2010年1月アーカイブ


★  すでに幾度か述べましたように、クリスチャンと自称する人々にとttれも、そう
でない人にとっても、神の国とか天国とか言う言葉を聞くと、それを「死後に行く世界
のことだ」と捉えることが多いようです。

  そういう考えは聖書の中にもあちこちに出て来ますし、黙示録にも表れています。
たとえば黙示録20章や21章には、具体的に「新しい天と地」とか、「聖なる都」とか
「新しいエルサレム」などとして紹介されていますし、それはそれでよいと思います。

  しかし、そういう可視的な、この世的な発想、すなわち、私たち人間が考えがちな
未来の場所や時間の範囲の中に神の国とその到来を限定するのは正しくない・・・と
考えています。  留学中に叩き込まれた「千年王国」をはるかに超えた発想です。

  また人間は、人間の能力をはるかに超えた自然が織りなす山河自然を眺めるとき、
神を思い、その創造の業を誉め讃える傾向があります。  これも自然なことです。
  しかしそれでは可愛い嬰児の顔を眺めれば神を思う・・・というのと同じこととなり、
顔をしかめたくなる光景を目にすれば神はいない・・・ということになりかねません。

  そういう視点で物事を見ますと、ハイチの地震を見れば、神や神の国がないこと
になります。 スラムには神がいない・・・という危険な誘惑と誤解が生まれて来ます。

  しかし現在では、神はどこにでもいらっしゃる・・・と確信しています。
神の国は、人間が考え得る場所や時代を超えたものだと確信しているからです。

★  イェスの名によって、いと小さき者に対してコップ一杯の飲み水を提供する時、
そこにイェスが居られ、イェスの微笑みと頷きがあるとマタイ傳10章42節や25章40節
が証言しています。  イェスが居られる「所と時」は、人間の感情や人間が置かれ
ている環境や状態で決まる、決められる・・・というようなことではありません。

  マタイ傳5章3節~10節の、いわゆる「山上の垂訓」でイェスは、そこに描写され
ている人々のあいだに神の国がすでに存在していることを語っておられます。
  マタイ傳12章28節にも『神の国はすでにあなたがたのところに来た』とイェス
自身が語っておられます。
  またさらに、イェスの名によって二、三の者が集まる「所と時」には、主イェスも
そこに共にいらっしゃると、イェスは同じマタイ傳18章20節で語っておられます。

★  そうかと思うと、いわゆる有名な「主の祈り」の原形のマタイ傳6章9節~
13節とルカ傳11章2節~4節でイェスは、『御国が来るように』祈ることを教えて
おられます。  明らかにその時点では未来形です。

  同じように、主の食卓に主イェスご自身が私たちを招いてくださり、それに応え
て私たちが与るたびごとに、主の十字架の死と、主の再臨を私たちが覚えるよう
にと、コリント前書11章26節は教えています。  明らかに再臨と神の国の到来は
未来のこととなっています。  そのことをテトス書3章12節は、イェス・キリストの
再臨の約束が私たちにとって祝福に満ち溢れた希望、待望すべき大いなる希望
であると、堂々と告げています。

★  このように、「神の国」とは神にのみ属するものであって、人が理解する、
理解できる「時と所」をはるかに超えたものであると、私は確信しています。
それは、神ご自身と、神の偉大さを人が理解できないことと同じでしょう。

  イェスはヨハネ傳12章35節で、イェスと一緒に居た者たちに、「光があるあいだ
に光の中を歩むように」・・・と教えておられます。  この場合の「光」とはイェスご
自身であり、イェスが居られることは神の国の一部です。

  今週、主イェスが共にいてくださっていることを確かに覚えて、神の一方的な
恩寵の内に感謝して再臨を待望しつつ光の中を歩む者でありたいと心から願い
ます。

 

ルカ傳4章18節~19節

主の御霊が私に宿っている。
貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、
私を聖別して下さったからである。
主は私を遣わして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを
告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
主の恵みを告げ知らせるのである。

            ルカ傳4章18節~19節

 

