2010年7月アーカイブ

ヨブ記19章25節~27節


★  かねがね申し上げていることですが、私は自分の終焉が迫っていることを感じています。  そのために身辺整理も徐々に進めています。  この世に在っていまだ私になすべき仕事があると神さまがお考えになっておられるあいだは、託された業を誠実に行いたいと願っていますが、業が終われば、ただちに御許にお招きを賜りたいと、そのように願っています。

  讚美歌 332、339、448、 聖歌 258を作詞または作曲したハヴェガル F. R. Havergal は、余命いくばくもないと告げられた時、『そう自分でも思っていた。  その日が来るのは余りにも素晴らし過ぎる話だ!』と喜んだそうです。

  有名なアッシジのフランチェスコも、余命が少なくなっていると告げられたとき、『死の姉妹よ!  貴女は永遠の生命への入口です!』と叫んで歓迎したそうです。

  ビルマに派遣された米国バプテスト教会宣教師アドニラム・ジャドスン Judson は1788年~1850年を生きた人で、聖書のビルマ語翻訳に尽力したことで知られています。  自分の死期が迫っていることに関して、『放課後に子供達が喜び勇んで校庭を跳ねながら出て行くのと同じようなことだ。  イェスさまと一緒だから!』と語ったそうです。  私個人はかねがね死を、「天国へのお引っ越しだ」と主張しています。

  コリント前書15章で、召された魂がどのように永遠の栄光の異なる体を頂けるのかを記した使徒パウロは、同じく後書5章8節で以下の個人的信仰告白をしています。『むしろ肉体を離れて主と共に住む事が願わしい...』と言っています。  如何です?

C. 贖罪 関係の復元



  神さまとの関係を「均衡のとれた関係」に、あるいは平等で対等な関係に変えてやろうという人間夫婦の試みにも拘らず、神さまは依然として常に神さまがお定めになった神さまの関係を維持され、総ての上にいらっしゃって、総てのものを支配なさっているのです。  人は神さまとの「補足関係」あるいは「上下関係」を何とかして神さまと対等な関係、「均衡のとれた関係」に変更しようと必死になって試みるのですが、そのような空しい努力は決して成功しないのです。  それでも人間はそのような企てをこりずにやろうとするのです。
  それは、たとえば、人の姿に似せた偶像を自分の手で作ることにも見られます。そして人は彼の手で作ったいろいろな偶像の性質を支配し、定義することによって人は人の手で作ったいろいろな偶像の上に本当にいるのだ...、それらを本当に支配しているのだ...と、その転倒した上下関係の中で考えようとするのです。  しかも、人はその転倒した思いの中で、自分の手で自分が作った偶像に対する不安と、偶像の尻に轢かれるという、偶像の奴隷になり下がってしまう状態の中に自分自身を押しやってしまうのです。

  旧約聖書の預言者たちをとおして、たとえばイザヤ書44章9節以下に書かれているように、神さまは人の愚かさを嘲笑されるのです。  人がどんなに努力してみても、人が神さまと同じになってやろう...などという驕慢さが成功した試しがないのです。なぜならば、ヤハ ウエ *でいらっしゃる主なる神さまは常に総てのものの上にましまして総てのものを支配なさっていらっしゃるのです。それは、昨日も今日も、そして永遠に変わることなく主は総てのものの主でいらっしゃるのです。(*原文どおり)
  主なる神さまは常に主権を保っておられるお方、統治なさるお方としてだけではなく、創造主としてだけではなく、同時に神さまは人類を贖うお方として存在なさっているのです。  『私、この私が主であって、私のほかに救い主はいない』とイザヤ書43章11節は証言しています。
  人の救いと回復・復元は、すなわち力の闘争に象徴されている呪いを解くことは、人が神さまの下にあるという関係、すなわち「補足関係」を、人が正しくし体験し、それを正しく告白するという現実の中にだけあり得るのです。
  それは人間のあらゆる営みの中において常に真実であるのです。  とりわけそれは人の贖いにおいて真実なのです。  人の希望と救いは、まさに神さまと人とが上下の関係にあることを人が正しく認識するという、「補足関係」を正しく認定するという現実の中にあるのです。
  それは、人が絶えず、常に、いつも、どこにいても、神さまを呼び求め、神さまの主権を告白し、神さまの契約を告白し、神さまの律法を告白し、神さまの救出・解放を告白し、神さまの恩寵を告白し、神さまの選びを告白し、神さまのメシアたることを告白し、神さまの救いの方法を告白し続けるということにかかっているのです。
  人の希望は、創造から堕落までの間も堕落のあとも共に同じように、人の命と救いの両方のために神さまが全き備えをして下さっていることに対して人がどのように歓喜して応答するのかにかかっているのです。  だだこの方法によってのみ、神さまの方法によってのみ、人と人との間の「均衡のとれた関係」も回復し得るのです。
  そのことによって、恐ろしく破滅し荒廃した悲惨な力の闘争の結果をも乗り越え得られるし、またその恐ろしい権力闘争の結果をも放棄することができるのです。こうして正真正銘の同等性、対等性というものが人と人との間に回復・復元し、更に人は男性と女性が創られたその創造の時のように、男と女が創られた時のように、お互いがお互いに対して「均衡のとれた関係」、均衡のとれた平等な関係にいる状態に戻れるのです。

1.  旧約聖書

  旧約聖書は権力闘争という形が象徴する呪いというものが人と人との間でどれほどまでに無益な活動を繰り返していたのかを充分に演出しているのです。  兄カインは弟のアベルの上に力をふるいました。  ヤコブはエソウを欺いて優位に立ちました。
  ここで顕著なことは、これらの権力闘争において、また、それをとおして、人は人の上に立ち支配する地位を獲得し、またそれを確保しようと試みるのですが、それにも拘らずヤハ ウエ なる神さまは神さまの不思議なお働きをとおして神さま御自身の御計画を着実に実行なさるということです。
  ヨセフの兄弟たちは彼ら自身の優位性を確保するために彼らの夢見る弟を売り払ったのです。のちになって弟がエジプトに売られて行ったことを知るに到ったのです。
『あなたがたは私に悪を計りましたが、神さまはそれを、良いことのための計らいとなさいました。』(創世記50章20節)
  パロはイスラエルの民の上に権力を振るいましたが、しかし結果的に、パロと彼のエジプト人たちはイスラエルの民が約束の地に向かって出発することに手を貸したことになりました。  それは神さまがアブラハムに約束なさったとおりでした。
  旧約聖書の総ての物語をとおして、神さまは人と人との力と力の戦いを、権力闘争を許されているかのようにみえますが、実はその中にあって、またそれをとおして、神さまは神さま御自身の方法を、神さまの御旨を、神さま御自身のお約束にしたがってなし遂げられていらっしゃるのです。
  約束の地で何年もの間、神さまだけが王でいらっしゃいました。  王なる神さまはイスラエルを救うために士師たちを興されました。  それにも拘らずイスラエル人は他の諸国のように自らを治める王を要求したのです。  神さまはその時にはっきりとそのような支配者を持つことはイスラエルにとって呪いとなるであろうと警告されたのですが、彼らは神さまの声に聞き従わず、彼ら自身の王を求め続けたのでした。
  (エデンの園で起った)堕落の呪いの一部とは、人がしばしば誰か他人に支配されることを好むということです。  本来、それは人が神さまの下にあって、人と人とが「均衡の取れた関係」にあるという責任を自らの意志で受け入れるということではなくなっているからです。  本来あるべき人と人との間の水平関係よりも、人と人が上下関係にあることを好むということ、それが堕落のあとの呪いの一部なのです。
  イスラエルに許された王政は、そしてそれは彼らにとってしばしば呪いとなるのですが、それにも拘らず、ダビデを媒介したものであり、そのダビデは神さまのお約束と来たるべき救い主・メシアへの主要な道筋となったのです。

  旧約聖書の歴史の殆どは、神さまが呪いをすらお許しになって、呪いの働きを人と人との間の複雑な権力闘争のかたちで充分にさせ、そしてそのような人間の権力闘争にも拘らず、いやむしろそのような権力闘争の中で、権力闘争をとおして、神さまの救いの御計画を推進されていたのです。  もちろん、神さまは神さまがお定めになった神さまと創られた人間との「相補関係」をも、権力闘争に明け暮れしている人間の呪いの営みの中にあって、それをとおして、更にそれにも拘らず促進されていたのは言うまでもないことです。

  この文脈の中では、旧約聖書における女性の地位は、殆ど普遍的にと言えるのですが、男性の地位と比較して、弱いものか従属するものとなっています。  その一例として男だけが契約のしるしの割礼を必要としていました。
  そのような訳ですから、そしてそれにも拘らず、驚嘆すべきこととして、旧約聖書の中に見いだされる前兆としての女性たち、ラハブ、ルツ、士師のデボラ、エステルなどに与えられた卓越した地位があります。
  これらの女性たちの中に、微かですが、来たるべき日の前兆、すなわち、キリストに在って女も男も共に同じように権力闘争の呪いから解放され、神さまの下に支配と責任を共に再び担うという「均衡のとれた関係」を再開する...という予示を、微かに見ることができるのです。


