2009年3月アーカイブ

列王紀略上18章37節

主よ、この民に、あなたが神であることを
知らせてください。


              列王紀略上18章37節
 

★  昨年5月に留学第三番目の母校、ペパダイン大学の聖書講演会に私ども老夫婦が
招聘され、その際に予想だにしなかった過分の表彰の栄を母校から頂き、そのことで
勇気付けられ、肝落ちして中断していました「トーマス・キャンベル物語」第4巻の
執筆に再度挑戦することができました。  4月下旬までにはお届けできるでしょう。

  アメリカ建国時のことを本格的に学んだことのない、田舎者の末期高齢者が書こう
ということですので、物事が起こったことの背景がわからないことばかりでした。
  その中でも、どうしてユニヴァーサリズム universalism やユニテリアン理解が
新生国アメリカの教会内に起こった‥わかっていたようで、わからない課題でした。

  この国に生を受け、この国で育ち、この国でイェス・キリストの福音に接した者の
一人として、たくさんたくさんの人々がイェスとその十字架の意味を知ることなしに
死亡して行くのを目撃して来ました。  そしてそのたびに、それらの魂がどこに行く
のであろうか‥裁かれて、とこしえの滅びに到るのであろうか‥と独り悩みました。

  福音宣教が極めてむつかしいこの国ですが、日蓮宗が深く人々の文化と心のなかに
根づいているこの山梨県下の辺境寒村僻地に1985年に入植して以来、たくさんの人々
の死を目撃しました。  福音を聞いたこともなく他界した人々の魂の行方をいくども
考えてみました。  カルヴァン主義を信じているわけではありませんが戸惑います。

  そんなときユニヴァーサリズムということをまじめに考えることがありました。
すなわち、神が愛の神である以上、十字架のできごとの意味を知ることなしに死んで
いった人々の魂を、神さまが裁きと滅びに向かわせられることはあり得ない、むしろ
救われるのではないのか‥という、普遍救済論 universalism の誘惑がありました。
そしてまた、ロマ書2章12節~16節を幾度もいくども読み返して見て考えました。

★  1968年夏に私は韓国を初めて訪問しました。  そののち50回かそれ以上の訪韓を
経験しました。  観光というものをしたことはありませんでしたが、いつも辛くて、
悲しくて、寂しくなるようなところを訪ね歩き、そこでイェスさまの涙を見たように
思っています。  あれから35年~40年の年月が過ぎ去って行きました。

  数多くの訪韓の中でも、済州島脇にある牛島ウドゥ と、釜山のいわゆるハンセン病棟
と、ソウルのド真ん中を流れる清渓川チョンゲチョン スラムの中で、忘れることができない
幾つかの衝撃的な出会いを経験しました。  特に清渓川ではそうでした。

  今となっては、懐かしいそれらの人々と再会することはできませんが、一度も彼ら
を忘れたことがありません。  しかし、多くの人はすでにこの世にはおりません。

  壮大な教会堂を競うように建て、華やかで賑やかに宗教儀式を盛り上げて、東洋の
エルエサレムだと自負し、ハレルヤッ!主よッ!と全員が熱狂的に叫ぶソウルの教会
から完全に見放された清渓川の捨民たち、自分が何の病気で死んで行くのかすら知ら
ない数多くの懐かしい仲間たちでした。

  救いを求めていた彼らの寂しそうな目の中に、彼らの涙の中に、私はイェスの涙を
いくども、いくども、何べんも、つらいほど見たように思っていました。

  そしてハレルヤを絶叫することで自らをゲットー化している韓国の多くの教会と、
救いを求める声なきうめき声を発する清渓川の仲間たちの叫び声を両方の耳で聞いて
混乱した私は、神さまはいったいぜんたい何をどうお考えなのだろうか?‥と、困惑
しきってしまい、私自身の救いをスラムの中で求めていたのです。
  そのような極限状態の中で私はユニヴァーサリズムを考えざるを得ませんでした。
彼らを神さまがその愛の故に救ってくださらないと困るんだと私は念じていました。

★  しかしいま、末期高齢者となり、人生の経験を恩寵の内に重ねることを得て、
私の心は安らかになっています。
  神さまに属することを、人間の憶測に属さないことを、「ユニヴァーサリズム」と
いう人間の推理で云々することは、それは一見まじめな追求のようにも思えますが、
僣越なことです。  むしろ慈愛に満ちた神さまにお任せするのがよいと思います。