あなた方の中にある神の国


★  創世記1章を貫く思想、いや、創世記1章1節から黙示録の最後までを一貫して
流れる主題は、歴史を導かれる創造主が人をどのように救い給うか...ということだと
思います。  むつかしい神学の言葉でこれを救済史などと呼んでいます。

  そしてそのことは、神の国の到来といいますか、神の国の達成ということと、深く
関係していると思います。  人間的な見方では、究極のユートピアということです。
  すでに創世記3章15節には、歴史をみちびかれる創造主なる神が、そのような終末
の到来を暗示されていると解釈する学者や宗教人がたくさんいます。
ユートピアの完成を豫言していると言えます。  救済史の完成の説明です。

★  人間は、その長い歴史の中で、神の国の究極的な完成を夢見て来ました。
いろいろな形でユートピアを描き、夢みて、それに応じて、いろいろな解釈や物語を
作って来ました    特に聖書が開かれた書であるために、終末に関する多くの豫言や
解釈が語られ、信じられて来ました。  ほかの言葉で言いますと「千年王国」という
言葉に要約されるかも知れません。

  そしてまた、千年王国という発想も、その時と場所によって、人や時代に従って、
いろいろな解釈が生まれ、自分の解釈を絶対化して、他者を大量殺戮するというよう
な事態まで招いています。

  肉体的虐殺事件でなくても、自分と意見の合わない人を、魔女狩という手段で教会
の中から追放し、精神的に抹殺するという非人間的なことも平気でやって来ました。
私も留学中にそのような魔女狩に巻き込まれ、非人間的な扱いを多く受けました。

★  しかしイェスは、ルカ傳17章21節で、『神の国は、実にあなたがたのド真ん中に
ある...』とおっしゃって、宗教心に極めて強いパリサイ人たちに答えておられます。
  また同じイェスは、マタイ傳12章28節で、『神の国は、すでにあなたがたのところ
に来たのである!』とおっしゃっています。
  そしてさらにイェスは、マタイ傳18節20節で、『二人または三人の者たちが、私の
名によって集まっている所には、私もその中にいる!』と宣言されています。

★  神の国が「今ここに在る」という事実を、畏れつつ信じ受け入れたいものです。


 

表彰された貧しい老婆に思う

                                                                                    -マタイ傳25章21節-

★  1800年代から1900年代前半ころまでの欧米キリスト教界ではキリストの再臨と
いう題目が大きな重みを占めていたように思います。  千年王国論争が盛んでした。

  私がアメリカに留学したときには、そのことに関する意見の違いで、教会が割れて
大論争が起こっていました。  否でも応でも、好むと好まざるとに関らず、私も論争
に巻き込まれてしまい、不愉快な留学体験を強いられたものでした。

  今でも一部の教会では、イェスが文字通りエルサレムに再臨され、そこにダビデの
王座を築き、世界を支配される...と説いています。  聖書が開かれた書である限り、
いろいろな聖書解釈が成り立ちます。  みんな人間の解釈なのですが、あたかも自分
の解釈だけが唯一正しいと主張するので混乱は絶えません。  困ったことです。

★  留学を終えて帰国してすでに半世紀以上が過ぎました。  私も巻き込まれた論争
が余りにも悲劇的であったので、私は、帰国後ほとんど終末のことを敢えて語らない
で来ました。

  しかし自分自身の終焉が近づいて来ている最近では、「神の国」のこと、「再臨」
のことを、自分なりに独りで静かに考えるようになりました。  楽しい特権です。

★    『宜ヨ いかな、善かつ忠なる僕シモベ 、汝は僅ワズカ なる物に忠なりき。
      我、汝に多くの物を掌ツカサ どらせん。  汝の主人の歓喜ヨロコビに入れ』
                              マタイ傳25章21節

  口語訳では、『あなたは僅かなものに忠実であったから』と訳してあります。
神さまは、小さな物事、僅かな物事をも誠実に行うこと、渇いたいと小さき者の一人
のためにコップ一杯の冷たい水をあたえる者に対して、そのことが、神さまに対して
行われたことと同じであると御覧になっていることを学びます。