2.  新約聖書:  キリスト

  神さまの救世主・キリスト、すなわちイエスさまの中に、私たちは神さまが贖罪と復元計画を進めていらっしゃることを見るのです。  神さまのお働きをイエスさまの中に見るのです。  それは神さまがイスラエル人の中でお働きになっていることを遥かに超えたことなのです。  呪いは権力闘争という姿でいまだに働いています。そして、それ迄の最大の権力闘争がイエスさまを十字架に釘付けしたのです。

  この人間の権力闘争の中にあって、人と人との力と力との争いをとおして、それでも神さまは人間の最終的贖いのために着々と準備を進めていらっしゃったのです。それはキリストの流された血潮をとおしての罪からの贖いです。
  ここで新しいことと言うのは、神さまが人と悪、すなわち権力闘争の悪魔的支配の上にお立ちになり、勝利されるということです。  それはたったの一回きりの出来事ですが総てのことに、総ての時間と空間にくまなく及ぶ出来事なのです。  そして、十字架につけられたお方と共に復活するという新しい神さまの新しい時の到来なのです。  このキリストにあって総てのものが新しくされるのです。  キリストが総てのものの中心となるのです。  キリストが新しい基準となり、新しい道となり、新しい真理となり、新しい命となるのです。聖書の総てが今やキリストの証人となるのです(ロマ書3章212 節)。
  そしてキリストによって成就するのです。  キリストが総ての真理の中心となり、総て生ける者たちと総ての関係の基準となるのです。

  教会(エクレシア) を構成している私たちは、あるいは教会としての私たちは、イエス・キリストを神さまの御子であり、人の子であると告白するのです。
  神さまの御子として、イエス・キリストは神さまと等しく、神さまと同等であり、『神さまそのもの』でいらっしゃるのです。  イエス・キリストは誠に父なる神さまと聖霊なる神さまと「均衡のとれた関係」にいらっしゃるのです。
  更に、救世主・メサイアでいらっしゃりながらも、人の子でいらっしゃるイエス・キリストは、エデンの園で女と男が受け容れることを拒んだもの、すなわち、神さまの下に人がいるという「相補関係」、神さまが人の上に立たれるという「上下関係」を受け容れられたのです。
  『私は私自身のことを何もすることができない。  私が来たのは私の意志を行うためではない。  私をお遣わしになったお方の御旨を行うためである。  私の肉は父なる神の御旨を行うためであり、私の意志を行うためではない。  神の御旨が行われますように。』と繰り返し主イエス・キリストは証言されているのです。
(訳者注:ヨハネ6章51節~52節およびマタイ26章39節と42節のことと思われる)
  『キリストは神の御姿であられるお方なのに、神の在り方を捨てることができないとはお考えにならないで、御自分を無にして、仕える者の姿をおとりになり、人間と同じようにお生まれになったのです。』(ピリピ2章6節~7節)
  僕(シモベ) の姿をおとりになることでキリストは人としての本当の御栄光をお示しになったのです。  その御栄光とは、創世記1章26節~28節において予示されたものであり、また詩篇8篇において称揚されたものなのです。

  キリストの全生涯とお仕事は力の操作や権力闘争にかかわるということと全く逆のことを具体化したものなのです。  それは創世記1章26節から28節にかけて示されているような男と女があるべき姿を具体化したものです。  キリストのみが本当の意味で『第2のアダム』でいらっしゃるのです。  キリストはその大能、その支配を風の上にも七つの海の上にもおき給うのです。  魚も、いちじくの木も、豚も、そして悪魔たちも、病も、死も...、総てのものがキリストの権能と支配の下にあるのです。
  しかしキリストは決して他者を支配するための人間の権力・権能の地位を手に入れようとはなさったことはないのです。  キリストが荒野に導かれなさった時に、そのような方向にイエスさまを導こうとする誘惑があったことは事実ですが、イエスさまはそのような誘惑に負けるようなお方ではありませんでした。  イエスさまの弟子たちは、しかしながら、誰がイエスさまのいちばん偉い弟子になるか、なれるのか...などという権力闘争、力の遊びの誘惑には弱いようでした。ペテロはゲッセマネの園で剣を振り回してしまいました。  ピラトとヘロデは共にイエスさまは本当に権威・権能・力、そしてまた支配権いうものを一体全体お持ちなのかどうかと疑いました。『私の王国はこの世のものではない』というのがイエス・キリストのお答でした。イエスさまにはそのような権威、権能、力の回復、そしてそれを行使なさる機会がたくさんありましたが、そのような力の闘争、力への闘争を絶えず拒否なさり、放棄なさってのです。  なぜならそれは呪いの道、呪いの手段だったからです。
  そしてイエスさまは弟子たちにも同じことを行うようにお教えになったのです。ペテロとヨハネは他の弟子たちの上に立つ優位性を求めたのです。  右側に坐りたいとか、王国ではキリストの左側に坐りたい...などと要求したのです。  弟子たちは弟子たちで、誰が自分たち弟子仲間の中でいちばん偉いのだろうか...と論じ合ったのです。
  もちろん私たちはイエスさまのお答を充分に知っています。  イエスさまは幼い子供たちを指されました。  また、イエスさまは弟子たちの足をお洗いになりました。イエスさまは、この世の支配者・権力者たちというものは他者のうえにその支配権を行使したがるものだが、イエスさまに従いたいと願う者の間においてはそうであってはならいと警告されたのです。  イエスさまを信ずるということ、イエスさまに聞き従うということは、仕える者の道を選び、*それを一人一人の日常生活の中で具体的に実行することです。(*訳者注:  いくどか複写を重ねたものを入手したようようで述語部分の一部が欠落。  大意はこのようであろうと推測して補充した。)

  人(または人間・人類)のいのちを神さまのもとに復元し、神さまと和解させようとするイエスさまのなさりかたは、その大切な節々で、人と人との権力闘争の策略、力のもてあそびの駆け引きというものを採用しようとする誘惑をことごとく拒否することに特徴づけられています。  ローマ占領軍を転覆し追い出すために熱心党と手を組むこともなさいませんでした。  イエスさまのなさりかたは、一貫して変わることなく仕える者の道、僕(シモベ) のやりかたでした。
  この方法でイエスさまは御自分が常に神さまの下にあることを具体的にお示しになることで人間が本来神さまの下にあるべき本当の「相補関係」をお示しになったのです。  そしてそれと同時にそのことが意味することは、そのことによって人が他の人との間に純粋な、真に純粋な「均衡のとれた関係」、混じり気なしの水平関係が始まったことをお示しになったのです。
  イエスさまの母マリアがルカ伝1章52節で預言したことは、『権力のある者をその座から引きずり降ろし、いと低い者を高く引き挙げられる...』ということでした。
  パリサイ人たちと食事を共になさったイエスさまは、同時に取税人や罪人たちとも飲み食いをなさったお方です。  このようなことをなさることによってイエスさまは前者を引きずり降ろし、後者を高められたのです。  そして両者を同じ位置に置き、平等となさったのです。
  イエスさまの極めて近しい、ごく親しい内輪の人たちの間では、女性が男性と同じ*同じ水平の位置に?同じ水平の関係に?見出されるのです。(訳者注:*同問題)
  イエスさまが具体的に御自分の在り方によってお示しになった僕の道、仕える者の方法・手段というものは、弱さなり消極的なり受け身であるというような意味に誤解してはならないものです。  まあ、世の権力者や力のあそびに溺れ奢る者にとってはそのように誤解したり受け取ったりする傾向があるようですけれども...。
  実際にイエスさまは、創世記1章28節に語られている、神さまから神さまの似姿を担う者としての男と女に与えられた支配権にも似たものを、御自身で具体的に実行なさっていたのです。
  仕える者の道というものは、僕(シモベ) のとる手段というものは一貫してそのような意味での支配のことであり、その中においてこそイエスさまの純粋な、真の、確実な権威が横たわっているのです。  それはマタイ伝7章28節に描写されているような、学者たちやパリサイ人たちを遥かに超えて優った権威であり、また同時に彼らのものとは全く別種類の純粋な権威なのです。

  イエスさまが12名の弟子をお選びになった時、12名の男性をお選びになったこと、その12名総てが男であったということは、実はイエスさまのなさりかた、イエスさまの一貫したなさりかた、イエスさまの方法に完全に一致しているのです。
  男たちだけを御自分の弟子に選ばれたということは、男性だけがキリストの教会を治めることに適し、教会の権威を持つことを許されているのだ...と単略的に論じることは、論点を誤るばかりでなくイエスさまのなさりかた、イエスさまの方法を全く理解していないということです。
  そのような解釈、そのようにイエスさまのなさりかたを憶測するということは、イエスさまの関心事が堕落以降ずっと人間の間に引き継がれて来ている権力闘争構造というものを正当化し更に強化することにある...と誤解しているのです。
  しかし、イエスさまが弟子たちをお選びになったのは、彼らにイエスさまに従うということがどのような意味を持つことなのかを教えるためであったのです。  それは具体的には、自分自身を無にする、空にする、むなしくするというやりかたです。それが僕の道、仕える者のやりかた、在り方なのです。
  イエスさまは、そのようなことを教えるために女性をお選びになる必要がなかったのです。  女性たちは改めてそのようなことを特に学ぶ必要がなかったのです。一般的に女性は長いこと家財道具か奴隷のような扱いを受け続けていたからです。
  イエスさまに従って来た女たちとイエスさまが接し、女性を扱われるイエスさまの方法というものは、女たちを高めて弟子たちと同等の者、「均衡のとれた関係」に実質的に在る者とされたということです。  イエスさまがその墓から復活された直後の最初の福音説教者たちは、実にこれら女性たちであったのです。