  そう思うようになって来ました。  自分は清渓川の中で、自分に出来る最大の奉仕
を、全身全力を込めて遣り抜いたのだから、あとは恩寵の主に委ねるのがよい‥と、
そのように心の休みを得ることが出来るようになりました。  六万人もの住民の世話
を独りで出来ると思うこと自体が傲慢なことです。  出来るわけがありません。

★  マルコ傳1章40節~42節は、「重い皮膚病」に罹って、生きたまま社会的に抹殺
されていたひとりの人のことを紹介しています。  たぶんハンセン病患者でしょう。
  当時は、たとえその人がハンセン病患者でなかったとしてもハンセン病患者である
と断定し、社会から追放し、穢れた者として非人間的に扱っていたのです。

  当時の衛生状態や食生活など、自ら求め招いたものでもないのに、病を得てしまい
ました。  それだけでも苦痛なはずでしたが、それに加えて、肉体的な病の苦痛より
も更に辛いことは、人々から蔑視され、差別され、社会的に抹殺されるという二重苦
を、その死に到るまで、生涯背負って生きて行かなければならない‥という悲劇でし
た。

  皮膚病患者が、万が一にも道を歩くときには、「皮膚病患者が通ります!」と叫び
ながら通り過ぎなければならなかったそうですし、人々が投石したそうです。

  これと同じようなことが、基本的に、現在でも統合失調症(いわゆる精神分裂症)
に悩む人々に対して採られていると言えましょう。  家族も気の毒です。
  自分で病を招いたわけではありません。  それだけでも一生涯の大きな重荷です。
それに加えて、社会から蔑視され、差別され、隔離され、抹殺されてしまうのです。

  映画「ベン・ハー Ben-Hur」のクライマックスの始まりの部分は、主人公ベンが、
旧約聖書の掟を破って、ハンセン病患者たちが隠れて生きる洞窟に下って行き、母と
妹を捜すという場面です。  誰もそのようなことを敢えてする人などありません。

  人が神の名で作り上げ、人間を縛りつけてしまっていた律法を、愛の力で打ち破る
というのが見せ場の始まりです。
  一般日本人観客には、旧約聖書の背景理解が欠けているために、映画の強力な衝撃
を充分に伝えることができなかったものと、そのように映画を観ていました。

★  マルコ傳1章41節は、この人のイェスに対する強い信仰と、気の毒な惨状を深く
憐れまれた主イェスの姿勢を語っています。  隔離され、人目を避け、オドオドして
かろうじて生きていた病人に対して、掟を破ってまで、イェスご自身がその手を伸ば
して患者の身体に触り、「清くなれ!」と宣言されたと聖書は語っています。

  それは、生きたままで死んでしまっていた人が、いやむしろ生きたままで社会から
殺されてしまっていた人が、最後の力を全部絞り出して、途中で投石されて殺される
ことをもいとわず、ひたすらにイェスのもとに辿り着きたいと願い、その命を懸けて
主イェスのもとにやって来たという、この人のひた向きな生き方、極限状態の中から
最後の力を出し切った激しい在り方によって示されています。

  皮膚病と社会からの迫害の中で生き抜いて来た男のその激しいイェスへの絶対的な
信頼感、彼のその信仰を、イェスはいたくめでられたのでした。
  イェスはその人と、その人の内に秘められたイェスへの信仰、その人の一生懸命に
生きることへの情熱をお感じになったのです。  ヨハネ黙示録3章15節~16節が指摘
するような生温い信仰でも、生温い生き方でもありませんでした。

  生ぬるい生き方と言えば、この人の主イェスに対する真摯な、真剣な、一所懸命な
生き方に接するとき、主イェスを求めるそのような強い意欲、主イェスにすがろうと
するひたすらな姿勢が、お恥ずかしい次第ですが、私には決定的に欠けていることを
この人から示されるのです。  皆さんは如何でしょうか?  大丈夫ですよね?!

