2009年12月アーカイブ

ベツレヘムの星 その2


★  先週27日号「ベタニヤつうしん」最終頁で「ベツレヘムの星」に就いて基本的な
要旨をすでに紹介しておきましたが...

  私どもが住む同じ小荒間部落で、小海線線路の下側に「星の里」という勝碍者用の
施設があります。  どのような理由で「星」という名が付けられたのか不明ですが、
洋の東西を問わず、不思議なことに、何千年も前から、星が希望を意味したり、人間
の運命や運勢を表したりするときに用いられていることは広く知られていることです。

  私はフルート練習曲として紹介された、いずみたく作曲で故坂本九さんが歌った、
「見上げてごらん夜の星を」という曲を時々吹いてみることがあります。
  次に機会があれば、旧日本官憲が築き上げた、朝鮮独立運動烈士たちを捕らえては
尋問し、拷問を加え、挙げ句の果てに密かに処刑した、ソウルの西大門刑務所跡地に
今も密かに保存されている処刑場の前で、許可を得て、鎮魂歌として吹奏したいと、
願っています。  星という名詞が鎮魂歌にはふさわしいように思えるからです。

★  さて不思議な星、移動し続けた星、仮に「ベツレヘムの星」と呼んでみますが、
マタイ傳2章1節~2節と、同13節~14節をゆっくりと読んでみますと、日曜学校の
聖劇で軽々しく扱うような金紙や銀紙で作った安っぽい星ではなく、考えさせられ、
唸らされるような不思議な星であることを教えられるのです。

  「東方の博士たち」と訳されている言葉のことですが、まず東方とは、おそらくは
ペルシャ、現在のイランのあたりを指すのだと思います。  エルサレムまでの距離を
徒歩やラクダで考えてみますと、両者の間には相当に長い距離があったものと、その
ように推測します。  地図の上で両者を一直線で結んでみますと、そこには恐ろしい
死の砂漠だけが横たわっていますので、横断は絶対に不可能であったと思われます。

  ユウフラテス川に添って北西方向、すなわち現在のトルコ半島の付け根に向かって
まず進み、そこから地中海沿岸に添って南下してエルサレムに向かいます。
  このルートを、荷物を載せたラクダや徒歩で歩きますと、相当な日数を要したもの
と思います。  数ヶ月とか、あるいは2、3年の年月を要したのでしょうか...
  伝説上のもう一人の博士、アルタバンの旅ですと、更に時間を要していました。

  次に「博士」のことです。  マタイ傳2章1節の原語は「マガス magus」と書いて
います。  「Magiマギ」ということです。  古代メディアおよびペルシャの世襲的な
ゾロアスター教(=拝火教)の司祭、あるいは古代の占星術師、魔術師などを意味
する名詞です。

  余談ですが、不思議なことを料理中にするということから、黄色と赤色の包み紙で
1センチ四角のマギ・ブイヨンというものがあります。  「マギ」=不思議な隠し味
の元という意味なのでしょう。

  少なくとも3千年も前のペルシャ北西部の山岳地帯メディアや、ペルシャ王国内に
住む人々のあいだでは、星が人間ひとりひとりの運命や運勢に深く関係していると、
人々はそのように理解し、信じ、星に対して深い関心を寄せていたようです。

  そのため、地理的にも大空が澄みわたるペルシャの大空を注意深く観察することを
専門にする人々が存在していたようです。  それらの人々の多くは、星と個々の人間
の運命や運勢を結びつけて占いをもしていたようです。  そういう意味で星占いの人
は学者として貴ばれていたようです。  一般的に社会的にも経済的にも裕福な家柄の
人士を中心に、天文学を続ける余裕があったようです。

★  ある日、天体観察をしていたペルシャのマギたちは、北西西方向に不思議に光る
大きな星が輝き始めたことに気づき始めたのです。  星と人の運勢を結びつけて世の
中の動きを判断する能力に長けていた天文学者たちは、それがただならぬ星であると
次第に確信を抱くようになったのです。  新しい治世者の誕生を察知したのです。

  マタイ傳2章1節は、ペルシャからトルコ半島の付け根を経由して、天文学者たち
(=天文学者、賢者、魔術師)たちが、導く不思議な星に従ってようやくエルサレム
まで到着したことを語っています。  ここで注意したいことは、その星はじっと西方
の空の一点に留っていたのではないということです。  そのようにしか読めません。

