★ 今回の全羅道の中心地光州を訪問して、全羅道の人々や光州市民の声だけでなく、ソウル国立大学の名誉教授で光州科学技術院大学教授など全羅道以外の知識人の話をいろいろと聞きながら、慶尚道やソウルを中心とする京畿道キョンギドの、全羅道に対する露骨な差別を具体的な例を、たとえば幾つかの基幹施設を運転中の車窓から示してもらいながら聞くことができました。 特に道路や住宅など、社会基盤整理という点で、確かに露骨に劣悪でした。 もちろん慶尚道の人にとって、そのような話題は避けたいでしょうし、否定したいというのが本音であろうかと思いました。
あとで述べたいと思っていますが、韓国人、朝鮮人の名に関しても、地域意識、部外者排除意識が強いように私には思え、日本人にはなかなか理解し難いものだと教えられました。
全羅道(韓国西南部地域、黄海側)に対するこれまでの為政者たち(半島東南部、日本海側、釜山や慶州を含む地域)の露骨な差別姿勢を今回もいろいろな角度から実際に肌で触れてみることができたかと考えています。
高速道路にせよ、鉄道にせよ、航空便にせよ、全羅道への社会資本投下は、慶尚道に対する投入と比較して、公平に見ても、話にならないほど露骨な差別だと感じます。
韓国人・朝鮮人の民族性やその背後に潜む、日本人には理解しがたい歴史的背景の一端に改めて触れ得たかと、そのように感じました。 憎しみは憎しみしか生み出せません。 冒頭で述べようと試みましたように、こういうことが「恨ハン」という感情を培養するのかな...と感じました。 間違っているのかも知れません。
のどかな山奥にまで、嘗て日本軍の軍靴の音がこだまし、日章旗が翻ったことを思いますと、侵略の愚かさ、そしてそのことが結果的に人々の心の奥底深くにまで与えてしまった、これから幾世紀にもわたって癒すことができないまま語り継がれてゆく傷跡を覚えて、ほんとうにとんでもない愚かで恐ろしいことをしてしまったのだなあ...と、胸の痛みを再び覚えました。 円高ウォン安+韓流ブームに酔う日本人には過去の日本が韓国人の心の中に残した傷跡など想像すらできないだろうとも思いました。 美しいのどかな韓国の田舎の風景を眺めながら、侵略も戦争も、絶対によくないと、改めて教えられました。 償うことはもっと困難なことです...
日本の侵略と植民地支配のあと、解放されたはずの朝鮮半島と、そこに住む、何の罪もない人々が、世界冷戦の渦に巻き込まれ、列強によって国土を南北に分けられてしまい、米露両軍によって占領され、挙句の果てに金日成キム・イルソンが率いる北朝鮮軍が押し寄せ、略奪と殺戮が繰り返されました。
これに対して米軍を中心とする国連軍が参戦し、南北で押し合い戦争となり、中国も義勇軍という名目で介入して来ました。 背後にロシアも触手を伸ばしていたようです。 私たち海で隔てられている日本に住む者には、理解することも想像することもできない悲惨な力の闘争劇が繰り返された地です。 そのような歴史の半島です。
やっと南北で休戦同意が得られたと思ったら、朴正煕大統領の軍事独裁政権が生まれ南半分を武力で支配するという事態が生じました。 そのあとを、全斗煥軍事独裁大統領が南の政権を引き継ぎ、光州で同国人を大量虐殺するという事件が起こりました。 全羅道の多くの市町村にも全斗煥軍が侵入し市民の犠牲者が多く出ました。
全斗煥大統領にしてみれば、騒動を利用して北朝鮮軍が南に侵入するかも知れないという疑念と警戒心が、民主化要求の声を、そのように捉えたのかもしれません。あるいは、そういう名目をつけて、自分が南半分を完全に掌握したかったのかも知れません。 いったん権力を握った軍人であれば、そういう発想をしても不自然なことではないと、そのように私は思います。 軍隊というものが潜在的に保持している危険性だと思います。 大日本帝国陸海軍でそのことを私たちも体験したのです。