  イェスは、虐げられながらもひたすらに生きようとするこの人に対して、深く同情
され、憐れみの心を覚えられました。  憐れみの心は必ず行動を伴うものです。

  当時のユダヤ教の祭司や学者や長老たちは、ハンセン病患者を穢れた者として断罪
し、蔑視し、差別し、生きたままで殺すことに手を貸していました。
しかし主イェスはこの人に深く同情し、憐れみの心を抱かれたのです。

  そして憐れみは、イェスがその人の方に手を伸ばすという行動を招きました。
何のために手を伸ばされたのか?‥  それは人々が忌み嫌っていたこの皮膚病患者の
からだに触れるためでした。  律法が拒み、職業的宗教人たちが断罪したこの人を、
主イェスは無限・無条件の愛で受け容れられたのです。  感動を伴う姿です。

  愛の人としての主イェスの病める者、差別された者、虐げられた者に対する姿勢、
ここに神さまが私たちに主イェスを見なさい、イェスに倣う者となりなさい‥と語ら
れていることを学びます。  そして、私たちもイェスに倣う者となる必要性が示され
ていると思います。

  この世の中には、私たちのすぐ隣に、私たちのような者ですら必要としている人々
がいるのです。  そのことに私たちが気づいて、私たちのような者ですら必要として
いる人々が存在していることを私たちが捜し出して、愛の手を差し延べ、共に恩寵の
中に生きることを学ぶ必要があります。  それが「地塩世光」の意味だと思います。

★  このようにマルコ傳1章40節~42節を静かに読んでみますと、大きな感動を自然
に覚えるようになるのです。  清渓川スラムから他界した多くの懐かしい仲間のことを、
このようにすてきですばらしい主の御手に委ねるとき、私はユニヴァーサリズムなどを
考える必要がまったくないのだと、深く教えられるのです。

  主の御手の中にすべてのことを、すべての仲間のことを、委ねることができるよう
になったのです。  それですからいま、静かにスラムでのできごとを追憶することが
出来るようになったのです。  そして私は先に他界して行った人々との再会を楽しみ
に待っているのです。  憐れみに富み給うイェスを、わが主と信じているからです。

              『主の恵み深きことを味わい知れ』  詩篇34篇8節
『主は恵み深く、憐れみに満ち、怒ること遅く、慈しみ豊かです』  詩篇 145篇8節


 

★  前回号の続きで、豫言者エリヤのことですが‥
英語ではエライアス Eliasとかエライジャ Elijah ですが、ヘブライ語ではエリヤフ
Eliyahu です。  その意味は、「ヤハヴェは神なり」ということです。

  西暦前9世紀を生きた豫言者ですから、おおよそ3千年前の人です。
ヨルダン川東岸ギリアデ地方ケリテ川添い奥地テシベ Tishbe の出身です。
ユダヤ教の教典にも、イスラム教のコーランにも登場している人物です。

  列王紀前書17章ですでに学びましたように、豫言者エリヤは死者をよみがえらせ、
18章では天から火を降らせることをこれから学びます。  さらに列王紀後書2章では
つむじ風に乗ってエリヤは天に昇っていった‥と紹介されています。

  マタイ傳17章1節~8節では、イェスがペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけ
を連れて高い山、ヘルモン山に登られたときに、イェスが変貌されただけではなく、
変貌されたイェスにモーセとエリヤが会話している姿をも描いています。

★  次にアハブ王のことです‥
オムリ王朝創始者オムリ王の子でその継続者です。  「父の兄弟」という意味です。
いくつかの町を建てた王で、象牙造りの宮殿を建てたとも言われています。

  旧約聖書では、オムリ王朝のことを、編集目的で軽く扱っているように思います。
しかしこのときにイスラエルは大きく成長し、厳しい国際的緊張の中にありました。
  アハブ王のことも、列王紀略の著者は、故意に悪く書いているように思います。
しかし、まあそのことは、アハブの王妃のイゼベルがバアル信仰を国に導入したから
だと、そのように私は考えています。  酷い女性であったことは確かなようです。

  すなわち、国力増強のためにシドン王エテバアルの娘イゼベルと結婚しました。
このことでフェニキヤとの同盟を堅固なものにしました。  その背後には、シリアと
の紛争がしばしばあり、フェニキヤとの同盟を必要としたようです。  外国勢と多く
の戦争を経験し、勝利を収めた武将です。  通商手腕も上手であったようです。