  不思議な星は、博士たちを導くために、ペルシャからトルコ経由でベツレヘムまで
移動したに違いないということです。  天体の秩序に従わない星ということになりま
す。  つまりその星を見た人々をエルサレムまで導いたということです。
  そしてその星は、博士たちがヘロデ王に新生児がどこで生まれたのかを尋ねている
あいだ、エルサレムの大空に留っていたということです。  神が備えられた星です。

  ヘロデ王に新しい治世者がどこに生まれたのかを尋ねるあいだ、エルサレム上空に
留っていた星は、再び移動を始め、ベツレヘムの上空でピタリと停止したのです。
このことで、博士たちはベツレヘムに眠る「幼児イェス」を発見したのです。

  星が博士たちをペルシャから導いた新しい王とは、飼葉桶に眠る「新生児イェス」
ではなく、羊飼いたちが礼拝した「新生児イェス」ではなく、ある程度成長していた
「幼児イェス」であったのです。  このことから推測できることは、博士たちが特別
な星をペルシャで見てから、ベツレヘムに到着するまでには2、3年はかかったはず
と考えることができるのです。

  それは、13節以下で、主の使いが夢でヨセフに、「立って、幼子とその母を連れて
エジプトに逃れよ」と勧めたことでもわかります。  「幼児」で「新生児」ではない
のです。  星は、忍耐強く、長いあいだ、博士たちをペルシャからベツレヘムまでの
遠路を導いて来たのでした。  そして、その後、この星は忽然と記録から消え去って
います。  神ご自身がお創りになった天体宇宙の自然法則を、神ご自身で超越なさっ
て、この星を用意され、博士たちを新しい救世主の下へと導かれたのでしょう。

★  「ベツレヘムの星」は、そのような重要な使命を帯びた、神によって特別に備え
られた、不思議な星であったと、私個人はマタイ傳2章を読んで理解しています。

  私たちもこの不思議な「ベツレヘムの星」のように、人々を救世主イェスの御許へ
と導く小さな星、暗い闇夜を照らす福音の星としての仕事を忠実に果たしたいものだ
と願うのです。

  日曜学校の讚美歌に『私は小さい火、光りましょう This little light of mine」
というかわいい歌がありあります。  人々をイェスに導く火、星なのです。  如何?
章3節    (a happy new year!)



ベツレヘムの星のこと


★  私どもが住む同じ小荒間部落に「星の里」という施設があります。
いろいろな種類の障害を持った「勝碍者」たちが一緒に暮らしています。
「星」という名にどのような意味があるのかわかりません。  希望という意味なのか
次の世では良い運命の下で生まれたい...という意味なのか、私にはわかりません。

★  星と人間一人一人の運命を結びつけて考える傾向は、遥か何千年も前からあった
ようです。  ユダヤ人も、中近東の人々も、ローマ帝国内に住む人々にも、ペルシャ
人のあいだにも、星と人間の運命を結びつけて考えることは共通していたようです。

★  マタイ傳2章2節には、ユダヤ人の王として生まれることを示すある特定の星を
ペルシャ人の星の研究家、そして星を観察して占いをする専門家が居たことと、その
星を追いかけてエルサレム迄やって来たことを語っています。

★  9節を見ますと、「彼らが東方で見た星」が、東方から来た星占いの賢者たちを
更に導き、「幼子の居る所まで導いて行き、その上に留った」と書いてあります。

  いわゆるクリスマスに付き物の星のことですが、2節で賢者たちがペルシャで見た
星と、9節が語る「移動する星」が同じ星であるとすれば、この星は「移動する星」
であり、「ユダヤ人の王として生まれた方」の生誕を告げるための、他の無数の星と
はまったく異なる特別な星、自然界の秩序に従わない星、神の特別な目的のための星
ということになります。  イェスの誕生だけを示す星であったものと推測できます。

  それは、この特定の星が賢者たち(星を占う専門家)をベツレヘムまで導いたのち
に、姿を消してしまっているということです。  聖書はそのあとのことを一切語って
いないのです。

  神が特別に創られた星、用意された星、賢者たちを正確にペルシャからエルサレム
経由でベツレヘムまで導いた星だということになります。  賢者たちを幼児イェスに
導いたのち、忽然と姿を消した星ということになります。  神の恩寵と摂理を示す、
驚くべき星であったということです。  救世主イェスのもとに賢者を導いた星です。

★  私たちは、商業主義に徹底的に毒された、けばけばしい、いわゆるクリスマスの
季節になって、クリスマス・ツリーという、聖書に関係のない飾り物のてっぺんに星
を飾るなどということを、この際やめて、賢者をイェスに導いた星の役割を考えるべ
きだと思うのです。  星は賢者をイェスに導いたのです。  私たちも導き星ですか?