★  聞いた話ですが、田舎で教会堂を建設することがありました。
牧師は教会員に、『いちばん良く働いた人を表彰します...』と発表しました。

  このことを聞いた関係者たちは、設計士も、大工も、石工も、水回り職人も、井戸
掘り屋も、屋根葺き工も、塗装工もみんな一生懸命に働きました。重たい土台石や木
材など、建築材料を搬入するために使われた馬でさえもよく働いたのです。
こうして表彰されたいと願う全員の努力で立派な教会堂ができ上がりました。

  表彰式の日が来ました。  自分こそ表彰されるかも知れないと期待していた全員は
緊張した表情で発表を待ちました。

  しかし牧師は、全員が想像もしなかった、名もない、近所に住む貧しい老婆の名を
挙げたのです。  それは、表彰式などということにいっさい関心を示さず、いろいろ
な重い建築材料を現場に運び込んでいた使役馬の世話をし、飼葉を与え、水を与え、
毛を梳き、脚の世話を黙々としていた、現場の傍に住んでいた貧乏な老婆の姿を牧師
は見落としていなかったのです。  マタイ傳25章21節の、「忠なる僕」の姿を牧師は
老婆に見出していたのですが、老婆はそんな牧師のことも意識していませんでした。

★  いと小さき者が乾いていたとき、その者に冷たい水コップ1杯をあたえることの
大きな意味をイェスはマタイ傳10章42節や25章40節で淡々と語っておられます。
  もちろん上述の25章21節も同じです。  小さなことにも誠実に接することの重要さ
をイェスは語っておられます。  目立つことなら多くの者がやりたがりましょう。
  しかし、隠された、目立たない、小さなことに対して忠実に仕えることが大切だと
言うことを、イェスはマタイ傳6章1節~18節で説いておられます。
大きな都会の大きな教会堂に集まる礼拝だけを主が喜ばれているのではありません。

★  『エホヴァは全世界をあまねく見そなはし己に向かひて心を全する者のために力
を顕したまふ』と文語訳歴代志略下16章9節は述べています。

  それは、まるで地上のあらゆる物体を監視しているスパイ衛星のように、神さまの
目が全世界をなめ回すように行き巡って、神さまに対して「全き心」を持つ者を捜し
求めておられるという意味です。  「全き心」とは、上述のように、小さなことに対
しても誠実に接するという意味でしょう。

★  このこととの関係で歴代志略上28章に大切なことが記されています。
9節は、「全き心」を持つ者は、喜び勇んで神さまに仕える...と記されています。
  続いて21節では、神殿を建てることに従事した者たち、「諸々モロモロの役事をなす」
働き人たちが、「悦ヨロこびて為ナス」...と記されています。

  神さまのために各自に割り当てられた仕事を喜んですることが大切だという意味で
す。  そうでなければ神殿建設作業は進みません。  各自に与えられた責務が小さく
見えても、自分一人くらい手抜きをしてもバレないだろうと思えるような些細な勤め
でも、誠実に喜んですることが重要なのです。  そのことが「全き心」なのです。

★  神殿建設に喜んで参加した...という上記の記述との関係で、列王紀略上6章7節
でも大切なことが書かれています。

  神の「家を建タツる時に...鑿石所イシキリドコロ にて鑿キリ預備トトノヘたる石にて造れる間アヒダ
に家の中ウチに鎚ツチも鑿ノミも其外ソノホカの鐡器テッキ も聞キコえざりき」とあります。

  すなわち神殿建設の中心的な役割を担った石工たちが、自分たちの素材を建築現場
に持ち込んで、そこで作業をするというのではなく、あらかじめ別の場所で切り整え
ておいた完成部品を持ち込んだということです。  いわゆるプレハブ工程です。
それで建設現場では、叩いたり、切り刻んだりする金属音がしなかったのです。

★  いつでも神さまの御用に役立てるように備えをしておくということは、託された
作業を、たとえそれがどんなに小さなことのように思えても、無意味なように見えて
も、誠実にこなして行くということが大切なのです。  「全き心」ということです。