  アハブ王全盛時代のイスラエル側、エホヴァ側の豫言者がエリヤでした。
軍事的必要性や通商拡大と確保政策のため、物質繁栄神バアル崇拝がイスラエルの中
に堂々と持ち込まれていました。  バアル崇拝者であるシドン王の娘を娶ったため、
バアル信仰が公認され、イスラエル国内に公然とはびこることとなったのです。

  妻イザベル Jezebel(邪悪な女、毒婦、妖婦、放埒女、淫婦などの代表名)は自分
が信奉するバアル神のために神殿を建て、アシラ像を造り、そのために多くの祭司を
養っただけでは満足せず、エホヴァの豫言者たちの殺戮を図り、エホヴァ信仰の絶滅
を計画していたのでした。  イスラエルに於けるフェニキヤの利権擁護を強力に促進
した女性です。  これがエホヴァ神の豫言者エリヤの活躍した背景です。

  黙示録2章20節~23節に登場するイゼベル、すなわち、テアテラのクリスチャンを
誘惑し、不品行に誘い込んだ女預言者として紹介されています。  エリヤが挑戦した
イザベルを意識したものでしょう。  聖書に登場する人物の名をわが子につけること
が多い欧米人ですが、私はこれまでに一度もイザベルあるいはイザベルという女性に
出会ったことがありません。  悪女の代名詞となっているのでしょう。

  そのほかにも、アハブの宮殿の隣接地の葡萄園を、その所有者を殺して略奪すると
いう酷いことをイザベルはアハブ王のためにやってのけたのです。  21章です。

  これらからも、不可視的で霊的なイスラエルのエホヴァ神と、可視的で豊饒を謳う
フェニキヤ人の肉欲偶像神バアルとの対決を招くようになることは必定でした。
これらが、神の人エリヤが活躍した時代です。

  イェスが、マタイ傳6章19節~34節で警告なさったように、また、使徒パウロたちが
 警告していたように、物質欲の神と、永遠の生命を司られる神の両方を共に同時に
つかもうとすること、すなわち、「二足の鞋を同時に履くこと」は、私たちの信仰と
その信仰生活に於いて、これは基本的にまったく不可能なことなのです。

★  次は、オバデヤ Obadiahのことです‥
名の意味は「エホヴァのしもべ」という意味のようです。
最近では「エホヴァ」とは呼ばずに、「ヤハウェ」と呼ぶようです。  善い名です。
旧約聖書では12名のオバデヤが登場しています。  みんな同名異人です。

  列王紀略上書18章3節~16節に登場するオバデヤは、アハブ王の高官のことです。
アハブ王妃イゼベルがバアル礼拝を推進するためにエホヴァの豫言者たちを殺害した
とき、エリヤなどエホヴァの豫言者を保護しています。
  18章のクライマックス、カルメル山に於けるエホヴァ神とアアル神との対決の機会
を、エリヤのために政府高官オバデヤがお膳立をしています。  何ともすてきです。

  人気さっぱりの麻生太郎総理はローマ教会員とか‥石破茂農水産相もクリスチャン
とか‥もしそうならば‥50年先、百年先のこの国と世界の将来を見据えて、神の僕と
して、人類史に名の残るような清廉で崇高な政治力の発揮を願いたいものです。

★  最後にバアル Baal のことです‥
「所有者」という意味の名です。  シリアとカナンの豊饒肥沃の神です。
バアルが所有する土地には豊饒肥沃をもたらすものと考えられていました。

  荒野放浪民であったイスラエル人たちがカナンに定着するようになり、農耕生活に
移行するに従い、その地元の豊饒肥沃神であるバアルとの関係を持たざるを得なくな
り、バアルからの影響を受けざるを得なくなってゆきました。  そこから、エホヴァ
神とバアル神との混合宗教的な傾向が強まりました。
エホヴァ信仰者には危機感が高まりました。エリヤの登場となって来ます。

  同じようなことが、私たちのイェス・キリストへの信仰に於いても見られます。
初代原始教会の在り方からこん日の私たちの在り方を考えてみますと、同じように、
もともとは目に見えないイェスの福音が、可視的なものへ、モノ中心主義へ、オカネ
中心主義へ、複雑化した宗教儀式中心主義へ、位階聖職者中心主義へと移行し、視覚
に訴える可視的面強調の「キリスト教」へと変化してしまっています。