三つの言葉と二つの道


★  欧米では降誕節です。  吾が国では歳末歳暮の季節です。
物品が飛び交う忙しい季節に突入しています。  商店街は賑っています。
  幼かった頃の私の記憶では、或は半世紀以上前の留学時代の記憶では、両方とも、
こん日のようなけばけばしい商業主義や、損得の利害関係に基づく義理勘定に毒され
ていなかったと思いますし、もっと静かで質素であったと記憶しています。

★  このような、避けられなくなってしまった物流の季節に思うことがあります。
それを英語で言いますと、『I am sorry!, Thank you!, What can I do for you? 』
の三つの言葉です。  三番目のは、『May I help you ?』でも同じ意味です。

  世界中にはいろいろな言葉があります。  しかしこれら三つの言葉は、世界の何処
に行っても致命的に重要な役割を果たすものだと考えています。

  これらを自然に言える人と、そうでない人とでは、世界が二つに大きく分かれてし
まいます。  どんなにそれぞれの国や地方の言葉が違っていても、『ご免なさい』、
『ありがとう』、『私に何かお役に立つことがありますか?』という三つです。

★  相手を見た瞬間に、『こいつを利用すれば、どれほど自分が得をするのか?』と
直感的に考える人と、『このお方とどのように楽しく人生を共に生きることができる
か?』と考える人とでは、その瞬間から世界は大きく二つの異なった方角に分かれて
行ってしまうのです。  三つの言葉が二つの世界に私たちを導き入れるのです。

  相手を一人の人格とは見ないで、自分の損得勘定のために、自分の利益のために、
自分の欲求を満たすために道具や手段として他者を用いる‥そのように他者を見る人
がたくさんいます。  利用価値がなくなれば、いつでも相手をポイ捨てができる人の
ことです。  宗教界にもそういう人がたくさん居ると観察しています。

  その反対に、相手と主義主張や人生観や宗教・信仰が違っていても、相手を一人の
人格、一人の存在として認め、尊敬し、受け容れて、人生という求道街道を共に歩む
ことを大切にする人もいます。  三つの言葉が人生の二つの別れ路の入口でしょう。

★  いわゆるクリスマスの季節です。  お歳暮の季節でもあります。
神が一方的に私たちを無条件で愛してくださったように、私たちは感謝して、とくに
私たちのような者すらを必要としている弱い立場に居ることを強いられている方々と
共に生きること、喜怒哀楽を分かち合うことができるようにと祈り、心がけたいもの
です。

  『あなたがたに賜った極めて豊かな神の恵みのゆえに、あなたがたを慕い、あなた
がたのために祈るのである。  言い尽くせない(ほどの神からのいろいろな)賜物の
ゆえに、神に感謝する。』  コリント後書9章14節~15節


師走とお歳暮


★  投げ売りセールを告げる得体の知れぬ電子メールが届き年末を感じます。
黒猫さんも郵便局の赤い車も忙しそうに走り回っています。  インタネットで注文し
た商品が翌日には届く時代です。  「早く早く」のせわしい時代です。  待つことが
できない時代の到来です。  恐ろしい速度で人類総破滅へと突進中のようです。

★  創世記3章15節には十字架の救い主の到来を暗示する約束があります。
しかしイスラエルは神の約束を待ち切れなくなり、やがて忘れ、諦めてしまったころ
に、イェスが初臨して来たのです。  ミカ書5章2節の約束の成就でした。

★  着実に迫り来つつあるイェス・キリストの再臨とこの世の終末も、聖書は同様に
豫言しています。  だが私たちは待てないのです。  待ってても来ないじゃない!‥
ということになり、そんなことが起こるわけがない!‥となって、結局は忘れ去って
しまうようです。  神の石臼は廻るのが遅く見えますが、確かに廻っているのです。

  コペンハーゲンで開催中であったコップ15会議も各国の思惑が働き、地球を護ると
いう大義名分を纒めることすらもできないまま閉幕となりそうです。
  会議に出席した代表団の人々は、この世がその終焉に向かって着実に動いていると
いう理解も怖れも、結局は持っていないし、わかってもいないようです。

