2009年10月アーカイブ


2005・03・25  初稿  2009・10・30改訂

★  先週と先々週はAさんの母教会に於いて同教会の今後の進路に就いての話し合い
があったと伺っています。  設立牧師が帰天なさり、その後は神学生が日曜朝に奉仕
をなさっていたようですが、今春に神学校を卒業されるので奉仕を続けることができ
なくなったそうです。  4月からはいわゆる「無牧」状態となるようです。

  そのことで、間接的ですが、そして僣越なことにならないようにと第三人者である
私は、それなりに気を使いながらですが、AさんとEメールで話し合いを重ね、私見
を述べておりました。
  Aさんに私が提案しておりましたことは、とりあえず残っておられる皆さんがたが
智恵を集め、力を集め、できるだけ他人に依り頼ろうとしないで、一時的な牧師さん
に過度の依存をしないで、自分たちを中心にとにかくよく祈って、自分たちで聖書を
読む方法を考え出して、自分たちで工夫して讚美を捧げて、自分たちでエクレシアを
守って行ってみようと努力を始められるのはいかがでしょうか...ということでした。
それが第一歩だと思いますが...ということでした。

★  そのことから次に問題となって来るであろうと思われる、障害となるように見え
るいろいろなことが出てきました。  それまではすべて牧師さん任せ、神学生任せと
いうことでしたから、皆さんが当惑され、混乱されるのは当然のことだと思います。

  Aさんからいろいろとお話を伺っているうちに私が気づいたことで、皆さんがたが
気づいておられない問題があるのではないかと、そのように思うようになったことが
あります。  それは「礼拝とは一体全体何なのか、礼拝とはどういうことなのか?」
ということを皆さんがたが理解なさっておられないのではないかということです。

★  今日はAさんがお仕事でお休みになりました。  年度末ですから事務所は忙しい
のではないかと推測します。  しかし今日は若い皆さんが出席されておられます。
  そこで、Aさんとご一緒に考えたいと思っていたこと、すなわち、私なりに考えて
いる「礼拝とはいったい何なのか?」ということを、若い皆さんがたにもお考え願い
たいと思い、なるべくわかりやすい方法でお話ししてみましょう。

★  教会玄関をお掃除すること、集会のために花を用意すること、スリッパを揃えて
出すこと、教会のトイレを掃除すること、出席者の靴をキチット並べること、週報の
表紙に使うために挿絵を書くこと、愛餐会のために自宅であらかじめ手作りケーキを
作っておくこと、集会に参加するために車を往復路運転すること...
  このようなことは「礼拝」なのでしょうか?  「礼拝の一部」なのでしょうか?
「礼拝」と関係があるのでしょうか?  それとも「礼拝」と無関係なのでしょうか?

  自宅でお母さんやお父さんの肩たたきをすること、妹や弟の世話をすること、お皿
を洗うこと、お風呂の掃除をすること、洗濯をしたり干し物を手伝ったりすること、
赤ちゃんや寝たきり老人のオムツを取り替えてあげること、学校の宿題を一生懸命に
やること、学校で友達たちと仲良く楽しく過ごすということ...
  そういうことは、神さまを「礼拝」するということと関係があるのでしょうか?
「礼拝」っていうことは、「礼拝する」ということは、「礼拝に行く」ということは
いったいぜんたい何なのでしょうか?

★  「礼拝」というものは、1週間の初めの日の朝の1時間か2時間だけを、特別な
建物に行って、そこに集まって来る人たちといっしょになって「アーメン」って皆で
声をだして何かをすることなのでしょうか?  それが「礼拝」なのでしょうか?

  1日には24時間あります。  1時間は60分です。  1週間には10,080分あります。
この10,080分の中で、日曜日の朝2時間だけ「教会堂」に「行って」「礼拝する」と
しますと、残り時間(10,080分- 120分)= 9,960分は「礼拝ではない」時間なので
しょうか?  その間は神さまを思わなくてもよいのでしょうか?
  1日24時間で1週間に 168時間あります。  この中から日曜日朝2時間を「礼拝」
に使いますと、残り時間は 166時間です。  この 166時間が「礼拝ではない時間」と
いうことですと、1週間の中で神さまに使う時間は少なすぎませんか?
  「日曜の朝の2時間だけ」「教会堂」に「行って」「神さまを礼拝する」として、
残りの全部はイェスさまを信じていない人びとと同じように日常生活をするとなると
神さまはずいぶんと退屈されているでしょうね?  聖書にホコリが溜りますね?
  このあたりで算数の計算はやめましょう...

★  コロサイ書3章17節を、声を出してゆっくり読んでみましょう。
私たちが口に出してしゃべるどのようなことも、行いであらわすどのようなことも、
そのことを主イェスのお名前で行うことが大切であるとその聖句は教えています。
そしてそのことをとおして父なる神さまに感謝を捧げるようにと書いてあります。
  すなわち、私たちが行うどのようなことであっても、そのことを主イェスのお名前
で行えば、それは神さまを喜ばすことになるというのです。  大切なことです。
神さまに喜んで頂くということが「礼拝」だと私は思うのです。

  それは、「日曜朝の2時間だけ」を「教会堂」ですることが「礼拝」ではなくて、
毎日の生活の中で私たちが行う全てのことを、主イェスを覚えながらやれば、それは
神さまに感謝を捧げることになるという意味です。
  それですから、赤ちゃんのおむつを取り替えることも、トイレのお掃除をすること
も、教会堂のお掃除をすることも、草むしりをすることも、お父さんにお茶をいれて
あげることも、お母さんのお手伝いをすることも、主イェスのお名前を心の中で覚え
ながら行えば、それは神さまを喜ばすことになるのです。

★  実は、「神さまに喜んで頂くこと」が「礼拝」という意味なのです。
ヨハネ伝4章24節で使われている「礼拝」という言葉は、もともと「プロスクネオ」
という言葉です。  それをほかの日本語で言えば、「尊敬する」とか「敬意を払う」
とか、「忠順である」というような言葉で言い換えられます(英語でpay homage)。
「頭を低く下げ、または跪ヒザマズいて、相手を誉ホ め讚タタえる」という意味です。
  マタイ伝2章2節、8節、11節、4章10節、ルカ伝4章7節では「ひざまずく」、
更に24章52節、ヨハネ伝4章20節~21節、ヘブル書1章6節、11章21節において同じ
プロスクネオ proskuneo  が使用されています。

★  もう一ヶ所を見てみましょう。  ロマ書12章1節~2節です。
ここでは上記の「プロスクネオ」という単語とは異なった別の単語、「ラトレイア」
latreia が使われています。  もともと二つの全く違ったギリシャ語ですが、日本語
では両者とも同じ「礼拝」という漢字を使って訳してしまっています。

  ラトレイアというギリシャ語の単語の意味は「仕える」ということです。
英語で言えば、「to serve  仕えること」または「service サーヴィス」という動詞
や名詞に相当します。

  日本語では、たいていの場合、「偉い人、地位の高い人、権力のある人に仕える」
とか「お客にサーヴィスする」という使いかたをしていますので、そういう意味なら
よくわかりますが、「神さまにお仕えする」という発想は日本語を使っている私たち
にはないと思います。  日本語ではそのような使い方をしていないと思います。

  しかし英語では「礼拝」のことを「worship ウヮーシップ」と言います。
また、「ウヮーシップ・サーヴィス」という時もあります。  けれどもたいてい普通
の場合には「サーヴィス service」という言葉を使います。  それで事たります。
  それはヨハネ伝16章2節、ロマ書9章4節、12章1節、ヘブル書9章1節と6節で
使われているのです。
  実際の生活の場で、日常の生活の中で、「他者に仕えることで神さまに仕える」と
いう意味が「礼拝 worship service」の意味なのです。

★  そしてその一番わかりやすい実例はイェスさまです。
「十字架の上で死に到るまで神の御旨に従い、そしてそのことで私たち罪多い人類の
贖罪のために仕えて死んで下さった、イェスの徹底した仕えるという姿勢であった」
のです。  「仕える」ということで主イェスは父なる神に対する「礼拝」の在り方を
私たちにはっきりと示してくださったのだと、私はそのように理解しています。

  このようなわけで、ヨハネ伝4章24節の「プロスクネオ」=「頭を低く下げて相手
を誉め讚える」=礼拝とは、「ラトレイア」=「仕える」ということでもあります。
  主イェスがそうであったように、「人に仕えることで、または人に仕えることが、
神に仕えること」=「人を愛することで、または人を愛することが神を愛すこと」と
いうクリスチャンの姿勢「礼拝」の姿勢を学ぶことができると思うのです。

★  「人に仕えることは=神に仕えることだ」ということを、私は私なりにですが、
ルカ傳22章7節~27節から学ぶのです。

  イェスが十字架に架かられる前に、弟子たちと過越の食事、すなわち、主の晩餐・
主の食卓・聖餐・パン裂きを「切に望まれ」たとき、十字架に向かわれる主イェスの
お心の内に潜んでいた主のお苦しみを全く理解も想像もできなかった弟子たちが、
こともあろうに、「誰が一番偉いのか?」という、極めて低次元のことで論争を始め
たのでした。

  そのとき主イェスは、ご自身で弟子たちにパンや葡萄酒を廻しながら、給仕の役を
なさっていたのです。  そのイェスの仕えるという姿勢を自分たちの目で見ながら、
そこでイェスが示そうとなさっていた、「仕える姿勢」を、弟子たちは全く気づかな
かったのです。  誰がおいらの中で一番偉いのか?‥という、愚劣な論争に花を咲か
せていたのです。

  十字架に向かわれる主イェスのお心の内を知らないこの弟子たちの情けない議論を
御覧になっていたイェスのお心は、どのようなものであったのでしょうか?
  『私はお前たちの間で給仕役を勤めているというのがわからないのか?』と、27節
は語っています。  「己を低くして仕える」という姿勢が最も大切なことであると、
主イェスは弟子たちに、身をもって示されたのでした。  service ということです。