  イエスさまは、力によって女性を解放し、女性を男性と「均衡のとれた関係」にしようとする、闘争によって男女均等を獲得しようとする婦人解放運動を願われたり開始ならそうとは、もちろん、なさいませんでした。  そのようなものは*新たなる権力闘争を招くか、新たなる闘争を更に激化させるだけで、イエスさまのなさりかたとは全く反対のものとなるのです。
  また、女が男と同等であり、平等であり、対等であると認識され、そのように受け容れられる前に、人(または人間)は、弟子も含めて、彼ら自身が本当に僕である、召し使いであると理解することを学ばなければなりません。  それはとてつもなく時間がかかることでしょう。

3.  使徒たち  パウロ

  それでは使徒たちはどのようにキリストのなさりかたを立証し具体化したのでしょうか?  呪いの影響と結果、力のあそび、権力闘争の現実というものは、この世界のあらゆる場所で明らかでした。  それはイエスさまの復活後もそうだったのです。
  しかし復活なさったキリストの内に、使徒たちが必要としていた総ての証拠を見いだしていたのです。  すなわちイエスさまのなさりかたこそ神さまの凱旋の仕方であるということをです。

  ローマ帝国はパレスチナへの暴虐を続けていました。  奴隷制度はその当時の当然の社会制度の一部として維持されていました。  男が女をあたり前のこととして支配していました。  けれども使徒たちは軍隊を率いてローマを転覆しようとはしませんでした。  使徒たちは廃止運動や~廃絶運動を組織しませんでした。  彼らは女性の権利を力ずくで得ようと力を使った争いに訴えることもしませんでした。
  現に、ロマ書13章1節や第1ペテロ2章13節を読んでみますと、あたかも使徒たちが暴政を支持しているかのような印象すら受けるのです。
  第1コリント11章と14章、エペソ書5章22節~23節、第1テモテ2章と3章、更に第1ペテロ3章1節から7節を読んでみますと(訳者注:一部聖句箇所に明白なミスがあり、筆者の意図とする正しい箇所と思われるものと入れ替えと補足を加えた)、女性が男性に服従するのに貢献するような箇所すら見られます。
  これらの聖句に含まれているいろいろな論題において、男たちは新約聖書に最終的権威を訴えています。  すなわち、奴隷制度を擁護するために王たちが持っていた「聖なる権利」について触れるとか、教会の職務・職責から女性を除外することを保持することなどです。

  ロマ書13章においてパウロは、まつりごとを司る権威に対して各自がこれに従うように指示を確かに出しているのです。  これは絶対専制君主制度のローマ帝国政府を意味していたことです。  そのような権力に服従するということが神さまに服従するということである...とされたのです。  しかしこのような指示を出すことによって、パウロは同時に、本当の人間が治める人間の政府・政治政体というものがどういうものでなければならないか...、人間の政治がどのような使命を帯びたものであるのかを示しているのです。
  まず最初に、パウロは、人間が人間を治める政体というものには、神さまが与えられた権威というものを除いて、本当は権力も権威もあり得ないのだ... ということを示しているのです。  そしてそれら人間の政体・政治というものは、神さまに対して責任があり、神さまに負うものなのだ...と、そのようにパウロは訴えているのです。
  世の支配者・世の権力者もまた神さまの下にあり、神さまとは「相互補充関係」・「補足関係」にあるということです。  それが彼等自身の権力とまつりごとの根拠と本質と目的なのです。  それがパウロの定義なのです。  政治権力というものは、善なる者には良く仕え、邪悪を働く者に対しては制限を加える...というのです。
『なぜなら彼はあなたの善きことのために遣わされた神さまの召し使いであるから』
なのです。  ここでは、通常どこでも行われているような、横暴や残忍な政治政体を正当化する余地はなく、自己保存的権力の行使を弁解する余地もないのです。  治める者の使命と、治めることの意味とは、召し使いであるということ、仕えるという視点でのみ定義されるべきものなのです。  それは主イエス・キリスト、私たちのメシア(メサイア、救世主)がそうでいらっしゃったようにです。
  パウロは暴虐政治に正面から反対をしませんでしたし、力でそれを転覆するようなことを扇動もしませんでした。  しかし、「仕える」という物差しで、そのような視点で「治める」という意味を定義したのです。(第1ペテロ2章11節~17節)

  この定義をキリストのみ心にもう一度しっかりと据えてみましょう。  そうすれば新しいかたちの支配が現れてくることでしょう。  しかし、このような根源的に新しい原理・方針が人々の集まりや集団に浸透して行くには時間がかかると思います。
  新しい原則、新しい方針が世に現れる時、私たちが「民主主義」と呼ぶ新しい政治形態が出現する時、そしてそれは「公に仕える・パブリック・サーヴィス」という姿の政治政体ですが、治める者は、為政者は「公僕・パブリック・サーヴァント」として人々に彼自身を仕える者として意識しているのか、仕えている姿勢があるのか...を、彼が市選挙に臨む時に示さなければなりません。  庶民が彼の上にいるのと同様に彼も庶民の上にいるのです。
  「治める」ということを「仕える」ということで定義するということで、エデンの園の堕落からこのかた、治める側と治められる側との間で、「均衡のとれた関係」に可能な限り最も近いものを私たちは手に入れたのです。

  使徒パウロはエペソ書5章と6章において別の種類の関係を語っています。6章5節以下でパウロは奴隷たちに宛てて『奴隷たちよ、あなたがたは、キリストに従うように、畏れおののいて真心から地上の主人に従いなさい』と教えています。
  この世での主人に謀反を起し反乱しなさいと教えていないのです。  しかしまた言われるままに、消極的に、盲従しなさい...ともパウロは教えていないのです。
  奴隷たちは自分自身を積極的に、肯定的に「召し使い」であると認識し、心の底
から神さまの御旨を行うようにすべきだ、そのようにあるべきだ...と言うのです。
  そして再びその理由についてですが、主人たちも奴隷たちも、共に天において一人の同じ主人を戴いているのです。  そしてそのお方は偏り給うことがないお方なのです。  パウロは奴隷たちに対し、奴隷保持者たちに力で対決することを迫っていないのです。  パウロは奴隷たちと奴隷所持者たちとの関係を、主なる神さまの下にあっては「両者は共に召し使いである」という定義において同じ土俵に立たせているのです。  「上下関係」という「相補関係」から離れて、両者が「均衡のとれた関係」へと向かうようにと再定義されているのです。
  この同じ精神で、パウロは奴隷であるオネシモをその所有者であるピレモンのもとに送還しているのです。  それは、パウロがピレモンに対してオネシモを『もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち主にある愛する兄弟として』受け入れることを当然のこととして期待しているからです。(ピレモン書16節。  第1ペテロ2章18節以下と比較のこと)

  また再び、この原則をキリストのみ心に合わせて見てみましょう。  そうすればキリストに従う者たちは、やがて奴隷たちも、奴隷制度も、またどのような姿や形を採る人間社会の人種差別であっても、それは神さまの御旨に明らかに反するものであり、イエス・キリストの福音に敵対するものである...ということを理解するようになるのです。  この確信が人間社会の受け容れられるようになり、発展して来るまでに
は、本当に長い月日がかかったのです。

  また使徒パウロは同じようなやり方で妻と夫との間の関係についても語ります。
『妻たちよ、あなたがたは主に従うように自分の夫に従いなさい』(エペソ書5章21節以下)。
  教会がキリストに従う如く...と比較文が用いられています。  しかし全体の文脈は『キリストを畏れ尊んで、お互いに従い合いなさい...』(5章21節)によって導入されているのです。
  妻たちが夫たちに従うということはお互いに従い合うということの片面を指しているのであって、それはクリスチャンの結婚を特徴づけるものなのです。  互いに従い合うということのもう片面はと言いますと、それはキリストがキリストの教会を愛されるのと同様に、夫たちはその妻たちを愛さなければならない...ということです。それは、夫は妻のために己を捧げるということです。  そのことによって妻は夫がそうであるようになり、とりわけその輝きにおいて、染みも傷もなく、清く責められるべき一点の曇りもなく...(27節)(訳者注:以下に一部欠落あり不明)
  キリストが僕(シモベ) 、召し使いの姿をおとりになったように、そして御自分を放棄なさったように...というのが、夫が彼の妻に対する関係のモデル、模範となすべきことなのです。
  夫と妻との間の関係の転換とは、つまり普通一般に広く受け容れられている関係、すなわち「相補関係」または「上下関係」、別な言い方をすればアダムがエヴァの上にあって支配するという呪いの関係からの転換とは、キリスト御自身が僕の姿をおとりになったことが意味する視点で眺めた結婚、つまり夫と妻とがキリストとその教会との関係のように互いに仕え合い従い合うという「水平関係」「均衡のとれた関係」という物差しで計る時にのみ可能となるのです。
  そして第1コリント7章ではこの「相互関係」、お互いに仕え合う関係というものが結婚生活における夫婦の性的関係に適用されています。  そこでは性から力を媒介とする関係、力の闘争関係を削除しています。
  結婚生活におけるそのような「均衡のとれた関係」・「水平の関係」は、妻たちが新しく力による闘争に訴えて夫たちに反抗を企てるということではなく、妻たちがそうであるように、夫たちも、キリストを見習って、召し使いの役割、仕える者の地位を担うことによって可能となるのです。(第1ペテロ3章1節~7節と、7節の「共に受け継ぐ者」を参照のこと)