  最初に紹介しておきました教会堂建築の話の中に登場した、表彰を意識しないで、
目立たない仕事を、目立たない場所で、手抜きしないで、他人の目を意識しないで、
人が嫌がるような仕事、すなわち使役馬に餌を与え、世話をしていた老婆のように、
私たちも、教会堂でかっこいいことを言ったり行ったりすることではなくて、日々の
生活の場で、与えられたことを喜んで行うことに忠実でありたいと願うのです。

  『また為す所の凡ての事コトあるひは言コトバ あるひは行為オコナヒみな主イェスの名に
頼ヨ りて為し、イェスによりて父なる神に感謝せよ』とコロサイ書3章17節は諭して
います。  如何でしょうか?  (今回は文語体聖書から引用しました。)


 

自由の鐘

★  今朝も朝鮮半島上空に寒波が来襲中と KBSニュースが報じていました。
軍事独裁体制下にあって苦悩する北朝鮮住民を想い、彼らの解放を願いました。

  解放といえば、フィラデルフィアにある「自由の鐘  Liberty Bell」を思います。
米国の自由と独立の象徴の鐘は、1776年7月8日独立宣言布告時に鳴らされました。
何と1752年に抑圧支配者側の英国で鋳造された鐘です。  現在は展示館にあります。
鐘の名が、レヴィ記25章10節からそのように銘じられたと知る人は少ないようです。

★  しかし、本当の「自由の鐘」は、ルカ傳4章18節に記されているように、罪と死
から解放されたことを告げるイェスによって鳴らされたと捉えるのが妥当でしょう。


 

まず神の国と神の義を求めよ


★  マタイ傳6章33節は、『まず神の国と神の義とを追い求めよ』と勧めています。
出エジプト記23章19節には、『あなたの土地の初穂のなかで最も良い物を捧げよ』と
命じています。  読むだけなら誰でも賛成するでしょうが、実行するのは困難です。

  使徒パウロがローマの獄舎に捕らわれていた時、ピリピのクリスチャンたちは使徒
パウロを良く支えていたようです。  ピリピ書4章10節~19節がそのことを証言して
います。  それは、ピリピに住む聖徒たちが決して経済的に豊かな人々であったとい
う意味ではありません。  信仰が豊かなクリスチャンたちであったということです。

  ピリピのクリスチャンたちは、彼ら自身の物質的、経済的な必要よりも、何よりも
まず神の国と神の義とを最重要課題と考えていたのです。

  彼らが主の御業を支えたということは、そのような行為をすることによって救いを
得ようとか、善い業に励むことで天国の一等席に坐ってやろうというような動機では
なく、与えられている恩寵に応えようとしてのことであったと理解します。

  『主の目はあまねく全地を行き巡り、自分に向かって心を全うする者のために力を
顕される』...と歴代志略下16章9節は言います。  全き心=捧げる心のことです。



 

ヨシュア記22章から

私は年も進んで老人となった
あなたがたは堅く立って
モーセの律法の書にしるされていることを
ことごとく守って行わなければならない

            ヨシュア記22章から

 


★  廃校となり校舎のすべてが取り壊され、ウインチェスター町の公園になっている
ケンタッキーの母校校庭跡地には、現在でも「カーネギー図書館」という頑丈な建物
だけが残っています。  同名図書館は全米各地に数多くあります。

  ニューヨークにはカーネギー・ホールというコンサート・ホールがあります。
また、アメリカとカナダには「カーネギー英雄基金」という組織があり、人命救助の
ために負傷した人や、その行為によって命を落とした人の家族を援助する基金があり
ます。  カーネギーが設立したのです。  のちには英国、佛蘭西、北欧にも設立され
ています。  英国にカーネギーが設けたものに、毎年英国図書館協会が児童文学作品
に与える賞があります。  カーネギー生誕百年を記念して創設されたものです。

★  アンドリュー・カーネギー (Andrew Carnegie, 1835-1919)という鉄鋼王が米国
にいました。  平凡社の百科事典から引用したものを下記に紹介しておきます。