  まわりの人々と一緒に食事をするという日常生活の基本的な事柄において、イェス
は、他者に仕えるということが、神に仕えるということである‥と、そのように弟子
たちに実地教育をなさったのです。

  主の食卓・聖餐・パン裂きに与ることは、主イェスが主催なさる主の食卓に侍ると
いうことは、そこで私たちがお互いに仕え合う者たちであることを再確認する場だと
私は理解するのです。  ここにも主の食卓に与る私たちに対するイェスの深い教えが
隠されていると確信しているのです。  ここにも礼拝の意味が示されているのです。

★  「私の名前で二、三の者が集る所には私もその中にいる」とマタイ伝18章20節で
イェスは約束されました。  それですから、イェスの名によって集まった者たちが、
主イェスを誉め讚え、聖書を読み、祈りを捧げ、そして草むしりでも、ペンキ塗りで
も、日曜大工でも、トイレの掃除でも...内容が何であっても、それは神への礼拝とな
ると私は信じています。

  必ずしも「牧師」という肩書きを持った人をどこかから無理にお願いをしてお越し
願って日曜日の朝に「耶蘇教寺で西洋坊主が営む耶蘇教法事の席に坐っていること」
が「礼拝をやっている」ということのすべてではないと、私はそのように思っている
と、先日からAさんをとおしてAさんが母教会とされている群れに集まっておられる
方々に申し上げようと心がけているのです。

  こういう方法なら、若い小学生でも、中学生でも、高校生でも、神さまを礼拝する
方法が身近に沢山あると思うのです。  そして神さまはその一つひとつを心から喜ん
でくださるものと私は確信しているのです。

★  クリスマスに歌われている童謡に Little Drummer Boy というのがあります。
生まれたばかりの赤ちゃんイェスさまに差し上げる贈り物を何も持ち合わせていない
幼い男の子が一生懸命に小太鼓を叩くという童謡です。  それもすてきな「礼拝」の
ひとつの在り方を示唆していると、私はそのように確信しています。
  「自分自身を神に捧げることに一生懸命でありなさい」(テモテ後書2章15節)と
いう聖句を、童謡の中で小太鼓を叩く幼児は実行していたというわけです。

★  教会の庭の草むしりも、トイレの掃除も、赤ちゃんのオムツを取り替えるのも、
童謡の中で小太鼓をイェスさまのために叩いている子供と本質的に同じことであり、
みんな神さまに仕えること、神さまへの「礼拝」であると私は信じているのです。

  マタイ伝25章40節や45節、ヤコブ書1章27節は何といっているのでしょうか?
弱い人や悲しい人や寂しい人に仕えることは神さまに仕えることなのです。
  なぜなら神さまはどこにでも、いつでもいらっしゃって、私たちをご存知であり、
私たちの祈りをお聞きになり、私たちの讚美の声を喜んでおられるのです。
  (詩編 139編8節~9節『私が天に昇っても、あなたはそこにいらっしゃいます。
私が陰府ヨミに床を設けても、あなたはそこにおられます。  私が曙アケボノの翼をかって
大洋ウミの果てに住んでもあなたの御手は私を導き...』と証をしています)

★  日曜朝の2時間ほどだけ「教会堂」という箱の中においでになるのではないから
です。  むしろ『私たち自身が、神さまがお住みになって下さる聖なる宮なのだ』と
コリント前書3章16節は教えています。

  そのようなわけですから、私たちはいつでも、どこでも、何をしていても、神さま
を「礼拝」することができるのです。  いつでもどこにいても感謝と讚美の礼拝を捧
げることができるのです。  ある特定の場所や時間だけが神さまを「礼拝」する場所
や時間ではないのです。  いつでも神さまのお名前を呼んでお話しができます。

  また、特定の人間集団が定めた「礼拝の形式」や「式順」や「方法」も、神さまを
心から拝するときに、これも全く関係がないのです。  心から神さまに仕え、神さま
の恩寵を讚美すればよいのです。  いつも神さまはすぐ傍近くにいらっしゃいます。

  だれでも、いつでも、自分なりの方法で、畏れと誠実さをもって神さまに近づき、
自分のことばで神さまにお話しをして、神さまに心から感謝を捧げればよいのだと、
そのように私は思います。  「牧師さんがいないから礼拝できない」など聖書の中に
そのようなことはいっさい書いてないのです。  神さまにお声をかけてみましょう!


 

『砂と岩 Sand & Stone』

★  教会史の研究仲間にダン・スミス Dan Smithという人がいます。
アリゾナ州だかニュー・メキシコ州に住んでいます。  いずれも砂漠が多い州です。
  文通回数はとても多いのですが、実際には1度しか出会ったことがありません。
ポパイに似た顔形の友人です。  「活字の虫」のように広範囲に亙り良く読みます。
  以下の文章は、そのダン・スミスさんが、去る8月中旬に送って来たものです。

★  二人の友人が砂漠を横断していたとき、二人の間で口論が始まりました。
激昂した一人が、同伴者の男の顔をいきなりぶちました。

  ぶたれた側の男は、痛みを堪えながら、何も言わずにしゃがみこみました。
『今日、親友が僕の顔を殴った...』と彼は砂の上にそれだけを指先で書きました。

★  そのあと二人は黙って歩き続けました。  そしてオアシスを発見しました。
そこで二人は水浴びをすることに同意しました。

  ぶたれた男が、どうしたわけか、ぬかるみ(mire=汚辱・苦境の意味にもなる語)
に足を取られ、もうすってんで溺死するところでした。  ぶった男が、ぶたれた男を
黙って救いだしました。
  助けてもらった男は、しばらく休息したあとで、岩の上に字を彫り込みました。
『今日、僕の親友が僕の命を救ってくれた...』

★  親友の顔を平手打ちにしたのち、ぶたれた側の男を水の中から救い出した男が、
砂と岩に字を書き込んだ男に、どうしてそんなことをしたのか?と尋ねました。

  ぶたれた側の男で、救い出してもらった側の男が、ぶった側の男に答えました。
『誰かが自分を酷くぶったとき、そのことを砂に書き留めておくのがいいんだよ。
書き留めておかないと、痛みは納まらないものなんだよ。  しかしそのうちに、どこ
からか赦しの風が吹いて来て、いつの間にか傷の思い出を消し去ってくれるのさ...

  だけど、誰かが自分に善いことをしてくれたなら、そのできごとと、そのことへの
感謝の気持ちを、岩にしっかりと掘り刻んでおくのがいいんだよ。  風雨も消し去る
ことができないからね...』

★  『善い人を知る、特別な人を知るというのには1分もかからない』そうです。
しかし、『その人のことを心から有り難いと評価するようになれるのには、最低でも
1時間はかかる...』と、そのように言われています。

★  以上はダン・スミスさんから送られて来た智恵の文を訳してみたものです。
『世には友らしい見せかけの友がいる。  しかし兄弟よりも頼もしい友もいる』と、
箴言18章24節は言います。

  同じ箇所を、文語体聖書は次のように言っています。
『多くの友を設くる人は遂にその身を亡ぼす。  但し兄弟よりも頼もしき知己もまた
あり』  (知己とは、自分の心をよく知っている親友を指す古代中国史記の単語)

★  「善き友、善き師」に恵まれることは人生で極めて尊いことです。
『古き薪は燃すに善く、古き書は読むに善く、古き友は語るに善し』とも言われてい
ます。  聖書に親しみ、親友を与えられた喜び、感謝しなければなりませんね。

          『億劫相別れて須臾も離れず  旬日相対して刹那も対せず』
      大徳寺創始、大東国師が花園天皇との対話の席で述べたひとことです。


 


  すでに説明をしましたように、教会史に関する英語の書籍や事典のすべてを母校

ペパダイン大学が新設したばかりの「Heritage Center 遺産センター」に寄贈して

しまいました。  34個、490kg の段ボール函に詰められた2~3千点の書籍が、現在

太平洋上をロング・ビーチ港に向けて航行中です。  11月初旬に陸揚げだそうです。

  このために、今までのように、比較的簡単に、教会史の中から、隠された、小さな

エピソードを皆さんに提供できなくなりました。  お許しを願います。

 

  以上のような、新しい状況の中ですが、今朝のベタニヤ・ホーム集会のために、

ウイリアム・ウイルバーフォースのことを、最低限情報でしたが、紹介致しました。

 

  William Wilberforce は、1759年(=寳歴9年、桃園天皇、徳川家重)に生まれ、

1833年(天保4年、仁孝天皇、徳川家斎、井伊直亮)に死亡した英国国会議員です。

 

  更なる詳細は、たとえば平凡社の大百科事典第2巻で、最低限ですが、最低の情報

を得ることができます。  ここでは大百科事典からの引用を控えます。

 

  資料がなくなったので確認方法がありませんが、ウイルバーフォースのことを、

確かどこかで、「小海老が次第に大きくなって鯨になった」というような表現を読ん

だことがあります。  ウイルバーフォースの身の丈をそのように言ったようですが、

それと同時に、最初は目立たない政治家であったが、最後には英国に奴隷制度廃止を

もたらした偉人という意味も含んでいたのではないかとも思えます。

  ウイルバーフォースのことを、ダミニュティヴ diminutive 、すなわち小柄な男だ

と説明した文章があったように記憶しています。

 

  ウイルバーフォースが活躍した当時の大英帝国は、それまでの産業の技術的基礎

が一変し、零細手工業的な作業場に代わって、機械設備による大工場が成立し、これ

に従って社会構造が根本的に変化し始めていました。  いわゆる産業革命が始まった

時期でした。  大英帝国はその海軍力でも世界に冠たるものでした。  景気は最高潮

であり、大英帝国は破竹の勢いに乗っていました。

 