  この点でローマ教会は、聖書が何も語っていないクリスマス祭りにも見られるよう
に、進出して行ったヨーロッパ各地の地元の宗教との迎合に対して特に上手です。

  しかし目に見えない神、霊なる神と、この世的なものとの葛藤を旧新約聖書は一貫
して私たちに問いかけています。
  そのことは、たとえば、ロマ書12章やコリント後書4章16節~5章9節でも感じる
ことができでしょう。  あとは皆さんがバアルをどのように扱われるか‥でしょう。

★  ついでに雨のことにも触れておきます。
「触れておきます」と述べたものの、残念ですが、私は地中海沿岸学を専攻したこと
が全くない人間ですので、責任を持つことができません。  無責任なことです。

  その意味では、「レバノンの白い山・古代地中海の神々」山形孝夫著未来社発行や
「旧約聖書の世界・その歴史と思想」米倉充著人文書院などをお薦めします。
  後者はアマゾンで1円から入手できます。   109頁-117頁が直接に役立ちます。

  地図を見てみますと、そして地球の上の成層圏を流れるジェット気流のことを考え
てみますと、大西洋の気流が、狭いジブラルタル海峡を吹き抜けて、地中海へと流れ
込むことを理解するのにそれほど困難を伴いません。  そして突き当たりのレバノン
山脈にぶつかることも理解できます。  山脈にぶつかった湿気はそこで雨となります
し、冬にはレバノン山脈に雪を降らせます。

  ジブラルタル海峡から見て地中海の突き当たりに位置するパレスチナは、いわゆる
地中海型気候圏内といいましょうか、気象条件圏内にあります。  温帯冬雨気候とも
言われています。  夏の乾燥期と冬の降雨(降雪)期に大きく分かれています。

  夏には降雨が全くありません。  したがって乾燥しており、暑いです。  この気候
は農耕民族にとって厳しいもとなります。  冬期に降雨がありますが、レバン山脈に
当たって降雨すれば、そこから先(東方)に雨が降らないということになります。
豊饒肥沃神バアルと農民にとって、降雨がないということは、深刻な脅威です。

  日本のように黒潮の恩恵を受けている列島では、乾季がもたらす恐ろしさを充分に
理解できないかも知れません。
  雨を支配するということは、エホヴァ神にとっても、バアル神にとっても、これは
その地の支配権を示す重要な課題なのです。

  通常10月末から11月にかけ冬の降雨があります。  地面を潤し、農耕作業を可能に
します。  この時に充分な降雨があれば翌年の豊作が予想できます。  秋の雨です。

  冬の雨は12月中旬から2月末にかけて大量に降る長雨です。  土地は充分に潤い、
各家庭の水甕は満たされ、井戸も満々と水を蓄えることができます。  生命に繋がり
生命を保証する恵みの雨ということになります。

  春の雨は3月~4月に降ります。  夏の作物の成育を保証します。  穀物の豊作を
約束する「恵みの雨・祝福の雨」です。  雨はバアル神にとって強力な味方です。

  ここに、バアルの神に頼って豊作と豊饒の保証を得るということが、農民にとって
家族一同のみならず、家畜を養うためにも、農作物の豊作のためにも極めて重要課題
となるのです。  バアル信仰が根強く定着していた理由です。
雨を支配するということは、実に重要な宗教的意味を持っていたわけです。

  現在のイスラエルが強力な軍事力を配置している箇所に、東北側の隣国シリアとの
国境地域で、紛争の絶えない箇所があります。  ゴラン Golan高原です。
  宿敵シリアを一望できる重要軍事拠点としてのゴラン高原の価値を報道は取り上げ
ているようですが、ゴラン高原に降り注ぐ地中海からの湿気を含んだ季節風が大量の
恵みの雨をもたらし、イスラエル側の貴重な水甕になっているのです。
  このようなことが、列王紀略上17章と18章の背後に隠されていたのです。


 

列王紀略上17章14節

甕の粉は尽きず、瓶の油は絶ゆることなし


              列王紀略上17章14節
 

★  17章の初めに、エリヤが人里離れた寂しいワディ・ワビス渓谷を流れるケリテ川
の厳しい自然の中に送られ、そこで死と対決し、また神さまとも対決し、静寂の中に
神さまの御旨と摂理を体験したことを学びました。  (ワディとは渓谷の意)

