2009年5月アーカイブ

『ことば、言葉、言の葉』

★  「ことば」は、聖書の中で、極めて重要な意味を持っています。
ヨハネ傳1章では、言葉は神であり、言葉は神と共に在り、言葉は生命であり、言葉
は人の光であると説明しています。  そしてその言葉は、イェス・キリストご自身で
あると、そのように私たちに語りかけています。

★  そしてまた、ヘブル書4章12節では、神の言葉は生きたものであり、力があり、
両刃の剣よりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、
心の思いと志とを見分けることができる‥と、そのように説明しています。

★  その反対のこととして考えられることは、悪意を持つ人が、悪意の言葉を語る時
に、その言葉が他者の心を遠慮会釈なく刺し通し、切り刻み、相手の人格や魂を刺し
殺してしまい、その人の存在を抹殺してしまうに到るという悲劇を示唆していると思
います。  なぜなら言葉のほうが実際の両刃の剣よりも鋭いからです。  悲劇です。

★  優しい言葉、思い遣りのある言葉は人を生かし、賢い言葉は人を導き養います。
思慮や配慮に欠けた言葉、一方的な乱暴な言葉は人の心を殺傷します。  再起不能の
事態まで招きます。  お互いに注意しなければなりません。

  『いつも、塩で味つけられた、優しい言葉を使いなさい。  そうすれば、一人一人
に対してどう答えるべきか、わかるであろう』と、コロサイ書4章6節は勧めていま
す。

★  さて、言葉ということを、別な視点から考えてみましょう。
創世記2章16節~17節で、理想的な環境、すなわち、罪が存在していなかった場所、
つまり神さまのいらっしゃる所で、人は何をしても自由であったのでしたが、たった
ひとつだけ禁止されていたものがありました。  その単純明解な命令とは、エデンの
園の中心に生えていた善悪を知る樹の実だけは、これを勝手に採って口にしてはいけ
ないということでした。  言葉で神さまの意志がアダムに伝えられました。

  3章に到りますと、まず蛇がエヴァを誘い、神さまの言葉を疑うように仕向けまし
た。  そしてエヴァはアダムを誘い、禁断の実を口にしてしまいました。  ここでも
言葉が用いられました。  そして、その結果は、恐ろしい事態を全人類にもたらした
のです。  蛇の言葉がアダムとエヴァを神さまからの分離=死へと導きました。

★  創世記4章では、兄カインが弟アベルに言葉を掛けて荒野に誘い、弟を殺害して
しまいます。  言葉が最愛の弟を死へと招いたのです。

★  創世記6章の初めには、地の上に悪がはびこってしまい、神さまはご自分の創造
の業を悔いられたと書いてあります。  ノアの箱舟物語です。 どうして地上に悪が
蔓延したのか?‥ということですが、それは11章のバベル(=バビロン)の塔の物語
に答があります。

★  「全地は同じ発音、同じ言葉であった」と11章節は語ります。
すなわち、人々はお互いにの意思の疎通をするのに、同じ言葉で喋ることができたか
らです。 通訳は要らなかったのです。 自由に話し合うことができたからです。

  人々がお互いによく相談して、みんなで同意して、神さまを主として信じ、神さま
を中心にして、神さまに喜んでいただけるような信仰共同体を築いてゆくことができ
たはずでした。

  しかし、そこで人々が相談したことというのは、神さまのいらっしゃる天にまでも
達するような高い塔を建てて、驕慢不遜にも自己を神格化してやろう‥とする計画で
あったのです。  いったん人間が考えて実行し始めたことを止めることはできないと
神さまは見抜かれ、人々の意志の疏通ができなくするために、「言葉を乱された‥」
と書いてあります。

  人々の心の中に、私の心の中に、教会の中に、罪が存在する限り、私たちは悪い
ことを考え、悪い言葉を平気で、何の痛みも感じないで使ってしまうのです。
  他者の心を刺し殺しても、群れ全体が破壊に向かっても、平然と悪いことを考え、
悪い言葉を使うのです。  罪が更なる罪を招き入れていても平気なのです。

  気づくことができないままで、あるいは事の重大性に気づかないままで、神さまと
他者に対して深刻な罪を侵したままでいることにまったく気づかずに平然として居る
ことができるのです。  このことが、バベルの塔が物語っている、言葉の恐ろしさの
一部だと思います。

★  それですから、ヤコブ書3章では、いきなり、『あなたがたの内の多くの者は、
教師にならないがよい』‥という警告が飛び出して来ています。  そして舌が小さな
器官ではあるが、炎でもあり得るし、大きな森林を焼きつくすこともあり得る‥と、
そのように警告し、同じ舌で、同じ言葉で、神さまを讚美しながら、その同じ神さま
がお創りになった他者を呪うことがある‥と警告しています。
 同じ泉から甘い水と塩水を噴き出すことはあり得ないし、いちじくの木が、オリヴ
の実を結ぶことができないのと同じように、オリヴの木が、いちじくの実を結ぶこと
もあり得ない‥と、具体的に舌の恐ろしさを指摘しています。

  福音を語っていると自称している者たちも、語られた福音を聴いていると自称する
者たちも、自分の舌が口にする言葉に充分に注意を払う必要があるということです。

  それは、言葉というものが、剣よりも、遥かに鋭いものであるからです。
人を生かすこともできますし、人を殺すこともできる道具だからです。
その道具を私たちは神さまから託されていますし、それをどう使うかも託されている
のです。

★  さて、「言葉に関する雑想」の最後になりましたが‥
  ペンタゴンという五角形をした広大な建物がアメリカの首都ワシントンDCの近郊に
あります。  アメリカ国防総省の総合庁舎です。

  また、私が留学をしたすぐあとにアサヒ・ペンタックスという、画期的な写真機が
発売され、大きな話題を提供しました。  それまでの写真機の一部は、写真機本体の
上から画像を眺める方式でしたが、旭カメラ社が初めて五角形のプリズムを採用する
ことにより、より正確に被写体を把握することができる35ミリ写真機を発売したので
した。  ペンテpente というギリシャ語は、数字の「5」を意味しているのです。

★  使徒行伝2章全体に、主イェス・キリストの教会の誕生のことを語っています。
そこで、使徒行伝2章の初めの部分から読んでみますと、ここでは「言葉が割れる」
とか、「分かれた言葉」が、神さまの偉大なご用のために用いられたことを学ぶこと
ができます。

  ここまでは、聖書が語っている、言葉に関するいくつかの致命的な悪い例を考えて
みましたが、使徒行伝2章に到りますと、言葉が神さまのご用のために大きな役割を
果たしたことを学ぶことができます。  主イェス・キリストの教会の誕生に直接関係
するできごとのことです。

★ 磔刑に処せられたイェスを、あたかも「イスラエルを救いだす者であるかのよう
な妄想を抱いていた」(ルカ傳24章21節)ために、自らを絶望のどん底に叩き落とし
てしまっていた弟子たちは、人類がかつて体験したことのない、復活した主イェスに
出会い、更に混乱していました。