  『アメリカの鉄鋼王。  貧しい田舎の少年から努力して大企業家となり、一躍億万
長者になるという、アメリカにおける立身出世物語の典型的なヒーロー。  父親は
スコットランドの織物工で、1848年一家をつれてアメリカに移住するが事業に失敗、
家族は辛苦をなめる。  そこで13歳からボイラー焚きとして働きはじめ、電信会社の
メッセンジャー・ボーイなどを働く。  ついでペンシルベニア鉄道で働くが、ここで
上司に認められ、59年ピッツバーグ地域の監督に抜擢された。  向上心に燃えるカー
ネギーはこれで満足せず、種々の事業に関係しながら資金をため、南北戦争のブーム
期にその蓄積を製鋼業に投資してその事業の基礎を築いた。  いち早くイギリスから
ベッセマー製鋼法を導入して、75年ピッツバーグに最新式の製鉄工場エドガー・トム
ソン工場を完成させたのは有名。  以降カーネギーは他の製鉄会社を買収して鉄鋼王
としての道を歩み、1910年鉄鋼大合同によって資本金10億ドルのUSスティール会社が
成立すると、カーネギー製鋼会社を売却して引退した。  晩年は慈善王として知ら
れ、カーネギー工科大学、カーネギー財団などを設立して社会に貢献する一方、その
莫大な資産を教育研究機関・平和機関に投じるなど、慈善事業家として有名となった。
  貧しい少年たちを鼓舞したという意味で、アメリカ的ヒーローといって良い。

  『国際平和カーネギー基金 Carnegie Endowment for International Peace
国際相互理解と世界平和の推進を目的に、1910年 A. カーネギーによって設立された
アメリカの事業財団。  おもな事業としては、国際関係、国際機関、国際法の分野に
おける研究、出版、コミュニケーション、研修プログラム等の実施がある。  近年に
おいては、
 1.バングラデッシュやアフリカ等における飢餓、ローデシアの制裁問題をめぐるアメ
   リカ政府の人道的外交政策の研究プログラム
 2.国際情報センターの設立、国際連合研究会の開催等の国際機関プログラム
 3.アメリカ政府の開講政策担当者と民間人のコミュニケーションの改善を図る外交
   問題懇話会
 4.外交政策における人種問題の理解を深めるための黒人学生、アフリカ人留学生等と
   の<プロジェクト・ダイアローグ(対話)>等
  
   を行っている。 
 なお同基金はアメリカ外交政策研究季刊誌<フォーリン・ポリシー>を刊行している。
  1976年度の事業規模は約 330万ドル...』とあります。

★  次に、聖書から読んでみます。
『この世で富んでいる者たちに、命じなさい。  高慢にならず、頼りにならない物に
富みに望みを置かず、むしろ、私たちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる
神に望みを置くように。  また、良い行いをして、良い業に富み、惜しみなく施し、
人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい
土台を自分のために築き上げるように、命じなさい』  テモテ前書6章17節~19節

★  平凡社百科事典から引用しました上記のように、1848年、カーネギー少年が13歳の
時に最初に得た職は綿紡績工場で糸巻きボーイの仕事でした。  1日12時間労働、
1週間6日勤務というきついものでした。  1週間の給料は$1.25 だったそうです。

  1919年、カーネギー死亡時までにカーネギーが寄付した額は$3億5千1万ドルに
達していたそうです。  この額は2005年に修正され43億万ドルになりました。
そしてさらに、遺贈額が3千億万ドルであったとのことです。  あまりの巨額さに、
私などは計算することもできません。

  その他にも、一番最初に書いておきましたように、母校の旧校庭に今も残っている
カーネギー図書館と同じ名を持つ図書館が、米国各地に3千もあるそうです。

★  カーネギーが33歳の時、『カネを拝むことほど人の品性を落とすものはない!』
と語ったそうです。  巨万の富みを得た青年カーネギーは、「金の亡者」では決して
なかったのです。  これは驚くべきことです。  また、カーネギーが語った言葉に、
『金持ちで死ぬ者は、不名誉で恥辱者だ!』というのがあります。