★ 倭寇が朝鮮半島各地に侵入し、略奪を繰り返した...と、韓国・朝鮮側は見ているようです。 瀬戸内海西部や北九州近辺を中心とする一種の水軍、海の男たちが朝鮮半島沿岸へ上陸し略奪したとの記録が14世紀ころから記録されています。
もともとは私的な交易を求めていたようですが、相手側はそうは見ていなかったようですし、不当な値段を吹っかけられたので自己防衛のために朝鮮の港町を結果的に襲うようになってしまったのだと、そのように説明し、弁明する説もあります。
日本にとって一番近い隣国といえば朝鮮半島であり、次に中国東海岸やフィリピンであったかと思います。 船舶による交流は有史以前からも、当然ですが、あったものと思われます。
韓国・朝鮮側にしてみれば、倭寇が朝鮮半島各地に侵攻して略奪を繰り返した...と見ているようです。 鎌倉時代に元ゲン(蒙古)のフビライが日本に入貢を要求し、鎌倉幕府がこれを拒否したことで、1274年に元軍が壱岐・対馬に侵入したあと、博多に迫りました。 1281年に元は再び兵10万人を送り込んできましたが、二度とも颱風に遭遇し、元の軍艦の多くが沈没しました。 日本では文永・弘安の役と呼ぶ「神風」の話しで有名です。 小学校でそのように学び、そのように信じていました。
この元寇で、日本が「神風」によって圧倒的な蒙古軍に勝利したというので、小学校の唱歌の時間に、確か元寇のことを謳った唱歌を教えられたような気がします。
あとで述べますが、この時に蒙古軍は長く済州島に駐留し、軍用馬を育成した事実があります。 もともと済州島は一つの独立国であったようです。 蒙古兵は現地の女性と雑婚をしたようです。 サマリア人と同じような問題が生じたようです。 朝鮮半島の人々が、日本式に言えば本土人が、済州島民を卑下する一つの大きな要因が隠されているように私には思えるのです。
元寇の時に、海が苦手な蒙古は、中国人や朝鮮人を兵卒として、あるいは船を漕ぐ漕ぎ手として、あるいは馬の世話をする使役として、また、その他の労務に服する者として使用しています。 これは韓国・朝鮮の歴史書に書かれていないようです。
最近のこととして、ヴェトナム戦争に韓国軍が投入され、ヴェトナムを侵攻したことがありましたが、韓国人の多くはそのことをすっかり忘れています。 軍隊の侵攻ですから、当然そこには大量虐殺や、もしかすると婦女陵辱など不幸なこともあり得たと私は考えています。 何しろ戦時下の軍人ですから... そのことに心を痛め、問題にする良心的な韓国人とソウルで話し合ったことがあります。 ソウル市内でヴェトナム女性に出会うことがあります。 ヴェトナム出兵中に現地女性と結婚し、妻女を韓国に連れて帰って来たのです。 米軍を補佐しにヴェトナムに派遣された韓国軍人ということで、その代償の一部として、アメリカが韓国に対して経済的援助を行っただけでなく、韓国人の大量渡米移住をアメリカ政府は容認したと私は理解しています。 アメリカ国内各地に急速にコリア・タウンが出現した理由だと思っています。 永住権獲得が容易になったからでしょう。
倭寇の朝鮮半島沿岸各地への侵入のほかに、日本側からの纏まった軍事行動として、豊臣秀吉による、1552年から1598年にわたる領土的野心に基づく朝鮮侵入という愚行がありました。 日本では朝鮮征伐だなどと、美辞麗句で侵略を隠そうとしていますが、侵略であったことは事実です。 文禄・慶長の役と呼んでいます。 韓国側では壬辰倭乱と呼んでいます。 豊臣秀吉は15万余名の兵を朝鮮半島に上陸させたのです。
北方民族の朝鮮半島への南下侵略のほかに、以上のような日本からの侵略もあったのです。 そのような地理的位置にあったことのほかに、朝鮮半島内の地方別対立や抗争というものが、纏まって侵入して来た外国侵略軍に対する抵抗力を弱めていたのかもしれません。
=ふたたびおわび=
前頁ですでに説明いたしましたように、初稿の一部をパソコン用原稿に変換中に、操作ミスで紛失してしまいました。 このため、ここまで執筆して来ました文章と、以下で述べる予定の文章との間に、本来存在していた文章が欠落しています。 文脈が途切れていることをお詫びいたします。
