、「拷問された」という傷跡など、痛ましいものでした。
 国家による犯罪行為を、個人が代わって償うことも、詫びることも出来ないものですが、それでもそのような場合には、ひとりの日本人として個人的に詫びる以外に彼らの心に残されていた深い傷、トラウマを和らげる術はないと理解していました。
 その人の年齢によって、日本帝国官憲による取扱い方法のほかに、どのような教育過程を経たひとであるのかなどを察知することが重要だと、緊張する場面を介して学ぶことが多かったように思います。

 その人の出身地を知るということは重要だと、私なりに考えて接しました。
 朝鮮動乱勃発直前に北から南に逃れてきた人なのか、朝鮮戦争中に中国義勇軍が越境して来て釜山近くまでアメリカ軍を中心とする国連軍や韓国軍を押し込めたときに退却する国連軍・韓国軍に付随して南に逃れた人であったのか、もともとソウル市を中心とする京畿道の人なのか、忠清道チュンチョンドの人なのか、慶尚道キョンサンド、=(嶺南ヨンナム)の人なのか、全羅道チョッラド=(湖南ホナム)の人なのか、はたまた済州島チェジュドの出身者なのか...それらをすばやく見抜く必要がありました。 年配者には直接尋ねないで、その人が語る方言に耳を傾ける必要もありました。 比較的年齢の低い人には出身地を尋ねることは容易でした。 また、その人の教育的水準を知ることも重要な要素でした。 

 出身地を知ることによって、その人が日本統治にどのような感情を抱いているのかなどを判断する材料の一つにできたからです。 また、その人が他の韓国人に対してどのような感情を抱いているのか...そのようなことの判断材料になりました。
 何しろ慶尚道(=嶺南)と全羅道(=湖南)の熾烈で露骨な対立は三国史記、すなわち、現存する朝鮮最古の50巻からなる文献で 、1145年に完成した記録に記されているほど古い地域別対立、そして人種的対立も、遡って記録されているものです。
 三国史そのものは、新羅シッラ、高句麗ゴクリョ、百済ペクチェの三国を扱った歴史書です。 韓国・朝鮮といえども、アジア大陸の一部を形成しているのです。 島国ではないとうことです。 そこには有史以前から人種の移動や対決の歴史があったということです。

 私に向かって嘗ての大日本帝国による植民地支配時代に受けた屈辱のトラウマを一気に吐き出そうとする年配者に対しては、その人の受けた教育の内容をその人から割り出そうと秘かに試みました。 ちょっとした何気ない会話から推測できました。
 
 日本支配下で日本が朝鮮人の皇民化の一環として強制した創始改名という、朝鮮人にとっては侮辱的・屈辱的な日本の要求を体験した年齢の人なのか、日本語の使用を小学校時代に強制させられた人であったのか、それとも日本の植民地支配から解放された直後に初代大統領に就任した李承晩イ・スンマン大統領による徹底した反日教育を受けた人なのか、祖父母や両親が日本人によって屈辱的な体験を受容させられた人なのか、あるいは、そのような苦しい不幸な体験談を聞いて育った人なのか......を即座に推測する必要がありました。 訪韓ごとに絶えず緊張を迫られた時代でした。

 余談ですが、創始改名のことである知的な韓国人は、「どうせオイラは植民地支配を受けいれなきゃなんない側なのさ。 屈辱的な要求を逆手にとって大いに楽しんでやろう」...という発想で創始改名に応じたそうです。 「犬養健太郎」と創始改名しました。 「犬」は、オイラは日本帝国にとってはイヌ同然だ...という意味です。「養=カイ」を敗戦までの日本では、クヮイと発音していました。 朝鮮語で犬をクゥエkwaeに近い「ケ」と発音しますのでクヮイとクゥエは通じます。 イヌのことです。 「帰れ!」を早口で言うと、ケエーレとなります。 その発音に近い音です。 「健」も「犬=ケン」と発音が同じです。 「太郎」は、当時の日本で犬を呼ぶときに多かった呼び名です。 つまり、犬養健太郎は、イヌ・イヌ・イヌ・イヌという皮肉です。 自分自身をアメリカ人の前で「ジャップ」と呼ぶのと同じ発想です。

 1970年初期から中期までは、相手の出身地や年齢を常に意識しながら、誠実で謙虚に対応する必要があったと記憶しています。 現在では、日本帝国主義の悪夢を体験された韓国人の多くが他界されましたので、ある程度は楽になったと感じています。

 これからは、どのようにして不幸な過去を乗り越えて、肯定的な日韓関係を構築してゆけばよいのか...このことに努力を払うべきだと思います。 しかし、日本側は、嘗て日本が韓国・朝鮮を蹂躙したという歴史理解と認識を基本的に堅持すべきでありましょう。 そして、いろいろな面で日本という国家権力が、韓国民に対して充分な償いや謝罪をしてこなかったのではないか...という疑念を持ち続ける必要があるように思います。 とりわけ、北朝鮮に対しては、日本人拉致を糾弾するだけで、全く何も償いをしていないという現実を忘れてはならないと、私は、そのように考えます。

★    次にまた韓国・朝鮮内の地域闘争や差別に話を戻します。私は朝鮮史・韓国史を学んだことが全然ありません。 50数回にわたる個人的な訪韓で得ました旅行体験だけが頼りです。 耳学問、目学問、舌学問、足学問、手学問の範囲を出るものではありません。 主観的なものであり、専門学術書ではありません。この点をどうぞ充分にご理解願いますし、多くの誤りがあると思いますのでお詫びを致しておきます。 いろいろとお教えを賜りたいと願っています。

 日本の植民地統治から解放されて樹立した韓国の李承晩イ・スンマン大統領の政権を軍事クーデターで奪い取り、強権弾圧軍事政治を行った慶尚道出身の朴正煕軍事独裁大統領が、全羅道に対する露骨な差別政策を採ったことで、両道の地域対立をさらに激化させました。 この朴正煕政権を引き継いだ、同じ慶尚道出身の全斗煥チョン・ドゥファン軍事独裁大統領が、結果的に光州事件(5・18事件)を生み出しました。少なくとも私個人はそのように理解しています。 もちろん慶尚道人が同意するかどうかはわかりません。 きっと同意しないで、彼らなりの弁明をすることでしょう。

 そののちも、そしてそれは現在に到るまで続いていると見ていますが、慶尚道出身の盧泰愚ノ・テウ軍事大統領、金泳三キム・ヨンサン大統領、金鐘泌キム・ジョンピル(KCIAによる金大中拉致事件責任者 ?)など慶尚道出身者の歴代のお偉方たちが、全羅道出身の故金大中大統領と全羅道に対する露骨で熾烈な対立と差別政策が現在に到っても続いているように私には見えます。 
 私たち日本人には、坂本竜馬時代の政情よりも理解するのが難しい、徹底した地域対立姿勢です。 部外者を排斥・排除する思考であり、現実のように思えます。 北東アジアと地続きの、長い抗争の歴史を抱く朝鮮半島なのでしょう。 

 古くは李氏朝鮮時代に遡ることですが、例の北朝鮮の貨客船マンビョンボンの基地で有名な、現北朝鮮北東部の威鏡道ハムギョンドに対する偏見と差別は昔から厳しいものがあったようです。 「奴らと喧嘩をすれば、奴らは13年間も忘れないで攻撃して来る...」といわれているほど、南の人間は威鏡道の人を忌み嫌い、信用しないと言われてきました。 

 また、現北朝鮮北西部、黄海に面した、中国と国境を接している平安道ピョンヤンドに対する南の偏見と差別や蔑視も厳しいものがあったそうです。 (この場合の「南」というのは、現在の南北分裂後の南=大韓民国という意味ではありません。 為念)
 ソウルを中心とした「南」の人間は、北の人間を官僚に迎えるなどということは絶対にありえなかったようですし、嫁女を北から娶るなど、とんでもないことであったようです。 こん日では、これに現在の南北対立・不信感が、古くからの地域差別意識に拍車をかけているのではないかと推測しています。

 いくどか申しておりますが、兎さんのような格好をした朝鮮半島は、頭の部分に相当する北限を、鴨緑江アブノックガンと豆満江ドゥマンガン という二つの流れで自然の国境線を築いて、対岸の中国と、北東部のごく一部はロシアと接しています。  このため、北東アジアの部族や民族が長いあいだにわたって二つの川を渡って南に侵入して来ました。 現在の中国北東部には朝鮮人の広い自治区があります。 間島地区と呼ばれています。 朝鮮人の往来が古くから盛んであったしるしです。 こん日のように国境意識が存在しなかった時代から、たとえば前漢時代には夫余プヨとか、鮮卑センピとか、沃沮オクソなどという部族が居たようですし、唐の時代には高句麗ゴクリョウなどが、朝鮮半島と地続きで現在の中国北東部に居ました。 沃沮は東沃沮と北沃沮というふうに二つに分かれていたといいます。 掲婁ユウロウ ?という、耳にしたことのない部族もあったようです。 

 通古斯ツングース族や、すでに紹介しました鮮卑族はアルタイ語系統の民族もいました。 契丹キッタン族や女真チョシン族や満州族をも網羅した勢力で、狩猟や漁労に従事し、トナカイや牛馬の飼育もやっていたようです。 侵入して来た騎馬民族の蒙古人もいました。 13世紀に日本を侵略しようとした元寇の張本人の蒙古人たちは現在のハンガリーや北欧までその機動力を用いて制圧した騎馬軍団民族です。

 もちろん、中国勢力の侵入は長く続きました。 現に、北朝鮮は中国に頼らなければ生存できないような関係にいます。 
 
 私たち日本人にとって殆ど聞いたことのない北東アジア民族が蒙古や旧満州などで勃興を繰り返していたようです。 朝鮮半島に住んでいた諸部族・諸民族も川を越えてそれらの地域に入り、交易し、結婚もしていたものと想像します。 そのような位置関係に朝鮮半島は陸続きで繋がっているのです。

 これらの諸民族の侵入や往来で、たくさんのサマリア人が生まれて来たものと思います。 南のほうの人々が、北のほうの人々を信じない理由に、南進してきたこれら「野蛮人」の血を引く者たちが北に多い...ということがあるのかも知れません。
 南のほうに居た新羅シッラと百済ペクチェが、北の高句麗ゴクリョ族に対する不信感と反抗心を無視することはできないと思います。 脱亜入欧を果たして久しい日本人にとって、隣国とその周辺の歴史を学ぶ折が少な過ぎるように思います。 それで難しいのでしょう。 なお、英語のコリア Koreaは、高麗コリョから派出した言葉です。

 


=再開=

 韓国人の名のことです。 
 今の北朝鮮がどのようになっているのか、判断材料皆無ですので何も申し上げることができません。 推測ですが、両班制度という、従来の古い伝統は、反民主的制度として、おそらく否定されているものと思います。