  悲喜こもごも入り交じったそのような混乱状態のなかで、彼らは、今度はイェスの
昇天という、これもまた驚くべき事実を目撃することを体験し、これがさらなる混乱
状態と、微かな期待を抱かせることになり、そのような状況の中で集まっていたので
した。

  そのような状態の中で、みんなが集まって祈っていた最中に、風のような轟音が、
「一同が坐っていた家いっぱい」に響きわたり、舌のようなものが炎のように分かれ
て、「ひとりびとりの上に」留まった‥と記されています。

  「そこにいた一同」と、「各自一人一人」の上に聖霊が降臨し、その結果として、
人々が、いろいろな国の言葉で語り始め、教会、エクレシアの誕生を証明したことを
使徒行伝2章全体が語っています。  人々が聖霊の賜物を得て宣教を始めたのです。
  そして、生まれたばかりの教会の最初のメッセージが36節に要約されています
その結果、教会の証言を聴いた人々の反応と結果は、37節~47節に語られています。

★  43節~47節で、聖霊に満たされた、新しく生まれたエクレシアの状態を学ぶこと
ができます。  言葉というものが、聖霊の働きを伴って、エクレシアの誕生の瞬間か
ら、大きな宣教の役割を担って来たことを学ぶのです。

  今日は、教会歴という暦に従えば、言葉のお祝い、ペンテコステという日だそうで
す。  使徒行伝2章によれば、聖霊の働きが、言葉を媒介して、主イェス・キリスト
のエクレシア、集会、教会をこの世にもたらした日です。

  言葉は、宣教のために用いられるべき強力な道具です。  人を生かす道具です。
罪のために用いる道具ではありません。  人を刺し殺すための道具ではありません。

  祈りというものも、私たちの心の奥底に潜んでいる思いを、舌で、言葉で、神さま
と他者の前で表現するものです。  神さまを讚美し、自分自身と他者との信仰の徳を
高揚するものだと思います。  讚美歌 308番はそのように証言しているようです


                               -ゼパニヤ書2章3節-

★  ゼパニヤは、紀元前7世紀のヘブライの豫言者の一人です。
普通、ゼファナイアと発音する男子の名です。  「神は隠れられた」という意味だと
思います。  私たちには馴染みの薄い聖書名です。  私たちが怠け者だからです。

  エレミヤやハバククと同期の豫言者と考えられています。
ユダヤの王で宗教改革を遂行した人に、英語ではジョサイア、日本語聖書にはヨシヤ
という人物がいます。  西暦前の 609年とか 640年などの年が大体の辞書に出ていま
す。  列王紀後書22章に登場しています。

  ゼパニヤは、このヨシヤと、列王紀後書18章~19章に登場して来るヒゼキヤという
ユダヤ人の王を介して遠縁にあたります。  この箇所も、語弊がありますが、ユダヤ
史の学びのためには、おもしろい箇所のひとつかと思います。
  日本語聖書ではヒゼキヤですが、一般に英語ではヘゼカイアと読み、男子名です。
「エホヴァは力なり」とか「エホヴァは力をお持ちの方である」という意味です。

  おそらくゼパニヤは、宗教改革を試みていたヨシヤ王の心を勇気づけていた豫言者
の一人あったと思われます。

★  『エホヴァを求め、公義を求め、謙遜を求めよ』とゼパニヤが訴えたのは、実に
今から 2,600年も前のことでした。  人類は、その時と現在とを比較してみますと、
想像もつかないような大きな進展を体験して来たと思います。

  けれども、私たちは、創世記3章でアダムとエヴァが、神さまの単純明解な警告を
いまだに理解していません。  もちろんゼパニヤの単純明解な訴えも、同じように、
全く理解できないままでいます。  罪が私たちの心を支配しているのです。

  三口隆幸さんが教えてくださった先週日曜日の交差点でのできごとも、そのような
罪の仕業を示しています。  こんなに人間が高度な知識と技術を取得しても、私たち
の心の中は、アダムとエヴァの時代と比べてみても、何も進化していないのです。

  詩篇27章4節の願いを人類が願うようになるのは、いつのことなのでしょうかね?

 『私は一つの事を主に願った。 私はそれを求める。 私の生きるかぎり、主の家
に住んで、主の麗しさを見、その宮で尋ねきわめることを』...です。 如何でしょう?


昨日は立川教会に赴き、「神の声を聴くかい」出版の憲法9条を護るための
小さな出版物の手作り印刷製本作業に携わらせていただきました。
 
帰宅したのが暗くなってからでしたが、可愛い白鼻心の仔どもが罠に入って
いました。

 罠にかかったハクビシン

撮影してから放しました。 まだ子供で、あまり上手に木に登る
ことも、走ることもできませんでした。
威嚇することだけはじょうずにやっていました。
 
田圃の蛙は数が激減していますが、雨蛙やひき蛙はぼそぼそとベタニヤ村で
生きているようです。ときどき出会います。 
時々姿を見せる蛙 

 

雉夫婦と狐たちは、どうやらベタニヤ・ホームの人間は、安心できる奇人
たちだと、少しずつ理解をし始めたようです。 ある特定の若い母狐は夕方
まだ明るいころからフォックス亭にやってきます。座り込んで餌を食べます。

 引退盲導犬ポーラー嬢が2メートルほど離れた所で狐を観察していますが、
お互いにお互いの存在は目視していますが、お構いなし・・です。

座って食事をする母狐 

狐も犬科に属していますから、習性は犬とよく似ています。
育児中の夫婦以外が、フォックス亭でばったりであえば、弱いほうがひっく
り返って腹を見せるか、強いほうが食べ終わるまで、その後ろに座って控え
て忍耐強く待っています。
 
食べ終わると、オシッコをフォックス亭にかけたり、ウンチをしてから立ち
去る狐もいます。ウンチの場合には、餌台の石や、周囲の石の上にお弁当代
として残して行きます。
 
繁殖期以外には、自分の食べる量だけ食べると、あとは残して立ち去ります。
メタボ狐というのは居りません。 そのあたりが、犬や人間と全く違います。
 
裏のほうで、今年も猛禽の巣に雛が3羽孵化したようです。
 
今年はまだ栗鼠の巣を見出しておりません。 雀蜂の女王捕獲には到らず、
営巣が始まったようです。


エペソ書2章5節~10節

神の絶大な恩寵によって、罪の中に
死んでいた私を、キリストと共に生かし、共に復活させ、
共に天上の座に着かせてくださった‥から
私は後世に迄も残る、神の名作品である‥


   エペソ書2章5節~10節 抜粋意訳

                         -三口隆幸さんからの連絡に思うこと-

★  嘗て世田谷八幡山のハウス・チャーチのメンバーであった三口隆幸さん、アジア
の貧しい人々に対して、豊かな愛情で接して来られた、貴い仲間の一人です。
  ご自身も厳しい人生を歩んで来られましたが、繊細で豊かな愛情と信仰の持ち主で
いらっしゃいます。  長くお付き合いを頂いており、感謝している仲間の一人です。
現在は埼玉県春日部市藤塚にお住居です。