  また更にパウロは同じ文脈の中で、すなわちエペソ書6章1節以下で両親から子供へ、そして子供から両親への関係についても語っています。  この点でもひとこと述べておきましょう。
  いろいろな人間関係がありますが、それの中でも生得的に「相補関係」・「上下関係」にあるものとして親子関係があります。  この関係は、誰も否定も妥協もできない、明白に「相補関係」です。
  ここでも使徒パウロは両親と子供たちを神さまの下に置き、両者がお互いに尊敬し合うように呼びかけています。  子供たちは主にあって両親に従うように勧めています。  それと同時にパウロは父親に対し子供を怒りに駆り立てるようなことがないように勧めています。  ここでパウロが母親に対してはそのような進言をしていないのです。  男というものはいろんな意味で力を振るうこと、あるいは権力を使うことが多いので、父親に敢えて一言つけ加えたのでしょう。  子供たちを怒らせるのではなく、むしろ主の教えを守り、自己節制するよう育てあげるよう勧めています。
  子供たちを訓練するということは怒りや力ずくですることではないのです。『お父さんがそう言っているんだからお前は黙ってやれ!』というようなことではないのです。

B. 堕落: 関係の転倒


 
  創世記3章に入りますと、神さまが男におっしゃっていたことが女にも同じように当てはまる...ということを彼女自身が理解していたことが分かります。(2節)
  蛇が彼女を誘惑する場面は、聖書に描かれている誘惑の描写以外にも、いろいろな描写が可能だろうと思いますが、そこで語られていることは次のようなことです。
  すなわち、蛇はそれまでの彼女と神さまとの「相補関係」あるいは上下関係というものを「均衡のとれた関係」に変えようとそそのかして誘惑しているのです。
  (まさにそれこそがサタン=悪魔がすでにやってしまったことであり、それが彼と他の一部の天使たちの堕落を促進し、彼らを奈落のどん底へと叩き落とし込んだ理由だったのです。)
  創世記2章は、1章と同じように、誰の目にもはっきり分かるように、神さまと人との関係の本質、人から彼の主でいらっしゃる神さまへの関係の本質を定義しています。  それは決して神さまと人が対等・平等の関係ではあり得ないこと、すなわち「均衡のとれた関係」ではないことを明白に宣言しているのです。
  それにも拘らず蛇は誠しやかにうそぶいたのです。  『あなたがたは決して死ぬことはありません。  あなたがたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです...』と。
  この4節と5節に含蓄されていることとは、まず男と女は、何が善であり何が悪であるのかを自分たち自身で決めることができるようになることです。  そしてさらに、彼らは神さまの下にいる必要がなくなり、むしろ神さまと平等になる、神さまと対等になる、神さまと同じ土俵に立ってわたり合うことができる...ということです。神さまとの関係は、それですから、それまでのように「相補関係」ではなくなり、「均衡のとれた関係」にとって代わるということです。  このようにして男と女は神さまと彼らの関係を改めるという誘惑に屈してしまったのです。

  神さまと自分たちとの関係を再定義しようとする誘惑に負けてしまった男と女は、すなわち神さまと対等な関係、同等な関係に変えようとした結果として、彼ら自身の関係、すなわち男と女との関係にも再定義の必要性を招いてしまったのです。
  今までのように男と女との間に保たれていた「均衡のとれた関係」は崩れ去ったのです。  二人は、お互いに自己に目覚めてしまったのです。  そしてお互いに相手が裸であることにも気がついたのです。  二人ともお互いに自分自身が傷つき易い、攻撃され易い、弱い者であるということに気がついたのです。
  そこで二人はお互いに自分自身を相手から隠すためにいちじくの葉で覆い物を縫い合わせ、自分自身を隠そうとしたのです。  そして更に、互いに相手から自分を隠そうとしただけではなく、園を歩かれる神さまのみ前から彼ら自身を隠そうと試みたのです。
  彼ら自身が何をしでかしたのかを神さまに問われた時、そこで、いや、そこから、彼らは一人ずつ、おのおのが相手を責めあう、おのおのが相手を破壊しようとする、止むことのない「なすりあい競争ゲーム」を始めたのです。
  そこには創世記1章でみられた支配権を共有しようとする姿勢も、また創世記2章でみた二人で一つであるという意識も完全に失われてしまったのです。

  そこには、それまで彼らの共通の喜びと遺産であった生殖の歓喜にも、共に一緒に他の被創造物を支配するという祝福にも、何かしら変化が生じてしまったのです。それは、女には子供を生む時に痛みを経験するという事態が生じたのです。  そしてそれだけではなく、男に依存して生きてゆくという事態に追い込まれたのです。『しかもお前は夫を恋い慕う』とされたのです。  しかもそれだけではなく、彼女は  彼女よりも肉体的に大きく、力強い彼(夫)の支配を受ける者とされたのです。
『彼はお前の上に君臨してお前を支配する...』となったのです。(16節)
  最初に二人は二人一緒に、二人で共に、彼らよりも低い地位にいた他の総ての神さまの被創造物の上に立ってそれらを支配するという関係にいましたが、お互い同士をお互いに支配するという関係にはなかったのです。
  しかし、今やこの関係は転倒・転位してしまったのです。  二人で一緒になって神さまがお創りになった他の総ての被創造物を治める筈になっていた二人でしたが、今度はそれが彼ら自身に向けられてしまい、男が女を支配するという関係になってしまったのです。
  ここに堕落を招いた原因とその結果というものが明らかになったのですが、それは人間生活の中に、そして人間同士の関係の中に、実に力の闘争、権力闘争というものが入り込んでしまったということです。  人間同士が互いに一緒になって他の創造物を支配するということではなく、一人の人間が他者の上に立ってこれを支配するという事態となったのです。
  かつては男と女の間にあった「均衡のとれた関係」は、今や不平等な「相補関係」に、「上下関係」へと転倒してしまったのです。  そして、一人が他者の「上」に立って支配する、一人は他者の「下」にあって支配を受けるという係です。
  そして更にその上下関係・権力闘争の基本的原理は人とこの地にあるものとの関係においても明らかになったのです。  それは地がいばらとあざみを生えさせ、地に働く男の顔に汗をかかせることとなったのです。  実に人の生きるということは苦労の連続となり、人間社会とは格闘・悪戦苦闘・生存競争・権力闘争となったのです。
(訳者注:この部分の原文は struggle か strugglesと思われるが、その部分とそれ以下が欠損しているので、このように判読して訳してみた。)

  実際、共に治めるという「均衡のとれた関係」から、人が他者の上にいる力の闘争という「上下関係」「相補関係」なり「補充関係」にとって代わったということは、創世記3章に描写されているように、それ以降の人類の殆どの歴史を一貫して流れている特徴であると言えるのです。
  卑近な例として私たちが体験し目撃するものの一つに、その力の闘争の原則・原理は、結婚の破滅というかたちで知ることができます。  そこに私たちは力の闘争原理を必然的に見せつけられるのです。
  治める者と治められる者との関係においても、経営者と労働者との関係においてもそれを体験していますし、競合するイデオロギーの違いが国と国とを戦争にと叩き込むことも知っています。
  キリスト教会の歴史というものも、いろいろな権力闘争の見本で飽きるほど一杯になっています。  人類の堕落以来こん日に到るまで、純粋な「均衡のとれた関係」をどのような人間の営みの中においても、それを維持しようとすることは絶えず困難なことであり、それを達成することはさらに至難の業なのです。  またそしてたとえ、仮にそれが成就されたとしても、どんなにうまくいっているように見えても、結局のところそれは不安定で危険な状態にあり、他人頼みの状態、相手次第ということで、実に不安定なものなのです。

  創世記3章20節を読みますと、瞬間的に、人間の罪に対して述べられた呪いというものがどのようなものであったのかを知ることができます。  『さて、人は、その妻の名をエヴァと呼んだ。  それは、彼女が総ての生きている者の母であったからである。』  ここに私たちは転倒した力関係が始まったことを学ぶのです。
  それは男が女の上にあって彼女を支配し始めたからです。  彼女を対等の者、同等の者としてではなく、彼の下にある者として扱い始めたからです。  堕落の前に彼が動物たちに名前を付けたのと同じように今度は彼女に名前を付けたのです。  彼女に名前を付けることによって彼は彼女の存在そのものと彼女の役割を再定義する特権、君主としての大権を行使したのです。  彼女を「エヴァ」と命名することによって彼女が子供を産むという生物学的機能との関連で彼女の役割を再定義したのです。
  こうして今や支配権は彼一人だけの手にしっかりと握られた...と思えるように見えるのです。