 南に関してだけ...ということです。 古くからの朝鮮民族の伝統的な社会制度に、朝鮮王朝時代の両班ヤンバンという制度がありました。
 よく耳にするこの両班制度、わたしのような素人には、わかったような、わからないような点がおおくあります。 たぶん勉強不足からだと思いますが、スッキリしない...はっきりしない...のです。 お詫びをしておきます。
 
 何でも中国の古い朱子学の影響をうけた儒学の体系とかで、朝鮮半島では958年に文班が科挙制度を採用し、科挙という試験に受かった者が官吏になることが出来たといわれています。 995年には軍隊のような制度が整理され文官と武官の両制度ができたとかです。 次第に支配階級の学者、ブルー・カラー・エリート制度という社会の支配制度の頂点に立った高級官僚族ができあがったとかです。 両班の下層に中人という下級両班=技術官僚集団が形成され、その下に常民と呼ばれる一般住民=労働者層ができ、さらにその下に奴婢層があったとかです。 劇「チャングム」にも奴婢層の女性たちが顔を出していました。

 たぶん勉強不足からだと思いますが、スッキリしない...はっきりしない...のです。 お詫びをしておきます。 李氏朝鮮時代には、そのような高級官僚支配制度が完成していたようです。 宮廷に仕える役人のことで、政府の高級官僚になる資格を得るための試験、科挙というテストに合格した一族のもので、幾世代にもわたって同じ集落に住んでいる一族の一員で、先祖を崇拝し、学問に励み、まじめな人物であり、その家族は両班どうしが結婚して伝統を堅持する者、そのような要求を満たすことができる人物だけが採用されてお役人さまになれる、なれない...というような制度であったようです。 

 最初には武官制度もあったようです。 文官(東班)と武官(西班)という二つの班があったようですので、てっきり日本の源平に匹敵するのかと誤解していました。 しかし、のちに到り、特権的な文官の身分と、文官を輩出した支配層一族を指したもののようです。 儒教倫理の実践を重んじたと言われています。 自分たち一族の家系の優秀性や正統性を強く主張し証明したようです。 1894年に到って制度は廃止されています。
 現在の韓国社会とその文化の中に、この両班制度の影響が残っているのか、素人の私にはまったく見当もつきません。 間接的な影響ということであれば、そのような影響は残っているのではないかと思います。 お断りをしておきましたように、両班に関係する冒頭部分の初稿を喪失してしまいましたので、文脈がじょうずに繋がっていません。 

 両班との関係ですが...
 現在の北朝鮮を知りませんので、南半分のことで知っていることだけを述べてみます。
 南の韓国では、現在でも本貫ポングワンというものがあります。 貫郷グワンヒャンと同じことだと漢韓大字典に出ています。 ある氏族の始祖が生まれた地名という意味のようです。日本では意味が違いましょうが「本籍」というのが一番近いかと思います。 日本の平安時代末期に興った武士の所有地を苗字にしたようなものだとでも言うのが何となく近いのではないかと思います。 同一父系氏族集団の発生地を表しています。 そのことによって自分たち一族の正統性や名誉や優秀性を示すもののようです。

 今回の光州訪問時に光州市立公園墓地を見てきましたが、数百以上あるかと思われる統一された石碑の殆どに、何処どこの金族だ、李族だ、朴族だ、鄭族だ...という族名が故人の名の上に刻まれているのを確認できました。 すでに紹介しましたが、「京都西陣の野村族」の「野村基之」の墓だ...というように彫り刻まれていました。

 本貫が同じ男女は結婚しないとう社会的約束が最近まで韓国社会ではまかり通っていると理解しています。 そのため同じ族名の男女が出会えば最初にお互いの本貫を確かめ合います。 また、同じ本貫の男女が恋に陥ってしまって悲劇に終わった...という話を聞いたことがあります。 2005年以降は法律の緩和があったようですので、同姓で同じ本貫でも「八村以上離れていれば」、「親や親族が反対しない限り」結婚を認めるとも聞いています。 「八村」と言う意味は日本で言う八親等という意味だと私は理解しています。 昔は交通手段も少なく、人口も少なく、人口移動も少なかったので、近親結婚を避ける目的があったものと思います。 外国への永住韓国人同士はこの問題をどのように解決しているのかわかりませんが、韓国内においては本貫が同じ男女は結婚しないようです。 「純血種」を重んじる発想だと思いますが、同時に排他性をも示すもののように外国人の私には思えます。 しかし外国人の私がこのことでとやかく言える筋合いのものでありません。 そのようなしきたりの極めて強い国だ...と理解して受け容れるしかありません。 女性卑下社会でもありましょう。 自分の本貫以外の人を受け容れないという基本姿勢があります。

 最近の日本では、結婚届を出すときに、夫婦別姓で登録したい...と願う動きがあります。 しかし韓国では結婚した女性が男性の族名を名乗ることはありません。他族出身女性を男性の族名が代表する家系には絶対に入れさせないという習慣があるからだと思います。 「一族の血を護る」という発想が極めて強いのでしょう。子供が生まれると、その子は父の族名を名乗ります。 一種の排他的慣習でしょう。韓国の人権団体がこのことを問題にしているのかどうか私にはわかりません。 そのようなことは問題外なのでしょうか?
 そういえば、日本なら主婦が夫を指して言うとき、「うちのパパが...」などといいますが、韓国ではそのような場合、息子の名を使って「基之の父が...」と言っているのをしばしば耳にしたことがあります。 

★    日本という島国は、アジア大陸の東端に沿って、北は北海道から南は沖縄まで、アジア大陸からある程度の距離を置いて、細長く位置する島々から成り立っています。 
 そのため、南や西の方から個人や小家族なら何とか辿り付ける距離にありますが、大勢の軍隊を乗せた軍団が集団で襲うというのには、大陸からの距離が離れすぎていることで困難であろうかと思います。 蒙古軍が中国東海岸や朝鮮半島南部で船舶と漕ぎ手などを徴用して、12万人前後が壱岐対馬経由で北九州に上陸を企てたということですが、海のこと、海の気象のことに疎かったものと思います。 失敗しています。
 この地形のために外部から大きな軍事勢力が渡来して来ることを拒んでいたと言えます。 このことが善いとか悪いとかを論じているのではありません。

 しかし、朝鮮半島はといいますとアジア大陸とは陸続きです。 北東アジア大陸の一部です。 朝鮮半島に定着してきた朝鮮民族・韓民族が形成して来た「クニ」とその民族と、日本のそれとの違いが、その辺りにあるのではないかと考えています。
 朝鮮半島に住む民は、古くから中国や蒙古や北東アジアやシベリア地域に勃興した強力な部族・民族によって絶え間なく侵略の危機に晒されて来たと思います。 日本とはその地理的条件が異なるのです。

 この点においてアジア大陸から海によって孤絶している日本は、朝鮮民族を弱い国、劣等民族だ...などと誤解し、蔑視する傾向があったようです。 「日の本の国」だとか「日出ずる国」などと自称し、島国であることに気付かず、忘れてしまったままで、オイラの日本は偉いんだぞ!と自慢していました。 私が小学生時代、そのような皇民教育を受けていました。 宮城遥拝と一緒に叩き込まれていたのでした。そして、私たちは、オイラの国は万世一系の天皇の国、大日本帝国は神国である!と信じきって疑うことがなかったのです。 
 
 「いずれの外国勢力からも侵されたことが嘗てない神国日本だ!」と、小学校でそのように教えられていました。 元寇は「神風で簡単に勝利した!」...でした。颱風でした。 日本を攻撃する蒙古軍にとって最大の苦手は海を渡るということです。
 中国本土東端や済州島や釜山近辺から10万もの蒙古兵、徴用された中国人や朝鮮人、それに軍馬が海を渡るというので、難業であったものと思います。 てんでばらばらで、言葉や風俗習慣の異なる傭兵、漕ぎ手、医師、糧食・炊事担当者、馬丁、雑役夫、衛生係、エトセトラ...10万人を纏めるだけでも大変なことであったのでしょう。
 
 攻められる側の鎌倉時代の日本は米や雑穀の農業国です。 それぞれの土地のカミを中心とした一族の集団です。 ムラが生まれ、巫女やカミを奉る中心人物が現れ、やがて武将を戴く地方勢力が成長し、さらに天皇をカミガミの頂点とするピラミッド型の縦社会が育って来ることになる国です。 米作は独りではできません。 集団でやります。 意思の疎通のための命令系統が生まれます。 このような過程を経たのが日本というクニの成立ではないかと、そのように素人の私は理解しています。

 このあたりが、てんでばらばらで、互いに地域対抗意識の強い大陸の部族や民族との違いが出てきたのではないかと、素人の私は推測します。 もちろん、その過程で、とりわけ徳川幕府の時代に、一部の職業に従事していた人々を、その職業のゆえに厳しく差別したことによって、まことに理不尽な、蔑視された集団が生まれてしまったことも事実です。 

 アジア大陸から適当な距離で海によって四方を取り囲まれて隔離され、黒潮の影響を受け、明白な四季がある、コメ農業中心の日本の風土からは、「和以為貴」という文化が生まれ、それを支配者たちが都合よく利用して諺、金言を作りあげ、日本では「個の確立」が困難になったものと私は考えています。

 この点で、アジア大陸に直接繋がっている朝鮮半島と、そこに住むいろいろな民族は、まったく別な歴史過程を経て、こん日の韓民族・朝鮮民族の文化や、地域差意識や、同じ半島内での対立や抗争を繰り返して来たものと私は理解しています。 特に北東アジアからの騎馬民族の侵入の影響です。 ハンガリー及びフィンランドまでも侵攻した彼らが、そしてそのほかの強力な北方部族が朝鮮半島に侵入して来るごとに、彼らの侵入を阻止できた、都合のよい「神風」などはなかったのです。 

 すでに私見を述べてみましたが、1945年以降の南北の強力な軍事体制が、それ以前までのいろいろな地域に住んでいたいろいろな種類の人々の、てんでばらばらな価値感覚や郷土愛を初めて一つに纏めた、纏めることが出来そうになっているのではないかと、そのように理解しています。 軍隊とは、そのように天下御免で徹底した最高の洗脳集団ではないのかな?と思っています。 韓国の兵隊さんを眺めて、そのように素人の私は感じます。 テレビで視る北朝鮮軍兵士の、一糸乱れぬ集団行進を視ても、同じことを感じるのです。 

 