  先日下記のようなご連絡を頂きましたので、ご紹介をいたします。

  それによりますと、24日の金曜日に車を運転されていた時、車の往来が激しいある
交差点前の道路が普段と違って渋滞していたそうです。  白い杖を持った一人の盲人
男性が交差点の真ん中あたりで立ち往生されている姿を発見されたのだそうです。

  その盲人の前後を、多くの車が、われ関せず‥で素通りしていたそうでが、途方に
暮れていた盲人に誰も手を貸さなかったようです。

  危険な場所で身動きできない盲人は、運転手らにとって、疎ましい存在以外の何者
でもなかったのでしょう。  困り抜いている盲人を誘導して、交差点を渡らせてあげ
るということすらできない運転手たちの姿を見て、そこには人間的な姿がない‥と、
そのように三口さんは感じられたようです。

  不幸を背負った盲人よりも、もっと遥かに不幸な事実は、その盲人に対して無関心
を装い、愛を注がない、注ぐことができない運転手たちと、この光景を目撃していた
周囲の人たちであると、そのように三口さんは感じられたそうです。

  車を下りた三口さんは、盲人に近づき、無事に交差点を渡らせてあげたそうです。
恥ずべきことは、困っている人に対して無関心でいることだ‥と、三口さんは感じら
れたそうです。

  『私たちは、この世に在って、光りのないところには光りを、愛のないところには
愛を、希望のないところには希望を与え続けなければならない‥と、そのように聖書
から教えられています。
  それは、私たちの罪を償うために、いばらの道を突き進まれたイェス・キリストの
思いであると思うのですが、多くの人は、イェス・キリストのその思いから遥か遠く
離れてしまっているような気がします』‥と、そのように結んでありました。

  『おおよそわが弟子たる名の故に、この小さき者の一人に冷ややかなる水一杯にて
も与ふる者は、誠に汝らに告ぐ、必ずその報いを失はざるべし』マタイ傳10章42節


★  ベタニヤ集会に集われている一握りの皆さんの支援を頂いて、ようやく出版する
ことができるようになった拙著「トーマス・キャンベル物語」第4巻の 770頁に、
「余言者」の「余言」を加えておきました。

  初代原始教会の姿を、素人の私が、何となく新約聖書や教会史を学ぶことにおいて
求め続けているあいだに、いつのまにか、信仰人生と肉体的人生の終焉を迎える節目
に突入していることに気づくことになってしまいました。  光陰矢の如し‥です。

  わたくし自身の極めて限られた宗教的体験と世界から、 something' wrong?! と
いつも感じて来たことの一部を、今回の拙著 770頁で披露してみた次第です。

★  別の表現を、聖書から借りますなら、マタイ傳27章22節のピラトの発言だと、
そのように思っています。

  アメリカの教会も、韓国の教会も、限られた経験ですが獨逸の教会も、そして日本
の教会も、ピラトの発言を、どのように捉えているのだろうかと、疑問に思うときが
あります。  『十字架の上で磔刑タッケイされた、キリストと称えたイェスを、私たちの
教会も、私たち自身も、どのように扱っているのか?』‥ということです。

★  私の罪の贖いのために死んでくださった主イェス・キリストを、一体全体、私は
どうしようとしているのか?‥  どうでもよいような、アクセサリー的な、便利な、
しかも遠い、遠い、観念的な、どっかの宗教上の、私自身の生活とは全然関係のない、
アーメン・ソーメン(狂・教?)の、十字架の上にまでも登った便利屋で、気の毒な
外国のオッサンとして、まあそこそこ適当に扱っているということでしょうか。

  自分の命を賭けてまで、自分の人生を懸けてまで、何ものにも勝った愛する対象と
して受け容れ、このお方に喜んで頂くことこそを、自分の人生の目標としているのか
どうか‥、それとも観念的な偉人なのか?‥そのことが問われているのだと思います。

  道理で、エクレシアに躍動する生命力が欠落しているのではないかと案じます。
決して人が何かをする‥しない‥という、行為義認主義的な発想で語っているのでは
ありません。  どのように主イェスの恩寵に応答しているのか‥ということです。


                                     (一部加筆しました)

★  ベタニヤ集会を支えて下さっているわずか数名のかたがたのご好意で、4月には
拙著「トーマス・キャンベル物語」第4巻を何とか世に送り出すことができました。
  今度こそは校正ミスのない作品をと願っておりましたが、結果的にいくつかのヘマ
が露呈してしまいました。  こうたびたびですと、自己嫌悪に陥ります。

★  さて、ヘマは扨置いて、同巻後半部に於いて、エライアス・スミスのことを紹介
しておきました。  そして、エライアス・スミスがユニヴァーサリズム、いわゆる
universalism普遍救済論に対して強い関心を抱いていたと紹介しておきました。

★  わが国を含め、世界の多くの非ユダヤ・キリスト教文化圏内では、多くの人々が
聖書を読めず、イェス・キリストのことを知らず、十字架のできごとを知らないまま
で、毎日毎晩、この世を去って行きます。  身近な国では、北朝鮮や中国のように、
共産主義が国民を奴隷のように抑圧しています。  聖書を読むことはできません。

  日本でも、私たちの周囲に、家族・親族の中に、クリスマスという馬鹿騒ぎのこと
だけは知っていますが、イェス・キリストの生涯、イェスの十字架の意味を知らない
人々で満ち溢れています。  そしてイェス・キリストの福音をまったく知らないまま
他界して行きます。  福音伝道者の一人としまして、私はこれらの魂の行く先のこと
について、神さまがわからなくなりそうなほど、真剣に悩むことがあります。

  残念なことですが、一部の自称福音派、福音原理主義者にとって、或はローマ教会
にとって、それらの魂は、永遠の滅び、地獄に直行すると教えているようです。
これが亦、私を悩まします。  まことにそうなのでしょうか?  愛の神さまが?

★  或は普遍救済論者たちが唱えるように、結局のところ、すべての人々は、悪魔も
含めて、神が愛の神であるが故に、最終的には救われるのだ‥というのでしょうか?

  『そんなら生きているあいだに、なるべく身勝手なことをやっとけばいい!』‥と
いう説と同じことになりましょう。  『どうせ死んだら仏になるんだから‥』という
のと同じです。  これも困ったことですし‥皆さんは如何お考えですか?