  男が女の上に支配権を持つ、権威を持つということは、こうして堕落以降の人類の歴史の中で、一部の例外を除き、ほぼ確定的なものになったと言えます。  それは人が神の下にあるという「補足関係」を神さまと対等な、同等な「均衡のとれた関係」に変更しようと試みた時から起ったものであり、その結果が天地創造の時に設けられ  た男と女との間の「均衡のとれた関係」を転倒させ、不平等な「上下関係」なり「補足関係」に変え、人類の歩みを、人の生涯を、絶えることのない権力闘争の関係にと置き換え、争いで満たしてしまったのです。


A. 創造: 関係の定義


1.  創世記1章

  男と女との間の関係の聖書的理解は、まさに「初めに...」という創世記1章1節の句で始めるのが一番相応しいように思えます。  神さまが御自分の姿に似せて私たち人間を創造なさろうとお考えになったその時のことを、私たちは創世記1章26節で知るのです。
    『我々に似るように、我々の形に、人を創ろう。  そして彼らに、海の魚、
      空の鳥、家畜、地の総てのもの、地をはう総てのものを支配させよう』と
      仰せられた。
  神さまに似て、神さまの姿に似た存在(すなわち人間)を創り出すという神さまのお考えと分けては考えられないことは、その存在が創造された他の総てのものを支配するということです。  すなわち、創造された他の総てのものはその存在の下にあって支配される、その存在が他の創られたもの総ての支配権を持つということです。
  それですから、支配するということは、支配権を持つということは、神さまの似姿を担う者であることを構成するのに絶対必要な部分であるということです。

  その日その日の創造の典型的なパターンを考えますと、神さまの御声が発せられた直後に必ずそこに神さまの完成させられた創造のみ業(ワザ)を見ることができます。
    『神はこのように人を御自身の形に創造された。  神の形に彼を創造し、
      男と女とに彼らを創造された。』(創世記1章27節)
  人間が創造された時のことを考えてみますと、人間が男と女とに創られたことと、人間が神さまの似姿に似て創造されたということとには、二つとも切っても切れない関係があるということが分かって来ます。
  私たち人間の生きざまにあって、男と女の関係というものは、ある意味において、神さま御自身の存在の姿や似姿を反映させているとか、神さま御自身の姿に似ているとも言えるのです。  神学的にですが、26節の「我々に」という言葉の内に三位一体の教義を垣間見るのです。  三位一体、すなわち、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神という、はっきりした三位がいらっしゃるのと同様に、何らの混乱も全くなくその三位は一体であり、三位はお互いに対して同等であるのです。  そのことから、
神さまの似姿に似て創造されている私たち男と女も、男と女という、お互いに対してはっきりとした違いを持ちながら、しかも私たち男と女はお互いに対して同等であると推測することができるのです。  男と女は共に一緒になって、一緒であるということにおいて、神さまの祝福を受けることができ、また、共に一緒であることによって『生めよ、増えよ、地を満たせ...』という28節の命令を頂いたのです。

  この生殖の祝福と命令には、しかしながら、そのあと、更に入念な祝福と命令が追加されているのです。  すなわちそれは『地を従えさせよ。  地の上のあらゆる創られたものを支配せよ。  海の魚も空の鳥や地を這う総ての生き物も、食物として与えられる植物類をも支配せよ...』という更なる祝福と命令です。  ここで強調しなければならないことは、支配の特徴、支配の性質、支配の内容だと思います。

  まず最初に、この支配は神さまから人間に与えられたものです。  ここにこの支配を与えて下さったお方、この支配の源泉を覚えます。  このお方は総てのものの主である神さまであり、神さまの似姿を担う私たちを今もなお支配なさっている主でいらっしゃるのです。

  ここで、支配する者と支配される者との関係、すなわち他者の上にある者と、他者の下にいる者との関係を*「相補関係」と呼んでおきましょう。
(*訳者注:私たち日本の読者に理解し易い言葉としては「上下関係」「主従関係」「優劣関係」「縦関係」などがあると思いますが、それらは著者の意図を正確に表現するものではありません。  そこで原文 complementary relationship の表す意味、「補足的」「補充の」「相互補足関係」「相互補充関係」「互いに補足し合う関係」などの言葉の中から「相補関係」が一番短いので以下そのように使用します。)
  それに反し、*「二者またはそれ以上のものが同等の状態にある関係」、「左右が相称的な関係」、「体や全体が釣り合いのとれた均整のとれた関係」を「水平関係」とか「対等関係」とか「同等関係」と訳したほうが分かり易いかも知れませんが、ここでは敢えて「均整のとれた関係」と訳します。  そのほうが著者の意とされる symmetrical relationship をより良く表現していると思います。)

「相補関係」という上下関係を表す言葉は少しぎこちない響きを与えますが、「均整のとれた関係」という用語と共に、私の文章では最後まで出てきますのでそのように御了承願います。

  この意味で、三位一体の三つの位、三つのお方の間の関係は「均整のとれた関係」と呼ぶことができます。  父なる神、子なる神、そして聖霊なる神は、三位一体において同等の地位をお占めになっています。  しかし、神さまと神さまの似姿を担う者との関係は、創世記1章において、明白に「相補関係」にあるとお分かり頂けると思います。  神さまは神さまの似姿を担う者たちの上にいらっしゃいますし、人間は神さまの下にいるからです。  それと同様に、神さまの似姿を担う者と、この地との関係、この地の上を這う総ての創られたものとの関係も「相補関係」にあるのです。人がそれらのものの上にあって支配しているからです。

  第二番目に、1章26節~28節で明白で重要なこととは、神さまの似姿を担う者に与えられた支配権というものは、男に対して与えられたものであると同時に女に対しても同様に等しく与えられたものであるということです。  それは片方がもう片方に対して支配権を持つということではないのです。  女が男の上に支配権を持つということでもなく、男が女の上に支配権を持つということでもないのです。  支配権というものは男と女に対し一緒に与えられたものなのです。  そして男と女が一緒になって、この地とそこにある総ての創造物に対して支配権を行使するという体験を共有するために、二人で一組としての男と女に与えられたものなのです。  これこそ本当にパラダイスです!  ここでは片方がもう片方の上に支配権または権力を持つということはあり得ません。  ここでは明らかに一人の人間が他者との間で権力闘争をする必要がないのです。  ここでは男と女との間での力の行使の必要は存在しないのです。  それは後になって創世記3章で出て来ることなのです。  少し前に述べました用語を使ってみますと、創られた者としての男と女の関係、そして神さまの御旨によってそのように創られた男と女の関係というものは、それですから、「相補関係」では決してなく、むしろ「均衡のとれた関係」なのです。

  こん日、私たちが女性について語り合おうとしている時、ここ迄に述べて来ましたことがどのような意味を持つのかということですが、初めに男と女が同等に創られたということ、神さまが彼らに、すなわち男と女に、分け隔てなく公平に支配権を託されたということと、その支配権を男と女が一緒になって公平に担うことを意図されたということ、そして男と女がお互いに他者の上に支配権を行使しないことなど、総てこれらのことを考慮にいれなければならない...ということになるのです。
  女性は、創世記1章によりますと、男性と同様に、生得の本来備わっている可能性として支配権を行使できる存在なのです。  それは男性とて同じです。  その両者が神さまから等しく支配権を、神さまがお創りになった総ての創造物の上に、共に一緒の状態で行使するようにと任じられたのです。

  それですから、創世記1章によりますと、神格・神性というものの中に私たちは「均衡のとれた関係」を見いだす一方で、神さまと人間との間には「相補関係」を見るのです。  そして更に、男と女の間において「均衡のとれた関係」を見いだす一方で、男と女とが一緒にあることにおいて、共に担って支配権を行使するということにおいて、その他の総ての被創造物との関係で「相補関係」を見いだすのです。
『そして、それは非常に良かった』(31節)のです。

2.  創世記2章

  天地創造物語は2章4節以下で再び語られていますが、共通点もあれば異なった点もあります。  創世記1章においては、神さまの壮大さというものが神さまの御言葉の力という形で描かれています。  御言葉が創造の業に携わることでその真の威力を発揮しているのです。  そして御言葉による創造の最高点として、創造の業の冠として、神さまの似姿を担う者として男と女が描かれています。  そして更に、神さまがお創りになった他の総ての創られたものの上に男と女が共に、一緒になって支配権を担っているのです。  しかしながら、創世記2章においては、人と、人が神さまの創造的備えに対しどのように関わってゆくのか...が明らかにされているのです。

  2章の幕が開きますと、舞台には命のない不毛の土地が出てきます。神さまは霧によって湿気を与えられ粘着力を得た地の塵埃から人を形造り、命の息を人の中に吹き込まれました。  そこで人はその両目を開いて周囲を見回し、命の知覚によって陽気になってゆく過程とその姿を私たちは容易に想像することができます。
  しかし、人は、それでも自分が一体誰であるのか、そしてそのことが一体全体何を意味するのか、自分には何が求められているのか...、そのようなことで戸惑っている姿を想像できるのです。  なぜなら、それは人間が絶えず問い続けていることだからです。
  次に神さまは、東の方に園を設けられます。  人間の五感には楽しくてたまらないような園です。  そしてそこに『主は主の形造った人を置かれた』のです。(8節)
  そのような過程の中において人は神さまの備えの思慮・意義というものをどのように体験したのでしょうか!  もちろん人にとってすでに明らかなことは、人は彼の創造者であり備えをなして下さる神さまと「相補関係」にあるということです。
  しかしこの上下関係の本質というものは、主なる神さまが人に対し、園を耕し、園を守ることを命じられたことと、園のどの樹になる果実でも楽しんで食べて良いという許可を与えられたことと、更にまた人が死ぬことのないように、善悪を知る樹の果実だけは取って食べてはいけないと禁じられたことなどから明白なことであったのです。
  創世記1章と同じように、神さまと人との関係は間違いもなく「相補関係」として設定されています。  すなわち、神さまは人の上にいらっしゃる主であり、人はその創造者に対して従う義務を負う者としての存在であること、彼の創造主から委ねられた仕事をするということで明らかです。  それと同じように、人と園との関係も人が園を支配するということで、同様に「相補関係」にあるのです。
  そのことをここでは仕えるという形が表わしています。  すなわち、園の中に生えるどの樹の実でも楽しんで食べながら、同時にその園を耕しそれを守るということで神さまに服従するのです。

