2009年11月アーカイブ


★  南アフリカの説教者で2百冊余の信仰関連の書を書いた先輩に、アンドリュー・
マレー Andrew Murrayという優れた先輩がいます。
  私の英語書籍のすべてを母校ペパダイン大学の「教会遺産センター」に寄贈しまし
たので、マレー牧師のことを詳細に紹介することが全くできなくなりました。

★  健康を害して苦しんでいたとき、マレー牧師は辛い体験を因にして、以下のよう
に語ったことがあったそうです。  それは病気で彼自身が謙虚にされ、仕えるという
ことに関して考えたこと、即ち、「謙虚にされるということと仕えるということ」で
した。  そのようにサンディエゴのジェレマイア牧師から伺いました。

★  世のなかには、そしてキリスト教世界のなかには、多くの著名な教授や、有名な
牧師がいるし、よくやっている伝道者や、教会のためによく働いている人々も多い。
宣教師もいるし、先生も多くいる。
  これらの人々には聖霊の賜物がたくさん与えられ、託されている。
実に多くの人々のために、これらの人々が祝福の器として用いられていることも事実
である...  と、以上のようにマレーは語ったそうです。

★  しかしこれらの祝されたはずの人々に、ひとたび何か試練が訪れたとき、或は、
これらの祝された人々とさらに親しく個人的な交わりを持つことができたとき、一般
の人々が知らない彼らの内なる人となりに接するとき、それらの人々の内に、ずっと
留まっているはずの、彼らの不変の特性であるはずの謙虚さという美徳を、あでやか
さを、実は見いだすことができないことがあると、マレーは気づいたというのです。

★  私たちは「教会に行きますがchurch going」、時として私たちは間違った理由で
「教会に行く」ことがあるようです。  何か格好よく人々に自分を印象づけるためと
か、人々から褒め言葉を貰いたいから「教会に行く」というようなことがあるようで
す...と、このようにマレーは語っていたそうです。

★  マレーが更に語ったことというのは、そしてそれが大切な部分だと思いますが、
「教会に行く」目的は、そこで神を礼拝し(=仕えて)、さらに人々に仕えることで
なければならない...ということです。

★  英語の「仕えるto serve」という単語には、「神を礼拝するto worship God」と
いう意味をも含んでいるのです。  これはベタニヤ通信で私も強調している点です。

★  マレーが語った言葉で印象的なものがあります。
『Humility is the only soil in which the graces root. 』という一句です。
仮私訳してみますと、『謙虚さというものは、いろいろな美徳が根を張り育って行く
ために必要な唯一の土壌なのである...』ということになりましょう。

  ガラテヤ書5章13節は、『愛をもって互いに仕え合いなさい』と教えています。

 

詩篇94篇18節

『されどわが足すべりぬと言ひしとき、
エホヴァよ、汝の憐憫アハレミわれを支へ給へり。』

            文語譯聖書 詩篇94篇18節

 


★  キリストという名を冠した宗教団体、いわゆるキリスト教会という人間の集団の
大きな問題のひとつに、キリストという名をつけ、キリスト者だと自称し、他称する
人々が、それではほんとうに「キリストに属するもの」であり、「キリストの弟子」
であるのかどうかということでしょう。
  キリスト教会という箱物に集まるだけで、箱物の中で、まことしやかにキリストの
名を使った宗教行事を営むだけで、そこに集まっている人々が「キリストの弟子」で
あるのか...ということでしょう。

★  使徒パウロというイェスの弟子は、コリントに集まっていたクリスチャンたちに
手紙を書いています。  コリント前書15章3節~4節で、『キリストが死なれた。
私の罪のために』と書き遺しています。  これはとても大切な個人的信仰告白です。
  『キリスト・イェスが私の罪のために死なれた』...この信仰告白を、いわゆる教会
に集まっている自称・他称クリスチャンが、本当に信じて、日々の生活で信仰告白を
実践しているのか...、このことが問われているのです。  これが大問題なのです。

★  イェスの弟子たちは、奇蹟を行い、病める者を癒し、死せる者をよみがえらせた
イェスの傍で共に生活し、『おいらはイェスという偉い先生サマの弟子なんだぞ...』
と、たぶんエリート意識に満たされて、常にイェスの後を追いかけていたおびただし
い群衆を前に、あたかも自分たちも神の子のような錯覚に陥り、威張り散らしていた
ものと私は推測しています。  これが宗教という酒の恐ろしさです。

