★ 半世紀以上も前のケンタッキーの教室での思い出から書き始めます‥
ある聖書のクラスが終わったとき、マレン Frank M. Mullins, Sr.教授が私たち学生
に向かって質問があれば遠慮なくするように‥と語りかけました。
それを合図に、フィリッピンから留学して来た中国人の女性のリリー李さんが手を
挙げ、いくどもいくども「本当に何を質問してもよいのか」と、駄目押しをしながら、
質問のために手を挙げました。 マレン教授は、遠慮はいらないから何でも訊ねなさ
い‥とリリー李を促されました。
相当な躊躇のあとで、やおらリリー李が声を出しました‥
『先生、天国には便所はあるのでしょうか?』‥ 学生たちは愕然としました。
そして、学生たちは、尊敬しているマレン教授がどのように回答されるのか‥
最大の好奇心で教授の答を待ちました。
マレン教授は微笑みながらリリー李に応えられました。 私は感動しました。
『リリー、心配しなくていいんだよ。 天国においても、私たちに必要だと神さま
がお考えになれば、どのようなものであれ、必ず備えてくださるのだよ。 神さまは
愛の神さまだということを忘れないようにね‥』
『ああっ、それを聞いて私はとっても安心しました!』‥そのときリリーの顔から
緊張が急速に去って行ったのです。 今でもそのことを忘れることができません。
マレン教授の、神さまの愛と神さまが私たちのために備えをなしていてくださると
いう確信は、その後、生涯私の心の中にも移り住んでいるのです。 善き師でした。
★ それと同じ理解と確信から、「ペットが死ねばどうなるの? 天国に行くの?」
という質問を幼い子供や、その保護者から受けることが多いのですが、マレン教授の
リリー李嬢への実に適切な応答を話すのです。 皆さんは如何お考えですか?
私たちが結婚してからこん日までに三百頭前後の犬を保護してきました。
だいたいは大型犬でした。 大型犬を引き取る人は少なく、十数頭が天寿をまっとう
して私たちのもとから去って逝くのに立ち会いました。 私はそのとき、『もうすぐ
また会うからな‥』と、疑うことなく語りかけながら、彼らを埋葬して来ました。
★ 新約聖書の中で動物が天国に居る‥という明白な言及を私はまったく知りません
が、旧約聖書には動物も天国に居るのではないのかな?‥と、そのように感じさせる
箇所がいくつかあるように思えるのです。 私のひいき目かもしれませんが‥
創世記1章24節以下で、神さまが天地を創造なさったとき、神さまご自身が創造な
さった動物を御覧になり、「良しとされた」と宣言されているのを読みます。
長い時間をかけて人間を創造なさった神さまは、人間に必要なすべての物を、み心を
砕いて、最善の物をお考えになり、最高の物を人間のために備えて下さったのです。
そして、1章28節は、男と女が神さまに代わって、それらを管理する仕事を託され
たのです。 神さまの優しい御心の中には、動物がちゃんとはいっていたのです。
創世記6章7節で、人間の罪が余りにも酷くなったとき、神さまは神さまご自身が
創造なさった人間を地の面からぬぐい去ろうと決意されました。 その中には動物が
含まれていたと、そのように私たちはノアの洪水の前の状態を読みます。
しかし、哀れみに満ち給う神さまは、ノアとその家族に恵みを示されました。
7章で、ノアの箱舟が完成したとき、神さまは、清い動物と、そうではなかった動物
にもお恵みを示され、雌雄を箱舟の中にはいることを許されています。
そして8章19節は、動物たちも神さまの愛を受けて、新しい地で生き延びることが
できるようになったことを語っています。
★ さらに、イザヤ書11章6節~9節、65章17節~25節は、動物の種類を挙げて、
神さまの将来への約束の描写を具体的に想像させているように思えるのです。
将来の究極的な救いのことに関してですが、使徒パウロは、ロマ書8章18節~22節
で、被創造物全体が究極的な救いを切望しながら、共にうめき、共に生みの苦しみを
続けている‥と、そのように書いています。 「被創造物全体」の中には、人間だけ
ではなく、動物たちも含まれているものと、そのように私は考えています。
なぜなら、動物が創られたのは、神さまがお創りになった究極的な目的である人間
のために役立つためであり、人間に楽しみを与えるためであったと思うのです。
★ 創世記1章31節は、神さまがお創りになったすべての物を神さまご自身が御覧に
なったとき、「それは甚だよかった」と証言しています。
主なる神さまが「地の塵からヒトを創られ」て、それに「いのちの息を吹き込まれ
たとき」、「ヒト・アダーマ」が「人・アダーム」になったと説明しています。