★  そのようなとき、私は聖書の中から幾つかの箇所を読むのです。
そのひとつは、  ロマ書2章12節から16節です。  2章の終わりまででもよいです。

  神さまやイェス・キリストを知らないで、或は神さまが十字架の上で示された福音
を知らないままで、さらには聖書を全く知らないままで、そのような状態でこの世を
去る魂にとって、その人が生前その人なりに知っていた善悪のものさしに従って自分
をどのように制御し、そのものさしに従ってどのように良いほうを選んで生きていた
のか‥、このことを神さまはご存知であり、そのものさしに従って神さまはその魂と
向き合われる‥、そういうことを上記のロマ書は語っている‥と、私個人はそのよう
にその箇所を読んでいるのです。

  どのような状況にあって生活していた魂であっても、その人なりに、人間が基本的
に抱いている善悪の価値基準というものを知っていたはずです。  その魂がその基準
に従って人生を歩んでいたのであれば、公平な神さまは公平にその魂を扱われるはず
だという確信です。

★  そして、もうひとつの基準、あるいはものさしだと私個人が考えていることは、
マタイ傳25章後半部に書かれてある主イェスの基準、主イェスのものさしです。

  このものさしは、クリスチャンであろうと、なかろうと関係がありません。
自称・他称クリスチャンであろうと、church goersすなわち、教会に行っている人で
あろうと、教会の牧師であろうと、教会の指導者たちであろうと、そのようなことに
関係なく、すべての人に適用されるイェスさまの厳しいものさしです。

  クリスチャンでない人だけを測る基準、ものさしというわけではないのです。
特に、クリスチャンと称する人々に対する厳しい基準、ものさしだと私は思います。

  『あなたがたによく言っておく。  私の兄弟であるこれらの最も小さい者のひとり
にしたのは、すなわち、私にしたのである‥  これらの最も小さい者のひとりにしな
かったのは、すなわち、私にしなかったのである』と、イェスご自身が上記マタイ傳
25章35節~46節で語られたのが、すべての人を測るイェスご自身の基準、ものさし
なのです。

  このことは、特に自称・他称クリスチャンや、そういう人たちが集まっている教会
という排他的な集団、そしてそれは多くの場合、自らを社会からゲットー ghetto 化
している集団に対して厳しい言葉であると私は考えています。

  豪華な建物を誇り、その中で営まれる宗教儀式と伝統を重んじ、教会会計に巨額の
蓄えを有しながら、滅び行くこの世と、そこに住むイェスを知らぬ人々の存在に対し
全く関心も同情も寄せることなく、世界中に満ち溢れている貧しい人々に救いの手を
差し延べることを知らない宗教集団に対しての、イェスの厳しい警告だと思います。

  ソウルの汝矣島ヨイド の広場で百万人伝道集会をビリー・グラムが開催していた時、
同じソウルの清渓川チョンゲチョン では、6万人もの人が、その日のパンがなくて、飢えに
嘆いていたことを私は知っています。

  豪華な石造りの教会堂を建てることができる牧師とその教会が優れたクリスチャン
の集いである‥とする、そのような基準が常識とされ、その基準を更に越える教会堂
を築くことが目標となっている韓国教会を、東洋のエルサレムだなどと賞賛する韓日
両国のクリスチャンにとって、マタイ傳25章でイェスが宣べられた神の子である基準
など、全く眼中にもないのです。  「教会ごっこ」もここまで来ますと、もう話にも
ならないのです。  そのようなことを言う私が異端者、変人なのです。

★  神さまとその愛を知らないで、イェスとその十字架のできごとを知らないままに
この世を去って行く人々の魂の行く先はどうなるのだろう‥?

  そのような心配ごとは、実は神さまがお決めになることであり、私が案じることで
はないのです。  ユニヴァーサリズムも、ロマ書2章の中頃の論議も、実はどうでも
よいことのようです。  それよりも、私とあなたが、もっと深刻に考え、悩まなけれ
ばならないことは、マタイ傳25章のイェスの厳しい宣告であろうと私は思います。

  同じ主イェスが、マタイ傳10章42節で次のようにおっしゃっています。
『私の弟子であるという名の故に、この小さき者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませ
てくれる者は、よく言っておくが、決してその報いから漏れることはない』

★  みなさんの救い、みなさんの魂の行く末、確かなのでしょうね?
天に宝を積んでおられることは確かなのでしょうね?

  『裸で母の胎をでた私は、裸で帰ろう。  主が与え、主が取られるのだから、主の
御名は誉むべきかな‥』とヨブは1章21節で言います。

  神を知らずにこの世を去る人々の行く先のことを案じるよりも、クリスチャンが、
dying broke 精神、すなわち、「主のご用のために捧げきって、無一文になってこの
世を去って行く精神」を胸に、マタイ傳25章に示された主イェスの勧めと警告を真摯
に受け止めることのほうがはるかに重要だと私は思うのです。  如何でしょうか?

★  いずれ別のこととして書かなければなりませんが、dying broke   すなわち、
裸一貫で生まれて来たのだから、同じように裸一貫で死んで行く‥という発想と同様
に、マタイ傳27章22節のピラトの質問に、私も皆さんも、各自それぞれが対決しなけ
ればならないと考えます。

  『さらば我、キリストと称ふるイェスを如何に為すべきか?』ということです。
他人の魂の行く先よりも、私の魂の行き先、あなたの魂の行き先のことです。
それは、生きている今という時間のなかで、答えなければならない緊急課題です。

  イェスは、ペテロがヨハネのことでヨハネに対して複雑な思いを抱いていたことを
ご存知であったため、ヨハネ傳21章22節で、『この際、ほかの人のことはどうでも
よいのだから、ペテロよ、お前は私について来なさい』とおっしゃっています。

  ほかの人の魂がどうなるとか、どこに行くのだろうかなどと心配する前に、私たち
はまず自分自身の魂の在り方と、自分自身の魂がどこに向かっているのかを、確かめ
る必要がありましょう。


★  私淑していますクリスチャン著作家にマックス・ルカド Max Lucado という方が
いらっしゃいます。  ルケイドーと読むのかも知れません。  私はまだ一度もお目に
かかったことはありません。  著作品はたくさん目にしています。  今回、その方が
お書きになったもので、アメリカ人の所有欲に関係する一文に接しました。

★  ルカド(或はルケイドー)さんの話によりますと‥ということですが‥
1900年には、アメリカに居住している人々は、必需品として、少なくとも72点の物が
必要だと考えていたそうです。  そしてその中で、18点の物質を生活必需品と捉えて
いたようです。  現在では、五百点もの物品が必要で、その中の百点が生活必需品で
あると考えているそうです。

  そのようなアメリカ人の80% が、支払いきれない額の借金の返済に四苦八苦して
いるとのことです。  収入の 110% を借金の支払いにアメリカ人たちは充てようとし
ているとのことですが、それでも払いきれないそうです  誰もがそのようです。

  お隣の人がそうしているから‥  お向かいの人があれを買ったから‥
ジョーンズさんがそうしているんだから、うちもそうしよう‥  ついこのあいだまで
はそのような姿勢だったようです。  しかし今では、映画スターの服装や装飾具や、
億万長者のような車や自宅を無意識の内に真似てみたり、所有してみたりすることを
夢見ているのだそうです。  以上はルカドさんが仰ったことです。

  しかし、これは何もアメリカだけに限ったことではなく、日本でも、韓国でもその
ような傾向があると、私は考えています。

★  主イェスがおっしゃった言葉がルカ傳12章15節に書いてあります。
『あらゆる貪欲に対して、充分に、よくよく警戒しなさい。  たとえたくさんの物を
所有していても、人のいのちというものは、持ち物によって決まるわけではない』

★  使徒パウロも、テモテ前書6章7節~10節で、私たちに警告しています。
『私たちは、何ひとつ持たないでこの世に来た。  また、何ひとつ持たないでこの世
を去って行く。  ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。  富むことを願
い求める物は、誘惑と、罠とに陥り、また、人を滅びとに沈ませる、無分別な恐ろし
いさまざまの情欲に陥るのである。  ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰か
ら迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺し通した』

★  また、ヘブル書13章5節は、『金銭を愛することをしないで、自分の持っている
物で満足しなさい』と、そのように勧めています。  如何なものでしょうか?