★    朴正煕軍事独裁大統領、同じくそれに続いた全斗煥軍事独裁大統領、そして更に盧泰愚ノ・テウ軍事独裁大統領... 北では金日成キム・イルソン 独裁首領と、その息子の金正日キム・ジョンイル独裁首領、裸の王様のようだと思うのですが...、これら南北の独裁者たちと、いまだに延々と続いている南北軍事対峙体制が、朝鮮半島にもたらした、皮肉なことですが、数少ない貢献?というものに、国民皆兵制度というものがあると私は考えています。

 それは、軍隊での共同生活によって、一つの共通体験がもたらす共通した愛国心の養成ではないかと、素人の私なりに考えているからです。 出身地域の差によって、あるいは身分の高低によって、普通ならば絶対に交わらないはずの青年たちが、同じ釜の飯を食らうという体験をするからです。 お互いに好きでも嫌いでも一定期間を同じ場所で運命を共同しなければならないのが軍隊生活です。 このようなことは、長い朝鮮半島の歴史の中で、かつてなかったことだと私は考えています。 
 
 徴兵制度を通して、国民皆兵制度による、強烈な軍事訓練と思想教育・洗脳教育を経由して、それまで各兵卒が抱いて来た地域別差別感を、軍隊生活を通して、初めて統一した目的、愛国心を叩き込まれた若者たちが生産されてゆくのです。 

 南北の軍事体制が、皮肉なことに、朝鮮半島南北のすべての若者に、表面的にせよ、画一的価値感覚や愛国心を植えつけることに役立っていると、私はそのように見ているのです。 このような統一した愛国心の培養育成企画は、いままでの長い朝鮮半島の歩みの中でみることができなかったものだと思います。 奇跡だと思います。

 それまでの愛国心(というよりも、むしろ地域ごとの郷土愛と呼ぶべきなのかもしれません)は、交通手段や通信機関や教育機関の発達が困難であったという弊害があって、郷土愛よりも大きく成長し、発展することが困難であったのではないかと、そのように私は思っています。 たとえば、日本の侵略に抗して戦った時代に、一つの国全体として纏まって、団結して対抗するという点であまりにもお粗末過ぎたものであったと思います。 てんでばらばらな抵抗であったと思います。 

 現在のような、統一された、纏まった軍隊ではなく、地方ごとに集まって抗日運動をするというような、纏まりと統制力や命令・式系列がばらばらであったと思います。 中国に頼ろうとする地方勢力があったと思えば、帝政ロシアに依存しようとした一族もいました。 日本に頼ろうとしたグループや指導者もありました。 

 いろいろな思惑を、それぞれの地方が抱いていた思惑があったようで、統一して、一致団結して侵入してくる外敵に対応するということができませんでした。 そういう個人主義が徹底している民族性を抱いていると私は見ています。
 
 しかし現在では、皮肉なことに一つの国として纏まり、統一した価値感覚と愛国心を南北政府や軍隊が、それぞれの国民に植え付けるのに成功しつつあると思います。 しかし相手が敵であっても、同国人同士であると言う思いがあるのは事実でしょう。

★ ローマ帝国は、イングランドからインド西部までを網羅する広大な領土を保有していましたので、国土を護るために強大な軍隊を必要としていました。
 しかし強大な軍事力を保持するということは、自分自身の帝国を、特にその首都をクーデターで内部から崩壊・壊滅させてしまう危険性を秘めることでもあります。 

 すでに述べましたが、北朝鮮軍と対峙する韓国軍最前線司令官に鉄の三角地帯と呼ばれている最前線の鉄原チョロンで出会い、(=北朝鮮が秘かに掘り進めたトンネルが発見された最前線で)話を伺い、国の現状を憂いつつ未来を眺めている司令官のような人物が朴正煕大統領を覆す可能性が多いと感じさせてくれたのでした。 この私を「親韓派=親朴大統領派」にしようと試みて、一般韓国人や外国人が滅多に入り込めないはずの前線視察の段取りをしてくれた中央情報部(南山・KCIA)が、皮肉にも、私にしてくれた最高の贈物だと秘かに思い嬉しくなったものでした。
 
 そのあと、大統領は側近によって酒宴の席で暗殺されました。 北朝鮮軍人指導者の中にも、そのような人が存在しないとは決して言えないと思います。 更にのちに到って黄長燁ファン・ジャンヨブという、金正日首領の恩師で元朝鮮労働党書記が、日本と中国とフィリピン経由で韓国に亡命しています。 同様なことがローマ軍の中にも居たかもしれません。 

 ローマ皇帝が最も気を使ったことの一つにクーデターがあったものと思います。 これを防止するには、たとえば東京の青年を北海道に送り、北海道の青年を沖縄に送り、沖縄の青年を佐渡島に送り込んで、言葉や風俗習慣のまったく異なる地方に軍人を交互に、相互に送り込むことで、言葉が通じ合う兵卒たちが相談してクーデターを起こさせないように配慮したという基本方針があったことを学んだことがあります。

 この点において、韓国軍も北朝鮮軍も、同じような価値感覚や愛国心や思想を兵士に共有させる必要があります。 皮肉なことですが、南北共に軍隊制度を通してこの目的を達成しつつあると、そのように思います。 韓国人・朝鮮人の地域別対立精神構造を、強力な統制力を持つそれぞれの軍隊が改善しようとしているのです。 おもしろい、そして皮肉な現象だと思います。 それにもかかわらず、北から非武装地域を越えて、南に命がけで逃げてくる兵士がときどきあります。

 私は北朝鮮を訪れたことがありませんので北のことは何も知りません。 騎馬民族である蒙古が陸続きの朝鮮半島北部から侵入して来て長く留まったことがあります。 ソウルの西にある江華島カンファドに人々が逃れたという話もあります。通古斯ツングース系の女真ヨジン族も北から侵入して留まりました。 通古斯語を話す諸部族をツングースと呼んでいます。 シベリアのエニセイ川、アムール川流域から中国北東部にかけて広く分布していた部族です。 契丹族、女真族、蒙古族などが含まれていたと思います。 高句麗も南下しています。 そのいずれも強大な軍事力を有していた部族です。 朝鮮半島の人々が恐れた部族です。 とくに北のほうに住む人々の間では怖れられた外国勢力です。 「外部」勢力と呼ぶべきなのかも知れません。 なぜなら、その当時は、こん日の私たちが言う「国境」とか「国家」意識はなかったはずです。 地域単位、部族単位で睨み合いをしていたものと思います。 現在の日本人にとって、このことは理解し難い点かも知れません。

 侵略者との雑婚があり、サマリアとおなじ問題が後を引きます。 北朝鮮系の人のほうが、南の人よりも背丈が高いと私は思っています。 鼻が高いように思います。 言葉や抑揚にも違いがあるようです。 脱北者たちに接して何となく感じます。

 そのような北部を金日成や金正日一家が独裁者として支配しています。 何百年もの、支配者一族郎党による縦支配の精神構造です。 ある意味で、北朝鮮を訪れることができなくても、そこに住む人々や、その指導者の性格や営みを憶測することは、絶対に不可能だとは断言できないように思います。

 現在のように南北分断が固定化される前に北朝鮮に住んでいた人や、嘗ての北朝鮮を知っているという老人や、北朝鮮軍や中国義勇軍が2度にわたり南進してきたことに対して、アメリカ軍を中心とする国連軍が北進をしたという、そしてそのたびごとに無辜の住民を巻き込みながら押し合い圧し合いがあったとき、国連軍のあとを追って南下して来た友人や知人から話を聞きますと、北朝鮮内の地域差別や部族差別問題や蔑視問題も南と同じように盛んであったということでした。 同じ人間です...

 すでに述べましたが、北朝鮮で生まれ育った青年たちは、軍隊に徴兵され入隊することで、軍隊という厳しく、また徹底した思想教育と共同生活を経て金正日首領サマに対する絶対的な忠誠心を叩き込まれるとう洗脳作業が完成しつつあるものと憶測できます。 
 
 それまでの朝鮮半島に住む人々は、王とか皇帝などを中心とした縦社会の命令に対しては、日本人の天皇や為政者に無条件で服従するというような意味で、服従せず、むしろ各部族、各村落を中心に纏まって、侵入者に対抗するという姿勢であったものと推測しています。 大きな、纏まった外敵の侵入を容易に許してしまうという落し穴があったのではないかと、私はそのように考えています。 間違っているかも知れませんが...
 しかし、現在では、南北共に、中央集権的で絶対的な軍隊を中心として国民が纏まるという傾向が嘗てないほど強まったのではないかと思います。 大変な変化だと思います。 皮肉にも、南北の軍事独裁者たちが成し得た偉業なのだろうと思います。

 お馴染みの坂本竜馬劇が示すように、やれ土佐藩だ、やれ長州藩だ、やれ薩摩藩だのと、国単位での集団ではなく、地方単位で、地域単位で、お互いを意識しながらも、それぞれが単立でことに当たっていたように思います。 竜馬や西郷隆盛以前ですと、戦国時代、すなわち武田信玄だの、織田信長だのと、地域単位で差別や抗争や対立があったように、朝鮮半島内各地にもそれぞれの地域ごとに対立や抗争があったものと理解してよいかと思います。 そして、日本では、坂本竜馬劇が暴露したように、藩内においても実に激しい上下関係、すなわち、武士の中にも上士と下士という厳しい階級があり、お互いに激しい対抗意識と差別と蔑視がありました。 

 日本が明治維新のときに大政奉還というものがあり、それ以降は天皇を頂点にこの国が一つに纏められ、今日に到っています。 その間に、恐ろしい太平洋全面戦争を敗戦で迎えるという、天皇を頂点にした縦社会が、国民に大きな犠牲を強いるという失策がありました。 地方自治だのと叫ばれていますが、未だに同じ精神構造で日本は纏まっているようです。 明治維新の過程で、戊辰戦争というものがありました。おそらく日本国内では、あれが最後の二大勢力による最後の内乱であったかと思います。 

 韓国では、二人集まれば三つの政党があり、三人集まれば五つの政党がある...などと言われています。 士師記の最後の節のように、「おのおの己が目に善しと見ゆるところをなせり...」ということで、国を纏める求心力としての王が不在なのでした。 
 同族内の者、一族内の者でなければ、成功した人が出て来れば、必ずその人の足を徹底的に引き摺り下ろします。 こっぴどく引き摺り下ろす...と言われています。 
 最近はそういう傾向が中国に移ったようですが、ソウルでテレビを見ているとき、日本のコマーシャルがそっくりそのまま盗用されているのを見たことがあります。他人ということ、他人の作品ということを意識しないからだと思います。 利用できる物は何でも利用したらよいのです。 駅のホームで電車の到来を待つ間、ベンチに坐って新聞をよんでいると、見知らぬ人が隣に坐りこんで、目を通していない新聞の一部を自分の方に引っ張っていって平気で読みます。 洗面をするとき、手元にあったはずの電気髭剃り機が見当たりません。 どこかで電気髭剃り機の音がします。私の物を無断で持ち去って使っています。 あやまる気もなさそうです。
 