  これら総てのことにもかかわらず、そして人が人自身の必要や感覚を完全に気付く前に、主なる神さまは人の胸中に開いた穴の痛みを既に認識されていたのです。そして神さまはここで『良くない』と宣言されたのです。  すなわち人が独りでいるのは良くないとおっしゃったのです。  神さまは、私たち自身が私たちの求めや必要を認識する前にすでにそれらを御存知であり、すでに行動に移されるのです。
  創世記2章全体の物語は、神さまが人のためにいろいろと備えをなし給うこと、この世において人が必要とするものを総て必ず備え給うということに向かって次第にその歩調が昂り強くなって行くという筋書きなのです。  人が心ごち良く住めるようにと、人が住み易いような世を念頭に、神さまがいろいろな備えを用意して下さっているというシナリオです。  これが創世記2章です。

  人が人の必要を意識した時、主なる神さまは地の塵埃からいろいろな動物を創造なさいました。  それは神さまが人をお創りになったのと同じようにです。神さまはお創りになったこれらの動物を人のところに連れておいでになりました。今や人は多くの点で彼に似ている被創造物によって取り囲まれることになりました。それらの動物は園の樹木とは全く異なるものです。  生きていますし、動き回ります
し、呼吸をしているのです。  頭もあり、首もあり、手足がくっついた胴体もあります。  主なる神さまがそれまでにも増して人のために用意して下さった神さまの備えを前に、人がその時に経験したであろう狂喜の状態を、私たちは何となく良く分かるように思うのです。

  しかし、それらの動物は人がそれにどのような『名を付ける』かどうかをみるために人のところに連れて来られたものでした。  それが何という名であれ人が付けたものがその動物の名前になったのです。  他の創られたものに名前を付けるということは、その創造物の上にあること、権威なり支配権を持つということを意味します。

  他人が私たちに、たとえ私たちが子供であっても成人であってもです、勝手に名前を付けたりレッテルを張ったりしようとすれば、私たちは良い気がしないという理由の一つに、このようなことがあるのかも知れません。  どのようなあだ名であってもレッテルであっても、私たちにそのようなことをしようとする人は、その人が私たちの上にいる人、私たちに権威や力を持つ人と認めさせようということになるのです。
  話しを元に戻して、人が動物たちに名前を付ける作業が終わった時、それらの動物のどれも人の助け手としては相応しくないものだったのです。  なぜなら、それらは人の「下」にあるものだったのです。  人はそれらの動物の上にあって「補充関係」もしくは「相補関係」にあったからです。  そして、人は依然として独りだったのです。

  人を創り給うた創造主なる神さまは引き続き人の求め、すなわち彼が独りでいるということを充分に御存知でした。  今度は、人が眠っている間に、主なる神さまは人の脇腹から「一つの存在 one being」をお創りになり、それを「女 women」と認識された(identify)のです。(22節)
  女が人(または男)のところに連れて来られた時、人(または彼)は有頂天になって歓喜の声をあげて彼女を認識した...と23節は語ります。
    『遂に、これこそ私の骨たちの中の骨、私の肉の中の肉だ!
      男から彼女は取り出されたのだから、彼女は女と呼ばれる』

  この劇的な創造物語は人(または男)がただ独りで立っているという筋書きでまず始まります。  そしてそこから神さまがお創りになった他の被創造物(人が名付けた園と動物たち)の上に人(または男)がいるという筋書きへと展開して行くのです。
  そしてこの創造記録は、人(または男)に文字道理ぴったりの人(訳者注:またはこの場合女・存在・他者)を神さまが彼のために備えて下さったということで最高潮に達するのです。  すなわち、真に一体であり同等な者と認識することができて、瞬間的に何らのためらいも羞じらいもなく抱擁することができた、対等の相手だったのです。  ここについに、それまでの彼と彼を創造なさった神さまとの関係、または彼よりも低いところに置かれていたほかの被創造物との関係を表す「相補関係」」、言い換えれば「上下関係」ではなく、ここで初めて彼と対等な関係・「均衡のとれた関係」にある「人」(訳者注:共なる人格を有する他者)と出会ったのです。

  二つの創造物語は互いに対立したり矛盾したりするものでは決してありません。むしろ、その二つの創造の物語は、その二つの底辺に潜んでいる共通の調和を、実に美しく浮上させているのです。  両方の創造物語において主なる神さまは創造の初めから終わりまで、創造の総てにおいて創造主としてずっと存在され君臨されているのです。  もちろん創造主の似姿を担う者たちの上にもです。
  二つの創造物語の総ての詳細な部分にいたるまで、すでに私たちが使ってきました用語「相補関係」を示しているのです。  すなわち、神さまと人との関係です。
  主なる神さまと、その神さまに創られてその下におかれている、仕える者としての僕(シモベ) との関係を指し示しているのです。
  それと同様に、二つの創造物語において、その細部に到るまで、一組とされた人間が他の創られた総ての被創造物の上に高く挙げられて意気揚々としている状態を示しているのです(詩篇8篇と比較)。  そしてこれも、もう一つ別の「相補関係」を表しているのです。
  そして同時にこの二つの創造物語は、その詳細部分に到るまで、無比無類の関係、すなわち独特の「均衡のとれた関係」を強調しているのです。  男性と女性との間の同等性、男と女との間の認識された対等性、認められた平等性を表しているのです。

1998・06・24
聖書的・神学的に見た男と女の関係

シカゴ・クリスチャン・カンセリング・センター
マーヴィン・P.フーグランド
野村基之 訳

Male and Female in Biblical-Theological Perspective
Marvin P. Hoogland, Th. D.
Chicago Christian Counseling Center

概要:
  A  創造:  関係の定義
  B  堕落:  関係の転倒
  C  贖罪:  関係の復元
        1.  旧約聖書
        2.  新約聖書  キリスト
        3.  使徒たち
        4.  男性指導権の本質

ベタニヤ村雑所感


★  イェスが地上に居られたとき、ユダヤ教には三つの大きな教派がありました。
パリサイ派と、サドカイ派と、エッセネ派でした。

★  エッセネ派は一切の財産を共有し、律法を厳格に遵守する生活を営み、終末待望姿勢を堅持していました。  クムラン文献を生み出した教団と同一視するようです。

★  パリサイ派のことですが、「パリサイ」とは、「分離する者」という意味です。
  モーセの律法を厳格に遵守するグループで、イェスの時代に盛んでした。モーセの律法を守らない者を「汚れた者」として斥けることに熱心でした。
  イェスは、彼らの偽善的傾向を激しく攻撃したのでした。

★  サドカイ派というグループもありました。
  モーセ五書だけを正典だと主張していた律法固守派の頑固なエリートたちです。だいたいは裕福な層の人々でした。  復活を否定し、天使や霊の存在も否定していました。

  自分たちを占領していたローマ軍に対しては、心の中では抵抗していたように思いますが、そのようなことよりも、エルサレム宮殿を守り、宗教儀式を厳守することのほうに関心がありました。

  エルサレム神殿を中心とする極めて裕福な階層の人々です。  現世を享楽していた彼らにとっては、現世が極楽そのものですから、やれ復活だの、やれ天使だの、やれ霊の存在などと、社会的にも経済的にも極貧状態の中で、その日その日を喘ぎながら生きていた、虐げられていた貧乏人が描く空想など、まことに馬鹿らしいことであったのです。

  カラフルないかつい職業的ガウンで身を固め、格好の良い、一般市民が理解できないような大きな宗教用語を流暢に用いて無知な市民を煙に巻くような奇麗ごとを口先だけで得々と語り、宗教儀式をこなしておけば、それで生活が出来たのです。

  今ふうに言えば、住居費や光熱費も通信費も一切不要の、エアコン付きの牧師館に住んで、高額の所得と人々からの高価な贈り物を貰うのが当たりまえで、交際費とか研究費もたくさん受け取り、公金で海外視察という名目で家族一同が旅行を満喫し、何不自由ない物質的生活を享楽していた職業的宗教人たちです。

  外国製や国産最高級自家用車を乗り回し、そのガソリン代や税金は教会名義で支出させるという遣り方でしょう。  子女も特権階級の子として育てられ、私立の名門校に学び、物質的に贅沢三昧な生活をさせているという牧師一家です。