=再開=
最初のほうで、日本敗戦直後に東京獣医畜産大学で共に学んだ金五南君が、済州島の大学獣医学部で教鞭を執り、のちに光州の全南国立大学に転職したことを書いておきました。 金五南君がどこの出身者であるのかわかりません。 兄弟が光州に居住していたことを知っています。 そのことから全羅南道、具体的には光州市近辺から東京獣医畜産大学に留学したのではないかと推測しています。
どうして金五南君が帰国後に済州島に赴いて教鞭を執るようになったのか、最初のうちは理解できませんでした。 しかし、最近になって済州島に遊びに行く日本人の多くが乗馬を楽しむということから考え始めました。 馬がいるという事実です。
朝鮮半島から相当な距離があり、海で半島から切り離されている孤島です。 馬が海峡を泳ぎ渡って済州島に到着したとは考えられません。 誰かが馬を持ち込んだのに違いありません。
調べてゆくうちに、朝鮮半島北部から侵入し南進した蒙古軍の機動力が馬であることに気付きました。 遥かスカンディナヴィア半島にまで、すなわち、世の果てまでも侵攻できた蒙古軍の機動力は、その優れた騎馬軍団であったことに気付きました。
その同じ蒙古騎馬軍団の兵士2万人が、数千名の高麗軍兵と数千名の漕ぎ手を率いて壱岐・対馬を経由して博多湾に攻め込んで来たのでした。 元寇です。
日本侵攻のために、蒙古軍は済州等で軍馬の育成をして準備を整えていたのでした。蒙古軍兵士が済州島を去ったあと、馬が残りました。 その馬の子孫を無口な金五南君が獣医として看ていたということを、相当時間が過ぎてから、初めて気付きました。
済州島の男たちは、島に侵入し、島を占領し、長期駐留を続けた蒙古軍に対して勇敢に戦ったそうです。 その遺跡が残っているようです。 それが済州島であったのか、釜山であったのか忘れましたが、蒙古醤油モンゴジャンユという醤油の名を聞いたことがあります。 勇敢に抵抗したものの殲滅状態を招いたようで、占領蒙古軍によって辛い体験を強いられたようです。 長期滞在ということで、島の娘たちとの雑婚も生じたようです。 済州島版サマリア人種の出現ということです。 当然ですが、新たな人種偏見も生まれてきたということになります。 侵略はいけません。
大変に不幸で理不尽なことで、また、悲しく恥ずべき現実ですが、私たちが住んでいるこの日本において、現在でも同じ日本人が同じ日本人の一部の人たちを歴史的に差別し、蔑視して来ました。 特に徳川政権下で、農民を支配する目的で、いくつかの職業に従事していた人々を差別し、それを固定化し、それが現在にまで到っているという厳然とした事実があります。 私ども夫婦が住む八ヶ嶽南麓からそんなに遠くない長野県を舞台にして島崎藤村が1906年に「破戒」という小説を発表しています。いろいろな障碍者に対して、私たち自身が恥ずべき差別意識を抱いています。アジア人やアフリカ系の人に対しても、アパートへの入居を拒否する日本人家主が多く存在しています。 韓国・朝鮮内の同国人同士の差別を非難できないと思います。
日本が戦争に負けてマッカーサーが日本を占領したとき、私たち青少年は、占領軍によって、まあ東西冷戦構造という中に置かれていましたので、アメリカこそが理想的な自由と平等の民主主義国家である...と、そのように洗脳されたと記憶しています。
しかし1954年、留学のためアメリカ本土に向かい、西海岸に到着した瞬間、そこで激しい人種偏見を体験しました。 黒人や私のような「ジャップ」を含めた有色人種に対しての偏見と差別と蔑視という現実に当面し、アメリカ各地で、教会の中においてすら、7年間にわたって、そのような不幸で不当で不愉快な体験をしました。
野毛山教会と金沢教会の設立宣教師、ローズ先生とは縁戚関係にあったマッカーサー占領軍総司令官が、私たち日本人にアメリカを過大宣伝したような感じです...