 自分の家族、一族、同族ごとに、二千年以上も纏まって生きる苦楽を共にしてきたのが韓国人・朝鮮人社会です。 そのような歴史過程を経た文化や慣習があるようです。 同じ教会のキャンプに来ているのだから、奴の物はおいらの物でもあるのです。 使っていないのなら俺が使っていいじゃないか...という理解です。 キャンプで一緒に食事をしているとき、隣の席に坐るはずの人が来ていません。 遅れて来るのでしょう。 日本なら、その人の分を残しておきます。 しかし韓国の教会キャンプで幾度か目撃したことは、そのような場合、先に食べ始めた食欲のある人が、空席の前に置いてある他人用の食事を食べてしまうことが往々にしてあります。同じ仲間という意識があるからでしょう。 とくに男性にそのような傾向が多いです。
 おなじような気質を、私どもが住んでいるところでも感じながら、四半世紀を過ごして来ました。 苦労して米を一緒に作って来た田舎の気質なのかも知れません。

 その代わり、部外者に対しては、ほとんど絶対に気を許さないのです。猜疑心が強いというか排他性が強いと言えばよいのでしょうか。 
 同じ先祖を共有していなければ、仲間として、一族の一員として、なかなか受け容れてもらえないようです。 韓国の場合には同様なことが言えます。 いや、むしろ韓国のほうが、もっと厳しいと言えましょう。
 
 お墓を訪ねて見ればわかりますが、「京都西陣飛鸞の野村基之の墓」というように墓碑に刻まれています。 ご先祖さまの地盤と血統を誇っているのですが、その反面、それほどまでに強い一族意識が死後におよんでも主張されているということです。これほど排他的、非妥協的なものはないと思います。 日本人なら、死んでしまえば仏さま...穏やかに...穏やかに...でしょうか? 

 その代わり、外国人である私のような者でも、いったん仲間の一人として受け容れてもらええると、楽でもあり、苦痛でもある人間関係を強いられることになります。 
 仲間の一員と認められますと、その一族なり、そのグループの掟に従わなければなりません。 面倒なことです。 厄介なことが始まります。
 たとえば、仲間なり、親族の内の誰かが経済的によくできない場合、その仲間なり一族の内で、「一番よくできる者」が、できない者を助けるのは当たりまえ...という不文律が、どうやら、存在しているようです。 韓国社会では「割り勘」という発想は起こり得ないし、あり得ないことなのです。 誰が支払うべきか...その場で、瞬間的に、誰もが暗黙の内に理解するようです。 気付かない外国人が恥をかきます。
 
 食堂に入る前にどちらが支払うのか、誰が払う立場にいるのかなどを、洞察して、心に決めておいたほうがよいかと思います。 できる者なり、食事に誘った側が支払いをするのが通常のようです。 戸惑うことが多い、気を使う食事になります。

 野村とかいう金持ち日本人のオッサンがいるんだから大丈夫だろう、心配ないさ... と、民主化運動の大学生たちは、私の知らないうちに、自分たちだけで勝手にそのように決め込んで、私がスラムの教会の指導者たち二、三名を誘って食事に行こうとするときなど、勝手に私のあとを付いて来て、それぞれが自分勝手に自分の好みを注文して、食べ終わればそのままどこかに消え去ったことが幾度かありました。 最初の内は相当に戸惑いました。 もし私に充分な所持金がなかったなら、私はどうすればよかったのでしょうか? また、スラムの内外に張り込んでいたはずの私服の警察官や南山要員がその現場を目撃していれば、私が民主化運動を支援し、反政府運動学生を養った...ということで逮捕される可能性もあったのでした。 震えます。
 実際に、日本人フリー・ジャーナリストの太刀川という人が、早川という留学生の通訳で学生たちを取材し、20ドルかの謝礼を学生に支払ったことで反政府運動に加担した...とこじつけられ、逮捕され、禁錮20年だかを食らったことがありました。

 このような習慣を知らない外国人は、気付かぬ内に大きな失敗や誤解を招きます。皮膚の色が同じで、髪の毛の色も同じなのですが、完全に異なった文化を持つ外国を訪問しているのです。 最近の金持ち日本人、海外何処へ行っても横柄に振舞う傾向があるようです。 適度な礼節を弁える必要があるのではないかと思います。
 私たち日本人が韓国を訪問するとき、わずか1時間半で外国に居ます。 気持ちの切り替えができないままで、円高で商店街を闊歩する危険性があります。 表面上共通点が多いので、外国に来ているということを忘れてしまうところに落し穴が隠れているようです。 

=みたびお詫び=

ここまで、自分が韓国人社会で、仲間として受け容れてもらっているのか、それとも部外者、外者なのかということで、難しいことがあると、体験談を書いてきました。
キャノワードからパソコンに原稿を変換する際に生じた電子信号のやりとりの失敗で、初稿を瞬間に失ってしまいました。  そのため、ここから以下の文章との文脈が繋がらなくなっています。 お詫びいたします

 


★    ここまで、思いつくままに、行き当たりばったり方式で、継ぎ足し、継ぎ足しを重ねて、今回の光州訪問雑記を、無責任極まる気楽なかたちで書いて来ました。せっかくキャノワードで書いた原稿をパソコン用に変換した際に、今回どうしたわけか、パソコン側が変換した文章の受け入れを拒否し、一部草稿が破壊されてしまうという予期せぬ出来事もありました。 恥の上塗りを覚悟で、無責任な文章をもう少し加えてみたいと思います。 
 私は韓国学・朝鮮学も、韓国史や朝鮮史も、学んだことのない全くの素人外国人にしか過ぎません。 多くの誤解や誤りがあると考えています。 お赦しを願います。

 韓国・朝鮮のことを何も知らない私ですが、 1968年から現在までに、数多くの制限の中に在って、品川バプテスト教会の日隈光男牧師先生ご夫妻、旧八幡山基督の教会の皆さんがた、そして私の家族らの暖かいご支援を頂いた上で、60回近く訪韓を経験した者に過ぎません。 訪韓中に、耳学問、手学問、足学問、舌学問、それに韓国の情報機関などによる「ヒヤヒヤ・ドキドキ学問」なども加えて、韓国の皆さまがたの暖かいご配慮を頂き、いろいろな体験を実に多くを学ぶことができました。 

 「豚も煽てりゃ樹に登る』...という流行歌がありました。 私の場合、独りで煽て挙げて、独りで樹に登ってしまった...という感じがしないわけでもありませんが、滅多にこのような機会もないかと考え、もう少し加筆いたします。

 私は個人的に北朝鮮をも訪問してみたい...という漠然とした思いがあります。それは、日本の為政者たちがこの日本を動かして、朝鮮半島に住む人々に対して犯した国家的犯罪行為がありますし、日本敗戦後の65年間に、北半分に対しては何も謝罪していないという歴然とした事実があるからです。 これは異常だと、私は思います。

 また、主イェスの十字架上の贖罪の業には、神の愛の対象には、北朝鮮だけは含まれていない!...というような誤解があるようです。 日本人拉致問題ということで、北朝鮮バッシングという風潮が日本のキリスト教会内にも広く蔓延しているように思えるからです。 しかし、北朝鮮に住む人々も福音の対象であり、神の愛の対象だと私は考えています。 彼らにもイェスの福音を聴く権利と特権があるはずだと信じているからです。 

 また、嘗て1975年に、かなりの個人的な経済的重圧の中で、私が単独で西独逸教会を2度にわたり訪問し、疲弊しきっていた韓国農漁村やソウルなど大都市周辺に住む最低辺層の未就学児童たちのために、バランスの採れた、暖かい食事を与えたいとの願いを訴えたことがあります。 フィリッピン・レガスピのスラムの未就学児のことをも含んで、西独逸を上下左右に、田舎の方の教会まで訪問して訴えました。 その結果、西独逸教会が韓国内各地に10数箇所の託児所を建設してくださり、そこを拠点として、毎日2,000名の未就学児童に対して20年間にわたり給食をして下さったことがありました。 延べにして1千5百万食前後になったかと推定します。
 同じようなことを北朝鮮の未就学児に対してもできないものであろうか...と、そのようなことを漠然と考えているからです。 経済的にもはや個人ではできませんし、このハラボジ、間もなく時間切れとなり、夢は実現しないままで終わることでしょう。

★    朝鮮半島の南半分に関しては、隅から隅までとは決して申せませんが、離島やハンセン病棟、淫売窟、北朝鮮軍が掘った秘密トンネルなどを訪問しました。
 
 北朝鮮軍と直接対峙する最前線での司令官と最前線で昼食を共にする機会がありました。 意識の高い司令官で、国際情勢にも精通した軍人でした。 朴正煕大統領の軍事独裁政権下で、民主化運動がそのうねりの最高潮に達していたころであったかと記憶しています。 韓国を取り巻く厳しい国際状況を的確に把握されているのには驚きました。 一般韓国人が読むことのできない日本の新聞や雑誌類にも精通している司令官でした。 会食中の談話から、このように意識の高い職業軍人高官が存在しているということは独裁大統領を倒すことが可能なのであろうと、そのような感覚を私は感じて、内心安心できたように嬉しく感じました。 暗殺という毒薬を隠すのには毒薬薬局=軍隊が最高の隠し場だと考えたからでした。 朴正煕大統領はその後、側近の手で暗殺されました。 現在の北朝鮮高官の中にもこのような人物が居ても決して不思議ではないと、素人の私ですが、そのような気がします。 さてっ?!