★  昼間は栗鼠や野鳥たちに、夕べには狐たちに餌を与え始めて、すでに半世紀にも
なります。  その間に蛍や小綬鶏コジュッケイが完全に姿を消しました。  貂や鼬、白鼻心
や狸の来訪も減りました。  鹿は沢山いますが猪親子の姿を見かけなくなりました。

  部落の居住地域からはかけ離れた原生林の中の一軒家ですので、最初の何年かは、
雀の姿を見ませんでした。  しかし、いったん学習した雀たちは、雀の学校全校生徒
を挙げて集団入学するようになり、あちこちの集落から一斉に毎日通学して来ます。

  気にいった餌なら大量に食い尽くし、自分たちの嘴に合わない向日葵の種などを、
餌台から蹴飛ばし落としますので、烏と同様に、困った集団強盗のようなものです。

  毎年この頃になりますと、雉の夫婦が庭にやって来ます。  そのために鶏用飼料を
7百グラムほど朝ごとに庭に撒きます。  しかし、雉が来る前に、雀たちが貪るよう
に食べ尽くしてしまいます。  補給すれば、また同じことが繰り返されます。

  早朝から暗くなるまで一心に食べ続ける雀たち、メタボ雀となり、飛翔することが
できなくなるかも知れません。  むかし私が小学校低学年生のときに習ったように、
お爺さん・お婆さんにお礼の葛籠を運び込むという発想を、現在の雀の学校では全く
教えなくなったようです!  時代の変化を感じます。

★  さて、砂糖水を飲む目白や鶯、一日中食べ続ける雀の姿を眺めていますと、一人
の聖徒を想い出します。  讚美歌75番の作詞者 Francesco Bernardone のことです。
わが国ではアッシジのフランシスとして知られています。  ブラザー・サンという名
の映画もありました。

  実際には、ローマ教会と支配者階層にとって、厄介で恐怖の対象であった人物で、
抵抗勢力の異端者として異端審問所で断罪されても決しておかしくなかった、底辺層
の人たちの中に身を置いて福音を語り、主イェスがそうであったように、自らも苦悩
する者たちの中に身を置いた人物であったと私は理解しています。

  フランシスを慕う貧困層の人々の数が増えるに従い、彼を反乱運動の指導者として
逮捕して処分してしまうよりも、彼を利用して、英雄化して、そのことで不満の矛先
をローマ教会に向けられるのを避けようと試みた、教皇たちの政治的判断が優先し、
教会が彼を聖人に祭り挙げたものだと、私はそのように、一人の教会史の学徒として
捉えています。  素直でない、捻くれ者の発想だ‥と言われる可能性がないとは決し
て言えませんが、私は少なくともそのように見ています。

★  フランシスは実に霊的な若者であったようです。
『偉大なる、栄光に富み給う、主なる神さま、そして私の主イェス・キリストさま、
私の暗い心の中をその御光りで照らしてくださり、私に純粋な信仰と、堅い希望と、
完全な愛をお与えください。  そのことによって私があなたさまを知ることができる
ように導いてくださいませ』‥と、そのように祈っていたそうです。

  フランシスの父は裕福な商人でした。  その父の保護の下でなに不自由のない生活
をしていたのでしたが、次第に苦しんでいる多くの人々の悲惨な生活に目覚め始め、
父に逆らって勘当されるに到ったのでした。

  山野を彷徨い歩く求道者ホームレスになったのでした。
そのような厳しい極限状態の過程で、ますます貧しい人のために徹底的に仕えること
を学び、そしてそのことと同時に、心の中で、ますます神さまを愛する単純な信仰を
増し加えていったのでした。

  つまり、社会正義感の強い人でしたが、同時に、神さまが創造なさった天地自然の
いと小さなものにまで、神さまの創造の栄光を鋭敏に感じて、神さまを讚美すること
においても実に豊かで素朴な信仰と人となりを持ち合わせた青年であったのです。

  神さまはそのようなフランシスを用い給い、世界を信望愛で変えるために、豊かに
お用いになったのでした。  そして、彼が作詞した讚美詩も、最近になってようやく
日の目を見ることとなり、世界的に歌われるようになったのです。

  讚美歌75番、新生讚美歌 125番、聖歌86番、インマヌエル讚美歌93番などに、彼の
作詞した、いのちが溢れ満ちている讚美の詩が紹介されています。

  それから四百年後に、ウイリアム・H・ドラパー  William H. Draper がこの詩を
英語に翻訳し、子供讚美歌 Public School Hymn Book, 1919に紹介したのでした。

  曲は、1906年出版のオックスフォード大学発行の The English Hymnal の 519番に
掲載されました。  ラルフ・ヴォガン・ウイリアムズ Ralph Vaughan Williams
1872~1958が最終的に手がけたものだそうです。

  新緑の初夏、神さまの創造の業を見つめつつ、神さまを讚美致しましょう。


★  私どもが結婚してから、もう少しで、50年になりましょうか‥
その間に3百頭を越える、悲しいいろいろな事情を背負った犬どもを保護しました。

  その多くが大型犬でした。  大型犬は引き取り手が少ないという事情があります。
シェパード、グレート・デーン、セント・バナード、ゴールデン・リトリーヴァー、
ラブラドール・リトリーヴァー、ハスキー、マラミュート、グレート・ピレネーズ‥
だのと、40頭以上の大型犬がやって来ました。  大型犬の保護は敬遠されがちです。

  そういう大型犬の中でも、特に大きかったのは、最近故人となった或る有名な男優
が、結果的に飼育を放棄して、行く先を失った超大型犬のニューファンドランド犬が
いました。  ベアーという名がついていた、文字通り熊のように大きな犬でした。

  どうやらベアー君が幼犬であったときに、犬としての健康管理への配慮が致命的に
欠落していたようで、病弱のまま、ブヨンブヨンに太った犬となってしまい、皮膚病
と心臓病と循環器系等に疾患を持ったまま、男優にベアーを紹介した業者を介して、
私どものところで最終的に引き取るということになりました。

  ある日曜日、いつも順子さんが提供しています公同礼拝後の愛餐会の最中に、窓越
しに、目の前でベアーは心臓発作で突然死しました。  外見だけは「デッカイ犬」で
したが、実際には病弱な犬でした。  芸能人たちの犠牲犬だと私は思っています。