  私たちは、創世記の初めに約束された救い主の来臨が、人々の記憶から失われつつ
あったときに、羊飼いに突然現れた天使の宣言で知ったように、人々がこの世の終末
を忘れたころに、「神の時」が来たときに、この世の終わりがやって来るということ
を忘れないように覚え、そのときを待ち望む姿勢を失わないようにしたいものです。



仕えるための天使たち


★  ほとんどの神学校で苦労する問題は天使・悪魔のことと、その扱いかたです。
これらを主題にした授業はほとんど無いようですし、良い著書も少ないようです。

  イェス誕生の際に天使が登場して来ます。  イェスが公生涯に入られる直前に荒野
で悪魔の誘惑に曝された時に天使が現れて誘惑に打ち勝ったイェスに仕えています。
そして、イェスが十字架で処刑され、埋葬された時、婦人たちにイェスの復活を告げ
たのは天使でした。  ヘブル書1章終わりに、この世を離れて御国に今まさに移ろう
としている魂に仕えるようにと天使が遣わされると記されています。

  いずれの場合にも、「仕えるため」に天使が送られて来るように読めます。
そしてその典型的な例として民数記22章31節以下に興味ある天使の働きぶりが紹介
されています。  登場人物の名がややこしいとか思いますが、ぜひお読みください。

★  詩篇8篇4節と、同じく19篇1節を読んでみますと、いにしえの先達が天地宇宙
を見上げ、人間の言葉ではとうてい言い表すことができない神の不思議な創造の御業
を誉め讚えていますし、ハイドンは天地創造を讚美する詩を讚美歌74番に残します。

★  その神が、私たちのことをよくご存知であるというのです。
クリスマスの夜に、荒野で寒さに耐えながら羊を護っていた名も地位もない農民たち
に天使が現れ、希望の光りを与えたと聖書は語ります。  天使らは喜びと希望の光を
伝えるために神から覇権されたのです。  インマヌエル=神が共に居たまうのです。

磁石について


★  このあいだホッチキスの小さな針を床上に落としました。  磁石=マグネットで
捜しましたら難なく吸いつけてくれました。  針で足を刺さなくて済みました。

  そこでマグネットmagnetのことです。  ラテン語からギリシャ語を経由して英語に
もなっています。  磁石という意味もありますが、「人を魅了する人」という意味も
あります。  磁石は不思議な物ですが、先日のこと以外に特に関心はありません。

  よく似た単語にマジック magicという言葉があります。 魔法とか魔術とか手品と
いう意味ですが、これはとても面白いです。  皆さんも私と同じだろうと思います。

  さて、同じマグネットを「別嬪」というようにも訳せます。  この言葉は現在では
あまり使われていないようですが、「さん」をつけて使う場合が多いのです。
そしてこの私は、実はこの「別嬪さん」にとても弱いのです。  皆さんはどうです?

★  私が別嬪さんに弱いように、磁石は鉄に弱いです。  鉄にすぐにくっつきます。
一度くっついてしまうと仲々に離すことができません。  私たちの目には見えません
が、磁石の力はほんとうに不思議な力、魔法の力です。  腕時計を狂わせますし、
フロッピー・ディスクやメモリー・カードやスティックを破壊してしまいます。
  えっ?  別嬪さんってなんだですって?  女性の美称、美人、美女のことです!

★  別嬪さん以外にも、オカネや財宝に魅力を感じている人もたくさんいます。
宝籖に弱い人も多くいます。  名誉や地位にしがみついている人々も永田町や大学に
は結構たくさんいるようです。  屑鉄にぴったりとくっついてしまう磁石のように、
あるいはスッポンのように、一度手にしたものにくっつくと絶対に離れないのです。
  そうかと思うと、宗教に弱い人、宗教という酒に酔っ払っている人も多くいます。

  しかし私たちは、イェスさまだけにしがみつき、御国に行くことに熱心でなければ
ならない筈です。  しがみつく対象を間違えてしまいますと、磁石が腕時計を狂わせ
るように、人生を狂わせ、家庭を破壊し、己の魂を滅びに到らせることもあります。
  よくよく注意したいものですね。  皆さんは如何ですか?  大丈夫ですか?