★  イェスと行動を共にしていた弟子たちは、悩み苦しむ多くの人々に対してイェス
が愛の奇蹟をたくさん目撃していました。  しかし、イェスと共に居るという優越感
に浸ることがあっても、イェスの愛の奇蹟の業を目撃しながら、一度もイェスを神の
子として賞賛したこともなく、神の子として信仰告白をしたこともなかったのです。

★    マタイ傳14章33節に到って初めて弟子たちはイェスを神の子と告白したのです。
イェスと一緒に居るということと、イェスの弟子であるということは同じではないの
です。 全く別の次元のことです。 教会堂という箱に入ることが主イェスの弟子で
あるとか、クリスチャンであるということでは必ずしもないのです。
真剣な信仰告白と実践を伴わない自称クリスチャンほど哀れな存在はないのです。
ヨハネ傳20章28節でトマスは、『わが主、わが神』と、悔いたあと告白しています。


 

牡蠣のスープ2種類

野村家の恒例の燭火クリスマス牡蠣チャウダー食事のレシピーです。
1950年代、ケンタッキーに留学中に、オランダ移民家族の末裔マーシュ家が私を彼らの伝統的な簡素な燭火(蝋燭)祝会食事(牡蠣のチャウダーに質素なパンだけの食事)に招いてくださったことがあります。

牡蠣のスープレシピ

帰国し結婚後、1961年以降、こん日まで毎年一回だけ我が家で提供していますレシピーです。

新鮮な牡蠣さえあれば、昔の漁民のクリスマスの祝い方を感じていただけるかと思います。

パンはコッペパンかバタールのような、極力粗末なものがよいかと思います。精精でもパンにバターを塗る程度です。 なるべく静粛にしていただくのだとか教わりました。

  

おためしください。




牡蠣のスープ 5-6人分

 

オランダ漁村に古くから伝えられている伝統的な牡蠣のチャウダーです。

 

 半世紀以上も前にケンタッキーに留学していたとき、ケンタッキー中部やインディアナ南部にオランダから移住して来た家族の末裔に教わっもものです。 1961年以降わが家では一年に一回だけ頂いています。

材料

     
  1. 牡蠣 350g ー 400g
  2.  
  3. 牛乳 1本を温めておく
  4.  
  5. 生クリーム (なくてもよい)
  6.  
  7. 小麦粉 2-3テーブル・スプーン (1テーブル・スプーンは大匙1位)
  8.  
  9. 塩少々
  10.  
  11. 胡椒少々
  12.  
  13. 水 2-3テーブル・スプーン
 

4から7を鍋に入れて、杓文字でペースト状にしておく

調理法

  1. 牡蠣は塩水で洗って砂や殻を落とす
  2.  
  3. ペースト状にした小麦粉の中に牡蠣を入れて絡ませる
  4.      牡蠣から出たジュースも使う  
  5. とろ火にかけ、牡蠣がふっくらとしたら、暖めておいた牛乳を入れる
  6.  
  7. 沸騰させないで、牡蠣に火が通ったら火を消す
  8.      バターを落として蓋をして15分ほど蒸らす  
  9. 食べる前に再加熱して暖め、塩胡椒で味を調える
         生クリームを入れる
  10.  
  11. スープは熱くなければいけないが、グラグラ沸騰させないように・・
         煮過ぎると牡蠣が小さく固くなってしまう
  12.  
  13. 食器も暖めておくとよい

昔のオランダ漁民は、牡蠣チャウダーと素朴なパンだけで頂いていたようで、
     燭火で静かにクリスマスを祝ったとか・・



 

もうひとつの牡蠣のスープ

調理法

     
  1. 牛乳を熱くする
         カイエン・ペッパー、なつめぐ (ごく少々振るとよい。 無くてもよい)
  2.  
  3. 牡蠣を入れる  
  4. バターを落とす  
  5. 玉葱みじん切り      バターで炒めておく
         ベーコン 5ミリ角切り   茹でておく
         ピーマン 5ミリ角切り   バターで炒めておく
         最後にスープに入れてできあがり
  6. パセリ微塵切り       スープ皿に盛ってから振り掛ける
  7.  