  しかし道徳的に見て、大英帝国はそれまでに経験したことのないような、「良心の

危機」に直面していたと言えます。  富の格差が広がり始めました。  スラムが初め

て英国の都会に生じ、教会では初めて体験するその事実に対応するために、底辺層に

対する新しい伝道方法を考案し、救世軍が生まれ、日曜学校も生まれて来ました。

 

  社会が無秩序状態に突入するということは、もちろん、危険極まりないことです。

徹底的な破壊に到る可能性が大いにあります。  しかし、そこから道徳的新生再生

が生まれて来る可能性もあります。  人類はそのことを体験して来ています。

 

  虐げられた底辺層の中から、キリスト再臨を切望する動きが生じ、マザー・アン・

リー Mother Ann Lee を指導者とするシェーカーズ運動が、都市底辺労働者階級の

中から生まれて来ました。  蜂の巣をつっ突いたような、激動の社会でした。

 

  奴隷制度と、それに伴うイングランド→アフリカ→アメリカ→イングランドを繋ぐ

終わりのない三角貿易が、各地点の港に到着するごとに、更なる巨万の富みを帝国に

もたらしていました。  同時に、それは帝国の精神面を著しく蝕んでいたのです。

これが、ウイルバーフォースの成人期の大英帝国の実情でした。

 

  奴隷制度といいますと、今では、日本では、テレビのコマーシャルにも、商店街

でも、猫も杓子も...と言えるほど、アメージング・グレィス Amazing Grace  とい

讚美歌が流れています。  作詞者は、かつての奴隷商人であった

ジョン・ニュートンJohn Newton です。  ニュートンのことはすでに紹介済みです。

 

  岩下和彦愛兄のご奉仕により、ホーム・ページ www.bethanyhome.net/ に収納済みです。  『オルニー讚美歌集とアメージング・グレィスを謳った元奴隷船長の

ジョン・ニュートン』です。  詳細はベタニヤ・ホームのホーム・ページを御覧ください。

 

  ウイルバーフォースは幼少年期に一度だけジョン・ニュートンと出会ったことが

あったそうです。  その後、彼が二十歳代になったとき、ニュートンに再会していま

す。  はなばなしい政治家の道を英国国会議員として歩み始めたとき、ニュートンと

再会したのです。

 

  福音主義信仰に立脚した彼は、小ピットなどの支援を得て、彼はイングランドから

奴隷制度をなくそうと立ち上がり始めたのです。  奴隷制度廃止を訴えただけでは

なく、解放された奴隷たちを、アフリカ西海岸シオラ・レオネ Sierra Leone に連れ

戻そうと努力をしていたのです。

 

  ウイルバーフォースが訴えていた奴隷制度廃止運動の腹蔵のない率直な叫び声が、

ジョン・ニュートンをして、ニュートンが嘗て奴隷船長であったということと、その

罪を、公に告白させるに到らしめた...と言われています。

なお、奴隷取引禁止条例が1807年に、奴隷制度廃止は1833年に成立しています。

 

  このウイリアム・ウイルバーフォースの生涯を読みながら、私は幾つかの聖句を

思い浮かべました。

 

  まず、コリント前書1558節です。  私なりに下記のように纒めてみました。

        人生辛酸  神愛溢豊  堅立不動  常注総力  誠勵神業  神必報勞

 

  さらに、ガラテヤ書6章9節です。

私たちは、神さまのために、周囲の人々のために、そして私たち自身のために、善を

行うことに倦み疲れてはならないと勧められています。  弛むことなく、倦むことな

く励んでいれば、神さまの時が来ると、豊かな刈り入れを得られるというのです。

  詩篇 126篇6節に約束されていることと同じ主旨の激励だと受け取れます。

 

  次に、エペソ書2章7節~10節です。

そこには、神の一方的な恩寵の業を通して、神の作品として私たちは作られたもの

あり、来たるべき世々にまで神の恩寵の絶大な富みを示すためである...と教えら

れています。  私たち自身が、後世に遺し得る神の作品であるというのです。

 

  そして、ピリピ書1章6節を読みますと、神は私たちの内に、私たち自身は気付

ないのですが、何か良い業を始められた...と教えられます。  そしてその

「良い業」は、イェス・キリストの再臨の日までに、それを完成してくださる...

とあります。

  私たちに託された、委ねられた、神さまが始められた「良き業」を、私たちは大切

に育てなければならないと教えられます。  私たちにはよくわからないことですが、

恩恵によって、私たちの人生にはそのような特権と責務が託され、委ねられているよ

うです。  後世のために託された遺物をどのように私たちは育てて行こうとしている

のでしょうか?

 

  ジョン・ニュートンがアメージング・グレィスを作詞した前後に、ニュートンの

心を揺さぶった讚美歌があったそうです。  日本語讚美歌 260番の『千歳の岩よ』と

同じく讚美歌 520番の『静けき祈りの時はいと楽し』であったと言われています。

 

  私たちも、先輩たちが遺しておいて呉れた讚美歌が教える祝福と、聖句からの

教訓を、己がこととして受け止め、神さまが私たちの内に託してくださった良き

業を細心の注意を払いながら育てて行きたいものです。

 

  小海老のように小さかったウイルバーフォースが、鯨のように大きな偉業を

遺したようにとは行かないかもしれませんが、私たちなりに、託されたものを

育て上げて、御国に移ることは可能なはずです。  日々の信仰生活を大切に扱い

たいものですね。


 

John Newton, 1725-1807, and his Amazing Grace


    姪の一人が先日電子メールを送って来ました。  『アメージング・グレイスが
讚美歌だなんて知らなかったんですょ』ということでした。  全くそのとうりです。
キリスト教信仰の真髄に触れる讃美歌の一つなのです。  曲は心の奥に訴えますし...
10月20日号で紹介しておきましたが、作詞家クーパーと組んで、讚美歌史の中でも
有名なオルニー讚美詩集(以下讚美歌集)を纏めた人がジョン・ニュートンという
人だと紹介しておきました。  これまでにも幾度か礼拝席上でジョン・ニュートンに
就いて説明しておきましたが、今回ここに改めてジョン・ニュートンに就いてご説明
しておきましょう。

ジョン・ニュートン ジョン・ニュートンの敬虔な母はジョンが7歳の時にこの世を去ったのでした。
  地中海航海船の船長であった父はそのすぐ後に後妻を迎えることになり、息子の
ジョンを寄宿舎付きの学校に預けてしまいました。  無分別で厳しい教師との出会い
は幼いジョンの心を痛めつけ、勉強する気持ちを無残にも踏みにじってしまった...と
ジョンは回顧しています。
 
  ジョンが10歳になった時に学校を飛び出してしまい、翌年ジョンが11歳になった時
に父親の船に乗り込んで船乗りとしての人生を始めました。  こうして船乗り人生を
始めたジョンの青春時代は、多少の宗教心を残しながらも、全体的には船乗りらしい
波瀾万丈のものであったようです。幼くして自らの意志で学校を飛び出してしまった
ジョンは、後になって読み書きに相当に不自由を感じることがあったようです。
 
  さて、ジョンにとって、船乗りとしての典型的なパターン、すなわち酒色に溺れ、
反抗心に満ち溢れた「どぅーしょーもない」船乗り人生が始まったようです。
  14歳の時にイギリス人の女の子に一目惚れの恋に陥り、それから7年間は彼女への
ひたむきな想いがジョンを守ることになります。  この出会いは彼の後の人生にとっ
て大切なこととなります。
 
  1743年、ジョンが17歳になった時のことです。  格好のいい「海軍戦士殿」に憧れ
たジョンは結果的に徴兵されてしまいました。  地中海航路の船乗りであった父は
その影響力を行使して何とか息子を兵役から免除させようといろいろと手を尽くした
のですが成功せず、そこで息子のジョンを大英帝国海軍少尉候補生にさせるようにと
段取りをしました。  この方法ならジョンが海軍将校になれると父親は考えたからで
した。  尚、父親は大英帝国海軍の艦長さんだったという説を聞いたこともありまし
たが、残念ですが、今となっては定かではありません。
 
  しかし、息子のジョンにはおやじさんの思いは通らず、反抗し、自暴自棄に陥り、
兵舎から脱走し、逮捕・投獄され、公衆の面前で鞭打ち刑に処せられるという始末で
した。  このような経過を経たジョンにとって、落ち着く先は荒れ狂った船員生活と
いうことになりました。  これら一連の荒れた青春期を体験したジョン・ニュートン
は、ますます自暴自棄に陥り、自分自身を憎み呪う青年になっていったのでした。
 
  このようにして、大英帝国海軍は「ならず者兵士」ジョン・ニュートンを名誉ある
海軍から追放するに到ったことを喜び、元大英帝国海軍兵卒ジョン・ニュートン殿は
アフリカ航路の奴隷船の船員に身を落としたのでした。  数ある各種の遠洋航海船、
漁船、貨客船などの中でも奴隷船は最低・最悪の種類の船であり、職業でもあったの
です。
 
  ジョン・ニュートンは奴隷船から奴隷船へと渡り歩き、ある時には奴隷船の船員と
して、また或る時にはアフリカ沖の島々やアフリカ大陸で直接に奴隷売買の仕事に
従事しましたし、最終的にはジョン自身も奴隷船の船長にもなるのです。
 
  また或る時にはジョンは奴隷船を降りてアフリカ大陸西端シェラ・レオネ沖の小島
で白人奴隷商人の下で働かざるを得なくなっていました。  その白人には黒人奴隷の
妻や妾たちが大勢いました。  酒色に溺れ身を持ち崩し、どん底まで堕ちてしまった
ジョンは、その奴隷商人の下で厳しい辱めの生活を強いられていました。
  満足に食べる物を得る事もできず、半ば餓えた状態にいました。  白人奴隷商人の
奴隷妻や妾婦たちの男奴隷に自分自身を売り払ってしまっていたのでした。
  耐え難い困窮状態の中で、ジョンは14歳の時に出会った祖国の少女を思い出し、
また、あれ程までに反抗し尽くした父に窮状を訴える手紙を送り、それを知った父親
や幻の恋人の努力で、他の商船の船長によって贖い出され、ようやくそのような最悪
状態から救出されたのでした。  ルカ伝15章の放蕩息子の譬と同じです。
 