ダニエル書3章18節

...たといそうでなくても、主よ、私は偶像の神々に仕えず、
金の像を拝みません。

            ダニエル書3章18節

満月に想うこと


★  先週も雨降りの日がたくさんありました。  そのせいなのか暖冬でした。
この八ヶ嶽南麓の原生林の中で、雨降りの暗黒の夜は不気味なほどでした。
しかし晴天の夜もありました。  夕方から夜明けまで満月が美しかったです。

  都会と違って人工的な照明がまったくない原生林の暗黒の夜空に、みごとな満月が
白く光っていました。  紐で吊してあるわけでもないのに空中に浮かんでいました。

  そのような想像力を働かせて満月をしばらく仰ぎ見ているあいだに、そういえば、
人工衛星に乗って初めて月面上に降り立ったアメリカ人宇宙士たちが、宇宙に浮かぶ
青い地球を撮影した劇的な写真があったことを思い出しました。

  ソヴィエット人宇宙飛行士ガガーリンも、確か1961年に人工衛星ヴォストーク号で
地球を一周したとき、宇宙に神はいなかったが、地球は青かった‥とか語ったことが
あったかと、そのことも思い出しました。  月面に兎がいるとも言いませんでした。

  暗黒の大空に、青い地球が浮かんでいるということを、この地球衛星に住んでいる
私たちが実感として捉えることは困難なのですが、どうやらそれは本当であるようで
す。  青い地球が、天井から紐でぶら下がっているということではないようです。

  この拙文を書いている今宵も、東の空に欠け始めた月が暗黒の空に輝いています。
今朝、月曜日朝8時半には、西の紺碧の空に、少し欠けた月が浮かんでいます。
  引力の法則だと説明されても、それでも私には、あんなに大きく重たい物が中空に
浮かんでいるのか不思議でたまりません。

★  このように、あたかもまるで小学校低学年のように、空想とも現実とも見分けが
つかないようなことをぼんやりと考えながら、先週の夜の二晩を暗黒の天空を仰いで
しばらく過ごしました。  そして、天国ってどこにあるのかなぁ‥などと、ぼんやり
考えていました。  まぁそのような時間があっても許されるのかも知れません。

  しばらくのあいだ寒い冬の夜空を眺めていましたので首筋が痛くなり、書斎に戻り
聖書の中から大空に関する聖句を捜し出してみました。  新約聖書と比較してみます
と、旧約聖書には大空に関する言及がたくさんありました。

  創世記初めの天地創造物語から始まって、ヨブ記22章14節と37章14節~18節、
詩篇8篇4節~9節、19篇1節、78篇22節以降、85篇9節~13節、89篇6節、
150篇1節、箴言8章27節、エゼキエル書1章22節以下と10章1節、ダニエル書
12章3節、それにアモス書9章6節など、いろいろと選びだすことができます。

  とりわけ上記詩篇19篇1節が、『もろもろの天は神の栄光を顕し、大空は御手の業
を示す』と、天地宇宙の創造主を何とかして賞賛しようと作詞者は試みています。
  その同じ偉大な天地宇宙の創造主が、どのような理由で、虫けらにも等しい私たち
をどうして御心に留めて下さるのか、なぜ顧みて下さるのか‥と、同じ詩篇8篇4節
では創造主の絶大な恩寵を、感動し、戸惑いながら、作詞者の足りないことばで誉め
称えています。

★  このことを新約聖書では、たとえばヨハネ傳3章16節で、『天地宇宙を創造され
た神が、この世をそんなにも愛して下さったので、御子イェスを信じる者たちが一人
たりとも滅びないで、永遠の命を得るために、その独り子を賜ったのだ‥』と説明し
ています。

  私たちはこの地上で生活をしています。  この地上で溜め息と涙と共に生老病死を
繰り返しています。  年末になれば支払いや物質のことで追い回されています。
  天文学者でもない限り、私たちがめったに天空を見上げて生活をするということは
ないのです。  まして、天空にぶら下がっている太陽や月や無数の星の方から地球を
見てみるという発想も経験もできないのです。  そういうことはないのです。

  しかし、天地宇宙を創造された神は、よりによって、この地球惑星を選び、そこに
住む私たちのことを顧み、御子イェスを送って、私たちを罪の支配から解放し、神の
子としたいとお考えになったのです。  天から救いの手が一方的にさしのべられたの
です。  有限の世界に無限の神が介入されたのです。

★  そのことをルカ傳1章77節~79節と2章14節が誇らしげに告げているのです。

  『神の一方的な、憐れみ深い御心によって、天からの日の光りが、天からこの地上
に住む私たちに臨み、生きたままで文字通り暗黒と死の陰とに住む私たちを照らし、
私たちの足を平和の道へと導いて下さる‥』と告げています。

