2010年8月アーカイブ

詩篇 135篇6節

 

主はその御心に適う事を、
天にも地にも、海にも、全ての淵にも行われる。

           詩篇 135篇6節
 

 

『παντοκατωρ』


★  パントクラトールというギリシャ語の単語がコリント後書6章18節と、黙示録の1章8節、4章8節に使われています。

  いくつかの日本語訳聖書を調べてみました。  いのちのことば社の新改訳聖書は、前者を「全能の主」、後者である黙示録の二つを「万能の支配者」と訳しています。

  聖書協会の文語訳聖書では、「全能の主」、後者を「全能の神」と訳しています。同じく口語訳聖書は、「全能の主」、後者を「全能にして主なる神」としています。新共同訳聖書は「全能の主」、後者を「全能者」、「全能である神」としています。

  キリスト新聞社訳は前者を「全能の主」、後者を「全能者」と「全能の神」とし、いのちのことば社の詳訳聖書は「全能の主」、後者を「全能者<万物の支配者>」と「大能の<全能>の主」と、翻訳に苦労した跡を感じさせる訳をしています。

  基督教文書伝道会の永井直治訳では前者を「全能の主」、後者を「全能なる者」と「全能の神」と訳しています。

  信教出版社の柳生直行訳は前者を「全能の主」、後者の初めを「全能の主」とし、二番目を「全能にして神」と翻訳しています。

  つまりパントクラトールとは、全智全能という意味で、神さまを指す単語です。

★  パントクラトールというギリシャ語の単語を巡ってスイスのバーゼル大学神学部で教義学を担当されていたフリッツ・ブリ Fritz Buri とおっしゃる博士が、1969年4月から6月にかけ東京神学大学で神学特別講義をされました。  そのとき私は教室の一番前の席に座って、教授の授業をことごとく聞き取り、詳細な手書きメモを作成しました。  今でもそのときのメモに目を通すことがあります。但し、ここで教授の講義を披露する意志も時間的余裕も、紙面の余裕もありません。

★  しかし、教授の特別神学講義を伺って、私なりに教授のお話を自分自身のためにわかりやすく解釈して、考えることがあります。
  パントクラトール、すなわち全智全能で、どこにでもいつでもいらっしゃる神を、限られた能力しか持たない私たちたちが理解することなどできる訳がありません。

  限られた能力しか持ち合わせていない私たちですが、それでも、あくまでも仮に、万が一にも...ということですが、私どもが天地宇宙よりもさらに大きな天空の球体の頂点に立って、神さまとご一緒させて頂いて、全宇宙を鳥瞰することとができるならば、神さまのお立場で、どのようにものごとが写るのだろうか?...ということです。

  そこに立って、神さまから、私たちが地球衛星の上では想像もできなかった広大で壮大な規模の創造の業を見せて頂いて、目に飛び込んでくるあらゆる物やできごとを神さま御自身から説明して頂ければ、私たちが如何にちっぽけな存在であったのかを教えて頂けるはずだと、そのように想像するのです。  如何でしょうか?

  先週の日曜朝に皆さんと詩篇 135篇6節を熟読し、皆さんにその節が含蓄している神さまの御心の広さ、深さ、高さ、豊かさをお考え頂くように訴えてみました。
  そこには、人間が作り上げた神学も、聖書解釈も、教会の教えも、牧師の説明も、すべてのものがいと小さな、とるにも足りないようなものになるはずです。

  そして3節が強調するように、主が恵み深いお方であり、情け深いお方であることを教えられるはずだと思うのです。 135篇そのものが、その全体が、限りなく創造主である主なる神さまを誉め讚える美しい詩なのです。

  パントクラトールなる神さまにすべてを委ね、人間的な小細工や、人が編み出した神学や聖書解釈などから離脱して、恩寵が豊かに溢れ出ている神さまに讚美を捧げることだけを最大の関心ごととしたいものです。  皆さんは如何お考えになりますか?