  奴隷船は、例えば、具体的に、英国から鉄砲や火薬などを積み込んでアフリカに
商品を届け、代金の代わりに金塊や奴隷を(嘗て今から半世紀も前の留学時代に習っ
た讃美歌史の教科書には 600人前後の奴隷だと書かれてあったと記憶していますが)
物々交換で入手し、船一杯に積み込んだ「積荷」を乗せて大西洋を越え、新大陸、
即ち南北アメリカで奴隷を売りとばし、そこでも代金の代わりに藍や米や綿や煙草
などを積み込み、再度それらを英国に運んで利益を得るという、いわゆるバーター
取り引きをやっていたのです。  奴隷の他にも、蜂蜜や蜜蝋、染料用植物類、香料な
ども貴重な船荷だったようです。
  例えば、英国・アフリカ西海岸・ブラジル・ニューファンドランドなどを沢山の
奴隷船が回漕していたのです。  そして寄港する度に巨万の富みが蓄積されていった
のです。  今とは違い、命がけの航海だったようですから船員たちも荒れ狂った者
たちばかりであったものと想像されます。
 
  1748年3月10日、23歳のジョン・ニュートンはそのような奴隷船に乗っていた時の
ことでしたが、時間を弄んでいましたので、トマス・ア・ケンピス Thomas a Kempis
  著の(オランダの修道士で、一種の「クリスチャン共同生活兄弟団」-仮訳-を
主張した霊的指導者、1379~1471)『キリストに倣いて』De imitatione christi )
(邦訳:由木康)を読んでいました。  霊的な本ですから皆さんにも一読をお勧め
いたします。  当日、珍しくジョン・ニュートンは酒を呑んでいませんでした。
  殆ど文盲にも等しかったジョンにとって、トマス・ア・ケンピスの本を読むことは
難しいものであったと想像しますが、とにかくこの霊的修道士の書は、それまでの
荒れすさんでいたジョンの心を激しく打ったのでした。  著者の深い霊性に触れた
ジョンは、それ迄の荒れ狂っていた生活に軌道修正を促す動機を与えることになった
のです。
 
  それから間もなくジョンが乗っていた奴隷船は恐ろしい嵐に遭遇し、難破寸前まで
追い詰められて、ジョンを改心に導く体験に到る肥料役をこの本が勤めたものと言え
ます。  神さまの摂理と恩寵、聖霊の働きだといってもよいでしょう。  嵐が船を
襲った時、ジョンは他の船員たちと共に、朝の3時から昼の12時までの間、ずっと
浸水して来る海水の汲み出しに命がけの作業を挑むことになりました。  積み荷の
殆どを荒海の中に流してしまい、嵐の後の4週間というものは食べる物が殆どなかっ
たということでした。
  更に困ったことに、遠慮会釈なく押し寄せる荒波の中で木の葉のように揺られてい
た船に乗っていたジョン・ニュートンは、情けないことに、泳げない船乗りだったの
です。  荒れ狂う波の中にあっては、泳げても泳げなくてもそれはもう大した問題で
はなかったはずですが、それでも泳げないジョンにとって、これは更なる死の恐怖
だったのです。  祈ったのです。
 
  このような瀕死体験の中でジョン・ニュートンはそれ迄の過っていた人生を悔い、
改心し、万が一にも助けて頂けるものなら、今後は主イェス・キリストに従う者と
なるとの決心を固めたのでした。
 
  そのような厳粛な体験があってから後もジョンは、まだしばらくの間、奴隷船の
船長としての生活を7年間ほど勤めました。  船上生活で荒れ狂ったならず者の奴隷
船の乗組員30名ほどを相手に、日曜日ごとに朝夕二回礼拝する時間を設けたり、彼ら
の生活態度の向上にも心を配ったようです。  船長として教養を得ようと読書する
努力もしたようです。  基礎的な学校教育から逃げ出したままのジョンにとって、
船上で読書することは決して易しいことではなかったようです。
 
  しかし、基本的に、奴隷船というもの、奴隷船の仕事というものそれ自体が、一般
社会の意識や価値基準から考えてみて、良く見られるということなどあり得ないもの
でしたし、長期の洋上生活というものは、突然に、しかも絶えず押し寄せてくる暴風
雨や嵐、伝染病、それに乗組員たちの背信や反逆、更に奴隷たちによる謀反などの
危険を孕むものであったのです。  いくどかそのような危険を髪の毛一本ほどの差で
かろうじて逃れることができたようです。  或る時には乗組員たちがジョンの奴隷船
を乗っ取る計画を秘かに立てたようですが、首謀者の内の二人が突然に病に倒れ、
他の一人も病死し、謀略が発覚し、事なきを得たこともあったそうです。
 
    このような荒れ狂った生活と、自分が従事している恐ろしい非人間的な職業に
ジョン・ニュートンは深く思いを巡らし始め、次第にそのような恐ろしい生活から
足を洗いたい、洗わねばならないと、そのように願い始めたのでした。
  久しく心に想っていたメアリーと結婚することもできましたので、奴隷船の船長を
辞めたいと心から願うようになったのです。  1750年2月12日、ジョンが25歳の時に
メァリー・カットレット嬢 Mary Catlett と結ばれたのです。  そして幸いにも船が
英国に投錨した時に、重い病に罹ったということを理由に、ジョン・ニュートンは
遂に奴隷船を下りたのです。
 
  初恋のメァリーと結婚したジョン・ニュートンはロンドンから北西約3百粁の所に
ある港湾工業都市リヴァプール(「濁った溜り水」の意)に居を構え、そこで次の
9年間を過ごすことになります。
  この町はロンドンに次いで2番目に大きな貿易港です。  伝統的に印度やアフリカ
や南北アメリカなどとの交易が盛んな港で、古くから綿花や綿製品、食料品、肉類、
穀物、木材などの輸入や機械類の輸出で栄えた港湾都市であったのです。  背後には
ランカッシャーやウエスト・ランカッシャーなどの商工業都市を控えており、その輸
入・輸出港としてなくてはならない港だったのです。  ジョン・ニュートンはリヴァ
プールで潮の干満を調査する港湾当局の仕事を得ました。  そしてまたジョンはその
時期に聖書を真剣に読み始め、教会の牧会伝道者としての準備に励みました。
 
  リヴァプール滞在中に彼はジョージ・ホイットフィールド George Whitefieldの
強い影響を受けることとなります。  ホイットフィールド 1714-1770は、新大陸での
第一次信仰大覚醒運動Great Awakening にも大きな影響を与えた説教者です。
  それ迄の彼は大英帝国国教会の伝統の下にあったのですが、ホイットフィールドら
  の非英国国教会的影響を受け、非国教会 the Dissenting Churchesと英国国教会
the Established Churchとの間で揺れ動くことになりますが、最終的には英国国教会
の方を選ぶことになります。
 
  更にジョンは、体制的で教会の権威や宗教儀式などの色彩の強い大英帝国国教会内
にあって福音を一般庶民の間に伝えようとして「真面目運動・キチンキチン運動」
(メソディズム運動の仮私訳)を提唱していたウエスレー2兄弟の強い影響も受けた
のでした。
  兄のジョン・ウエスレーは新大陸にも足を伸ばし、幾多の危険を冒しながら、馬上
巡回説教伝道者として活躍していました。  また弟のチャールズは「讚美歌の父」と
呼ばれている人です。 (John Wesley 1703-1791, Charles Wesley 1707-1788)
 
  日本の教会を例にとってわかり易く言えば、一般的に庶民的な教会、「ア~メン」
や「ハレルヤ」や「主よーっ!」を絶えず繰り返す教会、キリスト教信仰と言えば
自分と神さまだけ、自分の救いだけ、或は自分に関係のある身近の人々の救いのこと
だけしか考えられなくて、自分が生活しているこの世界、自分が置かれている社会の
中で起っているいろいろな事柄などには殆ど興味も関心も示さないような信仰理解を
する教派教会、例えば、その代表的なものとして、御茶の水をエルサレムとする、
いわゆる保守的で、原理主義的で、福音派と自称する教会グループがあります。
  その一方で西早稲田に本拠地を構えて、ともすれば宗教儀式が先行し、理屈や論争
がとかくお好きな日本基督教団的な教会、絶えず社会問題や社会正義や弱小民族の
人権問題などを採り上げる傾向がありながら、自分自身の魂の救いや信仰の霊性面に
は殆ど関心を示さない傾向がある教会...とでも、相当に躊躇しますが、仮にそのよう
に二つの特徴を持った教会があるのではないか...とでも申しておきましょうか。
  別な言い方をすれば「クリスチャン新聞」や「百万人の福音」を購読し、「聖歌」
を主として使う教会と、「キリスト新聞」や「信徒の友」や「福音と世界」を読み、
おおむね「讚美歌」を使う傾向のある教会‥とでも「便宜上とりあえず」そのように
大雑把に申しておきましょう。  勿論、その他にも、このどちら側にも属さない教派
や教会が沢山ありますけれど...
 
