2009年8月アーカイブ

マタイ傳17章8節

『彼らが目をあげると、イェスのほかには、誰も見えなかった』

                             マタイ傳17章8節

 

『獣道・けものみち』


★  辞書で「けものみち・獣道」を調べてみました。
「鹿、猪などの通行で自然につけられた道」という簡単な定義がありました。

  私ども老夫婦は、私たち自身の健康維持のために、保護中の犬を連れて山中を散歩
します。  ベタニヤ・ホームのすぐ裏にも、いわゆる獣道が何筋かあります。
獣道で猪の糞を目撃することもありますが、だいたいは鹿が往来しているようです。

  動物たちが頻繁に往来するので自然に道ができあがってゆくようです。  人も獣も
往来しなくなると、たちまち草木が生い茂ります。  そして通行が難しくなります。

★  獣道を眺めて思うのです。  私と神さまとの間にあるはずの、「祈りの道」は、
雑草がボウボウ生えている道なのだろうか?  それともしばしば「祈りの道」を往来
しているので、雑草木が道に生えることもなく、安全に通行できるのだろうか?

  神さまにお会いするために自分だけが密かに通る、神さまと自分だけが知っている
秘密の「祈りの道」の状態はどうなのでしょうか?  皆さんの道は如何でしょうか?


 


★  ときどき紹介したことがある、私淑しています、カリフォルニアの福音伝道者の
ディヴィッド・ジェレマイアさんが、「積極的に生きる」とでも仮私訳できる文章を
書いておられました。

★  日本語の表現を借りれば、「石橋を叩いてみてから渡らないことを決めた男」と
なるのでしょうか‥、そのような男がいたそうです。

  笑うということがなく、遊ぶということもなく、危険と思われるようなことを一切
やらず、冒険はやらず、どのようなことにも決して挑戦せず、歌は歌わず、お祈りも
しない‥という男がいたのだそうです。  恋愛をしたかどうかは聞きませんでした。

★  その男が死んだとき、生命保険会社が保険金の支払いを拒否したのだそうです。
「その人は生前に生きている証拠をまったく示さなかったのだから、生きていない人
が死んだということはあり得ない」‥というのがその理由であったそうです。
いかにもアメリカ人らしい、具体的で実践的な発想だと、笑うわけにはゆきません。

★  私たちは生きている...と言うのであれば、同じことが問われていると思います。
神を信じている‥というのであれば、そのことを何かの形で私たちの在り方によって
示さなければなりません。

  神が私たちを愛してくださっている‥と信じているのであれば、その愛を受けた者
として、私たちはその愛を私たちの在り方を通して、周囲の人々に示さなければなり
ません。

  神の愛が私たちの内に宿っているようには見えない、あるいは、神の愛が私たちの
在り方からにじみ出ているようには見えないとなれば、どうして人々が神の愛を信じ
ることが出来るのでしょうか。  私たちは、偽り者ということになります。

★  ジェレマイアさんの話を聞いて、そのように思いました。  皆さんのお考えは?


 


★  民数記23章10節の祈りを心の奥底で願い始めたのは半世紀以上前のことです。
そののち年月が矢のごとくに流れ去って、最近に到り、いよいよ私自身の地上人生の
終焉を強く意識するようになりました。

『願ネガハ くは義人タダシキヒトの如くにわれ死なん。
願ネガハ くは我が終オハリ 義人の終オハリ に等ヒトしかれ』
民数記23章10節  文語譯聖書

  その間に、不信仰による多くの紆余曲折や失敗を体験し、人々を傷つけました。
また、幾人かの心ない人々によって、人生の歩みを変更・蛇行させられる結果を招い
たような恐ろしいことも幾つかありました。  伝道者としての存在を根底から否定・
抹消させようとする恐ろしいことをも体験させられことが幾度かありました。

  しかし、主の恩寵によってのみ、何とかここまで来ることができました。
『主はこの瞬間に到るまで私を助けてくださっている』と、サムエル前書7章12節が
告白していることに、私もまったく同感で、感謝を捧げています。

★  ピラトは手を洗ってイェスと関係がないと公表しました。  ペテロは主イェスを
知らないと言い張りました。  弟子たちはガリラヤやエマオの方に逃げ去りました。
  つい先日まで、『ホザンナ! 救いたまえ!』と叫んで、イェスがエルサレムに入
城して来るのを大歓迎したユダヤ人たちは、『十字架に架けよ!』と急変・絶叫した
のでした。