★  いつものように前書きが長くなりました。
大型犬のわりに弱虫だったベアー君との関係で思い出したことがあります‥

  東洋書林と原書房の手によって発売された、ロナルド・ブラウンリッグ著作の邦訳
『新約聖書人名事典』を開いて使徒パウロの21頁に亙る詳しい説明文を読みました。

  冒頭にパウロの紹介があり、ラテン語で「小さい」という意味だとあります。
使徒パウロがいなければ、キリスト信仰はこんにちのような世界的な偉大な宗教には
とうていなれなかったものと私は思うのですが、そのパウロの名の意味は「小さい」
「スモール small」だというのですから、衝撃的な意味の名だと思いました。

  あの「小さい」者が、全世界の歴史や文化を根底から揺り動かした「偉大な」者で
あるということは、驚嘆であり、賞賛に値すること以外の何物でもありません。

★  そうしますと、それでは聖書が語る「デッカイ人」とは誰なのか‥ということに
なります。  そして私はあのヴィクター・マチュアーVictor Mature (1913?~1999)
が演じた映画「サムソン」を直感的に思い出しました。  美男子で筋肉隆々の男優が
演じた旧約聖書物語です。  「サムソンとデリラ」という題だったかも知れません。

  サムソンとは、ヘブル語で「(小さい)太陽の人」という意味だそうです。
士師記13章から「サムソン物語」が始まります。  まことに人間臭い物語です。

  余談ですが、サムソンが屈強で、頑強な怪力男だということで、サムソン派とか、
サムソン系とでも言えばよいのでしょうか、世界的に有名な旅行用スーツ・ケースに
サムソナイトという旅行鞄があります。  実にじょうずに名づけたものです。
ユダヤ系資本ではないのかな?‥とすら考えたことがないわけではありません。

  そのサムソン青年、頑丈といいましょうか、屈強な肉体の持ち主です。
戦闘能力や策略にも優れた、強い青年でした。  士師記を読む者の心を沸き立たせま
す。  しかし私と同じように、神さまがお創りになった美しい女性に対しては、実に
弱い青年士師でした。  (神さまのせいにしているわけではありません。  為念!)

  たくさんの女性たちが次から次にサムソンの前に登場して来ます。
そして16章4節で、デリラという女と出会い、その出会いがサムソンの運命を決定的
なものとしてしまいます。  物語を映画が取り上げるわけです。  実におもしろい、
いかにも人間臭い主人公を中心とする聖書物語です。  一読をお薦めします。

  デリラと日本語聖書には書かれていますが、英語ではデライラ Delilahと発音し、
意味は、ヘブル語でデリケイト delicate 、繊細・優雅な女性という意味です。
絶世の美女であったはずです。  それが証拠に、欧米女性の中にはデライラという名
をつけた女性が多いように思います。  娘を優雅な人にと親が願ったからでしょう。

★  美男子で、多くの才能に恵まれていた、怪力の持ち主サムソンでしたが、そして
美女に弱い好青年でしたが、サムソン自身のほんとうの弱さは、女性に対して弱かっ
たというのではなく、サムソン自身にあったと思われます。

  怪力とカリスマの「ビッグ・マン」が、実は「スモール・マン」になってしまった
のは、彼自身の内に秘めていた彼自身の弱さであったのです。
サムソンは、誘惑に対して、余りにも弱過ぎたのでした。  ここに悲劇の源があった
のです。  「ビッグ・マン」が「スモール・マン」に転落した理由は、サムソン自身
の中にあったのです。  聖書が語る自己規制することを学ばなかったからです。
御霊の実(ガラテヤ書5章22節以下参照)を結ばせる方法を学ばなかったからです。
  自己責任を否定し、欲情に身を任せ、自己制御を拒み、善き師、善き友を選ばず、
好き放題の自滅の道を選んだからです。  神を畏れなかったと言えましょう。

  その一方で、「スモール」であったサウロ、クリスチャンたちを迫害する専門家で
あったサウロでしたが、復活されたイェスに出会ったときから、天下をひっくり返し
た「グレイト・マン」使徒パウロに変わったというのは、彼自身のうちに、イェス・
キリストという救世主が宿ったからでした。

  イェス・キリストに個人的に出会った使徒パウロは、『自分のからだを打ち叩いて
服従させる』と、コリント前書9章27節で述べています。  当時のコリントの周辺で
盛んであったボクシングの激しい訓練を念頭に、そのように自己制御の姿勢を語って
います。  ここに、「スモール」と言う名の使徒パウロと、落ちぶれてしまった嘗て
の巨人サムソンとの違いの秘密が隠されているようです。

★  罪だとわかっていることに対しては「ノー」が言え、正しいことには「イェス」
が言え、義しいことに対しては「私はやる!」と言えることが自己制御・自己規制・
セルフ・コントロールだ‥とつぶやいた人がいたそうです。


★  ここ二、三日の間にたくさんの雨が降りました。
少しも外に出られない犬たち、相当にフラストレーションが蓄積していたようです。

  しかし今朝は、まばゆいほどに太陽光線が降り注いでいました。
降雨中には気づきませんでしたが、その間に随分と新緑が伸びていたようです。

  雨水ですっかりきれいに洗い清められた木々の新緑が、太陽光をいっぱい浴びて、
圧倒的な美しさで眼中に飛び込んで来ました。  神さまの創造の業の圧倒的な美しさ
と、それを誉め讚える被創造物の素晴らしさを改めて強く教えられました。
実に豊かな、美しい朝を迎えることを許されました。  感謝でした。

★  そこで思ったのです。  海抜1、050mの原生林です。  地球温暖化が叫ばれて、
25年前の入植時と比較しますと、確かに厳寒期の気温が数度は高温化しています。
それでも、今冬の最低気温は零下10数度でした。  周辺の土地は凍土でした。

  そして、コンクリートのように硬く凍土化していた死の地面の下で、何も生存する
ことが許されないような厳寒期にあっても、樹木の根も、草花の球根も種も、じっと
命の蘇りの春の到来を忍耐強く堪え忍んで待っていたのです。

  死が支配する厳寒期に、樹木の根も、草花の球根も種も、もしそこで死んでしまっ
ていたならば、遅い春の到来を待つことも、花を咲かせることも、新緑を伸ばすこと
もできなかったはずです。  雨水に洗われても、死んでしまっておれば、美しい新緑
の輝きを今朝のように無言の内に語り告げることはできなかったはずです。

★  エペソ書2章5節~6節は、私たちはかつて罪の内に死んでいた者であったと、
そのように語ります。  その「死んでいた私」を、神はその絶大な愛をもって、恩寵
の内に、「イェス・キリストと共に復活させてくださった」だけではなく、「イェス・
キリストと共に天上で座する者としてくださった」と説明しています。

  死んでいた者が、キリストの復活に与り、生きた者とされ、そしてさらに神の子と
して天上に居る者、神の家族の一員としてくださったのだ‥と説明しているのです。
そして、その故に、私たちは後世にまでも残る、神さまの素晴らしい名作品であると
7節~10節は説明しているのです。  驚くべき恩寵の業によるものです。

★  死が支配していた沈黙の凍土から、新しい春の到来と共に蘇って来た樹木や草花
が、その復活の力と喜びを、新緑の輝きのなかに示しているように、遅い春の到来を
開花することで喜んでいるように、樹木が新しい命を思いきり讚美しているのなら、
神さまの一方的なご恩寵によって、罪の内に死んでいた私たちが、キリストの復活に
よって生きた者とされたのであれば、私たちも私たちの感謝と喜びを、樹木や草花の
ように、いきいきとして示せるはずだと思うのです。

  新しい命、永遠の命に生きる者、生かされている者であれば、それでは、何かしら
私たちの心からの喜びを、私たち自身の在り方によって示すことが出来るはずです。
  生きた者は、いや、生かされている者は、それでは、その生きている決定的な喜び
のしるしを示すことができるはずだと思います。

  なぜなら、私たちは神さまの優れた名作品であるからです。
私たちの日常生活は、生きた者としてのしるしを示していると言えるのでしょうか?