手順として、4.と 5.を最初に作っておくとよい
食べるときにクラッカーを砕いて入れる。


 


★  毎年冬の寒さが近づくにつれて各地から訃報がたくさん届きます。
いくつかの聖書箇所を読んでみますと、例えば、ヨブ記5章6節~9節のメッセージ
を読んでみますと、人がその人生のほとんどを涙と溜め息の内に過ごすことを学びます。

  ここまで書いていましたら、韓国の古い伝統芸術のひとつである伽耶琴カヤグムの保存
に努力をしておられる宗ソンさんのご母堂が癌で今朝逝去されたと連絡がありました。
久しく癌と闘って来られたのだそうでした。  問安電話をしておきました。

  蕨教会設立者の蛭田智さんも天父のお召しを受けて本日凱旋帰天なさったとの連絡
が届きました。  多くの感謝の思い出があります。  ご家族を覚え祈りました。

  このような戸惑いの内で、いくつかの聖書を紐といて見ますと、私たちが体験する
多くの喜怒哀楽のうしろに、主の導きと護りが確実に存在することを教えられます。

  その中でも私にいつも大きな慰めを与えてくれる聖句のひとつに、詩篇94篇18節が
あります。  この箇所を敢えて文語訳で読んでみますと、以下のようになります。
  『されど吾が足すべりぬと言ひしとき、エホヴァよ、汝の憐憫アハレミ、吾を支へ給へ
り...』となります。

  この八ヶ嶽南麓の地も間もなく凍結します。  凍結した道路はアイス・スケート場
のようになります。  舗装道路は舗装道路で、一見凍っていないように見えますが、
実はひどく凍結しているので、車を運転する時には注意しなければなりません。
  一番近い舗装道路から私たちの住宅までの未舗装道路でも、注意して歩かないと、
一瞬の内に滑って尻餅を突きます。  加齢と共に骨折の危険性が増します。

  凍結した道路の上で足を滑らせて尻餅を突く時間はたぶん1秒前後のようです。
そのような短い時間の中で、『あっ!』と叫んだ瞬間に、尻餅を突いているのです。
しかし、そのような短い間でも、エホヴァなる神の手が私を支えると聖書は約束して
いるのです。  なぜなら、主は私たち一人一人の名をご存知であり、私たちのそばに
常にいらっしゃるからです。  私たちは主の目に貴い(イザヤ書43章4節)のです。

  イザヤ書43章1節~5節には、恐ろしい自然災害の中にあっても、水や炎が私たち
を襲う時であっても、主は私たちを導き護られると約束しています。
  コリント前書10章13節も、私たち人間が味わう厳しい試練の日々の内にあっても、
私たちが神を信じて前進して行く時に、必ず「逃れの道」を見いだすことができると
教えているのです。
  イザヤ書46章3節~4節は、白髪になった老齢者ですら、私たちの最後に到るまで
神が責任を持って背負って運んでくださる...と、そのように約束しているのです。

★  訃音が届くたびに、あるいは、私たちが私たち自身の肉体の衰えをいろいろな形
で身に沁みて覚えるとき、それらは私たちを謙虚にさせてくれます。  私たちが限り
ある存在であることを教えてくれるからです。  私たちは必滅の存在なのです。
死を免れない存在なのです。  英語でこれを mortal と言います。

  また、主に召された魂が、痛みも涙もない御国に移されたことを感謝できることを
心から感謝したいと私は考えています。  同じように、ご遺族にも主の慰めと癒しと
祝福があることを確信できるのも感謝なことです。  愛する者が天に召されるという
厳粛な瞬間をとおして、私たち自身が必滅の存在であることを教えられるのです。

  教会は、2千年の間、この厳粛な事実を、「memento moriメメント・モリ」として
語り続けて来ているのです。  ラテン語です。  Remember, that you have to die!
  私たち人間の欠陥や過ちを思い出させて、私たちが滅すべき存在であることを教会
は語って来たのです。  人間に人間の無限の可能性を信じさせている現在の虚像、
誤解に対する冷酷な、冷静な警告なのです。  私たちに答を要求しているのです。

★  『吾が足すべりぬと言ひしとき、エホヴァよ、汝の憐憫アハレミ吾を支へ給へり』
私たちの人生は、その終わりに及んで、自分の力では立つことができなくなり、必ず
滑りこけるのです。  メメント・モリなのです。

  このことを感謝して覚え、日々の何気ない生活を感謝し、すべてのものごとに感謝
を捧げ、自分のような者でもよければ、他者に仕えることで神に仕えるということを
学ぶ必要がありましょう。  失望することなく、心を新たにする必要があります。

  互いに共に生きられることを感謝し、私たちの日々のすべてをご存知の神を信じ、
私たちをその名で覚えていて下さる神に感謝して失望することなく、マタイ傳6章で
『天に宝を積めよ』と教えてくださったイェスの御言葉を少しずつ実践に移して行く
ことを求められているのだと私は確信しております。    如何でしょうか?
 