★  十字架上の強盗一人だけが、『主よ、我を憶え給へ』と信仰告白をしたのです。
どのようなときでも、主イェスだけは、私たちを見捨てることをなさらないのです。

  人に捨てられ、人に軽んじられても、イェスが私たち一人ひとりを見捨てることは
ないのです。  讚美歌 512番の2節に、慰めの言葉がそのように記されています。


 

★  ソウル歴史博物館が、10月8日~11月8日に亙り展示を計画している写真展に、
私がすでに贈呈しておきました2万駒前後の写真フィルムの中から選んだ写真を展示
するので、撮影に使用した写真機や、数十回の訪韓旅行記19冊をも併せて展示したい
のだが...ということで、旅行記を太陽光線に当て、風通しをしていた時に、金大中氏
が召天凱旋されたとの報道に接しました。

  ちょうどそのとき、偶然でしたが、日誌の中から、1974年3月27日に金大中先生の
ご自宅を、無謀にも、大胆にも、予告なしで、突然に訪問した頁を読んでいました。
韓国中央情報部(KCIA)による厳重な監視体制が敷かれていました。

  新村シンチョン と金浦空港との間にある東橋洞ドンギョンドン ロータリー三叉路の近くに
先生のご自宅があるということは、タクシーの運転手たちから聞いていましたし、
確かにその近辺を通るたびに、中央情報部員たちが乗っている自家用車があちこちの
要所に常時駐車していることからわかっていました。

  東橋洞の三叉路ロータリーから市内に向かって三つ目の通りを右折して、下り坂を
少し行くとY字路があり、その角が先生の自宅であることや、官憲筋の監視下にある
ために人通りがほとんど途絶えていることなどは、あらかじめ知っていました。

  韓国人の一戸建ての住宅の場合、だいたいは、正面入口の鉄製の門の右上か左上の
内側のどこかに呼び鈴のボタンが隠されているということも知っていました。
  しかし、金先生のご自宅のどこに呼び鈴のボタンが隠されているのかは知りません
でしたので、手を伸ばして探り出さなければならず、時間の経過と共に、迫って来る
はずのKCIA要員のことを思うと、ずいぶんと焦りました。

  ようやく探り当ててボタンを押しました。  家の中から誰かがやってみえる気配を
感じました。  誰だ?という問いかけに、日本から来た無名の福音伝道者だと返答し
て、鉄壁のような門がようやく開き、中に入れて頂くことができました。  ずいぶん
と緊張しました。  わずか2、3分のことでしたが、長い時間のように感じました。

  よくもまあ無事でご自宅を訪問できたものですし、ホテルに戻ることができたもの
でした。  逮捕されていれば大統領緊急措置違反で数年間を刑務所で過ごさざるを得
なかったものと思います。  もちろん、そのことも覚悟の上の単独訪問でした。

  ブルーのダブルのスーツを召され、手には紫煙のパイプがありました。
李姫鎬イ・ヒホ令夫人も同席なさっていらっしゃいました。  正面門から室内までを案内
してくださった若い男性が、息子さんであったのか、用心棒であったのかはわかりま
せんでした。  盗聴を警戒して、小声で話し合うとか、筆談で話をするとか、わざと
ラジオの音量を大きくするなどということは、なかったように記憶しています。

  顔に傷跡だか痣が残っていたような記憶がありますが、先生は落ち着いた姿勢で、
熱心に韓国やアジアの平和をどのように構築して行けば良いのかを語られました。
  クリスチャンは、社会に対して、社会不義に対して、とりわけ貧しい人々、社会的
に、政治的に、経済的に、謂れもなく虐げられている人々に対して、大きな責任があ
ると、クリスチャンの社会正義具現化の責任を熱心に、そして淡々と説かれました。

  主イェス・キリストがこの世においでになったのは、僅か数人の選ばれた者たち、
特権階級の人たちのためではなく、おびただしい数の貧しい人々、この国のブルー・
カラーの人々のためであった。

  しかし、この国、韓国の教会の在り方、自称・他称「牧師先生サマ」中心主義や、
豪勢な教会堂など建物中心主義信仰は、どう考えて見てもおかしい‥  なぜならば、
牧師も教会も、貧しい人々を忘れているからだ‥  福音が社会との関係で正しく把握
されていない、独り善がりなものになってしまっている‥  そして結果的に、権力者
に利用されてしまっている‥  こういうキリスト教はイェスのものではない‥