 


雉-2009-

雨の中でしたが雉君がやってきました。

今年やってくる雉は、やや小振りでちょっと神経質のようです。

たまには、雌の伴侶を連れて、一緒にやってきます。 

 

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ハバクク書3章17節~19節

無花果の木に花咲かず、葡萄の木は実らず
オリヴの木の産は空しくなり、田畑は食物を生ぜず
檻には羊が絶え、牛舎には牛が居なくなる
しかし、私は主によって楽しみ、
吾が救いの神によって喜ぶ。
主なる神は私の力であって、私の足を雌鹿の足のようにし、
私に高い所を歩ませられる


   ハバクク書3章17節~19節

『萬有引力の法則』

★  先日原生林の中を散歩していましたら、雉鳩の死骸を見つけました。
猛禽にやられたようです。  飛ぶものが地上に落ちていたのです。
これはてっきりニュートンさんの仕業かと、一瞬そのように思いました。

★  universal gravitation 万有引力の法則‥えらいむつかしい名詞ですが‥
質量を有するすべての物体間に作用する引力。  二つの物体の間に働く萬有引力は、
両物体の質量の積に比例し、距離の平方に逆比例する。  ニュートンが導入し、これ
によって天体の運行を説明した。  宇宙引力‥と、或る電子辞書に出ています。

  地球上の物体に下向きに働いて重さの原因になる力。  地球自転による遠心力との
合力。  萬有引力に同じ‥ともあります。

  わかりきっていることですが、法則 lawという以上、宇宙的で不変のものでなけれ
ばなりません。  一人でも、「それはおかしい」と証明する人があれば、宇宙的法則
ではあり得ません。

★  先日、敬愛している吉良賢一郎さんから、或る著名な学者がお書きになった一つ
の文章を頂きました。  おもしろい文章でした。

  そしてその次の瞬間に、どうしたわけですか自分でもわかりませんが、ガラテヤ書
5章22節~26節と、同6章7節~10節の聖句が、半分以上乾き切ってよく働かなく
なっている終末末期高齢者の脳味噌に浮かんで来ました。

★  万有引力の法則というものがある以上、私たちの心にも、精神的な、信仰的な、
そして霊的な法則というものがあるはずだと思います。

  ガラテヤ書6章には、三つの十字架が示唆されているように、私には思えます。
すなわち、2節が示す、「お互いに重荷を担い合う」という十字架と、5節が諭して
いる「自分自身の重荷を担う」ことと、そして14節が勧める「主イェス・キリストの
十字架の誇り」です。

  人は、自分自身が蒔いた種から実るものを収穫しなければならないという、霊的な
法則があるのです。  この世的な肉を蒔く者は、神の国を継ぐことができない肉の実
を刈り取ることになるのです。  恩寵の内に霊的な種を蒔く者は、やがて霊的な実を
刈り取ることとなるのです。  永遠の命を刈り取ることができるのです。

  『種を携え、涙して出て行く者は、束を携え、喜びの声を揚げて帰って来る!』と
詩篇 126編6節はさりげなく告げています。

★  ニュートンの萬有引力の法則は誰でも知っています。  クリスチャンもです‥
しかし、奇妙なことですが、そのクリスチャンと自称する者の多くが、霊的な法則を
ほとんど考えたことがないし、実行したことがないという事実です。

  『私に向かって、「主よ、主よ」と言う者が、みな天国に入るのではなく、ただ、
天にいますわが父の御旨を行う者だけが、入るのである!』と、マタイ傳7章21節は
警告しています。  これも信仰の法則の一つです。  イェスがおっしゃったのです。

★  潔さと言う種を蒔けば、やがて幸せという実を刈り取ることになる‥と語った人
がいたそうです。  そういえば、テモテ前書4章12節は以下のように勧めています。

  『あなたがたは、年が若いために、人に軽んじられてはならない。  むしろ、言葉
にも、行状にも、愛にも、純潔にも、キリストを信じる者たちの模範となりなさい』


★  1968年に知り合ってからの信仰の良き兄弟、金世福Kim, Seibok さん、末期癌の
ため先週初めに退院許可が出て、現在フロリダ州タンパ近くの自宅で静養中です。
  本人の苦痛は然ることながら、看取る夫人と長女、長男の苦悩を思いながら、遠く
離れた日本で、これまた祈ること以外に何もできないという現実の辛さの中で、私も
先週を過ごしました。  そして、改めて、ヨブ記を読み始めたのでした。

★  私が間違っている可能性のほうが多いのだろうと思いますが、多くの方がヨブ記
をお読みになっていないのではないかと、そのように失礼な憶測をしています。

  このさい、あらためてヨブ記に目を通してくださると、人生の基本的に大切なこと
をたくさん学んでいただけるのではないかと、そのように思います。

  第1章と第2章には、神の子たちが神を訪問して来たことを書いています。
そして、実に興味深いことですが、神の子たちの中に混じって、サタンも居たと書い
てあります。

  そしてサタンが言うのです。  ヨブが義しい人であり得るのは、神がヨブを特別に
愛し、祝しているからではないのか‥と、そのようにサタンは神に問いかけます。
ここから聖書の中でも一番古い書と言われているヨブ記が始まります。

  話の展開と共に、ヨブはさまざまな苦難に遭遇することとなります。
しかしその都度、「ヨブは罪を犯さず、神に向かって愚かなことを言わなかった」と
聖書は説明しています。

  1章21節、2章10節、5章8節~9節、17節、6章10節‥と、ヨブは逆境の
ド真ん中にあっても罪を犯さず、神を呪わず、神に寄り頼むことを忘れませんでした。
  どんなことがあっても、「しかしなお私は主の前で私の道を守り抜こう」と決意し
ています。  13章15節にそのような決意が示されています。

  何千年か前のことですから、現在と違って筆記道具など極めて乏しい中に在って、
そしてほとんどの人が字を読み書きできなかった環境の中にあって、恐ろしい逆境の
苦悩の中にあったヨブは、19章23節~24節で、自分の苦悩とそれに対する自分の
信仰の告白を、パピルスに書き留めることと同じように、いや、それ以上に、鉄筆か
鉛塊で岩に刻みつけたいと、切々と告白しています。
  この箇所は、ヘンデルのメサイヤの中にも採り上げられて美しく歌われており、
25節27節のヨブの切実な、感動的な信仰告白です。  あとはご自分でお読み下さい。