むかしの済州島は耽羅タンラという独立国であったそうです。 中国皇帝が不老不死の妙薬を求めて部下を派遣したとも言われています。 中国にも距離的に近いので中国人たちも住んでいたといわれています。 歴史の重みに耐えられないと思いますが、一部の日本人によれば、済州島は嘗て日本の領土だったなどと言う説もあるとかです... いずれにしても朝鮮半島からは海峡によって隔離された孤島です。 東北側に牛島ウドという小さな島があり、西独逸教会からの資金援助で未就学児に給食をする目的で訪問したことがあります。
朝鮮半島からたびたび侵略を受け、蒙古の侵略をも受けています。 李氏朝鮮時代に朝鮮に併合されました。 近年では日本支配から解放されたのち、樹立されたばかりの韓国政府軍によって済州島4.3事件という島民3万人虐殺事件がありました。
手書きの地図の1枚に、朝鮮半島各地域の道民性を記しておきましたが...
朝鮮半島北西部と北東部、すなわち現在の中国との国境線沿いの厳しい山岳地方ですが、古くから両班ヤンバンにとって、卑しい民の住む地域として蔑視されて来ました。その地域からの出身者との結婚は禁止され、官僚に進むことは絶対に許されなかったそうです。 重罪人の流刑地とされていた地域でもあります。 現在の北朝鮮では核兵器開発地域でもあり、政治犯収容施設が多く存在する地域とされています。
このように、歴史的にも朝鮮半島北部は差別され、蔑視されていましたが、済州島は、更に朝鮮半島に住む人々によって蔑視され、差別されていた地域です。済州島出身者との結婚を、血が穢れる...と、忌み嫌う傾向が不幸にして現在でも続いているようです。 そのようなことを知らぬ無邪気な日本人旅行者で溢れています。
日本では、すでに述べましたように、徳川幕府政権によって、「士農工商」という厳然たる差別階級が存在していました。 さらにその下に賎民という階級を強制しました。 一方、朝鮮半島では王さま一族があり、その下に貴族一族があり、官僚に相当する両班ヤンバン制度があり、さらにその下に中人と賎民という、厳しい差別制度がありました。 劇「チャングム」を注意して視てみますと、そのような階級に属する人々が配置されているのを垣間見ることができます。
慶尚道人による全羅道人に対する差別はすでに紹介しておきました。
そのような差別制度の最下層の賎民よりも更に低いところに済州島人が置かれていたのです。 徹底した差別社会制度でした。 その余韻は現在でも依然として残っているようです。 済州島脇の小島、牛島ウドなど最低です。 日本軍が潜水艦収納所として海に面した岸壁を繰り抜いた大きな穴が幾つか開いたままでしたが、住民たちは小さな漁船で生計を立てていたと記憶しています。 社会資本投下という意味では、まったく疎遠なままの小島でした。 教会の庭先に集まった20名前後の明るい表情の子供たちを見て、近い内に彼らのために給食が始まると考えると楽しかったのですが、深刻な障碍を抱えた幼児の相談を受けた時には絶句しました。
朝鮮半島を長く占領した蒙古への反発心と共に、済州島に対する激しい差別と蔑視にも、韓国・朝鮮人なりの、歴史的経過から来る理由が潜んでいるように思います。
すでに幾度も述べて来ましたが、朝鮮半島内で、久しく続いていた力の抗争による不幸なできごとを通して、地域差はますます増大し、地域対立が拡大し、地域抗争が定着してしまったと私は感じています。
北側と南側(これは、現在の南北軍事対立ということではなく、古くからの伝統的な対立という意味)の対立、東側と西側との対立...何百年にもわたる、むごたらしい抗争が続き、相互蔑視、相互不信の感情はますます増長して来たものと思います。それらに加えて、今度は日本の植民地時代から解放されたあとに起こった、現在の南北間の軍事対立という新しい分断と対立という深刻な現実があります。
韓国各地に住む人々が異口同音に済州島の人のことを、その人の教養や社会的地位にもよりますが、差別するような発言をするのは、外国人としての私には衝撃です。『やつらの血には蒙古の血が流れている』と呟いたことを覚えています。
日本の植民地政策が、日本の官憲が、済州島の人々を迫害し、日本に連行した...などと思われがちですが、必ずしもそのようなステレオ・タイプの理由説明ではなくて、むしろ朝鮮半島人(日本式に言えば本土人)による済州島民への歴史的な激しい差別と蔑視の事実の積み重ねが、済州島民の自主的な日本への避難・逃亡を促したものではないかと、そのように私は考えています。 4・3事件の時にもそうでした。在日韓国人朝鮮人の多くが済州島出身者です。 2世の中には有名な芸術家、作家、学者、歌手、スポーツ界人、芸能界人などが多く活躍しています。
朝鮮半島に住む人々から迫害され、差別され、蔑視されていた済州島民の多くが、日本(特に大阪近辺)に逃れてきたものの、そこでまた日本人による差別と蔑視に耐えながら何とか生活基盤を築こうと、生活の根拠を見出そうと努力を重ねて来たのです。 私たち日本人の心の奥底にも、差別意識というものが眠っているのです。
日本の敗戦によって解放されたのが在日韓国人・朝鮮人でした。 しかし、日本を占領したアメリカ占領軍によって、「第三国人」という不安定な立場に留まることを強要されました。 その頃、北朝鮮への帰国事業というものが始まりました。北朝鮮当局による派手な宣伝効果もあり、日本政府のあと押しもあり、「差別も蔑視もない、理想国家建設のため」という夢を見て、連絡船で北に渡った済州島出身者が多かったようです。 しかし、実際に北朝鮮に渡った朝鮮人の多くは、理想郷であったはずの北朝鮮で激しい差別と迫害を受ける結果となってしまったようです。
韓国人・朝鮮人がいう、「恨ハン」多き人生なのでしょうか...