  また、一部の日本人上層部と、韓国上層部の一部が手を握り合うというようなこと
ではなくて、草の根の人々の交わりでなければならない‥  特に両国の将来、アジア
の将来のために、クリスチャン同士の草の根の交わりを培養して行かなければならな
い‥  モノやカネを基礎にした交わりは意味がない‥  人と人、キリストの愛に基づ
いた愛をベースにした交わりを拡張してゆかなければならない。

  韓国教会の自己主張には、下層部の貧しい難民に対する目はないと言える。

  日本赤軍派が清渓川チョンゲチョン スラムの住民と、私と組んで反乱を起こすなどという
提案には、極めて慎重にならざるを得ない。  活貧教会のことは関心を抱いている。
活貧教会が日本赤軍と組む気がないのなら、それ以上の無理をする必要はない。

  あなたのようなグラス・ルーツの奉仕の活動が今後の日韓のために、アジアのため
に極めて重要である。  そのために、今後もよく学んで、良く働いてもらいたい‥
などとおっしゃり、椅子から立ち上がるのが困難なようで、そのまま握手の手を差し
伸ばしてくださいました。  大きな手であったような記憶が残っています。

  会話は、英語や韓国語を交えながら、主として日本語で行いました。
記念写真は遠慮して撮影しませんでした。  万が一、帰路で官憲に尋問を受けたとき
に、先生側に不利な証拠となるかも知れないという配慮を私のほうでしたからです。

  ★  日本赤軍に直接関係のある人物のひとりで、住所が〒181 三鷹市深大寺 3903
佐々木一郎という男性が八幡山の自宅を訪ねて来て、活貧教会と金大中を連係させ、
さらに韓民統の指揮で、清渓川貧民窟住民を活貧教会が扇動し、蜂起させ、金大中と
連絡を採るように仕向けて欲しいと、そのようなことを申し込みに来たことがありま
した。

  その当時、東京に住んでいましたが、相当な緊張下で生活していました。
まさか日本赤軍が私に目をつけ、私を利用しようとしたことに衝撃を受け、警戒心を
深めたものでした。  キリスト新聞か毎日新聞に紹介された清渓川スラムの記事から
調べあげたのではないかと、推測します。  彼らは情報網を持っていたはずです。

  同じ深大寺の住所に住んでいた佐々木則夫の兄の佐々木詳が、丸の内連続企業爆破
事件や日航機ダッカ・ハイジャック事件に関係していたような記憶が残っています。


 

マタイ傳11章28~30節

凡て労する者・重荷を負う者、我に来たれ、われ汝を休ません。
我は柔和にして心卑しければ、我が軛を負ひて我に学べ、
さらば霊魂に休息を得ん。わが軛は易く、わが荷は軽ければなり。

                             マタイ傳11章28~30節 (文語訳)

 

『小さなこと』

★  『どうして茸ばかりを写すのか?』と長男が私に尋ねました。
『こんな寒村僻地では撮影したい人物はいないし、べっぴんさんもいないからさ』と
私は答えておきました。  雉の家族が庭に来て餌を啄ツイバ む季節も終わりました。
  フォックス亭にやって来る狐たちの撮影には飽きてしまいました。
鹿の群れが集まるには時期的に少し早過ぎます。  灰鷹や大鷹を撮影しようと願って
も高価な超望遠レンズを所有しているわけでもありません。  そうなれば、茸を廉価
な電子亀で接写するしか選択肢がないのです。  長男も納得したようです。

★  梅雨の合間を縫って原生林に入りますと、いろいろな色と形をした小さな茸たち
があちこちで群生しています。  群生している茸は白か枯葉色が多いです。
単独で生えている茸もあります。  紅色や、紅葉色、それに真っ赤なのもあります。
秋になれば、この時期に見られる茸とは違った色と形をした茸が生えてきます。

★  接写撮影のために最近特に捜している茸があります。  真っ赤で、鶏卵を立てた
形をしている小さな茸です。  卵茸タマゴダケ というのだそうです。  食べられる茸だ
と言う人もありますが食べる気にはなりません。  一寸法師よりも小さなサイズです。
  尤も、一寸法師を見たことはありませんが、一寸は約3センチですから、更に小さ
いサイズの茸です。  真っ赤です。地面に接する茎の部分は真っ白です。