  日本のこのような現在の教会の在り方がジョンの時代のものと全く同じであったと
は申せませんが、それでも伝統的な英米型の教会では、日本の教会を含めて、基本的
にはそんなに差はないものと思います。  さしずめジョン・ニュートンは、このよう
な異なった特色があった二つの流れを汲む教会の間で身の振り方を決めかねていたよ
うです。  結果的に大英帝国国教会の方を選んだのです。
 
    さて、大英帝国国教会の監督・僧正さまの根強い反対や抵抗があったようで、
ジョンは仲々に聖職者に就くことができませんでした。  ダートマス卿の好意を得た
ジョンは、紆余曲折の末、最終的に英国国教会の聖職者として認められ、ダートマス
  卿の強い政治的圧力で、渋るリンカンの僧正さまからジョン・ニュートンは按手
(牧師になる一種の承認式のようなもの)を受け、ダートマス卿支配圏内のオルニー
村 Olneyに就任することとなるのです。  こうしてジョン・ニュートンはその村に
1764年から1779年まで逗留することとなります。  オルニー関連情報は後述します。
 
  尚、余談ですが、このダートマス卿 Lord Dartmouth と、米国合衆国最高裁判所の
既得権保護重視姿勢を表す判例として有名なニュー・ハンプシャー州ハノヴァー市
にあるダートマス大学との関係を調べてみましたが、私の調べた限りでは、どうやら
関係なさそうです。  英国にはダートマスという地名や人名は多いようです。
 
  元に戻って、殆ど文盲に近かったジョンが聖書を読み、ラテン語や旧・新約聖書の
原語のヘブル語やギリシャ語を習い、説教の準備をするということは並大抵のことで
はなかった筈だと思います。  彼自身の努力もさることながら、妻の隠された内助が
あったことを過小評価することはできないでしょう。
 
  その当時の大英帝国国教会の聖職者たちが滅多にやったことのない方法や手段で
ジョン・ニュートンは福音宣教に励みました。  自分の村の教会堂だけではなく、
どこでも、とにかく大きな建物があれば、そこで「改心した船長」という触れこみで
福音を語ったのです。  ジョンは晩年ロンドンに移り住みますが、ロンドンやその
近辺の大聖堂であれ小さな教会堂であれ、説教に赴く時には必ず奴隷船員のいでたち
で聖書を片手に出かけて行ったと語り伝えられています。  「親分はイェスさま」の
先駆者?だったようです。  但し、現在の日本の一部の教会のように、極めて自己
顕示欲の強い、派手な自己宣伝をやったとはとうてい考えられません!
 
  大英帝国国教会の形式ばったものを好まず、大衆の中に入って行ってジョンは福音
を語ることを得意としていました。  常に自分の罪深い荒れていた人生を語り、神が
そのような自分を憐れみ覚え、どのようにして恩寵の中で自分を創りかえて下さった
のかをわかり易く切々と説いたのです。  ダートマス卿の承認を得て、卿が所有する
荘園別荘や大きな納屋を利用し多くの人々を招いて福音を語ったのです。
  庶民・農民をこよなく愛したジョンの姿勢は、それまでの国教会の礼拝形式や伝統
に拘らず、極めてわかり易く福音を説いたので、人々の共感を得て、教勢はどんどん
増えていったようです。  集会に参加する人々が増えたので教会堂の一部を増築しな
ければならなくなったそうです。
 
  当時の(そして現在も?)英国国教会では礼拝時に定められた祈祷書や交読文を
使っていました。  しかしジョンはそのような形式的なものを中心にしたものだけに
縛られることを決して好まず、沢山の讚美の歌を会衆一同と共に大きな喜びの声で
神さまに捧げたのです。  このことは当時としては画期的だったとも言えますし、
非常識な冒涜行為だったと誤解されかねない行為であったと想像するのです。
  国教会では定められた祈祷書を用いることになっていたそうで、「朝の祈祷文や
夕べの祈祷文を読めば人々は宗教的になる」と教会は考えていたようです。
  然し、このようなことで満足するジョンではありませんでした。  ダートマス卿に
おねだりして空家となっていた伯爵家の別荘を使い伝道活動を開始したのです。
  火曜午後には子供たちを集めて聖書を教え、夕べには老人たちに福音を語ったので
した。  このような型破りなことをする英国国教会の教区司祭などジョンの他には
一人もいませんでした。
 
  既に述べましたが、英国教会の規定祈祷書として使用されていたスターンホールド
・ホプキンズ書 Sternhold and Hopkinsからの詩編斉唱をやめて、ジョンが会衆を
教え導くのに相応しい、霊的要求を満たす、福音を単純明解にほめたたえる讚美歌を
用いたり、アイザック・ワットの讚美歌を採用したり、自分で作詞したものを使って
礼拝や集会を神に捧げるものに相応しくしようと努力をしていたのです。  これには
隣人で仲間のウイリアム・クーパーの協力があったことは当然のことでした。
    ワットは今では「英語讚美歌の父」の一人として考えられています。  日本語
讚美歌には17曲、聖歌には14曲が使われています。
  クーパーと組んでジョン・ニュートンが1779年に発表したオルニー讚美歌集は、
その翌年に発表されることになるウエスレー讚美歌と並んで、その後の全世界の教会
に大きな影響を与えるものとなったのです。  讚美のためにも、詩の朗読のためにも
暗記するためにも優れた信仰告白の詩集なのです。  軽視しがちですけれども...
 
  脱線ですが、私たちの八ヶ岳集会で私たちが神さまに讚美を捧げる時に、そして
これは日本の多くの教会に共通している好ましくない傾向だと思うのですが、私たち
の讚美する姿勢はとても良くありませんし、表情も喜びに満ちたものであるとは決し
て言えません。
  自分の好きな讚美歌や聖歌、歌いたい聖歌や讚美歌がある筈だと思うのですが、
無感動・無表情・無感覚・無関心のような印象を受けます。  神さまに対して捧げる
感謝と喜びの歌、神さまご自身を讃美する歌だというのにです。
  讃美の詩を熟読しますと先輩たちの命がけの信仰姿勢を学ぶことができますし、
一つの讃美歌が生まれてきた背景を学び想像するだけでも感動するものです。
同じ詩でも讃美歌と聖歌では翻訳が違います。  同じ讃美歌と讃美歌II集と讃美歌21
とでも翻訳が違うのです。  調べるだけでも教えられます。
 
  日本の殆どの教会では讃美することの意味や大切さが殆ど理解されていなことを
憂います。  上手に歌いたいというと、すぐに技術的・テクニック的に安易に職業的
音楽家を招いて指導を受けなければならないとか、特別に訓練されたクワイヤー、
即ち聖歌隊を結成しなければ讚美できないとか、楽器や上手なオルガニストを導入し
なければ駄目だ...というように誤解する傾向があるようですが、讃美を捧げる者たち
が、少なくとも今このひととき、他の人々と一緒であれ、自分自身独りであれ、自分
は聖なる神さまの御前に侍り出て、神さまを心の底から誉め称えているのだという、
厳粛でしかも歓喜に溢れる感謝の意識を持つことが必要だと思うのです。
  また、教会指導者も教会員のすべても、いろいろな種類の、いろいろな方法で、
神さまを讃美する歌を、教会全体がなるべく多く自分たちの信仰告白の一つの表現
方法として習得することに心を砕き、公同の礼拝であれ個人礼拝の時であれ、神さま
への讃美と礼拝を更に充実したものにしたいという願いと必要性を感じなければなら
ないと、そのように思うのです。
  私たちが御国に召されるまでに、少なくとも 300か 500ほどの讃美の歌を知ってい
ます、神さまを褒め称える歌を学びましたと神さまに申し上げられるように教会全体
が真剣に取り組む必要があると、私個人はそのように考え、願っています。
神さまを讚美する歌の種類や数が限られているなど私はおかしいと思うのですが...
 
  ジョン・ニュートンは、自分で自分の心の奥底の声を歌いたいと思った時に既存の
讚美歌集の中に適切なものを見いだすことが出来ないと知ると、自分で作詞して讚美
の数を増やして行ったのです。  そのような作業を手伝ったのが先月20日号の週報に
紹介しておきましたウイリアム・クーパー William Cowper でした。
 
  ジョン・ニュートンと同じように幼くして母を失ったクーパーは悲しい幼少年期を
寂しく送り、自殺未遂を3度も繰り返し、精神病院に収容され、初恋の女性とは結ば
れる事なく先に天に見送ったのです。  そのようなクーパーをジョン・ニュートンが
オルニー村に引き取って一緒に生活したと先月20日号の週報で紹介しておきました。
然し、クーパーは当時の英文学界では有名な人物でもあったのです。
 
  前述のように、1779年に到りジョン・ニュートンとウイリアム・クーパーの二人は
二人の共同作品としてオルニー讚美詩集 Olney Hymnsを世に送り出しました。  英文
讚美詩集として極めて優れた歴史的な企画が実現したのでした。   349篇の讚美詩が
収納されてありその内の67篇がクーパーの手によるもので、残りはニュートンの作品
です。  ニュートンの巻頭言によりますと讚美詩集の目的は「真面目なクリスチャン
たちの信仰を昂め慰めるもの」だそうです。  讚美詩であって楽譜はありません。
 
    オルニー村の教会での伝道牧会生活を終えたニュートンはロンドンのセント・
メアリ・ウルノス教会 St. Mary Woolnoth Church の牧会者として余生29年を過ごす
ことになります。
    ここでの牧会から東印度への宣教師として有名なクロゥディアス・ブキャナン
Claudius Buchanan や、聖書注釈者のトーマス・スコット Thomas Scott などが生れ
ています。
 
  またこの頃、英国の有力政治家であったウイリアム・ウイルバーフォース William
Wilberforce らと組んで奴隷貿易廃絶運動を興しています。
  ジョン・ニュートンのこの変化・成長は、まず最初に、過去における自分の魂の
惨めな在り方に気づき、自分の魂が神さまからほど遠い、罪の多い存在であることに
気づき、そして自分の過去の罪のすべてを赦してくださるのはイェスであると信じ、
このイェスを主キリストとして、また彼自身の救い主として信じ受け入れたのです。
このことは極めて大切なことです。  まずこの個人的救いの確信を得ていたのです。
 