 

コリント前書13章4節

愛は忍耐強い(新共同訳)
愛は寛容である(口語訳・新改訳)

          コリント前書13章4節

 

卵を茹でるような速度で


★  コリント前書13章4節に、『愛は<寛容>である』という言葉があります。一部の聖書は、愛は<忍耐強い>と訳しています。  日本訳聖書はこの2つの訳語を用いているようです。  原語は「μακροθυμει」で「suffers long」です。
  「寛容」よりも「忍耐強い」と訳すほうが、どちらかと言うと原語が意味するものに近いかと思います。  それをある人が「卵を茹でるように」と意訳したのです。

★  ガラテヤ書5章22節には、『御霊の<実>は愛』という表現があります。<実>とひとことで言いますが、実は種から生まれて来ます。  種はその親の樹から生まれて来ます。  親の樹も、その親の実から生まれて来ました。  このようにしてドンドンとご先祖さまの樹と実にさかのぼって行けます。  そうなると、一つの実が私たちの前に現れるまでには、何万年もの時間がかかったはずだと思うのです。

★  最近の気象状態は宇宙規模で少しずつ狂い始めているように思われます。世田谷からこの八ヶ嶽南麓に移住して来た1985年の最初の厳寒の冬の深夜には、時として樹木が生きたままで内部が凍結し、樹が縦に裂ける音を聞きました。
  降雨が多くてベト病になった野菜を多く見ました。  異常乾燥で枯れた野菜の姿も見ました。  地崩れで倒れた樹もありました。  颱風で根本から倒れしまった唐松も多く見ました。  松食い虫の被害を受けた樹も見ました。

  ここまで書いていたとき、野鳥と栗鼠用の餌台から小鳥が窓辺まで運んで来て落ちた一粒の種が、種が育つには最悪の立地条件のなかで。それでも何とか成長し、見事にいくつかの花を咲かせていましたが、根本から折れてしまいました。
  1本の種が発芽して育ち、花を咲かせ、やがて実を結ぶまでには、途轍も無く長い時間がかかるのだということを、この原生林の中に移住して以来、少しずつ学ぶようになったのです。  「卵を茹でる」どころではなく、大きな忍耐が必要なのです。

★  私たちは誰も完全ではありません。  それぞれがいろいろな背景事情と癖を抱えて生きています。  神さまの恩寵の内に、お互いが許しあい受け容れあい、助けあって生きて行く以外に希望を目指して生きて行くすべはありません。  「卵を茹でる」ように時間をかけて、恩寵の内に生かされて行く道を捜すことが肝要です。

★  愛は<忍耐強い>と上記聖書箇所は語ります。  <時間をかけて>愛の実を結ぶことが大切です。  コリント前書13章をもう一度よく読んでみてください。

★  去る7日、25年ぶりで懐かしい旧八幡山集会のかたがたが来岳くださいました。何組かの結婚式の司式もさせて頂きました。  各自各家庭にいろいろなことがあったはずですが、皆さんが立派に成長なさっておられることを感じ、感慨無量でした。ロマ書8章28節28節、『凡てのこと相働きて益となるを我は知る』を覚えました。

  愛を育てるのには時間がかかるのです。  「卵を茹でる以上」の忍耐が必要です。聖霊の助けを得て、恩寵の内に、ガラテヤ書5章22節以下が語る、信望愛の実を結ぶことを人生の目的の一つにしたいものだと願うのです。  如何お考えでしょうか?

★  「忍耐強く・寛容」と訳されている単語は以下の箇所で使われています。

・使徒行伝26章3節(寛大なお心)
・ロマ書2章4節(寛容)
・同上9章22節(寛容)
・コリント後書6章6節(寛容)
・コロサイ書1章11節(堪え忍ぶ)
・ヘブル書6章12節(忍耐)

  そのほかにも、同じ系統の単語は、マタイ傳、マルコ傳、ルカ傳のほかに、パウロ書簡にも多く出てきています。  ここでこれ以上の詳細を省略します。
                          (以上は口語訳聖書から)
 

ヨハネ傳11章18節、25~26節

ベタニヤはエルサレムに近く、
3キロ(2,775m)ほど離れた所にあった。
 
イェスは(ベタニヤで)言われた。
私はよみがえりであり、命である。
私を信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない

          ヨハネ傳11章18節、25~26節