これもまた、人間が共通して抱いている「罪」の問題であろうかと、私は寂しく思います。 イェスの福音の意味と内容を改めて考えます。
すでに述べましたが、日本で有名になった韓国劇、「チャングム」で、チャングムは罪人として済州島に送られます。 済州島を朝鮮半島に住む人々が流刑地に選んでいたからです。 その裏には済州島と済州島民に対する長い差別の歴史があります。「穢れた血が混じっている」済州島民と韓国人・朝鮮人が結婚する...など、とうてい考えられなかったのです。 賎民以下の女と考えられていたからです。 下働きでもできれば御の字だったようです。 普通そのような仕事をする女性のことを、現在の日本では家政婦とかお手伝いと呼びますが、韓国では「食母シンモ」と呼ぶように記憶しています。 しかし済州島出身の女性は、それより遥かに下級層の女として扱っていたようです。 1970年代初期にそのような婦人たちに清渓川スラムで親しく接することができました。 信仰の豊かな女性たち、実践神学のすれた模範生たちでした。
★ エルサレムと、そこに鎮座まします高級エリートであった職業的宗教指導者層の祭司長や律法学者、モーセの律法を厳格に遵守するパリサイ人、すなわち、デスク・ワーカーたちが、追剥にやられて道端に倒れていた被害者の「ある人」を眺めながら、助けようとはせず、道の反対側を、見て見ぬ振りをして、さりげなく避けて通り抜けた...と、ルカ傳10章が語っています。
そこへ今度はサマリアからやって来た無名の旅行者か行商人が通りかかり、傷ついた被害者を目撃して憐れに思い助け上げ、自分の驢馬に乗せ、自らは歩いて宿屋まで連れて行き、宿泊費と治療費を支払って立ち去った...と、淡々と描写しています。
語っている主人公はイェスです。 イェスが語っている相手は、聖書を学び、聖書を説く若い神学者です。 イェスはガリラヤ人です。 エルサレムの人々からは蔑視と差別を受けている人種の一人です。
サマリアとは、その両者から蔑視と差別を受けていた人種です。 エルサレムに住む人々からは、本来は同国人でありながら、「半分異邦人」扱いを受けて蔑まされていた人種です。 占領軍の血を引く人種だから...と、差別されていたのです。エルサレムからも、ガリラヤからも蔑視され、差別されていた人種です。
三種のいがみ合う人種と、二つの宗教が絡み合っている複雑な課題に対する、人種と宗教の関わりに対するイェスの姿勢を繙く鍵が隠されているように思える聖書箇所です。 日曜学校・教会学校で、「善きサマリア人の譬」が抱いている福音の社会的面のメッセージを、洞察することなく、行為義認的な発想で、子供たちに語り継がれているように私には思えます。 イェスが意図なさったものからかけ離れすぎているように思えます。 教会に毎日曜日ごとに通う善男善女が口先だけで説く宗教に対して、あるいは人間が本質的に抱えている人種偏見・差別・蔑視に対して、福音の源でいらっしゃる主イェスの基本的な姿勢を学ぶことができる、具体的な聖書箇所であると私は理解しています。