  地面すれすれのサイズですので、廉価の電子亀さんでの撮影は困難です。
何枚か撮影して、その中から気にいったものを接写できれば満足です。そして、翌日
もういちど確かめに行きますと、卵型であったものが、見事に開いて、奇麗な茸型を
しています。  翌々日になれば倒れており、たいていは何かに食われています。  
花の命は短いので乙女は早く恋したほうがよい...とか言いますが、茸の命はもっと短
いように思います。

★  きのう玄関脇で見つけた茸は、枯れ葉一枚の上で育っている小さくて細い茸でし
た。  薄い枯れ葉一枚に身を託して、焦らず、慌てず、精一杯に、しかも与えられた
生命を悠然と、超然と生きている姿勢に、私は深い感動を覚えました。
  余りにも小さ過ぎて人の目に止まることのないような茸ですら、拡大して見てみま
すと、創造主の奇しき智恵と設計で満ち溢れており、美しく、完全な姿で、茸は堂々
と、精一杯に生きています。  小さいことは素晴らしいと教えられました。

★  さて、前置きがいつものように長くなりました。
ザカリヤ書4章10節を日本語訳と英語訳とで読み比べてみますと、違う印象を受けま
す。  英語訳をさらに仮私訳してみますと、『たとえ小さなことの初めであっても、
そのことの初めを蔑サゲス むべきではない。  なぜなら、主はそのことが始まったこと
自体を嘉ヨミされるからである...』と、まあ、このようになるかと思います。  小さな
ことはよいことなのです。  小さなことをも神は喜ばれるのです。

★  半世紀以上前に、赤貧留学生であった私は、朝4時に起きて、市電に飛び乗って
ロサンゼルスの中心街に向かい、太平洋相互生命保険本社の職員用食堂で働いていま
した。  8時になると、そこから5分ほど離れた別の建物、すなわち、バイオラ大学
の教室に飛び込み授業に参加し、11時までに三つの授業を受け、11時半から午後4時
まで再び食堂でバス・ボーイ(ウェーターや、テーブルから食器を下げ、テーブルを
整え、下げられた食器を洗うきつい仕事)をやっていました。  再び市電で5時半に
アパートに辿り着いた頃にはヘトヘトでした。  疲れ切って予習も復習もできません
でした。  生きること自体が、また、留学する意味すらを失いそうになるほどの辛い
日々が果てしなく続いていました。  ペパダイン大学院に入ってからも同じでした。

  この肉体的・経済的な苦悩に加えて、米国情報当局からの圧力、すなわち、日本に
帰国した後に、彼らの手先となるように仕向ける目的で、私を突然に「アカ」呼ばわ
りし、米政府転覆を企てる好ましくない外国人というレッテルを一方的に張られてし
まって、誰にも相談できず、独り途方に暮れるという精神的な苦痛があったのです。
工作の裏には、代々木八幡教会宣教師故Gが絡んでいたことも明らかになりました。

★  疲れ果てて、眠られず、太平洋を見渡す海岸に行き、日本の方に向かって一人で
大声を挙げて怒鳴ったことが幾度かありました。
  そのようなとき、自分の両手のひらを眺めたことがありました。
ペンを持ち、本を開くための両手が、大量の洗剤と水を使う皿洗いという厳しい肉体
労働でふやけてしまって、疲れ果てて役立たないほどになっているのを眺め、希望を
失いそうになっていました。  何のための両手なのか?...  アメリカに来て縊首する
ための両手?  そのような時に、何気なく出エジプト記4章2節を読んだのです。

★  『汝の手にある物は何か?』でした...  『エッ?  杖ですが‥  それが?』
厳しい荒野での羊飼生活に自分の生涯のほとんどすべてを使い果たし尽くしたように
思えたモーセに取って、命のない、乾き切った一本の杖は、自分の放浪人生の呪いの
しるし、希望のない、目的のわからない厳しい人生を生きてゆかなければならない、
老いてなお家族を養ってゆかなければならない自分の苦悩のシンボルである杖です。
モーセにしてみれば、あらためて眺めて見るのもいやな杖であったはずです。

  『それを地に投げよ!』  命じられるままに、無気力に、何気なく地に投げたその
杖が、モーセの想像を遥かに越えて、その瞬間に生きた毒蛇と変わったのでした。
そこからモーセの人生が変わり、イスラエルの将来が大きく変わりはじめたのです。