  次にエリヤは地中海の国際的な漁工商業港ザレパテに送られ、騒音と喧騒の中で、
多くの誘惑と挑戦の中で、最も貧しい、その日の生活にも事欠いていた子持ちの寡婦
の粗末な生活の場に派遣され、神さまの摂理と恩寵を、他者との共同生活という形で
更に学ぶ実践訓練生活を体験したのでした。  『甕の粉は尽きず、瓶の油は絶えじ』
という、神さまの摂理を学んだのでした。  得がたい恩寵を体験したのでした。

  『人の生くるはパンのみに由るにあらず。  神の口より出づるすべての言コトバ に由
る』という、マタイ伝4章4節のイェスの言葉と同じ確信を、貧しい寡婦に養われな
がら学ぶことになったのです。

★  ケリテ川のほとりでの孤独な修道僧生活とは違って、喧騒の町で、貧しい寡婦の
粗末な住居区間で、寡婦に養われるという、プライドにかかわる乞食生活を体験した
のです。  そこが洞穴の中であったのか、スラムの中の掘っ建て小屋であったのか、
聖書はそのことについて何も語っていません。  未婚の男性と、既婚寡婦との関係も
聖書は何も語っていません。  寡婦の幼い息子が同居人のエリヤに対してどのような
感情を抱いていたのかも聖書は語っていません。  普通の人間関係、男と女との関係
から憶測してみますと、荒野とは全然違った緊張体験を、エリヤは寡婦の家庭で経験
したものと推測できます。  そして何かしらこの寡婦には暗い過去があったことを、
18節は暗示しています。  しかし聖書は寡婦の過去を何も語っていません。

★  そこに寡婦の息子の病死という事態が浮上して来ています。
栄養状態が極めて悪かった寡婦と息子の貧困生活を容易に想像することができます。
居候を続ける健康なエリヤに対する寡婦の複雑な感情も何となく想像できます。

  一緒に住むことになった一人の幼子の死という現実にエリヤは初めて出会います。
哀れみということを個人的に初めて強く体験したのではないかと推測します。
  神さまが、なぜ弱い立場の幼子の命を召されたのか?...と、エリヤは初めて真剣に
思い巡らしたのかも知れません。

  ソウルの清渓川チョンゲチョン スラムで、私も同じような体験をいくどか経験したことが
ありますので、エリヤの神さまへの怒りと、人間的な絶望と、そして最後には神さま
の力に依る復活への願いが、何となくわかるような気がするのです。

  またその時まで、個人の命の尊さを覚えることが少なかったエリヤに、一人の幼子
の死を通して、弱い者を愛するという体験を神さまがエリヤに与えられたのかも知れ
ません。  エリヤにとって身近な者の死を初めて体験したのかも知れません。

  それだけに、エリヤは、幼児の復活を心の底から願い、神さまに哀れみを求めたの
だろうと推測します。  21節には、エリヤが真剣に神さまに三度お願いをしたことを
告げています。  そして神さまがエリヤの真剣な願いを聞かれたと22節は告げます。

★  同居する貧しい寡婦家族の息子の病死と復活を体験し、目撃することによって、
エリヤは個人を愛すること、個人を大切にすることを学んだものと思います。
神さまに仕える者は、人々を具体的に愛することを学ぶ必要があるのです。
決して頭だけの知識ではないのです。 

  「特定の問題に対して今この自分は何をなすべきなのか?」このことがキリスト者
と自称するものに対して常に問われているのです。  福音伝道者も、一般の基督者も
What can I do? ということが問われ、神さまに寄りすがって問題の解決を求めると
いうことが問われているのです。  信仰とは、そのような地味な実践だと思います。
ルカ傳10章30節以下の「善きサマリヤ人となる」ことが求められているのです。

  エリヤの神さまに対する真剣な祈りによって寡婦の息子がよみがえったということ
で、しばらくエリヤを同居させ、世話をしていた寡婦は、エリヤが神さまに仕える人
であると理解し、エリヤの祈りの言葉を聞かれた神さまが真実なお方であると確信す
るに到ったのでした。  すばらしい個人的な証しをエリヤは成し遂げたのです。