それと同じように、詩篇 104篇30節~31節は、その前後関係から理解できることで
すが、「主がその御業を喜ばれる」ということには、言外に暗示することの意味とし
て、この自然そのものが主なる創造主を誉め讚えているということでしょう。
★ 英国詩人トーマス・グレイ Thomas Gray (1716~1771) の優れた作品「Elegy
written in a Country Churchyard = 田舎の墓地で書かれた哀詩」で、乱れ咲く花を
讚える文を残しています。
米国ボストン生まれの思想家で、牧師の子で、ユニテリアン教会牧師、超絶主義者
で、哲学詩人のラルフ・ウォルド・エマソン Ralph Waldo Emerson (1803~1882) も
人里離れた原生林の中に咲く躑躅ツツジ の美しさを讚えています。 自然そのものが神
さまを讚えるものであり、神さまがすべての物の中心であると唱えています。
自然というもの、それ自体が、神さまの優れた創造であり、神さまの御心に添って
創られたものです。 私たちはとかく人間のことだけを考えてしまいますが‥
イェスさまも、マタイ傳5章45節で、太陽や雨のことを語っておられます。
また、6章26節~28節では、空の鳥や野の花のことに言及されています。
マタイ傳7章6節には犬や豚が、同15章26節とマルコ傳7章28節には仔犬が登場し
ています。 ルカ傳16章21節とピリピ書3章2節にも犬が登場しています。
マタイ傳8章20節、ルカ傳9章58節には空の鳥と狐に対する言及があります。
ルカ傳13章32節~34節には狐と雌鳥と雛に関する言及があります。
当時のパレスティナに住んでいた人たちの生活習慣や文化的価値感覚から、とかく
犬や豚や狐を快く思っていなかったからだと推測しますが、それでも犬や豚の存在を
身近な動物として認識しています。
これらの福音書に登場する動物たちも、上述のロマ書8章22節が語っている「被造
物全体」の中に含まれていると、私は理解しています。
★ 「共にうめき、共に生みの苦しみを続けている」ということは、それが罪の業と
直接に関係しているからでしょう。 「罪の払う値は死である」(ロマ書6章23節)
ことを私たちは聖書から学んでいます。
人であれ、動物であれ、罪がこの世に侵入して以来、死という大きな問題、(問題
とは、解決しなければならないのに、解決ができないということです)がこの世界を
支配しているのです。 ペットが死ぬということも、罪によって死がこの世に侵入し
て来たからです。 それですから、私たちは愛する者を失ったとき、嘆き悲しむの
です。 それは、愛するペットを失ったときも同じです。 愛の敵は死だと思います。
神さまは、いずれ神さまのときが来たとき、死ということと向き合ってくださいます。
そのことはコリント前書15章に詳しく説明されていることです。
★ 冒頭で書いておきましたように、フィリッピンから留学に来たリリー李に対して
マレン教授が答えられたように、神さまが私たちのために必要とお考えになることに
対しては、神さまご自身が一番良い方法で、神さまの時間に従って、解決してくださ
ることですし、そのように神さまの恩寵を信じて、神さまのときを待つのが最善だと
思います。
それは、マタイ傳10章28節~32節が、そのことを裏付けしているように私には思え
るからです。 2羽1アサリオン(¥ 15?~¥ 20?) で売り買いされている野鳥ですら、
神さまの承認がなければ落鳥することはない‥と説明されています。
神さまは、そのようないと小さな生き物にまでも、その愛を注がれているのです。
それは、神さまがその御心を砕いて最高のものとしてお創りになったいのちの一部で
あるからです。
★ 神さまがそれほどまでも慈しんで下さっている小さな動物が死ねば、神さまは、
神さまの愛のうちにあって、やがて私たちが復活に与るとき、きっと私たちと一緒に
なれるようにと取り計らってくださらないはずがない‥と、マレン教授の解答と同じ
ように、神さまの愛を私は確信しているのです。
『からだを殺しても、そのあとでそれ以上何もできない者どもを恐れるな。
恐るべき者が誰であるか、教えてあげよう。 殺したあとで、さらに地獄に投げ込む
権威のある方を恐れなさい。 そうだ、あなたがたに言っておくが、その方を恐れな
さい。
5羽の雀は2アサリオンで売られているではないか。 しかも、その1羽も神の
み前で忘れられてはいない。 その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられ
ている。 おそれることはない。 あなたがたは多くの雀よりも、優った者である』
ルカ傳12章4節~7節