  然しながら自分の人生の経験と信仰体験が深まり、広まり、高まって行くに従い、
彼は自分が置かれている社会的環境、宇宙的問題、社会正義の問題に次第に関心を
深めていったのです。  こうして彼は信仰者としても一人の人間としても奴隷制度や
奴隷貿易の悪を忌み嫌う者と成長し、嘗て彼自身が奴隷商人であったということ、
更に一時期、自分自身が女奴隷に仕える奴隷その者であったという、人さまにも言え
ないような惨めで哀れな体験を経た者であるという意識と経験を踏まえて、奴隷貿易
廃絶運動を擁護・推進する指導者の一人と変えられていったのです。
 
  これはあくまでも私見ですが、ルカ伝10章25節から37節までで主イェスが仰っしゃ
りたかった点と、38節から42節までで主イェスが諭された面を、ジョン・ニュートン
はその生涯に於いて上手に纒めあげていったと考えています。
 
  神に仕えると言いながら、世の煩いに心を奪われて自分の魂を御言葉の前に決して
差し出さなかったマルタと、旧約聖書を全部丸暗記する程に精通しながら、その実、
愛の社会的行為を全く伴わなかった律法学者の在り方の両方を鋭く指摘されたイェス
の言葉をジョン・ニュートンが奴隷貿易廃絶運動指導者に成長していったことと重ね
合わせて考えるのです。  信仰にはそれら両面が必要だと私は思うのです。
 
  前述のように、御茶の水の学生会館を中心とする諸教派も、西早稲田をエルサレム
とする教団とその関連組織も、共に主イェスさまの教会の一部を担っているのです。
決して一方だけに偏ってはいけないと思うのです。  主イェス・キリストの教会とは
そのようにちっぽけな狭いものではあり得ないのです。  コリント前書3章前半部や
12章を流れている使徒パウロの訴えからそのことがよくわかります。
 
  1807年にジョン・ニュートンは帰天しますが、この年に大英帝国議会は大英帝国の
総ての領土内で奴隷制度廃止を議決しているのです。  新大陸では当時の最西端僻地
であったケンタッキー州レキシントン郊外で開催された、米国教会史上極めて有名な
ケインリッジ・リヴァイヴァル・キャンプ・ミーティングが終わって数年たった頃に
当たります。  日本では文化3年、将軍徳川家斉が松前奉行を設置した年です。
 
  1790年に到りジョン・ニュートンに40年間連れ添っていた愛妻を癌で失います。
それからの19年間をジョンは独り寂しく過ごすことになります。
  1893年になって二人の遺骸はオルニー教会墓地に運ばれて改めて一緒に埋葬されま
した。  現在でも同地には花崗岩の墓碑が立っているそうです。
 
  文学的才能が完全に欠落している私に碑文を綺麗に紹介できるかどうか自信があり
ませんが、墓碑に刻まれている言葉を概訳してみますと次のような意味になります。
 
  『嘗ては神を信ぜず放蕩三昧に身を崩しし不逞の輩、アフリカ奴隷に仕えし者なり
しが、されどわれらの主にましまし、救い主にいますイェス・キリストの豊かな恩寵
により、罪の中にありし折でさえも護られ、死せる者どもの道から生き返らせられ、
  その罪を赦され、嘗てその信仰を打ち砕かんと久しく虚しい年月を費やししが、
実にその信仰を説かんがために任命されし牧師、ジョン・ニュートンの墓』
 
  余談ですが1947年以降、このオルニー教会では面白い習慣が始まったそうです。
受難節前の火曜日になると村の婦人たちや教会の婦人たちがパン・ケーキ(日本では
ホット・ケーキと呼んでいます)をひっくり返しながら村の中心地から教会堂までを
駆けて競うのだそうです。  優勝した者に向かって一同がアメージング・グレイスや
他のオルニー讚美歌を歌うのだそうです。
 
  1807年、ジョン・ニュートンが82歳で召天するまで、彼自身の惨めで哀れであった
人生を、それほどまで劇的に創りかえて下さった「驚くばかりの神の恩寵」、即ち
Amazing Grace に驚嘆と讚美を捧げ続けていたそうです。  この驚きと感謝の念こそ
がジョン・ニュートンの改心後の生涯を貫き通したテーマであったのです。
 
  ジョンがその終焉にさしかかろうとしているのを知った教会の秘書がジョンに、
『体力も視力も衰えてきているご様子ですから、そろそろこのあたりで御隠退を』と
勧めた時、『何だって!  この嘗てのアフリカの冒涜者の私が未だ喋れるというのに
黙れと命じるのか?!』と抗議したそうです。
  また、ジョンが死の床で漏らした最後の言葉の一つに、『私の記憶力は確かに衰え
ているが、忘れていないことが二つだけある。  その一つは、私こそ罪人の頭である
ということと、もう一つは、イェス・キリストこそが最も偉大で最も素晴らしい救い
主でいらっしゃるということだ』...だったそうです。  そして、彼は「偉大な人」と
いうよりも、「良い人 man of goodness」として敬愛されていたようです。
 
  アメージング・グレイス Amazing Graceの詩は6節から成り立っているもので、
Faith' Review and Expectation と題したものです。  『信仰人生の回顧と御国への
待望』とでも意訳すれば良いのではないかと詩文の内容から私は考えています。
 
  彼は嘗ての自分の罪深い人生が、ただ神の一方的な「驚くばかりの恩寵」即ち、
アメージング・グレイスによって全て赦され創り変えられたばかりでなく、当時の
欧米キリスト教世界が共通理解として待望していた、迫り来る主イェス・キリストの
  再臨と、イェス・キリストが支配される千年王国(黙示録20章)に思いを馳せ、
御国でイェスの「驚くばかりの恩寵」を永遠に讃美し続けるのだという確信を謳った
ものと思います。  (尤も、この願望を表す節は別人が加えたもののようです)
  そしてこの詩を支える聖句は歴代志上17章16節と17節です。
  ダヴィデ王は入って行って主の前に座して言った。  『エホヴァなる神、主よ。
私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を
導いて下さったのですか。  エホヴァなる神、主よ。  この私はあなたの御目には
取るに足りない小さな者でしたのに、あなたは、このしもべの家について、遥か先の
ことまで語り告げてくださいました。』
 
  この聖句からジョン・ニュートンは自分自身の悔いのみ多い人生と、それを完全に
赦して創り変えて下さった神の絶大な「驚くばかりの恩寵」、即ち Amazing Grace
を褒め讚える詩を書いたのです。  今から45年ほど前のバイオラ聖書大学留学時代に
学んだ讚美歌史で、ジョン・ニュートンのこの詩に最初は英国で別の曲がつけられて
発表されていたが、広く歌われることは決してなかったと学んだ記憶があります。
  この原曲を捜し出す努力を現在していますので来週にも目処がたつでしょう。
 
  詩が大西洋を渡って新大陸に上陸し新大陸南部の綿畑で歌われていた一種の労働歌
 Loving Lambs と合体した時から一躍人々の間で歌われ始めたと言われています。
ヴァージニア・ハーモニーという歌集の中で、現在私たちが知っている曲を付けたも
のが初めて紹介されています。
  1831年にヴァージニア州ウインチェスターで発行された Virginia Harmony です。
編集者はJames P. Carrellと David S. Clayton となっています。  19世紀代に南部
で発行された讚美歌集のどれにもアメージング・グレイスは出て来ていません。
知られるまでには更に時間が必要だったようです。
 
  さて、ここでアメージング・グレイスという詩にどのような曲(楽譜)がついたの
かに関しての情報を加えておきましょう。
 
  美しいアパラチア山脈の中に住んでいる友人で、ディサイプルズ教会の讚美歌学者
ディック・ヒューラン Dr. Dick Hulan さんと、私が所属しているアメリカ・カナダ
讚美歌学協会(仮私訳) The Hymn Society in the  United States and Canadaに
『ジョン・ニュートンの詩アメージング・グレイスに対して一番最初はどのような曲
がつけられたのか、現在知られている曲がつく迄にどのような曲が試みられたのか』
という質問を先週してみました。  前者からは即座に返事を頂きましたが、後者から
の返事には時間がかかることだと推測しています。  組織体ですから。
 
  前者からの回答によりますと、『1825年にケンタッキーで発行された或る歌集には
現在では良く知れ渡っている曲が書かれているが、上記のメソディスト教会牧師の
James Carellが書いたものではないことがわかっている。  然しキャロルは1821年に
別の曲集 tune bookを出版しており、Songs of Zion (仮私訳で「シオン歌集」と題
したものである。
 
    そのような訳でケンタッキー歌曲集 Kentucky Collectionの編集者はこの曲を
キャロルの歌曲集から入手していた可能性を排除できない。  然し問題は現時点では
キャロル歌曲集を誰も所持していないということである。  そのような訳でキャロル
歌曲集の中身を知る者がこん日どこにも誰もいないということである。
 
  1831年発行され数冊が現存していると考えられている貴重な Virginia Harmony の
一冊を私が持っているので、その中から楽譜を複写して送ってあげることは可能だ。
 
  その楽譜は Harmony Groveという名で、アメージング・グレイスとは別の歌詞が
割りつけられており、ジョン・ニュートンのアメージング・グレイスという詩に対し
て割り振られた曲ではない。  然しそれは歌詞こそ違うが曲そのものは現在世界中で
歌われている有名なアメージング・グレイスの曲そのものである。
 
  私の理解では、その Harmony Groveという曲がジョン・ニュートンの詩、すなわち
アメージング・グレイスと初めて組んで世に出たのが1835年出版のSouthern Harmony
が初めてで、その時には Harmony Groveが New Britainという違った名で発表された
のだ。  それも送ってあげよう。
 
  野村さんが訊ねてきた Loving Lambs という曲名は初めて聞いたもので今までその
ような名を聞いたことがなかった。  キャロルの歌曲集以前にもジョン・ニュートン
のアメージング・グレイスの詩にいろいろな曲がつけられて歌われていたようだが、
『これが最初の曲だっ!』と断言するのは正しくない。  最初は唯の詩でしかなかっ
たわけだから。  初期に歌われていたと思われる曲・楽譜の幾つかを捜してそのうち
にそちらに送ってあげよう』...と、このような返事でした。
 