 朴正煕軍事独裁政権下の大統領緊急措置令発令中にも、清渓川スラムを含めた各地で民主化運動家たちの緊張した一種の秘密集会など、いろいろな場所を見聞きしました。 常に追われる身の、緊張しきっていた民主化運動の学生たちや指導者たちが、極度の緊張をほぐすという名目で、淫売窟で安い酒を呑み、女性たちと戯れる場面もありました。 

 私は必ずというほどそのような席に誘われました。 その場合、韓国式慣習で、私が巾着役でした。 タクシー代を含め、酒代、席料、「その他もろもろ」の請求書は私にまわってきました。 安い酒に酔い、金属製の箸でちゃぶ台を叩き、酒宴にふさわしい、私にはわけのわからない歌をどなりながら歌っていました。 横に侍る女性の体を触っている若者や牧師もいました。 

 新婚ほやほやの青年もいました。 現在では韓国キリスト教界で地位の高い職に就いている人もいます。 いつ逮捕され、いつデッチアゲられ、いつ誰が死刑にされるのかも知れない我が身を覚え、そのような極限状態のもとで、ひとときの心身の生き抜き、憩いを得ようとしていたものと理解しています。 近日中にそのような嘗ての「仲間」の一人と、神田で再会する予定を立てています。 

 酒も呑まない、彼らの会話もわからない哀れな私は、客にあぶれた女性たちの、嘘かほんとうかはわかりませんでしたが、身の上話を聴きながら時間を過ごしました。そして、次回の訪韓時に、彼女たちの希望するささやかな品物を東京で用意して持参すると約束をしました。 また実際、届けたこともあります。 コールド・クリーム、ナイロン・ストッキング、故郷に残した子供たちのために衣料品や家庭常備薬を頼まれたこともありました。 老いた母のことを語ってくれた、ほとんど化粧もしていない、無表情に近い若い女性が、寂しい目をしていました。 励まし慰めることばをかけられないもどかしさを覚えたことを記憶しています。 お互いに辛い時間でした。
 
 民主化運動に挺身している青年たちや若い牧師たちが、そのような身分の低い女性たちのことを、どのように考えていたのか疑問でした。 結局はエリート・インテリ階級制度の頂点を目指す候補生たちなのかなあ...などと、複雑な思いで彼らの一時的な痴行を眺めるしかできませんでした。 緊張しているはずなのに、あまりにも無防備な姿であったからです。 彼らを責めようなどという気持ちはありませんでしたが、複雑で居心地の悪い気持ちでいたことだけは確かでした。 スッキリしない支払いでしたし...

 気の毒な女性たちでした。 朝鮮半島内の厳しい地方対立と差別を感じることができました。 私のほうから、彼女たちの生い立ちに関して、根掘り葉掘りという種類の詳しいことは尋ねませんでしたが、全羅道出身者が多かったのではなかったかと、記憶しています。 済州島出身の女性が身分を隠して侍っていたかも知れません。 
 中国義勇軍の介入で米軍が南に撤退するとき、北から米軍と一緒に、米軍のあとを追って脱出して来た女性であったのかも知れません。 火田民ファジョンミン系の女性であったのかも知れません。 詮索すること自体が無意味だったのかも知れません。

 彼女たちが接客していた、狭くて小さくて、お粗末な淫売窟の中に住んでいたものか、それとも別に居住する場所があったのか、あるいは淫売窟のボスから監視されながら他の女性たちと一緒に仮住まいする蛸部屋があったのか、それとも清渓川スラムの板子家パンジャチップ か、それと同じような掘っ立て小屋で、その日その日を過ごしていたものか、そのようなことを尋ねることもしませんでした。 無意味でした。
 当時の韓国では、天候と孫と農作物の話し以外、誰も公の場で口にしませんでした。人々の顔は引きつっていました。 喋るときには、まず周囲を見回したあと、相手の耳元に片手を当てて、ひそひそと話をしたものです。 極めて緊張した状態に国全体がありました。 そのような緊張状態の中で、相手のことを充分に観察することなどできませんでしたし、私の人生経験も不足していた、「黄色い嘴」の若い愚者でした。

 彼女たちの職業は、人類最古の商売だそうです。 寂しい、重苦しい時間でした。しかしイェスさまなら、どのようになさるのだろうか?...ということは考えました。 私が幼いころを過ごした西陣にも、そのような場所があったことを思い出し、弱い立場の女性たちのことを何もわからなかった当時のわたしのような子供でも、そこに住み、そこで働いていた女性たちに対して一種の憎悪感のような目を向けていたことを思い出しました。 敗戦直後には占領軍兵士のための「特殊娯楽施設」になっていました。 また、同じ西陣で、釈迦堂の敷地内で、今なら児童虐待で逮捕者が出てもおかしくないような状態の中で、小学校にも行けず、酷い労働を強いられていた女の子がいました。 両手は松の樹の表皮か鰐の皮膚のように膨れて爛れていました。 戦争であれ、侵略であれ、差別であれ、いつも婦女子が犠牲になります。
 韓国で有名なミッション・スクール、ソウルの梨花イファ女子大に近い新村シンチョンに、そのような淫売窟が多かったように記憶しています。 今ごろ彼女たちはすでに70歳とか80歳になっているはずです。 どうしているものか...と思います。

 ヨハネ傳8章1節から11節で、イェスのことを常々おもしろくないと考えて、折があれば何とかイェスを試してやろうという悪意を抱いていた律法学者やパリサイ派のお偉がたが、イェスの前に、「姦淫をしている最中に捕まえられた女」を、男たちが引きずり出して来た...という記録があります。 
 
 「姦淫をしていた」という相手の男性のことを、律法学者もパリサイ人も、そして聖書も、何も言及していません。 実に不公平な、男性中心主義的な発想であって、最低層の中で、苦悩を強いられる女性だけが裁かれているように、私には思えます。

 力ある者たちによって差別され、蔑視され、利用され、用が済めば捨て去られるという、聖歌467番の「悲しみ尽きざる浮世に」生きている、最低下層の弱者たちだけが常に力ある者たち、主として男性によって利用され、裁かれるという、人間の罪が生み出す恐ろしさ、無常さ、非常さを、主イェスは見抜かれていたものと思います。

 厳しい階級制度の名残が色濃く残る朝鮮半島(少なくとも南半分)で、貧民窟の中で、ソウル市内の中心地、鐘路チョンノ街のYMCAの前で、新村シンチョンで、百万人?が集まったというビリー・グラムの汝矣島ヨイド広場大会で、背中に大きな籠を背負って、手には職業をあらわす、大きな音の出る大きな鋏をカチャカチアさせながらゴミを拾って歩き廻るノンマチュイのアジョシ(小父さん)や、売春せざるを得なかった女性たちを思い出すたびに、ヨハネ傳8章の主イェスの寂しそうな瞳を思い出します。 

 どの人であれ、自ら好んで階級制度の底辺層の中に生まれたくて生まれて来たわけではありません。 弱い者が希望を持つことができる主イェスの福音を、弱い地位に置かれている人々に対して、主イェス・キリストの教会と、その信者と称する者たちが、解放の喜びとして、希望として、語る必要と責務があると私は考えています。 

 


★    今回の全羅道の中心地光州を訪問して、全羅道の人々や光州市民の声だけでなく、ソウル国立大学の名誉教授で光州科学技術院大学教授など全羅道以外の知識人の話をいろいろと聞きながら、慶尚道やソウルを中心とする京畿道キョンギドの、全羅道に対する露骨な差別を具体的な例を、たとえば幾つかの基幹施設を運転中の車窓から示してもらいながら聞くことができました。 特に道路や住宅など、社会基盤整理という点で、確かに露骨に劣悪でした。 もちろん慶尚道の人にとって、そのような話題は避けたいでしょうし、否定したいというのが本音であろうかと思いました。
 あとで述べたいと思っていますが、韓国人、朝鮮人の名に関しても、地域意識、部外者排除意識が強いように私には思え、日本人にはなかなか理解し難いものだと教えられました。 

 全羅道(韓国西南部地域、黄海側)に対するこれまでの為政者たち(半島東南部、日本海側、釜山や慶州を含む地域)の露骨な差別姿勢を今回もいろいろな角度から実際に肌で触れてみることができたかと考えています。 
 高速道路にせよ、鉄道にせよ、航空便にせよ、全羅道への社会資本投下は、慶尚道に対する投入と比較して、公平に見ても、話にならないほど露骨な差別だと感じます。
 韓国人・朝鮮人の民族性やその背後に潜む、日本人には理解しがたい歴史的背景の一端に改めて触れ得たかと、そのように感じました。 憎しみは憎しみしか生み出せません。 冒頭で述べようと試みましたように、こういうことが「恨ハン」という感情を培養するのかな...と感じました。 間違っているのかも知れません。

 のどかな山奥にまで、嘗て日本軍の軍靴の音がこだまし、日章旗が翻ったことを思いますと、侵略の愚かさ、そしてそのことが結果的に人々の心の奥底深くにまで与えてしまった、これから幾世紀にもわたって癒すことができないまま語り継がれてゆく傷跡を覚えて、ほんとうにとんでもない愚かで恐ろしいことをしてしまったのだなあ...と、胸の痛みを再び覚えました。 円高ウォン安+韓流ブームに酔う日本人には過去の日本が韓国人の心の中に残した傷跡など想像すらできないだろうとも思いました。 美しいのどかな韓国の田舎の風景を眺めながら、侵略も戦争も、絶対によくないと、改めて教えられました。 償うことはもっと困難なことです...

 日本の侵略と植民地支配のあと、解放されたはずの朝鮮半島と、そこに住む、何の罪もない人々が、世界冷戦の渦に巻き込まれ、列強によって国土を南北に分けられてしまい、米露両軍によって占領され、挙句の果てに金日成キム・イルソンが率いる北朝鮮軍が押し寄せ、略奪と殺戮が繰り返されました。 
 これに対して米軍を中心とする国連軍が参戦し、南北で押し合い戦争となり、中国も義勇軍という名目で介入して来ました。 背後にロシアも触手を伸ばしていたようです。 私たち海で隔てられている日本に住む者には、理解することも想像することもできない悲惨な力の闘争劇が繰り返された地です。 そのような歴史の半島です。

 やっと南北で休戦同意が得られたと思ったら、朴正煕大統領の軍事独裁政権が生まれ南半分を武力で支配するという事態が生じました。 そのあとを、全斗煥軍事独裁大統領が南の政権を引き継ぎ、光州で同国人を大量虐殺するという事件が起こりました。 全羅道の多くの市町村にも全斗煥軍が侵入し市民の犠牲者が多く出ました。

 全斗煥大統領にしてみれば、騒動を利用して北朝鮮軍が南に侵入するかも知れないという疑念と警戒心が、民主化要求の声を、そのように捉えたのかもしれません。あるいは、そういう名目をつけて、自分が南半分を完全に掌握したかったのかも知れません。 いったん権力を握った軍人であれば、そういう発想をしても不自然なことではないと、そのように私は思います。 軍隊というものが潜在的に保持している危険性だと思います。 大日本帝国陸海軍でそのことを私たちも体験したのです。
 
★    倭寇が朝鮮半島各地に侵入し、略奪を繰り返した...と、韓国・朝鮮側は見ているようです。 瀬戸内海西部や北九州近辺を中心とする一種の水軍、海の男たちが朝鮮半島沿岸へ上陸し略奪したとの記録が14世紀ころから記録されています。
 もともとは私的な交易を求めていたようですが、相手側はそうは見ていなかったようですし、不当な値段を吹っかけられたので自己防衛のために朝鮮の港町を結果的に襲うようになってしまったのだと、そのように説明し、弁明する説もあります。
 日本にとって一番近い隣国といえば朝鮮半島であり、次に中国東海岸やフィリピンであったかと思います。 船舶による交流は有史以前からも、当然ですが、あったものと思われます。 