  おおかたの人々が眠っているあいだにも、暗黒と寒さと孤独が支配している荒野で
黙々と働かなければならなかった、最底辺層に属する羊飼いたちに生きる勇気と希望
を与えるために、ある夜、天からあまたの軍勢が突然に現れ、歌い出したのです。

          『神が居ます、いと高きところでは、神に栄光があるように‥
            地の上では、御心に叶う人々の中に平和があるように‥』

★  これがイェスの降誕の目的と意味だと私は捉え、心から静かに感謝するのです。
  寒いかも知れませんが、たまには天空を見上げて、私たち各自の歴史を導きたまう
創造主がなさる奇しき御業を静かに黙想してみては如何でしょうか?

  騒々しく、けばけばしい、物質主義・商業主義に汚染された、表面上の、いわゆる
「クリスマス」を拒否するのがよいと私は今年も考えているのですが‥  如何です?


『ミシシッピ鰐』


★  ルイジアナの友人に問い合わせ中ですが、ニューオーリンズ近郊の人口 500人の
ビュッテで、両肩に長さ90cmほどの鰐を乗せて自転車を漕いでいる人を警察官が追跡
したそうです。  男は自転車と鰐を放り投げて逃走しました。  鰐は傍の湿原に戻し
たそうです。  ルイジアナ南部で鰐を身近に見かけることはしばしばあります。

★  私たちクリスチャンと自称する者も、注意しないと、人が嫌がり怖れる「鰐」を
両肩に乗せたまま教会にやって来ることがあります。  自分では気づいていなかった
り、他人が嫌がるとは思っていないのかも知れません。  お互いに信仰の徳を高める
ように、愛を深めるように、希望を育てるように注意したいものです。

『こどもとおとなと成長』


★  そんなに読まれている聖書箇所ではないだろうと思う箇所があります‥
それは、コリント前書14章20節です。  誰にもわかるような、身近で具体的な表現を
使って、使徒パウロが勧めをしている箇所です。

  『みなさん、考え方=識=知性においては子供=未熟であってはなりません。
いたずら=悪=悪い事柄という点では嬰児のようでいつもありなさい。
考え方=識=知性においては弁別のある=成熟した=大人 = maturedでありなさい』
...と勧めています。

★  matured マチュアードという単語には、円熟した、熟慮した、完全に発達した、
酒や乳製品が熟成した、金融界や商取引では満期...などを意味します。
使徒パウロはこの単語を使って私たちに私たちの霊的成長を促しているのです。

  どの親であってもわが子の成長・成熟を願います。投資家は投資資金の増加と満期
を望みます。  農家は作物や家畜の成長・成熟を願います。  八ヶ嶽南麓の花の業者
はクリスマスを当て込んでシクラメンやエリカなどの成長の時期調整に多忙です。
パンダや鸛コウノトリ を育てる人も同じように幼いパンダや雛の成長を願います。

  特に私がおもしろいと思い、かつまた、わからないことの一つに、為替市場という
ものがあります。  それは、お金をお金で売り買いするということです。  為替相場
が変動するたびに、世界中が右往左往するということです。
  私の想像や理解を遥かに越えた世界に住む人々は、所有しているお金の増減だけを
考えて生きています。  お金が「成熟」することだけを考えて懸命に生きています。

★  それとは全く別の世界ですが、信仰の世界でも、同じように「成熟」するという
こと、成長するということは、大きな問題点となっています。

  一方的な恩寵によって神の子とされた私たちに対して、使徒たちは次のように熱心
な勧めをしています。  信仰の成熟を求めています。

  『私たちはもはや幼児ではないので、騙し惑わす策略によって、人々の狡猾な策略
によって起こるいろいろな空しい教えの風に吹き廻されたりせず、悪い奸智に対して
賢明であり、愛に在って真理を語り、すべての点において成長し、頭であるキリスト
に達するのです。

  またそのお方、すなわちキリストによって(エクレシアという)全身は、すべての
節々(エクレシアを構成するメンバー)の助けを得ながら、しっかり組み合わされ、
結び合わされ、それぞれの部分に応じて働き、からだ(エクレシア)を成長させ、
愛の内に共に育てられて行くのです』と、エペソ書4章14節~16節は勧めています。