  このような訳ですからディック・ヒューラン博士やアメリカ・カナダ讚美歌学協会
から新しい資料が届けばその時点で追加情報としてご紹介致します。
 
  尚、私が所有している約30冊のいろいろな英語讚美歌集でアメージング・グレイス
曲を比較し、そこに記入されている脚注を調べましたら、アーリントンという曲名で
歌われたていたと知りました。  聖歌 517「十字架の兵士たる」の曲でも歌っていた
ということになります。  Thomas A. Arne (1710-1778)が作曲したものです。
 
  また別の讚美歌集には、1829年に発行された Columbian Harmonyという歌曲集にも
アメージング・グレイスが掲載されていたようです。  この歌集では New Britainと
いう名で編集されていたものと推測しています。  編集者は Shaw's and Spilman と
なっていました。  歌曲集はケンタッキー州マディソンヴィルで発行されたものだと
その後の問い合わせにヒューラン教授が教えて下さいました。  Southern Harmonyと
は無関係だそうです。  この歌集に Shaw と Spilmanの名を付けるのは、それより前
の1825年にオハイオ州シンシナティで同じ名で出版された歌集があるからだそうで、
その方はテネシー州レバノンの人が編集したものだそうです。  混乱を避けるために
後から世に出た歌曲集にはショウとスピルマンの名が付けられています。  ショウと
スピルマンの名を付けた歌曲集で現存するものは1冊だけだそうです。
 
  義息チャック・パウロス Chuck Poulos さんの協力で知り得たホーム・ページから
入手した資料を含めて、ここでやや蛇足的脱線になりますが、オルニーやウゥーズ川
の情報をご紹介した後で、再びアメージング・グレイスの結論部に戻ることに致しま
しょう。
 
 

奴隷船内部 
 
留学時代の教科書The Gospel in Hymns 125頁から
冒頭:ジョン・ニュートン 上:1790年頃の奴隷船下層船倉内での拘束奴隷の配置計画図
(図は前部のみで後部も同じような収容計画。上層部船倉も同じ)
 



 

『ジョン・ロビンスン牧師』

★  先月末に第三番目の留学先の母校ペパダイン大学に教会史に関連する全ての資料
を寄贈してしまいましたので、正確で充分な情報を提供できなくなりましたが‥

★  ジョン・ロビンスン John Robinsonという、英国人で宗教家がいました。
正確ではありませんが、1575年~1625年を生きた牧師であったと思います。
  信仰的な理由で、イングランドからオランダに亡命した巡礼始祖たちに仕えた牧師
でした。  巡礼始祖というのは、別名でピリグリム・ファーザーズ Pilgrim Fathers
のことです。  1609年に分離派の一団と共にアムステルダムからライデンに移住し、
新しい教会を設立しました。  ピューリタンと呼ばれていた教群の牧師でした。
  そこから信者たちを、信仰の自由を求めるため、新世界アメリカに移住することを
促した牧師です。  ロビンスン自身は渡米せず、オランダで客死しています。

★  ピューリタン=分離派は、国家が保護・支援する国家宗教であった英国国教会、
すなわち、日本では聖公会と呼ばれていますが、アングリカン・チャーチと、神学的
見解の違いから分離独立を試みた、良心的なクリスチャンの一群でした。

  英国内で英国国教会による分離派に対する迫害と圧迫が増加するに従い、分離派は
海を渡ってオランダに避難したのです。  オランダで有名なチーズの産地、Leyden
で信仰の自由を得て信仰共同体生活を始めたのです。  そしてそこから新世界へと...

★  1619年に到りロビンスン牧師は信徒の中から35名を選び新世界への移住を促しま
した。  1619年と言いますと、わが国では、鎖国が始まろうとしていた時期です。
  新しく権力を握った徳川家が廣島城主福島正則の領土を没収し、独裁政治を振るい
始めた年です。  獨逸では30年戦争が始まっていました。

  ピリグリム・ファーザーズがメイ・フラワー号 Mayflowerで新大陸に到着したのは
1620年でした。  メイ・フラワー号のことに関する何冊かの専門書もペパダイン大学
に寄贈してしまいましたので、これ以上のことを紹介できなくなりました。
母校に Heritage Centerとか呼ぶ、教会史の歴史資料館を設立するのだそうです。

★  新大陸・新世界アメリカで、信仰の自由に基づく理想郷を設立することを願って
の渡航でした。  しかし全ての乗客が同じ動機で渡航を試みたわけではありません。
  1620年12月21日にメイ・フラワー号は、多くの苦難を乗り越えて、ようやく目的地
に到着しました。
  35名の信仰共同体を目指した乗客以外にも、新世界でのよりよい生活と稼ぎを求め
た66名も乗船していたと記憶しています。
  拙著「トーマス・キャンベル物語」第4巻 787頁に上陸地点の地図があります。

★  巡礼者たち、すなわち、ピリグリムズたちがライデン港を離れ、英国南岸経由で
新世界に向かうとき、ロビンスン牧師が巡礼者たちに語った告別のことばが遺されて
います。

  『夢多きはずの新世界での新しい生活よりも、神の御言葉の中から、もっともっと
たくさんの真理と輝く光が飛び出して来るであろう...』
  ロビンスン牧師も、おそらく新世界での信仰共同体を夢見ていたのであろうかと、
そのように私は推測するのですが、夢の新大陸を見ることなく、仮の宿り地ライデン
でその地上生活を終えたのです。

  しかしロビンスン牧師は、彼が仕えた教会の信徒たちに、どのような困難や個人的
犠牲が迫り来ても、神の言葉である聖書に忠実に踏み留まるようにと、絶えず説得を
繰り返していたのです。

  『妥協した真理などというものは、真理では絶対にあり得ない!』というのが
迫害によく耐えたロビンスン牧師の確信であったのです。

  己の救い主と決めたイェスへの信仰に対して、いろいろな理由からさまざまな形で
妥協を迫るこの国に住む私たちにとって、ロビンスン牧師の在り方、御言葉に対する
真摯な姿勢、学ぶことが多いと思います。  頭で学ぶだけではなく、実践することが
求められていると、そのように思うのです。  如何でしょうか?

  偉大な宗教改革者ジョン・カルヴァンは、『真理を犠牲にして、(神との)平安を
手に入れることは、これは絶対に不可能なことだ!』と語ったそうです。

★ 提案聖句  民数記23章10節、使徒行伝20章25節~31節、テモテ前書4章16節


 

『仕える者であれかし』


★  イェスを神の独り子、自分自身の救い主として信じ受け入れてから61年余になる
かと思います。  その後の日曜ごとに、いわゆる聖餐、主の食卓、パン裂きを一度も
欠かしたことがありません。  瀕死の重症の病床に在ってもです‥
  その間、コリント前書11章23節以下を、まじめな顔で読み続け、そのたびごとに、
イェスの十字架と埋葬と復活と再臨を覚えて来ました。

  しかしここに大きな落とし穴があったと反省し始めました。
それは今回の訪韓で教えられたことです。クリスチャンだと自称・自慢する韓国教会
の人々ではなく、クリスチャンではない、むしろクリスチャンに対して不信感を抱い
ている、常識のある一般韓国人たちが、自分の周辺の苦悩の中に生きている弱者に、
喜んで奉仕している姿に接することが多くあったからです。

★  ルカ傳22章27節で、主の食卓をせつに求め、これを設定されたイェスご自身が、
「仕える者となれ」と示し諭されたことを、私はこの61年間、ほとんど考えたことが
なかったという厳然たる事実です。  コリント前書11章23節以下に気を奪われ過ぎ
ていたのです。  私たちは「地塩世光として仕えること」に徹しなければなりません。

「主よ、主よ」という者のすべてが天国に入れないからです。  マタイ傳7章21節


 

詩篇46篇10節

汝等静まりて我の神たるを知れ
我は諸々の国の内にて崇められ
全地に崇めらるべし。

               詩篇46篇10節 文語訳聖書

 


苦しみは、塵から起こるものでなく、悩みは土から生じるものでない。
人が生まれて悩みを受けるのは、火の粉が上に飛ぶに等しい。
然し、私であるならば、神に求め、神に、私の事を任せる。
彼は大いなる事をされる方で、測り知れない、その不思議な御業は数え難い。
                                                                     ヨブ記5章6節~9節


★  上記のヨブの言葉の前半は、人というものが、母の胎から生まれ出た瞬間から、
幾多の試練や困難の中に在るということを語っています。  しかし不思議なことに、
なぜ、どうして...という疑問や質問をいっさいしていませんし、答えてもいません。

  日本語では、私は何年何月に生まれました‥と説明します。
あるいは、彼は何年何月に死にました‥と答えます。
そのことをおかしいとは思わないようです。

  一方、英語では I was born in 1931.と言いますし、 He is dead.と言います。
そこには、自分の意志や希望で、自主的に誕生日を選んで生まれてきたのではないと
いうことが表現されています。  また、本人の自由意志や希望で死亡したわけでない
ことを意味しています。  英語の場合、受け身形で始まり、受け身形で終わっている
のです。  日本語のほうが詩的で、英語のほうが現実的だと私は思います。

★  確かに私たちは私たちの自由意志でこの世に生まれて来たわけではありません。
自分の希望や意志で両親を選び、兄弟姉妹を選び、国籍や性別を選んで、自分で納得
して自分の決めた年月日に生まれて来たわけではありません。  すべて受け身です。

  そして通常の場合、この世を去る時も、時や場所や状況を選んだうえで、納得して
去って逝くわけでもありあせん。  出生と死去という、自分自身の人生の最初と最後
の二つの点を、自らの意志と希望で選ぶことなく、他人の世話にならなければならな
いのです。  避けることができない二つのマイナス点が私たちの人生にあるのです。