 韓国・朝鮮側にしてみれば、倭寇が朝鮮半島各地に侵攻して略奪を繰り返した...と見ているようです。 鎌倉時代に元ゲン(蒙古)のフビライが日本に入貢を要求し、鎌倉幕府がこれを拒否したことで、1274年に元軍が壱岐・対馬に侵入したあと、博多に迫りました。 1281年に元は再び兵10万人を送り込んできましたが、二度とも颱風に遭遇し、元の軍艦の多くが沈没しました。 日本では文永・弘安の役と呼ぶ「神風」の話しで有名です。 小学校でそのように学び、そのように信じていました。
 この元寇で、日本が「神風」によって圧倒的な蒙古軍に勝利したというので、小学校の唱歌の時間に、確か元寇のことを謳った唱歌を教えられたような気がします。

 あとで述べますが、この時に蒙古軍は長く済州島に駐留し、軍用馬を育成した事実があります。 もともと済州島は一つの独立国であったようです。 蒙古兵は現地の女性と雑婚をしたようです。 サマリア人と同じような問題が生じたようです。 朝鮮半島の人々が、日本式に言えば本土人が、済州島民を卑下する一つの大きな要因が隠されているように私には思えるのです。  

 元寇の時に、海が苦手な蒙古は、中国人や朝鮮人を兵卒として、あるいは船を漕ぐ漕ぎ手として、あるいは馬の世話をする使役として、また、その他の労務に服する者として使用しています。 これは韓国・朝鮮の歴史書に書かれていないようです。
 最近のこととして、ヴェトナム戦争に韓国軍が投入され、ヴェトナムを侵攻したことがありましたが、韓国人の多くはそのことをすっかり忘れています。 軍隊の侵攻ですから、当然そこには大量虐殺や、もしかすると婦女陵辱など不幸なこともあり得たと私は考えています。 何しろ戦時下の軍人ですから... そのことに心を痛め、問題にする良心的な韓国人とソウルで話し合ったことがあります。 ソウル市内でヴェトナム女性に出会うことがあります。 ヴェトナム出兵中に現地女性と結婚し、妻女を韓国に連れて帰って来たのです。 米軍を補佐しにヴェトナムに派遣された韓国軍人ということで、その代償の一部として、アメリカが韓国に対して経済的援助を行っただけでなく、韓国人の大量渡米移住をアメリカ政府は容認したと私は理解しています。 アメリカ国内各地に急速にコリア・タウンが出現した理由だと思っています。 永住権獲得が容易になったからでしょう。
 
 倭寇の朝鮮半島沿岸各地への侵入のほかに、日本側からの纏まった軍事行動として、豊臣秀吉による、1552年から1598年にわたる領土的野心に基づく朝鮮侵入という愚行がありました。 日本では朝鮮征伐だなどと、美辞麗句で侵略を隠そうとしていますが、侵略であったことは事実です。 文禄・慶長の役と呼んでいます。 韓国側では壬辰倭乱と呼んでいます。 豊臣秀吉は15万余名の兵を朝鮮半島に上陸させたのです。 

 北方民族の朝鮮半島への南下侵略のほかに、以上のような日本からの侵略もあったのです。 そのような地理的位置にあったことのほかに、朝鮮半島内の地方別対立や抗争というものが、纏まって侵入して来た外国侵略軍に対する抵抗力を弱めていたのかもしれません。 

=ふたたびおわび=
前頁ですでに説明いたしましたように、初稿の一部をパソコン用原稿に変換中に、操作ミスで紛失してしまいました。 このため、ここまで執筆して来ました文章と、以下で述べる予定の文章との間に、本来存在していた文章が欠落しています。 文脈が途切れていることをお詫びいたします。

=再開=

 最初のほうで、日本敗戦直後に東京獣医畜産大学で共に学んだ金五南君が、済州島の大学獣医学部で教鞭を執り、のちに光州の全南国立大学に転職したことを書いておきました。 金五南君がどこの出身者であるのかわかりません。 兄弟が光州に居住していたことを知っています。 そのことから全羅南道、具体的には光州市近辺から東京獣医畜産大学に留学したのではないかと推測しています。
 
 どうして金五南君が帰国後に済州島に赴いて教鞭を執るようになったのか、最初のうちは理解できませんでした。 しかし、最近になって済州島に遊びに行く日本人の多くが乗馬を楽しむということから考え始めました。 馬がいるという事実です。
 朝鮮半島から相当な距離があり、海で半島から切り離されている孤島です。 馬が海峡を泳ぎ渡って済州島に到着したとは考えられません。 誰かが馬を持ち込んだのに違いありません。 
調べてゆくうちに、朝鮮半島北部から侵入し南進した蒙古軍の機動力が馬であることに気付きました。 遥かスカンディナヴィア半島にまで、すなわち、世の果てまでも侵攻できた蒙古軍の機動力は、その優れた騎馬軍団であったことに気付きました。

 その同じ蒙古騎馬軍団の兵士2万人が、数千名の高麗軍兵と数千名の漕ぎ手を率いて壱岐・対馬を経由して博多湾に攻め込んで来たのでした。 元寇です。
 日本侵攻のために、蒙古軍は済州等で軍馬の育成をして準備を整えていたのでした。蒙古軍兵士が済州島を去ったあと、馬が残りました。 その馬の子孫を無口な金五南君が獣医として看ていたということを、相当時間が過ぎてから、初めて気付きました。

 済州島の男たちは、島に侵入し、島を占領し、長期駐留を続けた蒙古軍に対して勇敢に戦ったそうです。 その遺跡が残っているようです。 それが済州島であったのか、釜山であったのか忘れましたが、蒙古醤油モンゴジャンユという醤油の名を聞いたことがあります。 勇敢に抵抗したものの殲滅状態を招いたようで、占領蒙古軍によって辛い体験を強いられたようです。 長期滞在ということで、島の娘たちとの雑婚も生じたようです。 済州島版サマリア人種の出現ということです。 当然ですが、新たな人種偏見も生まれてきたということになります。 侵略はいけません。

 大変に不幸で理不尽なことで、また、悲しく恥ずべき現実ですが、私たちが住んでいるこの日本において、現在でも同じ日本人が同じ日本人の一部の人たちを歴史的に差別し、蔑視して来ました。 特に徳川政権下で、農民を支配する目的で、いくつかの職業に従事していた人々を差別し、それを固定化し、それが現在にまで到っているという厳然とした事実があります。 私ども夫婦が住む八ヶ嶽南麓からそんなに遠くない長野県を舞台にして島崎藤村が1906年に「破戒」という小説を発表しています。いろいろな障碍者に対して、私たち自身が恥ずべき差別意識を抱いています。アジア人やアフリカ系の人に対しても、アパートへの入居を拒否する日本人家主が多く存在しています。 韓国・朝鮮内の同国人同士の差別を非難できないと思います。

 日本が戦争に負けてマッカーサーが日本を占領したとき、私たち青少年は、占領軍によって、まあ東西冷戦構造という中に置かれていましたので、アメリカこそが理想的な自由と平等の民主主義国家である...と、そのように洗脳されたと記憶しています。
 しかし1954年、留学のためアメリカ本土に向かい、西海岸に到着した瞬間、そこで激しい人種偏見を体験しました。 黒人や私のような「ジャップ」を含めた有色人種に対しての偏見と差別と蔑視という現実に当面し、アメリカ各地で、教会の中においてすら、7年間にわたって、そのような不幸で不当で不愉快な体験をしました。
 野毛山教会と金沢教会の設立宣教師、ローズ先生とは縁戚関係にあったマッカーサー占領軍総司令官が、私たち日本人にアメリカを過大宣伝したような感じです...

 むかしの済州島は耽羅タンラという独立国であったそうです。 中国皇帝が不老不死の妙薬を求めて部下を派遣したとも言われています。 中国にも距離的に近いので中国人たちも住んでいたといわれています。 歴史の重みに耐えられないと思いますが、一部の日本人によれば、済州島は嘗て日本の領土だったなどと言う説もあるとかです... いずれにしても朝鮮半島からは海峡によって隔離された孤島です。 東北側に牛島ウドという小さな島があり、西独逸教会からの資金援助で未就学児に給食をする目的で訪問したことがあります。 
 朝鮮半島からたびたび侵略を受け、蒙古の侵略をも受けています。 李氏朝鮮時代に朝鮮に併合されました。 近年では日本支配から解放されたのち、樹立されたばかりの韓国政府軍によって済州島4.3事件という島民3万人虐殺事件がありました。

 手書きの地図の1枚に、朝鮮半島各地域の道民性を記しておきましたが...
 朝鮮半島北西部と北東部、すなわち現在の中国との国境線沿いの厳しい山岳地方ですが、古くから両班ヤンバンにとって、卑しい民の住む地域として蔑視されて来ました。その地域からの出身者との結婚は禁止され、官僚に進むことは絶対に許されなかったそうです。 重罪人の流刑地とされていた地域でもあります。 現在の北朝鮮では核兵器開発地域でもあり、政治犯収容施設が多く存在する地域とされています。
 このように、歴史的にも朝鮮半島北部は差別され、蔑視されていましたが、済州島は、更に朝鮮半島に住む人々によって蔑視され、差別されていた地域です。済州島出身者との結婚を、血が穢れる...と、忌み嫌う傾向が不幸にして現在でも続いているようです。 そのようなことを知らぬ無邪気な日本人旅行者で溢れています。

 日本では、すでに述べましたように、徳川幕府政権によって、「士農工商」という厳然たる差別階級が存在していました。 さらにその下に賎民という階級を強制しました。 一方、朝鮮半島では王さま一族があり、その下に貴族一族があり、官僚に相当する両班ヤンバン制度があり、さらにその下に中人と賎民という、厳しい差別制度がありました。 劇「チャングム」を注意して視てみますと、そのような階級に属する人々が配置されているのを垣間見ることができます。
 慶尚道人による全羅道人に対する差別はすでに紹介しておきました。
 そのような差別制度の最下層の賎民よりも更に低いところに済州島人が置かれていたのです。 徹底した差別社会制度でした。 その余韻は現在でも依然として残っているようです。 済州島脇の小島、牛島ウドなど最低です。 日本軍が潜水艦収納所として海に面した岸壁を繰り抜いた大きな穴が幾つか開いたままでしたが、住民たちは小さな漁船で生計を立てていたと記憶しています。 社会資本投下という意味では、まったく疎遠なままの小島でした。 教会の庭先に集まった20名前後の明るい表情の子供たちを見て、近い内に彼らのために給食が始まると考えると楽しかったのですが、深刻な障碍を抱えた幼児の相談を受けた時には絶句しました。 