  現世を肯定して、楽しく生活している者に、どうして来世のことや復活後の夢物語のような非現実的なことを信じたり、夢見たりする必要があったのでしょうか?そのような空想の追求は、貧乏人が願うことです。  超裕福な宗教指導者には不必要なものだったのです。  そしてそれは現在の職業的宗教人にも共通しています。

  この種の職業的宗教人たちの在り方を私は国がまだ貧しかった韓国ソウルで目撃していました。  独裁軍事政権の権力中枢と結託していたように記憶しています。日本でも、そのような牧師や、ほかの宗教団体の頂点に立つ人々がいるようです。

★  これらの職業的宗教指導者層、特権階級が生活の根拠としていたエルサレムからわずか3キロ弱の距離にあったベタニヤ村に、その日の生活にも事欠く虐げられていた人々が生活していたのです。  瀕死の病を得ても医者にも薬にも恵まれない人々が生活していたのでした。

  なお、「ベタニヤ」とは、「貧しい家」、「悩む者の家」、「青い未熟果物の家」というような意味だそうです。  イェスがこよなく愛されたマリヤやマルタ、それにラザロがよみがえった村です。  生きるに値しないように思われていた極貧の人たちが、ヨベルの主、解放の主イェスに出会って、それぞれが生かされた村です。

  貪欲な物質的生活を、神の名を利用した宗教的特権をフルに悪用して、贅沢三昧な生活を享楽していた特権階級の住む神殿が、すぐ横の丘の上で多くの貧民を威圧するように建っていたのでした。

  そのエルサレムのすぐ傍にあったこのベタニヤ、虐げられていた多くの人々の友であった主イェスがこよなく愛しておられたベタニヤを、福音書の記者たちは見逃していなかったのです。  エルサレムの意味するものとの対比が絶妙だと思います。

★  当時のエルサレムの特権階級・富裕階級に属していた宗教人たちが、エルサレムの周辺で喘ぎながら日々を送っていた貧しい人たちを忘却して、宗教という酒に酔っていたように、世界中のこん日のほとんどの自称キリスト教会という組織や儀式に、適当に集まる人々も、飢えと寒さと政治・社会的に抑圧された中で生きている何十億もの人々のことをすっかり忘れて、貪欲な生活と適当な宗教生活を満喫しているようです。  エルサレムのすぐ傍のベタニヤ村では、貧しい人々を解放されるイェスが、世界中の貧しい人々と共に、宗教人たちが貧しい人々のことをどのように扱うのかを静かに御覧になっているというのに...です。

★  ベタニヤ村で、極貧状態の中にその日その日を生きていた或る女性が、ナルドの壺を割って、高価なナルドの香油でイェスの足を洗い、自分の髪の毛でイェスの両足を拭いたことを福音書記者たちは記しています。  そして、こん日のキリスト教会の多くは、彼女の美徳を称えています。  しかしそれだけです...  自らも彼女に習って自分の持っている全ての財宝を、主のご用の為に捧げようとは絶対にしないのです。

  ここで私は思うのですが、社会的・経済的に最底辺層の中でかろうじて生きていた極貧生活の中の女性が、どのようにしてそのような高価な香油を所有していたのか?ということに、ほとんどのキリスト教会は、その訳を正そうともしていません。

  貧しい女性が、そのように貴重な香油を購入または入手できた選択肢は、それほど多くなかったはずだと思うのです。  彼女は「随分と辛い思いを重ね」て、少しずつ蓄えを増やし、入手したのではないかと、そのように推測するのです。  極貧底辺層の女性にできたことは、そんなに多くはなかったはずです。

  ヨベルの解放の主イェスは、その辺りのことを充分にご存知であったはずです。マタイ傳26章6節~13節とマルコ傳14章3節~9節はすべてのことを承知なさっていたイェスの彼女へのお心くばりをよく表現しているように思います。(ヨベルの年=イザヤ書61章1~2節、ルカ傳4章14節~30節、讚美歌 169番参照)

  そして、私たちのイェスへの態度が、どれほどまでに口先だけのことであるかを、主イェスは一番よくご存知でもあるかと、そのようにも思うのです。  如何?

★  韓国での奉仕活動の跡始末の結果として、1985年に八幡山の母の土地家屋を売却して現在の地に移住して来ましたが、その時に、貧しい人々がイェスに出会うことでよみがえりを得たことを覚え、「人生になくてならぬもの多からじ...」とのイェスの一言を肝に銘じて、この場をベタニヤ・ホームと名付けたのでした。  私自身の魂のよみがえりを願い、訪れてくださるであろうほかの方々の魂のよみがえりを願って、おこがましいことでしたが、「ベタニヤ・ホーム」と名付けたのです。

箴言31章8節~9節

あなたは黙っている人のために、
すべてのみなしごのために、口を開くがよい。
口を開いて、正しい裁きを行い、
貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。

          箴言31章8節~9節

アム・ハーアーレッツ


★  先の記事で「サドカイ人」のことを紹介しておきました。国がローマ帝国によって占領され、宗教界を牛耳っていた職業的聖職者たちによって多くの民衆が支配され、貧しく、飢え乾き、虐げられ、辱められていたのでした。
  ローマ軍の占領下にあった群衆は、経済的にも社会的にも豊かであったユダヤ教と神殿礼拝儀式固守主義者たちによって虐げられていたのでした。
  イェスはそれらの大衆をこよなく愛され、憐れに思われ、彼らに希望と勇気を与えるために、神の国が近づいたことを告げられたのでした。

  この虐げられていた、解放の希望の無い大衆のことをアム・ハレッツとか、アム・ハーアーレッツ Am-Harrets と呼びました。  「the people of the Land  地の民」という意味です。  サドカイ人のような豊かな貴族支配層に対し底辺層の人々という意味でした。  あるいは都会人・知識人に対して農民という意味であったと説く学説もあります。  いのちのことば社の新改役聖書では「一般の人々」と訳しています。
  使徒行伝4章13節を「無学のただ者」とか「無学の普通の人」と訳していますが、本来は社会的に傷つけられた弱い立場の賤民という意味であったかと思います。

★  こん日の我が国では、物質と快楽で満ち溢れているように見えます。しかし一般大衆は将来に希望を抱くことができないでいます。  農村を見捨てた人々が大都会に集まり、失業者がどんどん増え、生活費や医療費がかさみ、老人が増え、政治は貧しく、オカネが人々を押し潰しています。  富める者はますます富み、貧し
い庶民はその日の生活にも困っています。  決して豊かな国ではありません。

  キリスト教会は結婚式宗教となり、仏教は葬式宗教となり、神道は地鎮祭とお守りとおみくじ販売の専門家と成り下がっています。  迫り来る国の危機を叫んでいません。  むしろ権力者・為政者の都合の良い道具化しています。
  悩める者、虐げられた者、希望を失った者、差別されている者の叫び声を聞くことができなくなっているだけではなく、彼らの声を伝え、人々が解放されることを訴える宗教ではもはや無くなっています。  使命を喪失したままです。

★  呷き悩む大衆の叫び声と、ヨエルの主イェスの怒り悲しみの声を、キリスト教会とその牧師やメンバーはどのように聞き、如何に応えようとしているのでしょうか?


ロマ書5章8節

まだ罪人であった時、
私たちのためにキリストが死んで下さったことによって、
神は私たちに対する愛を示されたのである。

          ロマ書5章8節

復活否定のサドカイ派


★  私自身が私自身のこの地球惑星上で私に託された人生が終焉に向かいつつある事を意識し始めましたので、少しずつ所持品を手放すように努力し始めました。
  昨年秋には、所蔵していました聖書や讚美歌や教会史に関連する英文の資料を全て母校の一つであるペパダイン大学の教会史資料センターに寄贈しました。
  そのようなわけがありまして、「サドカイ人」という宗教グループの詳しい情報を提出することができません。  手持ちの日本語資料でご紹介いたします。

★  サドカイ人というのは、古代ユダヤ教内の一派のことです。  エルサレム神殿を中心とする、神殿での宗教行事を厳格に守る、いわば職業的宗教人のことだと理解してよいかと思います。  エルサレムの貴族祭司層とユダヤの地方貴族や地主によって構成されていた、極めて裕福な貴族階級、特権階級の人たちでありました。

  西暦70年にローマ軍によってエルサレムが破壊され陥落するまでは、ユダヤ教最高議会、すなわちサンヘドリンの中心的、多数派を占め、政治的、宗教的、社会的支配権を掌握していました。  ローマ軍の支配には不快感を抱いていましたが、ギリシャ文化、ヘレニズム文化の影響に対しては開放的であったと言われていますが、宗教的には極めて保守的な職業的宗教人層であったと考えられます。

  いずれまた考えなければならないことですが、パリサイ派という、もっと幅の広い層から成り立っている、聖書の口頭伝承の権威を肯定していた宗教層に対して、旧約聖書の最初の5書、すなわち、「モーセ五書」だけを正典としたのがサドカイ人たちでした。  パリサイ人たちは旧約の律法の研究と厳粛な遵守を主張していましたが、サドカイ人たちにとっては神殿と神殿儀式を守ることが最大の関心ごとでした。

  死者の復活も、天使の存在も、霊的な存在も、そのような信仰を、パリサイ人たちとは対照的に全面否定し、歴史や個人の人生に神や天使や霊が介入するということを否定していました。  保守的で富裕層に属する現実主義者であったと言えます。