  『あなたがたは、新生児のように純粋な霊的な母乳を強く求め続けなさい‥』と、
ペテロ前書2章2節は促しています。

  『私たちの救い主イェス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになり
なさい』と、ペテロ後書3章18節は励ましています。

  『あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがた一人びとりの愛が、お互いの間に
増し加わっている‥』と、テサロニケ教会に宛てた第2番目の手紙の1章3節で使徒
パウロとテモテは語っています。

★  末期加齢者となった私も、ほかの人々と同様に、何種類かの薬を服用するように
なりました。  順子さんはテレビの体操を見ながら簡単な体操を時々しています。
食物にも注意をしています。  神さまから託された、聖霊の宿る肉体です。  お召し
の日が来るまでは大切に扱わなければなりません。

  忙しということで、主としてまともな食事を採らない独身者を目標に、いろいろな
代用食品が販売されているようです。

★  身体的な成長や健康維持が大切な話題であるように、私たちは自分自身の信仰の
健全な成長と健全な霊性の維持に、そしてエクレシア全体の健全な成長と健全な信仰
の維持に対して、お互いに心を配る必要があるのです。  如何でしょうか?

『草庵を謳った道元禅師』


★  京都の人で、鎌倉初期の禅僧に道元という方がおられました。  内大臣久我通親
の子です。  比叡山に学び、のちに栄西の法嗣に私事した、日本曹洞宗の開祖です。
  1223年に宗に渡り如浄より法を受け、1227年帰国、京都深草に興聖寺を開き仏法を
弘めた。  1244年、越前に曹洞禅の専修道場永平寺を開いた‥と辞書は紹介していま
す。  1200年~1253年を生きた仏僧です。

★  この道元が次のようなひとことを遺しています。
『草庵に起きても寝ても祈ること  吾より先に人を渡さん』です。
万民祭司の福音の伝道者として、クリスチャンとして、深く教えられる言葉です。

★  使徒パウロも、多くの迫害に遭遇しながら、ピリピのクリスチャンたちに対して
勇者らしい言葉を遺しています。  ピリピ書4章11節~13節です。

  『私は、どんな境遇に在っても、足ることを学んだ。  私は貧に処する道を知って
おり、富みにおる道も知っている。  私は、飽くことにも飢えることにも、富むこと
にも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。  私を強くし
て下さる方によって、何事でもすることができる‥』というのです。

★  寄りすがるべき家族もなく、財宝はなく、不動産も所持せず、とことん徹底的に
貧乏人であり、今ふうに言うホームレスであり、たびたび牢獄に投げ入れられ、外国
人や同国人からも迫害を受け、ローマ官憲からもユダヤ人からもお尋ね者として追わ
れ、極度の近視に悩み、いつも疲れ果てていたのが使徒パウロだったのです。
誰がどこから彼を見ても、英雄などでは決してありませんでした。

★  そればかりではなく、自分自身を罪人の頭であると告白しています。
ダマスコに到る道でイェスに出会うまでは、クリスチャンたちを迫害することを使命
として活躍していたので、多くのクリスチャンたちから怖れられていた恐ろしい人物
でありました。

  キリストと劇的に出会い、それ以降はキリストに仕える者となった使徒パウロでし
たが、ロマ書7章24節で告白しているように、自分自身の内に潜んでいる罪の重さに
とことん苦しんだ人物でもありました。

  そのような罪人の頭の使徒パウロが、25節で、『神の一方的な賜物は、主イェス・
キリストにおける永遠の命である‥』と告白しているのです。
  そしてパウロは、一方的な恩寵を受けた者として、自分は世界中のすべての人々に
対して福音を述べ伝えなければならないという負い目がある、果たすべき責任がると
語っているのです。  そのためには、どのような責めも恥も忍ぶと決意しているので
す。

★  道元禅師の願いは、たとえ自分自身はお粗末な草庵に住もうとも、自分の地位や
名誉や物質的な幸せを求めるのではなく、どんなことをしてでも、ほかの人々を何と
かして仏のほうに先に送りたい‥ということでした。  このように一筋な滅私奉公の
姿勢を貫いた、優れた宗教家がこの日本にも嘗ては住んでいたのです。  驚異です。

★  使徒パウロも同じような姿勢でイェスの福音を人々に語り伝えたい‥ということ
でした。  私たちの基本的な信仰の姿勢とは、それでは一体全体どのようなものなの
でしょうか?  各自ひとりひとり、そのことが問われていると思うのですが‥