 朝鮮半島を長く占領した蒙古への反発心と共に、済州島に対する激しい差別と蔑視にも、韓国・朝鮮人なりの、歴史的経過から来る理由が潜んでいるように思います。
 すでに幾度も述べて来ましたが、朝鮮半島内で、久しく続いていた力の抗争による不幸なできごとを通して、地域差はますます増大し、地域対立が拡大し、地域抗争が定着してしまったと私は感じています。

 北側と南側(これは、現在の南北軍事対立ということではなく、古くからの伝統的な対立という意味)の対立、東側と西側との対立...何百年にもわたる、むごたらしい抗争が続き、相互蔑視、相互不信の感情はますます増長して来たものと思います。それらに加えて、今度は日本の植民地時代から解放されたあとに起こった、現在の南北間の軍事対立という新しい分断と対立という深刻な現実があります。

 韓国各地に住む人々が異口同音に済州島の人のことを、その人の教養や社会的地位にもよりますが、差別するような発言をするのは、外国人としての私には衝撃です。『やつらの血には蒙古の血が流れている』と呟いたことを覚えています。
 
 日本の植民地政策が、日本の官憲が、済州島の人々を迫害し、日本に連行した...などと思われがちですが、必ずしもそのようなステレオ・タイプの理由説明ではなくて、むしろ朝鮮半島人(日本式に言えば本土人)による済州島民への歴史的な激しい差別と蔑視の事実の積み重ねが、済州島民の自主的な日本への避難・逃亡を促したものではないかと、そのように私は考えています。 4・3事件の時にもそうでした。在日韓国人朝鮮人の多くが済州島出身者です。 2世の中には有名な芸術家、作家、学者、歌手、スポーツ界人、芸能界人などが多く活躍しています。

 朝鮮半島に住む人々から迫害され、差別され、蔑視されていた済州島民の多くが、日本(特に大阪近辺)に逃れてきたものの、そこでまた日本人による差別と蔑視に耐えながら何とか生活基盤を築こうと、生活の根拠を見出そうと努力を重ねて来たのです。 私たち日本人の心の奥底にも、差別意識というものが眠っているのです。

 日本の敗戦によって解放されたのが在日韓国人・朝鮮人でした。 しかし、日本を占領したアメリカ占領軍によって、「第三国人」という不安定な立場に留まることを強要されました。 その頃、北朝鮮への帰国事業というものが始まりました。北朝鮮当局による派手な宣伝効果もあり、日本政府のあと押しもあり、「差別も蔑視もない、理想国家建設のため」という夢を見て、連絡船で北に渡った済州島出身者が多かったようです。 しかし、実際に北朝鮮に渡った朝鮮人の多くは、理想郷であったはずの北朝鮮で激しい差別と迫害を受ける結果となってしまったようです。 
 韓国人・朝鮮人がいう、「恨ハン」多き人生なのでしょうか...
 これもまた、人間が共通して抱いている「罪」の問題であろうかと、私は寂しく思います。 イェスの福音の意味と内容を改めて考えます。

 すでに述べましたが、日本で有名になった韓国劇、「チャングム」で、チャングムは罪人として済州島に送られます。 済州島を朝鮮半島に住む人々が流刑地に選んでいたからです。 その裏には済州島と済州島民に対する長い差別の歴史があります。「穢れた血が混じっている」済州島民と韓国人・朝鮮人が結婚する...など、とうてい考えられなかったのです。 賎民以下の女と考えられていたからです。 下働きでもできれば御の字だったようです。 普通そのような仕事をする女性のことを、現在の日本では家政婦とかお手伝いと呼びますが、韓国では「食母シンモ」と呼ぶように記憶しています。 しかし済州島出身の女性は、それより遥かに下級層の女として扱っていたようです。 1970年代初期にそのような婦人たちに清渓川スラムで親しく接することができました。 信仰の豊かな女性たち、実践神学のすれた模範生たちでした。

★    エルサレムと、そこに鎮座まします高級エリートであった職業的宗教指導者層の祭司長や律法学者、モーセの律法を厳格に遵守するパリサイ人、すなわち、デスク・ワーカーたちが、追剥にやられて道端に倒れていた被害者の「ある人」を眺めながら、助けようとはせず、道の反対側を、見て見ぬ振りをして、さりげなく避けて通り抜けた...と、ルカ傳10章が語っています。 

 そこへ今度はサマリアからやって来た無名の旅行者か行商人が通りかかり、傷ついた被害者を目撃して憐れに思い助け上げ、自分の驢馬に乗せ、自らは歩いて宿屋まで連れて行き、宿泊費と治療費を支払って立ち去った...と、淡々と描写しています。

 語っている主人公はイェスです。 イェスが語っている相手は、聖書を学び、聖書を説く若い神学者です。 イェスはガリラヤ人です。 エルサレムの人々からは蔑視と差別を受けている人種の一人です。 

 サマリアとは、その両者から蔑視と差別を受けていた人種です。 エルサレムに住む人々からは、本来は同国人でありながら、「半分異邦人」扱いを受けて蔑まされていた人種です。 占領軍の血を引く人種だから...と、差別されていたのです。エルサレムからも、ガリラヤからも蔑視され、差別されていた人種です。

 三種のいがみ合う人種と、二つの宗教が絡み合っている複雑な課題に対する、人種と宗教の関わりに対するイェスの姿勢を繙く鍵が隠されているように思える聖書箇所です。 日曜学校・教会学校で、「善きサマリア人の譬」が抱いている福音の社会的面のメッセージを、洞察することなく、行為義認的な発想で、子供たちに語り継がれているように私には思えます。 イェスが意図なさったものからかけ離れすぎているように思えます。 教会に毎日曜日ごとに通う善男善女が口先だけで説く宗教に対して、あるいは人間が本質的に抱えている人種偏見・差別・蔑視に対して、福音の源でいらっしゃる主イェスの基本的な姿勢を学ぶことができる、具体的な聖書箇所であると私は理解しています。 

 


★    話がばらばらで恐縮ですが...
 韓国・朝鮮内のことに関しては、とりわけ政治や経済などの話題に関しては、どちらの地方の人と話をしているのか、どちらの地域の人から話をきいているのか...このことを確かにしておく必要があるように私は考えています。 極めて重要な注意点であり、微妙な要素だと思います。 いくどもすでに申しましたが、私は韓国史・朝鮮史を学んだ者ではありません。 耳学問、目学問、舌学問、手学問、足学問という雑学を1968年からの初体験を通して独りで勝手に考えながら蓄積しただけです。 
 
 古くから、少なくとも新羅、百済、高句麗の三国の時代から、ほとんど千年ほど前からの地域別対立抗争、地域差別蔑視感情などを充分に学習したわけでもありません。しかし、これを無視・軽視すると、韓国人・朝鮮人の心や文化などを充分に理解できないのではないかと考えています。 それから、在日コリアンの場合、あとで述べますが、済州島ということの歴史的位置付けをしておかなければならないでしょう。
 追い追い述べるつもりですが、朝鮮半島の歴史と、朝鮮半島内の地域抗争を理解するのは、私のように韓国学・朝鮮学 Koreanologyを一度も学んだことのない者には、実に難しいことです。 しかし、次第に理解し始めたことは、自分がどちらの地域の出身者と話をしているのか...ということです。 そのことによって、同じ出来事を、違った角度で眺めることができます。 もちろん、或る程度の偏見を聞くことにもなります。 結論づけるのは最終的に自分の判断となりますが、難しいものです。

 現在の南半分、すなわち韓国内でも、慶尚道人と全羅道人との政治的対立は極めて熾烈なものがあります。 金大中、金泳三、金鐘泌という「三金」による政治闘争はこん日に到っても公然と熾烈に闘われています。 どちらの出身者なのかで話は天地ほどの、あるいはそれ以上の違いを招くときもあります。 前者は差別されて来た全羅南道出身で、朴正煕軍事独裁政権時に韓国中央情報部、通称 KCIA または「南山」の手によって神田から拉致された金大中、拉致責任者だとされているのは慶尚道出身の金鐘泌です。 金鐘泌は同じ慶尚道出身の朴正煕大統領の指示か暗黙の了承を得て拉致実行を命令したと考えられています。 

 朴正煕軍事独裁大統領が韓国民主化運動を訴えていた金大中を拉致したということで、日本では金大中に同情的な傾向があります。 金大中は北朝鮮を訪れ金正日とも面会していますし、北に対して「太陽政策」を採っていました。 ノーベル平和賞を受賞しています。 慶尚道の人々には好まれていない人物です。 光州事件のときには、慶尚道出身の全斗煥軍事独裁大統領によって死刑判決を受けた人物です。
 個人的なことですが、拉致されてソウルで自宅軟禁中に、私はKCIA 監視下の金大中さんの自宅を訪問し、今後の日韓のグラス・ルート運動について40分ほど教えを受けたことがあります。 規模の大きな人物との印象を受けました。 ローマ教会員です。
 
 このような政治的、地域的対立経過と差別蔑視の歴史を長年にわたり引きづって来た背景がある光州を今回訪問しました。 嘗て素通りしたことがあったかと思いますが、今回は初めて光州訪問を目的に訪韓した次第です。
 光州市内で、光州事件についての情報をいろいろな人々から聞くことができました。しかし、皆さん光州人、全羅南道人です。 その全羅道人からの説明ですので、多少の躊躇もありましたが、耳にしたこと、目で見たことを、一応ここで書いてみます。
 
★ 光州と言えば何と言っても「光州事件」、現地では「5・18事件」のことです。 韓国軍による同国人の一般市民に対する武力行使の暴行です。 これに抗して民衆側も手にできるあらゆる物を用いて抵抗したという抗争事件でした。 軍の最高司令官の過激な判断と実力行使に対して、民衆の一部も激昂して軍に対し、身近な限られた物を手にして徹底抗戦したようだったと、当時の新聞報道などを思い出しました。

 古くは新羅、百済、高句麗などの対立という歴史的背景以外にも、李朝末期、19世紀末期半ばに、シャーマニズムに儒教、仏教、道教を折衷して、西学と呼ばれていたキリスト教を排斥した民族宗教を中心とした東学党という動きがありました。1894年には甲牛農民戦争という、一種の農民一揆を起こしたことがあります。また、朴正煕軍事独裁政権時には、学生を中心とする民主化要求運動がありました。このような、民のほうから権力者への闘争史が朝鮮・韓国には古くからあり、その精神構造は伝承されて来ていると私は思っています。 そこに朴正煕軍事独裁政権への民主化要求運動という潮流があったと、そのように理解しています。