★  ヨブの信仰には遥かに及びませんが‥
ハバクク書3章17節~19節に記されて居る信仰告白文を私は読みます。

  主としてソウルの清渓川チョンゲチョン スラムでの奉仕のあと、それに伴う清算をして、
そのために世田谷八幡山の母の自宅を売却し、この寒村僻地に移住して来てから
25年が経とうとしています。  仏教が深く村人のあいだに根づいている土地柄です。

  大都会の教会がしばしば口にする、いわゆる「教会成長」という尺度ではとうてい
計ることができないような宣教不毛地です。  ハバクク書3章17節が言うような土地
です。  実践的なアメリカ人にはとうてい不可解な土地であり、そこに踏み止まって
の、可視的面では成果のほとんど皆無の不毛地での福音宣教です。

  しかし、ヨブが信仰告白をしたように、ハバクク書3章18節~19節が告白して
いるように、そして樹が、土地が悪いからといって引っ越しをしないで、むしろその
根をさらに深く地中に伸ばして成長するように、私たち夫婦は、主の恩寵の内に在っ
て主イェスの十字架のできごとと、主イェスの復活と、主の再臨を伝えて行きたいと、
ただひたすらそのように願っているのです。  それ以外に何も望みはありません。


『明日のこと』

★  1968年夏に私が初めて韓国の地を踏んだ動機となったのは、当時若い韓国大学生
で金世福 Kim, SeiBok という青年からの韓国訪問促進状を受け取ったからでした。
  韓国春川で国際大学生キャンプを開催したいのだが‥と、日本の教会に呼びかけた
文章を受け取ったからでした。  当時の韓国の国際的・国内的環境は整っておらず、
日本からは私だけが二、三名の東京YMCA英語学校の学生を連れて参加しました。

  その後、金世福さんと交流が続き、当時はまだ韓国人がアメリカに永住する永住権
を入手することは不可能に近い状態でした。  そこで個人的に親しかったテネシー州
ギャラテン教会に対し、金世福さんのために牧師としての移民資格割り当て外の手続
を採るように依頼し、金世福さんの渡米と永住権の確保が実現したのでした。

  そのあと彼の家族一族のアメリカ永住に到りました。  このようにして長いあいだ
金世福さんとの交わりが続いています。  家族一同がそれぞれ独立し、信仰者として
も、祖国から遥か遠くの地で、良く生きています。  良かったと感謝しています。

  今回、まだ若いのに癌を患い、天父のもとにお招きが近い状態に到ったようです。
フロリダの病院に金世福さんを訪ねて行くこともかなわず、ひたすら祈っています。

★  地上人生の終焉を迎えつつある金世福さんのことで思うのですが‥
人の地上人生の終点というものは、どんなに科学が発達しても、人がそれを予告する
こともできないし、それを阻止することもできないということです。  いやはての敵
ということです。  弥終と漢字で書きます。  コリント前書15章が語る問題です。

  ヘブル書9章27節は次のように言います。  すなわち『人が一度だけ死ぬことと、
死んだ後に裁きを受けることとが、人間には定まっている』‥と。
  しかし人は、このことを自分自身のこととして捉えることもできないし、理解する
こともしないし、できないのです。  ここに問題があります。  困ったことです。

  ルカ傳12章13節~21節で主イェスは極めて重大な発言と警告をされています。
驕りたかぶった裕福な農民の畑が豊作となり、彼は自分自身に対して言いました。
  『飲めよ、食えよ、楽しめよ!』‥と。  しかしその夜、彼の魂はこの世を離れる
ことになったのです。  マタイ傳6章19節~34節の主イェスの警告と同じ内容です。

★  イェスは、私たちが明日のことに不注意であってよい‥と仰っているのではあり
ません。  そうではなくて、私たちの日々の歩みのなかに在って、何が人生で重要な
ものであり、何が大切ではないのか‥このことを洞察し、このことを分別するのか、
分別しないのか、分別できるのか、できないのか‥  このことを問うておられるのだ
と私は理解します。

  1985年に当地に移住して来たとき、ルカ傳10章41節~42節と、同12章13節~34節を
念頭に置いて、ここでの集会を「ベタニヤ・ホーム」と決めた理由のひとつは、ここ
に集まる皆さんとご一緒に、主イェスが仰しゃりたかったことを考えてみたいと願っ
たからでした。  すなわち、人生で何が究極的に最も大切なものであるのか、何がそ
うではないのか‥  これを考えて頂き、それを実践して頂きたいと願ったからでした。

  ほかの言いかたをしますと、不必要な心配から解放され、不必要な心配から完全に
自由であるということで、私たちは神さまに仕えることができるということです。

  人が人であるかぎり、心配ということは、あたかも影のように付き纏ってくること
なのかも知れませんが、人生で究極的にどうでもよいようなことに惑わされないよう
にすることと同じように、心配してもどうにもならないことに心を奪われないように
することを学ぶ必要があります。  それよりも、どのようにして神さまに仕えてゆけ
ばよいのかを求めるほうが大切だと思うのです。  心配して問題が解決できる程度の
心配など、心配ではないのだろうと思います。

  何が人生で最も大切なことがらなのか‥  どのようしたら神さまと人に仕えること
ができるのか‥  どうしたら神さまの御旨の中に留り得るのか‥  どのようにしたら
神さまの御旨の中に居るという確信と共に日々の生活を一歩一歩進めて行けばよいの
か‥  どのようにしたら神さまの御旨の中に自分が居るのか、どのようにして神さま
の御手の中に自分が居ることを覚えることができるのか‥  このようなことこそ心を
砕いて求めるべき課題ではないのでしょうか?  このことこそ、イェスがベタニヤ村
でマルタに問いかけられ、忠告された課題だと思うのです。  如何でしょうか?

★  そして、何よりも、私たちは過去を取り戻すことができないように、明日という
日も私たちには「ない」のです。  「ある」のは今日だけ、「今この瞬間だけ」なの
です。  多くのことを思い煩い、心配する時間も必要も、本当は、ないはずです。

  『汝、神に出会う備えをせよ』とアモス4章12節は警告します。
『メメント・モリ memento mori = Remember that you must die!!』と教会は久しく
語り続けています。  『汝、死すべき身たるを覚えよ』というラテン語です。

  今日という日に、私たちの魂が神さまのお傍に居ることが大事なのです。
『明日のことを思い煩うな。  それよりもまず神の義と神の国を求めよ』とイェスが
仰ったことを吟味して頂きたいのです。  『汝の魂、今宵にも取り去られるべし』
農夫は警告を受けていましたが、気づきませんでした。  明日はなかったのです。

 


もしキリストの復活がなかったとするなら、
私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰もまた空しく、
あなたがたは今なお罪の中にいることとなり、
私たちは、すべての人の中で最も哀れむべき存在となる。


   コリント前書15章14節~19節より抜粋