  ソロモン時代の祭司ザドクからサドカイ人という名が派出したのではないかと考えられています。  列王紀上2章35節です。  使徒行伝23章8節にサドカイ人たちは復活、天使、霊などの存在を否定する人々であると使徒パウロが証言しています。

★  復活信仰も天使の存在も霊の存在をも否定するサドカイ人たちですが、どうしてそうなのだろうか?...という単純な疑問が湧いて来ます。

  サドカイ人たちというのは、強大な宗教権力集団の頂点に立っており、人々の生活のすべての面に到るまでを支配していた裕福な特権階級でした。  物質的に不自由なものはまったく無かった特権階級でした。  貧しい多くの人々を犠牲にして、悠々と生活を満喫していた権力者たちでした。  この世の中で欲しいものは何でも手に入れることができる、何ひとつ不自由のない、現世をとことん満喫している一握りの階級に属していた人々です。

  苦悩に満ちあふれたこの世からできるだけ早く脱出して、理想郷に到ること、復活して待望のメシアと共なる生活を渇望していた民衆とはまったく掛け離れた存在でした。  楽しい現世を満喫している者に、来世待望の願望などまったく不必要なことでした。  日々の生活に苦悩する庶民とはまったく別の次元に生きていたのです。

  高級自動車を運転し、高級腕時計をはめ、光熱費や通信費や税金の支払いから無縁な豪華な牧師館に住み、公費を使って海外視察名目で旅行もできる現在の宗教人たちに似ているところが多いと思います。  イェスが語った貧しい人々とはまったく無縁の存在でした。

  民の悩みの叫び声を聞く耳を持たず、群衆の悲しみと恨みに満ち溢れた絶望の声を代表して語ることなどまったくできない存在の宗教界の指導者と同じです。  社会の不義を問いただすことなどまったくできない自己中心的な職業的宗教人たちでした。

★  マタイ傳10章42節が語る「冷たい水一杯」ですらも飲めないで苦しみ悩んでいる人々を解放し、自由にし、来るべき神の国へと人々の目を向けさせる責務を果たそうとしない、富める職業的宗教人の存在とその悪を強く意識されていたイェスのことを思わずにはいられません。  現在の「教会」の多くはおかしいと思います。

ヨベルの年


★  このあいだから、イェスが生きておられた時代のことを、無責任極まることですが、何となく想像してみています。

  留学中の1950年代には、黙示録に書かれてある千年王国のことで散々にいろいろと教えられ、悩まされて来たことがありました。  紀元前1世紀から1世紀にかけて、確かにこの世の終わりを、千年王国待望信仰という考えで捉えることがユダヤ人社会では強かったようです。  この世の終わり=神の新しい秩序の確立、神の国の到来への期待信仰が強かったようです。  神による新しい秩序の到来を、イェスに重ね合せ、イェスの生涯をヨベルの年の始まり、解放の年の始まり、具現化と捉えていたのではないかと、教会史を学んで来た学徒の一人として、そのようなことをぼんやりと考え始めています。

  出エジプト記20章22節~23章33節や、詩篇68章5節~10節や、アモス書5章11節やヤコブ書5章4節~6節などを、これまた、焦点の定まらない朧な目で読んで見て、何となく理解しようと、無責任なことですが先週もそのように試みてみました。

  神さまのこと、イェスさまのこと、なぜ世に貧しい人、虐げられている人、弱い人たちが絶えないのだろうか?  どうして強い人、富める人、抑圧する人がいつもいるのだろうか?...などを、ぼんやりと考えてみました。

  人が「死ぬこと」は避けることができないが、「殺すこと」は避けられるはずだのに、どうして人も国も教会も、他者を殺すことを平気でやるのだろうか?...などとも考えてみました。  アメリカの保守的で原理主義的キリスト教会をも含んだことです。

  「殺す」ということは、鉄砲で相手の肉体を殺すだけではなく、言葉で、思い遣りの欠如で、相手を思いやる愛の不足が招く心の傷や存在の否定をも含んだことです。

  私も、親も、教会も、宗教人も、この罪からは自由ではあり得ないと思うのです。打ち付けた釘を抜くことができたとしても、釘の跡、古い錆びた傷跡は残るのです。日本のほとんどの人が、お互いに殺しあっているように思える時代に住んでいます。

  今の日本で、溢れ過ぎている物質、モノに取り囲まれているこの国は、実は精神的に極めて貧しい国だと思うのです。  巨大資本が国民を擂り鉢で擂り潰して国民から吸い取れる限りの富みと希望を吸い上げています。  永田町の政治屋も同じです。

  動物的な娯楽番組が多くなり、相撲が代表するようにスポーツ界も同じようです。この国が人類に正しい展望を与えることもできないし、自国の民に明るい希望の将来を与えることも最早できないのです。

  キリスト教も、仏教も、神道も、国民に何ら倫理的、道徳的、精神的な基準も希望も提供できないままで、死んだ儀式宗教に成り下がっていると考えているのです。

  明治維新以降、富国強兵論と脱亜入欧論でアジア諸国の人々と、自国の国民に多くの犠牲を強いてきた日本でしたが、今や追い抜かれる立場に転落しつつあるようで、これが国民に将来への失望感と不安感を与えているようです。  空虚感を満たすものが欠落したままのように思えます。

  このような世界の状態は、イェスが2千年前に御覧になった時と全く同じようだと理解しているのです。  「暗黒と死の陰とに住む者たち」だとルカ傳1章79節が描写している状態だと考えているのです。

  このような状態の私たちに対して、「罪の赦しの救い」が「神の深い憐れみの心によって」「天上からの日の光が私たちに一方的に臨み、希望のない私たちの足を平和の道へと導こう」とされているのだと、そのようにイェスによる解放の、ヨベルの歌をルカ傳1章77節~79節と4章16節~21節を読みながら、何かしら朧気ですが、私は感じ初めているのです。  主イェスが解放を高らかに告げて居られる2千年前の姿を、瞼の中にぼんやりとですが、見ることが出来るような気がしているのです。

  コリント地方の特産物の一つに、雲母、あるいは雲母片岩というのがありました。花崗岩の中に含まれている、はがれ易い、白雲母、黒雲母です。  マイカとも呼ばれていました。  耐火性が強いのでアラジンという石油ストーブの覗窓にも用いられていました。  電気の絶縁にも用いられていました。  2千年前のコリント地方では、雲母を使って、今わたしたちが使っている窓ガラスの代わりに用いていたようです。

  それでコリント前書13章12節では、丸い銅版を用いていた当時の鏡に写る朧気な自分の姿を、雲母の窓を通して外部を見ていた時にぼんやりと見えていた外の様子のように例えて語っているようです。

  先々週と先週、私はイェスさまのことや、2千年も前にローマの占領下にあった、そして神殿宗教を仕切る職業的宗教人たちが牛耳っていた当時の人々、圧倒的多数の奴隷や半奴隷を含む貧しく虐げられていた人々、希望なく何とかその日その日を生きていた人々のことを、ぼんやりと、朧気に考えていました。

  救われなければならなかった人々のことです。そしてそれはまさに現在の私たちの姿でもあるのです。  政治屋と巨大資本家が横行し、国を支配し、私たち国民に希望を与えることができないようにしているのです。
  結婚式専門のキリスト教、葬式専門の仏教、新築工事現場で祝詞を挙げ、お守りを販売するだけの神道寺院...腐り切った精神界です。  宗教にも救いがないのです!

  ヨベルを告げるイェスが今こそ必要とされているのです。聖書を読み、聖書が示す神の国、解放の状態を私たちは洞察すべきでしょう。

アモス書4章12節他

『メメント・モリ memento mori』という表現があります。
すなわち、『汝、死すべき身たるを覚えよ』ということです。
ラテン語で「Remember that you have to die!」という、教会の教えです。
同様に、アモス書4章12節は、『神に出会う備えをなせ』と諭します。


四十雀


土砂降りの夕暮れに発見した四十雀の雛です。

sijyukara2.jpg

親鳥は放棄したようでした。 巣立ちするには、あと3日ほどかかるはずですが、
どういうわけだか巣から落ちたようです。

sijyukara3.jpg
 
暖かくして、明日からミル・ウワームという生餌と、オロナミン・ヴィタミン液を
飲ませます。 野良猫化したペルシャ猫と、狐がうろうろしていますので、
保護できてよかったと考えています。

神さまの創造の業には脱帽あるのみです。

sijyukara1.jpg



★  ヘンデルのメサイアやバッハの受難曲を聴きながらイザヤ書53章12節を読む時、大きな感動に満たされます。  讚美歌聖歌も十字架を讚える曲で満ち溢れています。

  一回りの初めの日に主イェスのお招きを受けて主の食卓に招かれて食卓に侍る時、コリント前書11章26節を読む時にも、同じような大きな感動が沸き上がって来ます。

  十字架に近寄れるのは砕けた心、感謝の心だけです。  いかなる知的理解も十字架に達することはできません。  砕かれた心だけが近寄ることを許されているのです。

  十字架には神御自身が架けられているのです。  独り子イェスが晒されているのです。  御子イェスの手や脇腹に私の罪の手が釘を打ちつけ、槍で穴を開けたのです。
 畏れ慄きつつ、謙った感謝の思いで十字架の主イェスの食卓に与りたいと願います。