 1980年5月18日午前、全南大学校門付近で、慶尚道人である全斗煥による軍事独裁に対して抗議するデモが起こりました。 学生百名弱が集まったデモだったそうです。

 19日夜になって、学生たちを乗せたタクシー運転手4名が、鎮圧に来た国軍兵士によって銃剣で突き殺されたという噂が流れました。 私がその現場に居たわけではありませんので、正確なことを証言できる立場にいません。 そのように聞いたということです。 事件発生直後から、軍と警察によって、全国が警戒態勢下に置かれ、光州では駅や各バス停にまで軍と警察のチェック体制が布かれていたそうです。

 ソウルの名門ミッション・スクール、梨花イファ女子大学生が光州に駆けつけ、男子学生と合流しようとして、百五十名が大量検挙されたとか聞きました。 彼女たちにはリーダー格が居なかったとも聞いています。 

 タクシー・ドライヴァー4名刺殺というニュースを聞いた光州市と周辺の市町村から、あるいは全羅道各地から、タクシー・ドライヴァーやバスの運転手が2百台ものタクシーとバスを動員して光州に駆けつけたそうです。 私が利用した年配タクシー運転手は、私が当時のことを尋ねますと、笑いながら右腕を振り上げて、『オイラもデモをやったさ!』と誇り顔で答えてくれました。 

 光州人が語った光州事件と、ソウルで聞いた光州事件とでは、受け止め方に相当な開きがあるように感じました。 ソウルでは、光州市民が軍隊の武器弾薬庫を襲撃したので、ソウル人などは、『そりゃチトやり過ぎだ!』と受け止めたようです。また、そのような反政府行動が全国に拡散すれば、北朝鮮軍が介入して来るに違いない!...と、深刻に受け止めたのがソウル人であったとかです。 ここでも、地方によって、同じ事件が違った目で受け止められているように感じました。 ソウル人の理解は、軍事政府の見解と共通しているように思います。光州人にしてみれば、北朝鮮軍が下って来て、全斗煥軍と交戦しても構わない!...というような発想が事件のさなかにはあり得たのかなあ...とすら私は感じました。

 戒厳令下で鎮圧に当たった軍隊が、慶尚道人によって編成された軍人たちであったという噂が流れました。 このことは、長く露骨に抑圧されていた全羅道人、とりわけ光州市民の不満と地域感情を爆発させ、民主化要求がますます高揚したとのことです。

 すでに述べましたが、ソウル人たちには「光州蜂起」と見えた民主化要求運動ですが、韓国主要マス・メディアの多くが、「暴動、暴徒、煽動、乱動」などという表現で捉えて報道したということです。 これらの過激な見出し用語が、光州市民80万人の激しい憤慨を招いたと言われています。 マス・メディアがソウルを中心とするもので、ここにも私たち日本人には理解するのが難しい朝鮮・韓国の地域的対立意識が背後にあったものと、私はそのように理解しています。 

 歴代大統領を生み出した慶尚道に対する全羅道民の古くからの地域対立や政治風土が背後で、大きく影響を与えていたものと私個人は捉えています。 すでに述べましたが、「三金」権力闘争というものが、現在でも各方面に露骨に顔を出しています。 これが韓国内の地域的、政治的対立の現実です。
 
 朴正煕軍事独裁政権の治世に続き、維新憲法維持、政治活動の凍結、そして先輩格の朴正煕大統領の思想と政治姿勢を嘉とするのが全斗煥軍事独裁大統領の思想でした。全斗煥は、在韓アメリカ軍や、名目だけの崔圭夏チェ・ギュハ大統領など「目じゃない」というような姿勢の支配者であったと聞いています。 安定した国では、だいたいは中道派が多いようですので、当時の韓国は独裁政治体制下にあったことは疑いのないことでした。 全斗煥にしてみれば、挙国一致の軍事国家イスラエルを先輩・見本としていたのかも知れません。 いまでは北朝鮮が「先軍思想」を実行しています。
 
 デモ隊が商店街を襲い、略奪するということはなかったと市民は語っています。 国軍兵によって多くの市民が負傷し、虐殺された犠牲者たちを、光州市民みずからが助け、援助したと、今回の訪問時に、そのように証言したタクシー運転手がいました。 略奪行為皆無というのは、光州市民にとって大きな誇りだと言っていました。 市民による一連のボランティア行為は、如何に光州市民がソウルと慶尚道の為政者に対して憤りを覚えていたかということの証拠になると市民の一人が語っていました。

 朴正煕軍事独裁大統領の治世に続き、全斗煥軍事独裁大統領の治世が、全羅道市民の反発を激しく招いたものと思います。 そして全羅道を圧倒的な国家権力、武力を用いて抑圧しようと、平気な顔で考え、また実行したのが慶尚道出身の大統領たちでした。 反共主義・反共陣営というものは、その目的を達成するなり、維持するためなら、手段を選ばないものです。 チャップリンも容共主義者とされました。
 まして自分の権力を堅持するためには、相手を完全に抹殺することを厭わないようです。 政敵を共産主義者という名目にすれば抹殺が容易です。 金大中が死刑判決を受けたのも、民衆を暴徒化し、煽動したということであったかと思います。反共主義を国是とする南半分は、北との対決姿勢があるので、自分自身の国を民主化するのに困難を覚えたのでしょう。 金泳三や金大中になってようやく光明が見え始めたと言えます。 これ以上は深入りをしないことにします。 話を戻します。

★    全羅道への短期間の駆け込み旅行でも、再び強く感じたことがありました。
 かねてから朝鮮半島内での有史以来の激しい地域対立、地域差別という、私たち日本人には想像も理解もできそうもない深刻な問題がありそうだ...ということです。


=おわび= 
かねがね作文をするときには、キャノワードという、相当に古い機械を使って執筆して来ました。キャノワードで入力した文章を、コンピューター用に変換したのち、最終的に編集し、印刷します。
 今回もそのような過程を経てコンピューターに変換しようとしましたが、初めて変換に失敗し、せっかく書いた文章の多くが支離滅裂状態になってしまいました。
 ここまでの文章は、消滅または混乱状態に陥っていましたキャノワードで入力した原稿を、何とか思い出しながら繋ぎ合わせて漕ぎ着けることができました。
 しかし、一部が消滅してしまいましたので、以下の文章と繋ぐことができません。文脈がおかしいのですが、残っている原稿を活用するために、文脈の乱れを承知の上で継続して執筆を続けます。 お赦しを願います。 

=再開=

 「親韓派シナンパ」という単語と、「知韓派チナンパ」という単語があります。朴正煕軍事独裁政権時代の日本では、ちょうど韓国民主化運動支持という趨勢が極めて盛んであった時代です。 日本国内では、朴正煕軍事独裁政権支持派と、反朴正煕派がありました。 これに加えて北朝鮮軍事独裁政府支持派と、反対派がありました。これらが更に複雑に組み合わされて日本人支持者を得ようと虎視眈々状態でした。 私に対しても北朝鮮系の人物や、韓国大使館からも、反朴正煕派=民主化運動諸派からも露骨な勧誘・懐柔作戦が展開されていました。 監視もされていました。 この時すでに私はいずれかの勢力から拉致されるのではないかと怖れていました。

 頻繁に訪韓し、訪韓ごとに清渓川スラムに出入りする私を、韓国中央情報部や鐘路警察は、北朝鮮のスパイではないか、民主化運動資金の運び屋ではないかと、「野村担当官」たちが監視していました。 陸軍保安部員たちによって、24時間「任意同行」という形式で尋問を受けたこともありました。 決して楽しいものではありません。

 ソウル市内を一望できる南山ナムサンの一角に、韓国人なら誰でも怖れていた、韓国中央情報部(KCIA)の根拠地があったので、通常は「南山ナムサン」と呼ばれている組織がありました。 金大中を東京神田から拉致した組織で、男性に赤ん坊の出産を強要することだけはできないが、それ以外のことなら何でもできる...と怖れられていた組織です。 特にその組織が、私を「親韓派シナンパ」にしようと、「いろいろ」な手を尽くしました。 在日韓国大使館にもその筋の参事官がいました。 表面上ソウルで私に接触をしていた人物は、私の知る限り、少なくとも二人いました。

 金学律キム・ハンギョルという知的で英語を自由に操ることができる若い「野村担当官」の私宅に招かれたことがありました。 豪勢な住居で、それに相応しいような韓式食事を提供されました。 ただし、いまだに私は韓式食事を、その強い香辛料のゆえに、好みません。 命を受けて海から北朝鮮に侵入したことがあるとも言っていました。

 その時、私が金学律に英語と韓国語で、紙に絵を描きながら、語ったことがあります。 『私から「親韓派シナンパ」を作り出そうとするような、つまらない空しい努力をするよりも、私から、歴史の重みに耐えられるような、公平で肯定的な、コリアの友となる、日本人「知韓派」を育成することに協力してくれるほうが遥かに日韓交流のためによいし、そのようになりたいと私自身が切望しているのだから、そのように理解してくれたほうがよい...と告げました。 

 「親韓派」というのは、「朴正煕軍事独裁政権支持派」ということで、そのような政権が、人類の歴史を見れば、聖書的に考えれば、長続きしないことは明白であり、実に空しい努力だ...と語りました。 私が「知韓派チナンパ」になることには、時間と忍耐がかかることだが、将来の肯定的な日韓・日朝のためにはやりがいのある人生となる...と、そのようなことを英語で説明したかと記憶しています。 

 当時の日本では、とりわけ東京では、キリスト教界の一部の社会派の偉い先生さまがた御歴歴が口にされていた、無意識であれ、善意に基づくものであれ、旧宗主国的発想から、朴正煕軍事独裁政権が統治することで生じた、歴史的に眺めれば日本統治時代から朝鮮戦争を経て、ようやく独立を模索し始めたばかりの過渡期の韓国にあって、そこから生じた問題を、「韓国問題」として採り上げて叩く傾向があったかと思います。 もちろん、そのことが、結果的に韓国の民主化を強力に、背後から促進したという功績を否定しているのではありません。 そのために、私も秘かに幾度か、「さる筋の人々」の委託を受けて、大きな額の$紙幣の活動資金を、「ある種の覚悟」をしたうえで、ソウルに運び込んだことがありました。 雑誌「世界」の「TK生」先生を、暫くのあいだ八幡山の自宅にお引き受けしたこともありました。 

 金学律に私が語ったことは、私は日本のキリスト教界の一部で騒がれているような意味で、「韓国問題を愛している日本人」ではなく、「ありのままのコリアを愛して、仕えたいと願っている日本人である」と強調した点でした。 そしてそれが正解であったと今でも確信しています。 金学律は理解をしてくれたようで、渡韓用査証が再び発給されることになりました。 一時は要注意人物として、麻布の韓国大使館でヴィサの発給が停止されていた時期がありました。 
 「知韓派」になりたいという願いは、世田谷から八ヶ嶽南麓に移住して、末期高齢者となってしまった現在でも、少しも変わっていません。 生涯学習の一つです。