★  このようなカーネギーですが、本人は、自分は宗教人(クリスチャン)ではない
と言っていました。

  しかし彼がキリスト教の社会・文化圏に生まれ育ったことと、その精神的、倫理
的・文化的・社会的影響を受けていなかったということではないと私は思います。
カーネギーの心の奥底深くには、聖書の影響が宿っていたものと推測しています。
  そうでなければ彼ほどの巨万な富みを抱えていた者が、多くの慈善行為に対し莫大
な寄付をするはずがないと、私は考えています。
  世界のトップに立つ日本の大企業や財閥の創始者やその家族が、カーネギーのよう
な慈善行為をしたということを私は耳にしたことがないのです。  情けない話です。

★  上記テモテ前書6章の言葉、あるいは自分は無宗教家だと唱えていたカーネギー
の言葉ですが、オカネとは使う道具なはずです。  カネ儲けそのものが目的ではない
はずです。

  カネを蓄財するという目的のカネの蓄財は、私がオカネに縁がないので悔しいので
そのように言うのではありませんが、それは聖書的な発想ではありません。
そのような発想は神の国とはまったく無関係な話です。

  コリントにあったクリスチャンや、マケドニアのクリスチャンたちが、貧困に喘い
でいたエルサレムの仲間を助けるためにカネを送ったと聖書から学びます。
  パウロが監獄にいた時、ピリピのクリスチャンたちが金銭をパウロに送って激励し
たことも聖書は語ります。

  私たちも私たちに託された金銭を、ほかの人々を祝福するために、喜んで、惜しみ
なく捧げるべきだと私は考えます。  そしてそのことが、マタイ傳7章19節~24節が
言う「天に宝を積む」ということだと理解しているのです。  如何でしょう?



 

                                    出エジプト記23章19節

★  聖歌338 番に、『いとも善き物を君に捧げよ』という曲があります。
シカゴ生まれで、主として東海岸のバプテスト教会に仕えた牧師ハワード・グルーズ
が作詞した讚美詩です。

  讚美歌 536番に、『報いを望まで人に与えよ』という美しい曲があります。
マサチューッセツの船の持ち主でクエーカー教徒を父親に持つフェベ・ハナフォード
が作詞した讚美詩です。  日本語讚美歌の作者は不明ですが、本来の曲はトーマス・
フイットモアーが作曲しています。  日本語の曲とは全く異なり明るい曲です。

★  半世紀以上前、ケンタッキーで聖書を学んでいた時、獨逸生まれで英国の説教者
で、孤児院を設立したジョージ・ミラー George Muller (1805~1898) の話を、度々
聞きかされました。  非国教会信仰に堅く立脚し、彼自身は常に無一文でいながら、
何千人もの孤児を養ったことで知られていたそうです。  無一文でありながら、膨大
なカネが彼の事務所を通過して、多くの不幸な人々の必要を満たしたそうです。

  私を3年間に亙り祈りの内に忍耐強く導いてくださった無名の聖書教師、マレンズ
教授からもミラー(ほんとうはウムラウトがつくのでミュラーでしょうか?)の信仰
をしばしば聞かされました。

  マレン教授に強い影響を与えたリプスコム(1831~1917)やハーディング(1848~
1922)という二人の説教者・教師からもミラーのことを教えられていたそうです。

★  マレン教授の優れた霊的指導の下で、『キリスト教教育の目的は、如何に他者に
仕えることで神に仕え得るのか‥ということを、死ぬ瞬間に到るまで求道し続けて
行くことだ...』と、そのように示されたように思っています。

  別な言い方で言えば、『キリストが十字架の上で示されたように、痛くなるまで
与え捧げ続けよ...』ということだったと理解しています。  偉大な先生でした。

★  出エジプト記23章のヨシュアの勧めに、恩寵の内に、私もできるかぎり応えられ
るように努めています。  なかなかアルタバンさんの最後のように成ることは困難で
すが、捧げ切って、感謝の一言を唇に残して、御召しに応えたいと願っています。

  ご一緒に最後まで求道巡礼者の道を歩いて頂ければ幸いです。

 

我は年すすみて老ゆ...