★  ヨシュア記2章1節~21節を読んでみますと、聖書がその名を記録していなけれ
ば永久に私ども人類が知るよしもなかったはずの、身分の卑しい女性ラハブが用いた
約束と救いの赤い紐のことを知ることを得ます。
  男たちに一方的に利用されることばかりの女と赤い紐がイスラエルの運命を変えた
ことを私たちは学びます。  ここでも神は小さな者、小さな紐を用いられたのです。

★  サムエル前書17章1節~58節には、日曜学校教材としてしばしば語られる物語、
すなわち、少年ダビデが巨人をパチンコと石ころ一つで打ち倒したことを記していま
す。  小さな男の子と、彼が用いた石ころ一個がイスラエルの運命を変えました。

★  士師記15章には、これ亦、映画にも用いられた、怪力サムソンが、驢馬の顎骨を
用いて群がる敵をやっつけたという、勇ましい物語が描かれています。

★  新約聖書に移りますと‥
ヨハネ傳12章1節~3節で、イェスが愛されたベタニヤ村で、マリヤが高価なナルド
の香油で満ちていた壺を割って、イェスの足に塗り、自分の髪の毛でそれを拭いたと
記録されています。  ベタニヤでの別の重要な話をルカ傳10章38節~42節が記録して
います。

★  最後に、使徒行伝9章36節~40節には、ドルカスという女性が貧しい人々のため
に衣服を作って与えていたことを学びます。  二千年前に縫製ミシンがあったわけで
はありません。  すべて手作業で、縫い針で、時間をかけて下着や上着を縫い上げて
人々に、とりわけ、家の教会に集まって来ていた人々に提供していたようです。

  以上のことは、すべて、小さな者が、小さな物を使って、神の御用に仕えたという
ことを表しています。  私たちも私たちに託されている物を、与えられている物を、
喜んで神さまの御用に捧げる喜びをさらに学んでゆきたいものです。  如何でしょう


 

やろう、やろう・・と思いながら、35年以上も経ってしまいました・・
如何にだらしないハラブジであるかということの証明です・・
敗戦記念日が近づいています・・

写真を撮影しました日に、茨城キリスト教大学生たちが、
鈴木政夫先生の指導のもと、ちょうどこの清涼里教会を
訪問されていた日でした。 当時学生であった安宅先生も含まれていました。
 
申ハルモニが大きな声で、『日本人前に出てこい! 謝れっつ!』と叫ばれました。
「おれたちゃ何もわるいことなんかしてないんだ・・」と、歴史を知らない日本の
大学生たち数名は戸惑っていました。 そのようなことがありました・・

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ソウル特別市東大門區清涼里チョンニャンニ 2洞203-53號居住
李興植イ・フンシク牧師が
申玉女シン・オクニョ 女史の回顧供述を1974年4月1日に筆記し
訪韓中の野村基之に託したもの
李興植伝道者の文章のまま。  注とルビは野村添加
野村基之撮影

申玉女-Shin,oknyo

1914年3月16日平安北道ピョンヤンプクド義州郡ウイジュウクン 月華面ウォルファミョンで出生 (注:現北朝鮮)
1933年平壌神学校ピョンヤン・シナッキョウに入学  時にお歳19歳
1934年20歳で開拓伝道   130余名の霊魂を主に導きました
1935年郭山教会クワクサン・キョウフェイ開拓  又  平和金崗洞教会ピョンファクムガワンドン・キョウフェイ 開拓

  然しこの時より神社参拝を拒否した為に警察署に勾留されました
七個月後解かれて梅峰教会メボン・キョウフェイを開拓し建築資金を募集する為にかけまわり勞れはてて畑の中にすたれ草を以て餓を癒したと言います。

  その時日本警察の弾圧が甚だしくやがては老会ノーフェイ (注:長老教会総会)が服し
て神社参拝をするようになるや勧士クォンサは同志と共に満州に逃れ撫順地方に着くも
逼害日に益し留まり得ず満州の吉林省に移り其処で伝道しました。
(注:勧士クォンサとは一種の敬称)

  ところが日本警察はそこに迄手を延し勧士は検挙されて安東警察署アンドンキョンチョルソ
 に十三箇月間未決囚として拘禁され裁判に於いて求刑十三年、宣告十年となりました。