ゼパニヤ書3章17節

あなたの神、主はあなたの内にいまし、
勇者であって、勝利を与えられる。
彼はあなたの為に喜び楽しみ、
その愛によってあなたを新たにし、
祭りの日のようにあなたの為に喜び呼ばわられる。

            ゼパニヤ書3章17節

 


★  ルカ傳15章11節~32節でイェスが語られた有名な放蕩息子の話があります。
それと同じようなことが、最近スペインのマドリッドであったように耳にしたことが
あります。  話題の中心人物の名を忘れましたので、仮にペドロにしておきます。

★  或る父親が、ふとしたことで家出してしまった息子を捜し出そうと、いろいろな
手段を尽くしましたが、見つけ出すことができなかったそうです。
  そこで、最後の手段として、新聞の尋ね人欄に広告を出したのだそうです。
『最愛の息子ペドロよ、お父さんは、ずいぶんとお前を捜して続けているんだよ。
そこで、何月何日の何時にマドリッド市内の新聞社の前の薬屋で会いたいのだが...』

  欧米で言う薬屋、ファーマシー pharmacy は、薬を売るだけではなく、新聞や雑誌
なども売っていますし、テーブルやカウンターでコーヒー、コーラやサンドイッチを
口にすることもできる、一種の喫茶店・待合室・社交場の役目を果たしています。

  指定された当日の時刻になって父親が薬屋に行ってみますと、30数名の「ペドロ」
が父親の現れるのを待っていたそうです。  残念なことでしたが、父親が捜していた
肝心のペドロは、遂に現れなかったそうです。

  失望した父親が学んだことのひとつは、愛を求め、愛されることを求めている人々
がマドリッド周辺だけでも、父親の想像を遥かに超えて、たくさん居るのだ...という
ことでした。  人々は真剣に愛を求め、希望を求めているのにもかかわらず、人々の
心の中に愛も希望も欠落しているという事実でした。  人が生きるために必要な愛と
希望が存在していないという、厳然とした冷酷な事実を父親は初めて学んだのです。

  ★聖書は、神が愛であり、希望は再臨される主イェスに在ると、指さしています。


 


★  保守党がもたらした弊害に対し変革を求めたオバマ大統領候補が圧倒的な支持で
大統領に選ばれました。 麻生政権に対する日本国民の不満が鳩山内閣を生みました。
  チェンジを求めたということは、別の言い方で言えば、日米両国民の間で、将来に
対する希望が見えない...という共通の認識があったのからではないのでしょうか?

  敗戦直後この国で流行した歌に、たとえば「赤いリンゴ」というのがありました。
希望を喪失していた国民に、希望回復の願いを抱かせる歌であったので、多くの国民
に支援されたからです。  最近の流行歌を知りませんが、希望を抱かせる歌が少なく
なったように思えますし、NHK-TV朝の連続ドラマの視聴率が低下の一方であるのも、
国民がドタバタ劇の中に明日への希望を見いだすことができなくなったからでしょう。

★  聖書では、希望についてどのように語っているのでしょうか?
創世記6章では、創造主が地の面をご覧になったとき、地の上に悪がはびこって居る
のを御覧になり、人を創ったことを悔いられたと、人の罪の恐ろしさを語っています。
ご自分がお創りになった筈の人の中に希望を見いだすことができなかったからです。
ノアとその家族にだけ神は希望を託されたことを箱舟物語で私たちは学びます。

★  士師記の最後の節では、イスラエルを纒めることができる王がいなかったので、
すなわち、国を纒める力、求心力、希望というものを見いだせなかったので、人々は
己の目に良いと思ったことだけを、てんでんに行ったと描写しています。
希望のない所に混沌状態が生まれて来て居たのです。  現在の日本のようです。

★  詩篇 121篇の最初を読みますと、イスラエルの人々が居住地区の周辺を取り巻く
丘や山の頂きにはバアルの偶像が乱立していたようです。  イスラエルの民が周囲を
見る限り、自分たちを圧迫・威圧する偶像が夕日に照らし出されて見えたようです。
  偶像が象徴するような外敵を眺めて居る限り、彼らに希望はありませんでした。
しかし、イスラエルの民は、更に目を上に上げて、天を仰いで、天にいます神を覚え
て救いの確信を得たようです。  この地上には救いはないのです...