★  ヨシュアが年を重ねたときに語った奨めの言葉がヨシュア記23章~24章にかけて
したためられています。  ゆっくりと熟読する価値があります。

  ここでヨシュアが言う「我は年すすみて老ゆ」ということは、私たちの信仰生活の
年と重ねて考えることができますし、また、そう読むべきなのだと思います。

  私たちは、ただいたずらに年を重ねて来たわけではありません。
私たちが最初にイェスの福音に触れ、心の内にイェスを受け入れてから随分と年月が
流れ去りました。  その間に多くのできごとに遭遇し、その度に恩寵が増し加わって
いたことを振り返って見ることができます。  感謝の念も増し加わっています。

  そのヨシュアは6節以下で、あるいは24章14節~15節で私たちに対して、私たちの
生温い信仰姿勢に対して、この世を去り行く信仰の先輩として、私たちの曖昧模糊と
した、決断力のない、この世と妥協を続けている姿勢を厳しく指摘し、心を新たに
して、主にのみ仕えることを勧めています。

★  マタイ傳が記す、いわゆる山上の垂訓の中でも、主イェスは『だれも二人の主人
に兼ね仕えることはできない‥、神とオカネと同時に仕えることはできない‥と警告
されています。  私たちがこの世に住む限り、確かにこの世の雑事や誘惑が多過ぎま
す。 しかし、それを言い訳にすることは許されないことなのです。

  ロマ書12章1節~2節で使徒パウロも単純明解な、率直な、しかも根本的な進言を
しています。  それでもクリスチャンと自称する多くの人は耳を傾けないようです。

  黙示録3章15節~16節では、「冷たくもなく、熱くもない信仰」を鋭く問いかけて
います。  これらの問いかけ対して皆さんはどのように応答なさいますか?
 

エゼキエルの乾骨 Dry Bones


★  すでにお知らせしましたように、1970年代、八幡山時代に購入しました屋内私設
電話交換機も、末期高齢者となった使用者と同様に、劣化が始まったようです。
  当地に移住して来たときに持参した交換機を設置してくださった業者に修理を依頼
しましたが、どうも上手に修理ができず、年末以降不自由になった電話機を使用して
います。  新しく電話交換機を購入すれば済むことかも知れませんが余裕皆無です。

★  いっぽう、99歳だか百歳になった母カツさんの老衰化が進行中であり、緊急時を
控え、母を看取る妹との確実な連絡手段を確保する必要が生じてきました。

  長男と同じ携帯電話会社であれば通話料金が無料であると聞き、一番簡単な機種は
無料で入手できるとの説明を聞きましたので、恐る恐る加入しました。
  操作するのに困惑している初心者に対して、メール・アドレスとかを決めてくれ‥
と言われ困り果てました。  結局、それを選択しませんでしたが、エゼキエル書から
「ドライ・ボーンズ Dry Bones」というのを、もうすこしで選ぶところでした。

★  それは、私がケンタッキーに留学した1950年代に流行した黒人による四重奏で、
エゼキエル書37章1節以下に登場する「枯れ切った骨 Dry Bones  ドライ・ボーン」
を主題にしたおもしろい歌を思い出したからです。

  谷間で、おびただしい数のばらばらに散らばっていた乾き切った人骨が、神の霊の
命令に従って、12の骨が一つずつ結び合ったり、またお互いから離れたりするという
姿を半音階ごとに描いていたと記憶しています。  ウインチェスターの神学校在学中
に、全校生徒わずか20名前後で構成されたコーラスで楽しく歌った記憶があります。

★  黒人四重奏霊歌そのものはユーモラスに歌われていましたので、当時大流行歌に
なったと記憶しています。  しかし、36章25節~28節などと結びつけて読んでみます
と、死せる者(物)ですら、神の霊によって再び生かされて、神の御用に当たる
ことができると読めます。

  私も自由党政権下で天下公認の後期高齢者、すなわち、末期高齢者となりました。
70才代後半部になって、今まで体験したことのない、いわゆる老人男性が体験する、
新しい体験を心身ともに体験しつつあります。

  希望をほとんど抱けないこの国にあって、加齢者となるということは、希望を抱け
ない年齢に到着したかと、そのように思わざるを得ないときが多々あります。

  しかしエゼキエル書37章が語るように、乾いた骨が、神の霊によって再び結合し、
生きた人間に戻り、神の御用に当たった‥と、11節以下は淡々と語っています。
  年老いて去り行くことを考える老人であっても、神はその御旨に従って用い給うと
いうことを知るのは、大いなる感謝であると、私はそのように思うのです。
神に用いられるのであれば、乾骨・老骨であっても、まんざらではないと思います。