  その時の問答は左の如しであります。

問=  お前は現日本国家に対して不平不満を抱く点は何であるか?
答=  神社参拝強要でございます。  神社とは皇室の祖先である天照大神を祭るので
      ありますからこれは一種の偶像礼拝だと思います。  偶像を崇拝するのは教理
      上許されません。  基督信者はキリストの子であって天照大神の子ではありま
      せん。

問=  お前の布教する活動は日本政府を亡ぼす企画かと認めるがどうか?
答=  イェス・キリストの再臨に依って日本国家のみならず総ての国家は亡ぶでしょ
      う。  日本の国家のみ依頼して居りつつその日本が亡ぶ時にはどうにもならな
      いから永遠の生命を望む信者達は不安でたまられず日本国家丈頼る譯にはなり
      ません。  又一歩進んで高い立場で考えると世の中に生きる人類の中成る丈
      大多数の人に伝道して永遠の生命を得させなければなりません。  日本国内で
      キリスト教徒が多くなると自然に国家制度を変更する事が出来、神社参拝強要
      の如き悪法も無くなりキリスト教を根本原理とする国家になりましょうから
      教役者たる私はこの信仰を拡張する布教伝道をしているのです。

問=  お前の布教伝道は我が国の国体変更を目的とする推行手段と認めるが如何?
答=  直接武器を執って反抗したい意志はありません。  が多くの人達がキリスト
      教徒になれば日本も現在の制度を保存する事は出来ませんでしょうから結果的
      に見ては国家変更の手段とも言えませう。

問=  只今の心境は?
答=  変わりがありません。  吾等が待望しているキリストが一日も早くご再臨な
      さって悪魔である不信者勢力を亡ぼして平和な神の国を建築されますよう、
      心からお祈りします。

問=  被告は今も神社に参拝する事を否むか?
答=  そうです。  将来も神社参拝はしない積もりです。

  こう答えた彼女はすでに命を主に捧げる決心であった。  その後奉天監獄で2年
6箇月を送り延吉省間島刑務所に移されて1年間服役されて後、又安東省按山刑務所
に移送されて1945年8月15日開放される日迄服役されました、から年数から7年半、
であり、月数で八十八箇月、日数から二千八百日を暗い地下監獄で送りつつ涙にむせ
んで神様に祈りつつ信仰の説を守りましたからこの方の内なる人の姿は時が変わって
も何時までも恥ずかしくごさいません

  この方は獄中での呻吟を吾等に伝えで呉れます。  獄中で獄守達にいぢめられる事
が非常に多くありました。  食糧を餘り少量しか給しませんので栄養失調となり、
体の弱い者は皆死んで了いました。  この方は発疹チフスと急性肺炎で瀕死の状態に
まで陥りましてひたすら主の懐に帰る日を望んで居りましたが獄中に現れた主の奇蹟
によって生命が蘇り8・15(注:日本ポツダム宣言を受諾した敗戦日)と言う神様の
審判に依って出獄されて今日迄三十年間福音戦線で良き働き手となり又義の英雄と
なって戦って居られるのであります。

  出獄後四○日間休養し再び伝道に着手し鉄山教会チョルサン・キョウフェイ (注:現 D.M.Z.
南北軍事境界線地域)で働き、数箇所の集会を導きましたが日増しに加わる共産黨の
迫害を避けて1947年1月に38度線(注:日本降伏直後朝鮮動乱勃発前迄の米露による南北分断ライン)を越えて南韓に移り長老教会の数箇所で集会しました

  1949年成ソン  ??牧師の「韓国キリストの教会」と言ふ著書を呼んで深く感じ、1951年
動乱の為に釜山に避難し、そこで李興植牧師に会い聖書討論をし 又 日本から来た
ジョンケノン(注:Joe Cannonと思われる)と聖書と討論して全くキリストの教会に
還元し1953年11月に本清涼里教会に就き今日に至る迄信仰と眞理の戦ひを進めて
居られるのでございます。  勇ましきそのご一生は輝かしく神にご栄光を帰し奉りました。
ハレルヤ!





 

ルカ傳13章24節

搾られるほどにきつくて狭いドアーから
激痛を何とか耐えて中に入る努力をしなさい
実際、入ろうとしても、仲々入れない人が大勢いるのだから

                                 ルカ傳13章24節 (仮私訳)