★  ルカ傳1章79節は、私たちのことを『暗黒と死の陰に住む者』と呼んでいます。
そのように、希望のない哀れな者たちに、神の一方的な憐れみで、日の光りが上から
私たちを照らしだし、私たちの足を平和の道へと導いていってくださる...』と嬉しい
おとずれを伝えています。  クリスマスの善き知らせです。

★  19世紀の欧米は、啓蒙思想 Age of enlightenment の時代でした。
人の理知・理性がやがてこの世に満ち溢れる...と信じられていた時代でした。
人間の無限の進歩の可能性を確信する時代でした。  人間が経験から蓄積する知識の
積み重ねは本質的に善いものである...ということが信じられていた時代でした。
人間の理性・知性が増し加わるに従い、教育は進み、道徳は普及し、やがて聖書や神
の教えに取って代わる時代が来る...と信じられていた時代でした。

  このような発想・理解を後千年王国 post-millennialism 的な発想と言います。
教育の普及と福音宣教の結果、最後の一人がイェスを主、キリストであると告白する
日が必ず来る、そしてその時こそが、黙示録21章以下に記されている千年王国の到来
と開始である...と、そのような理解が19世紀初めには信じられていたのです。

  このような世界観・宇宙観・人間性善説が新生アメリカを覆っていたことは、米国
$1紙幣の裏面に描かれていますピラミッド型の図形にも見られますし、1845年の
7月にニューヨーク市のジャーナリスト、オ・サリヴァン John L. O'Sullivan が
「デモクラティック・レヴュー」に発表した論文 Manifest Destiny マニフェスト・
デスティニーにも見られます。

  トーマスとアレキサンダー・キャンベル親子も、このような理解を共有していたの
です。  キャンベル親子の発想に反対の立場であったストーンらは、前千年王国論に
立ち、人間の理性よりも、聖霊の働きを強調する立場にありました。

  キャンベルたちの啓蒙思想なり、人間の限りない発展の可能性を信じていた知識人
たちは、しかしながら、新生国アメリカ全体を巻き込んだ、恐ろしい南北戦争の現実
を目の当たりにして、後千年王国論に立脚した、人間性善説の崩壊を目撃し、大きな
衝撃を受けることになりました。
  そして、第1次世界大戦が、そのような人間に無限の進歩発展の可能性を見ようと
した発想を無残にも壊してしまう結果を招いたのです。

★  神を畏れぬ人類は、その後も自己を頼み、自己を神として科学万能精神で破滅に
向かって驀進しているような感じがします。  原子爆弾を発明し、核開発に国家威信
をかけて争っています。  パソコンやインターネットが、神を除去して、人間万能を
謳っています。  神不在で、モノとカネと権力がすべてになってしまっています。

  このようにして、神を除外した人間、己の才能で何でも作り上げることができると
確信してこん日に到った人間は、しかしながら、希望を生み出すこともできないし、
希望を見いだすこともできなくなってしまっています。  希望がないということは、
これは実に深刻な問題です。

★  しかし聖書は、私たちの内に居ますイェスこそが私たちの希望であると証言して
います。  しかも栄光の希望であると言っています。  コロサイ書1章27節です。
  人類に希望を与え続けて来て居るのは、昨日も、きょうも、明日も不変の主イェス
であると、ヘブル書13章8節は証言しています。

★  『あなたの神、主はあなたの内に居まし、勇士であって、勝利を与えられる。
彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭りの日のように
あなたのために喜ばれる』と、旧約聖書ゼパニヤ書3章17節は、誇らしげに宣告して
いるのです。

  私たちには明日のことを知ることができませんが、私たちの明日を握っておられる
神が、今この瞬間にも、私たちの手をしっかりと握って導いておられます。

              英語の讚美歌の一つに次のようなものがあります。
      『I don't know about tomorrow, but I know He holds my hands!』
私の手を握り締めて、私を明日へと導かれる主イェスは、再臨なさる主イェスです。
  ここに私たちの希望があるのです。  テトス書2章13節の約束です。  感謝です。


 

ピリピ書1章6節

あなたがたの内に良い業を始められた方が、
キリスト・イェスの日までにそれを完成してくださるに
違いないと、確信している。

               ピリピ書1章6節