  ヨエル書2章28節の中で、『老人たちは夢を見る』としるし、『神は神の霊を僕や
端女に注ぐ』と約束されています。  そして、同じことを語る使徒行伝2章18節は、
『神の霊を注がれた者たちは預言する』と説明しています。

  この2章18節が語る「夢を夢見る」という表現ですが、「睡眠中に超自然的な暗示
や示唆によって受ける夢、a sleep vision」という意味です。

  すなわち、神さまは、年齢に関係なく神さまのご用のために仕える人間をお用いに
なるのです。  老若男女は関係なく、神さまは私たちが神さまのために仕えることを
求めておられるのです。  仕える人を求めておられるのです。

  『主の目はあまねく全地を行き巡り、自分に向かって心を全うする者のために力を
顕される‥』と歴代志下16章9節は語っています。  主の御用に用いられることを、
主に仕えることを、本年は誠実に願い求めたいと考えるのですが...  如何でしょう?


 


★  正月最初の日曜日、主イェスのお招きで主の聖餐に与る日ですが、生憎と曇天で
す。  普段なら東に奥秩父連山方面が見え、南に富士山が見え、西に南アルプス国立
公園をなす赤石山脈が見え、すぐ北に八ヶ嶽を望むことができます。

  東に向かって原生林の中から日の出を眺めることができますが、何といっても西方
の赤石山脈の巨峰の彼方に沈み行く、さまざまな色彩と焼け行く大空、真っ赤な雲が
織りなす、表現不可能な大空を仰ぐときの美しさは、創造主の偉大なる業を思わせ、
感動的です。  しばしば聖歌 622、『夕べ雲焼くる空を見れば』を口ずさみます。

★  私たち夫婦は世界各地を観光旅行する折に恵まれておりませんので、創造主の手
の業による、自然が織りなす、ありのままの偉大な光景をほとんど知りません。

  しかし、ふと思うことがあります。  北欧スカンディナヴィアのフィヨルドも、
エヴェレストも、ヨセミテも、南米アマゾンも、アフリカ南部のヴィクトリア大瀑布も、
もしも私ひとりしかこの世界に存在していないと仮定しても、それらは存在している
のだろうか?...  ということです。  私ひとりだけがこの世にいると想像しても、
いつもと同じように、太陽も月も、そして無数の星も存在しているのだろうか? です。
 皆さんは、このような空想に耽ったことがおありでしょうか?

★  聖書は開かれた書物です。  開かれている書物である限り、いろいろな読み方を
することは、許されている‥  と私は考えるのです。  それですから、以上のような
空想も許されるものと思うのです。  そのような発想をする私は奇人でしょうか?

  『たとえ私ひとりのためにでも、神は天地宇宙を創造なさったのであろうか?』
そして、私の答は、『Yes!  ハイ!』です。それは今朝みなさんと拝読しました聖句
から、私は確信していることなのです。  神に対する私の信仰告白なのです。

★  詩篇19篇1節、27篇1節~14節、33篇13節~14節、39篇4節~7節、46篇10節、
エレミヤ書29章10節~14節、同33章3節、そしてヨハネ傳3章16節などを静かに熟読
してみるだけで、「唯一なる神が、唯一である私を愛してくださっていらっしゃる」
ということを確信できるからです。

  この世の中で一番たいせつな自分を、神さまがこよなく愛してくださっている...と
いうことを、聖書はその初めから終わりに到るまで、教えているのです。
  その偉大な真理を、私たちにわかりやすいように、十字架のイェスによって私たち
に示してくださっているのです。

  この新年、このことをしっかりと覚えて、感謝して、希望を抱いて、人々に仕える
ことで神さまに仕えてゆきたいと願うのです。
  讚美歌 461番、『主われを愛す Jesus Loves Me!』を、ひとつの具体的な信仰告白
として讚美致しましょう。