  そして、これら二つの点のあいだに、私たちの苦悩の人生が在るのです。
これが私たちの置かれている厳しい現実です。  その現実の中で、私たちの性格も、
私たちを取り巻く環境の中で、作られてゆくのです。  自分の意志による選択という
こともあるのでしょうが、たいがいは育てられた環境が、私たちの性格・人格を形成
してゆくようです。  これもまた、マイナスの中で、そのように形成されてゆくよう
です。  自分の意志だけで、希望だけで形成する、できるというものではないように
思います。  人生とは、厳しいもののようです。

★  そのことで思うのですが、ルカ傳19章は、イェスが一人の男と接触されたときの
劇的な出会いについて語っています。  ルカの描写によれば、彼の名はザアカイで、
「純粋」という意味のようです。  そして彼を「背丈が低い男であった」と説明して
います。  名は純粋という意味の背の低い男でしたが、職業となりますと、彼の名に
相応しくないように思えます。  正確にどのように説明してよいのか躊躇しますが、
格好よく言いますと「ローマ帝国税務徴収のために働く職員」、別の表現をすれば、
「人々が忌み嫌っていた、情け容赦をいっさいしない法外な高利貸し」というように
なるのかと思います。  このできごとからもイェスの愛の広さ深さ高さを学びます。

★  最初にヨブ記5章7節を紹介しておきましたが、人がこの世に生きている限り、
いろいろな悩みや悲しみや惑いを経験するのは、火の粉が空中に舞い上がるのと同じ
ほど「あたりまえ」のことだと、あらゆる災害を個人的に体験したヨブは、そのよう
に考えているようです。

  そしてその多くが、必ずしも彼の責任ではないところから、彼自身と彼自身の責任
以外のところから、ヨブが招いたわけでもないのに、ヨブに向かってやってきた災害
であるようです。  ここにザアカイとの共通点を私は見いだせるように思えます。

  ザアカイは自分自身の意志や希望で、「背丈の低い男」に生まれて来たわけでないと
思います。  人は自分自身の人生のほとんどの部分を、自分自身にとって一番大切な
自分自身というものを、選ぶことができないままで生まれて来ましたし、同じように
自分自身の意志や希望に添ってこの世を去って行くということもできないのです。

  人はだれでも、自分の両親や兄弟姉妹や家柄を選んだり、納得して、喜んで生まれ
て来たわけではありません。  自分の性別も名前も顔形も背丈も選べませんでした。
人種や国籍も選べませんでした。  そして、自分の性格というものも、多くの場合、
自分が生まれ育った(本当は受け身形でこれらを言うべきでしょうが‥)周囲の環境
に大いに左右されて形成されて来たように思えます。

  一番大切なはずの自分自身というものを、私たちは自らの自由意志で選んだり希望
することができなかったのです。  自分という存在が、自分で選んだわけでもない母
の胎に宿った、いや、むしろ宿らさせられた瞬間から、私たちは自分自身の意志で、
希望で、私たちの人生を始めたわけではなかったのです。  マイナスだらけです。

  ルカが「背丈の低い男」と説明したザアカイに、私たちはこれらのマイナスを全部
見ることができるのです。  そしてまたほとんどの場合、自分自身の意志や希望で、
私たちはこの世を去って逝くわけではありません。  自分の死という、厳粛な時点に
おいても、またマイナスで終わるのです。

  数えられないほどたくさんのマイナスを背負って生まれて来た私たちは、ほんとに
多くの溜め息と涙の大海原の荒波の上でかろうじて浮き流されながら何とか生きて、
そして死が訪れた瞬間にこの世を去るのです。  マイナスで始まり、マイナスで終る
のです。  このことは、ドイツやフランスの実存主義哲学によっても、絶対に解決
できない、重大課題であり、解決不能の最大の問題でしょう。

★  ルカ傳19章のザアカイ物語に戻って考えてみますと、人間には絶対に解決不能の
マイナスで始まり、マイナスで終る、ザアカイと私たちの人生のド真ん中で、唯一の
プラスが生まれてくるというのです。

  背丈が低いということで、ものごころがついたときから、ザアカイは他者から言わ
れのない、残酷無比な蔑視と差別という重荷を背負わされたままで、多感な幼少期や
青春期を、ただひたすらに耐え抜いて過ごす以外に、マイナス人生から脱出する方法
も手段もなかったのです。

  この苦痛は彼の心を歪めて行きました。  高利貸しという手段で、不当に彼を卑し
めていた人々に、残酷な復讐をしかけていたのでしょう。  それが人々を、ザアカイ
を憎ませたのです。  憎しみは憎しみを生み出すだけでした。  救いのないザアカイ
の苦闘人生であったのです。

  そのような孤独孤絶感の中でザアカイは、イェスを一目でよいから見たい...という
願いを抱いて高さ3メートルほどの、一種の桑の樹に登ったのです。  救いを求めて
いたのです。  そこに救いを与えるイェスが通り掛かったのです。  イェスの側から
ザアカイに声がかけられ、ザアカイは、まったく別人に生まれ変わったのです。

  生まれ変わったザアカイは、人々から不当に奪っていた財貨を、何倍にもして返還
したのです。 ザアカイの改心の誠実さを、ルカは物語っているのです。 マイナス
人生の中から、イェスに出会ったザアカイは、自らの意志で、プラスの人生を始めた
のです。 イェスに出会うということは、180度方向転換をするということです。

  クリスチャンも、イェスに出会って、本当に生まれ変わった‥というのであれば、
価値感覚がまったく変わった新しい存在として、ザアカイのようにプラスの人生観を
持って歩み出さなければならないはずだと、私はそのように考えるのです。  如何?

★  マイナスだらけの人生の中で、あらゆる苦悩や苦難を体験したヨブも、5章8節
で、「それでも私は神に求め、神に私のすべてを委ね任す...」と告白しています。
  そしてその理由として、9節は言います。  「神は大いなることをなさるお方で、
そのなさることは測り知れないからである。  その不思議な御業は数え難い」と信仰
告白をしています。

  逆境のド真ん中に生きたヨブもザアカイも、神の愛に触れて、呪っていた自分自身
のマイナスだらけの人生を、自らの選びで、プラスに変えることができたのです。

★  イェスに出会うということは、頭だけの知識や智恵とはまったく別な次元のこと
です。  生きることそのものが、その根底からひっくり返されるということです。
神の愛の内で、新しい関係の中で、新しい価値基準の中に創り変えられるということ
です。  みなさんも、マイナスだらけの中でもたもたしていないで、プラスの人生を
与えてくださる神さまの無限の恩寵に触れて、イェスの愛の下に宿ってください。

★(今週後半部に私はソウル歴史博物館が主催します「異邦人が嘗て見たソウル」と
題した写真展の開幕式に出席します。  このため週報「ベタニヤつうしん」来週号も
内容がタブロイド式になります。  ご理解を賜りますようにお願い申し上げます)
 

                                                                           文語聖書  ルカ傳12章20節

★  今週は留学第三番目の母校、ロサンゼルス郊外にあるペパダイン大学が新設した
歴史資料館に私が所有しておりました教会史関連の図書、写真、雑誌、個人的書簡等
を寄贈したいという私の願いに応えて、同資料館長に就任されたジェリー・ラッシュ
フォード教授 Dr. Jerry Rushford が来岳され、資料の箱詰め作業をされました。

  早朝から深夜まで、ずいぶんと精力的な箱詰め作業が続いていました。
新聞受けから新聞を取り出すことも忘れていましたし、テレビを見ることもできない
ほどの忙しさでした。  当然のことですが、その間に起こっていた南太平洋やインド
ネシア方面の大きな地震のことを知るよしもありませんでした。

  災害は予期せぬ時に襲ってくるものです。  梱包作業が終わり、教授が離岳された
後で、ようやく新聞を読み始めて、地震のことを知りました。

★  かつて私が東京YMCA英語学校で教鞭をとっていた時のことですが、高度成長期に
入ったばかりのころ、たくさんの勤労青年たちが同校夜間部に学んでいました。

  『もし今晩、あなたがたが死ぬとわかったら、今からどうしますか?』と質問した
ことがありました。  予想だにしなかった質問に青年たちは戸惑い、不快感を表し、
いろいろな意見や解答が飛び出したことを、今でも鮮明に記憶しています。

★  どのようなことが私たちの周辺で起こっても、また、どのようなことが私自身に
起ころうとも、神さまは不変でいらっしゃり、永遠はそのまま微動だにせず残るはず
です。  神さまのことばも不動のままで残るでしょう。  人間だけが無力です。

  どんなに私たちが財貨宝石品物を持っていようと、私たちは予期せぬ災害の前には
手の打ちどころがないものですし、私たちの命そのものが、一方的に、突然に召され
るという事実の前に、私たちは余りに無防備であり、無力なのです。

  ペパダイン大学に送り出したたくさんの書籍があった場所は、今はカラッポです。
取り出すために移動し、残された書籍や、本箱や本棚、その周辺に置いてあった品々
が、今では部屋中に、床の上に散乱しており、手のつけようもありません。

  インドネシアの地震跡地をテレビのニュースで見る限り、交通手段や救出用重機が
不足している現状では、人間の出来ることは、実に限られていると、無力感が人々を
襲っているように見えます。

★  物質を豊かに持つことが人生の豊かさを保証しているわけではありません。
ヨブが言いましたように、私たちは裸で母の胎を出てきました。  そして、私たちは
再び裸で神さまの前に戻って行かなければなりません。

  この世に生きている間に、神さまから私たちに託された金銭財宝も、この地上人生
を快適にするための便利な品々も、これらを背負って神さまの裁きの場に赴くことは
できないのです。  どこかでそれらをこの地上に残して、裸で、独りで、去って行か
なければならないのです。  dying broke ...  裸で去って行くこと、一文なしでこの
世を去って行くことへの理解と納得、その決意が必要です。

  他者に分け与えることができる限界‥  それは与えることの能力の限界と関係して
いると、 C.S. Lewis ルイスがじょうずに説明しています。  如何でしょうか?