★  今春新しい学生生活を始められる皆さんも、他者に仕えることで神さまに仕える
ことができるのだ...ということを、この春から体験していって欲しいと願います。

  エリヤさんはいろいろところで、いろいろな体験を謙虚に、しかも豊かに学ぶこと
を積み重ねていって、いよいよ18章で神さまのために大きなお仕事をすることになる
のです。  皆さんも常に謙虚に神さまの導きの中に在って、学びを続けてください。

 


 

<<この章は、前章『烏 ravenに養われたエリヤ』の続きです。>>

★  このあと、今度は全く環境の異なる地中海沿岸の漁業・交易・産業都市であった
ザレパテに行くように神さまはエリヤに命じられました。  シドンとツロの中間点に
ある、染め物の盛んな港湾都市国家があった町です。  ガラスも生産していました。

  大勢の人々が往来する、トルコからエジプトに通じる国際街道筋の港町です。
賑やかな通商の漁港です。  荒野とは全く違った価値感覚が支配している町です。
  支配者の権力と、そこに生きる人間の能力、損得勘定、飽くことを知らない人間の
貪欲、そして肉欲が支配していた都会です。

  その港町でエリヤは、孤独と静寂と死が支配していた渓谷とは全く違う体験をする
ことになるのです。  あまりの極貧さに、自殺を考えていた寡婦の世話になるという
体験をすることになるのです。  三千年ほど前の話です。  女性の価値などほとんど
無視されていた時代です。  寡婦が生きるには、選択肢が極めて限られていた、厳し
過ぎた時代の話です。  しかもエリヤが遣わされた寡婦には子供が居たのです。
  子供を抱えていた寡婦には生きのびる道は少なく、自殺を考えていたのです。

  この騒音の町の中で、赤貧の寡婦を通して、『甕の粉は尽きず、瓶の油は絶えず』
という神さまの訓練と神さまの恩寵の摂理を学ぶことになるのです。

★  そして、ただ単にエリヤ自身が神さまの摂理を更に体験しただけでなく、最初は
大いに戸惑っていた寡婦自身も、『今、私はあなたが神の人であることと、あなたの
口にある神さまの言葉が真実であることを知りました』と告白するほどに、神さまの
恩寵のすばらしさを体験し、信仰の復興をみることになりました。  17章24節です。

  このような体験を通して、エリヤは18章に書かれているように、神さまから大きな
仕事を託されるように成長していったのです。  焦らないで、神さまの時間を待ち、
神さまの豊かな恩寵を体験することが重要なのです。  そのような神の人を少しずつ
増やすことが求められているのです。  大量生産することは決してできないのです。

★  留学中に、ケンタッキーやルイジアナの辺境地の古い小さな教会で、たいていの
場合、貧しい寡婦や老人から、同じようなお恵みを頂く体験を私も多くしました。

  礼拝後にさりげなく差し延べられた皺だらけの手で握手を求められ、求めに応じて
握手をしますと、私の手の中に25セント、時には1ドルが託されていることを体験し
たのでした。  同じような体験をローズ先生もなさり、そのような小さな献金の積み
重ねで、戦後に横浜で教会をお建てになったことを私はしばしば伺っておりました。

  神さまのお仕事は、エリヤが体験したように、この世の基準ではとうてい計ること
ができない不思議な方法で、神さまの方法で、なされることが多いようです。 


 

ラブラドール ポーリー

デジタルカメラで盛んにCMを掲載しているCANON。

そのCANONの広告に使われている写真は、ご存知でしょうか。

少女とラブラドールのツーショットです。

poly.jpg

さてさて、あのラブラドール、このポーリーさんとは、どんな関係?

ちなみに、このポーリーさんは、ベタニアホームの住人です。

日曜日の礼拝中は、庭で待っていなければならないために、

欲求不満気味です。

礼拝が終わった後の、うれしそうな様子。本当にうれしそうなんです。

(iwa)


 

『烏 ravenに養われたエリヤ』

★  ベタニヤ・ホーム開設以来いろいろな種類の野生動物と共存するように心掛けて
います。  栗鼠や狐も常連客として24年ものあいだそれぞれの専用餌台に来ます。
特に餌台に飛来する野鳥の種類は多いです。  小綬鶏コジュケイ は絶滅したようですが、
雉の一家がやって来ます。  神さまのお創りになったものは楽しいものです。
 
  kiji2009.3.jpg

  しかし一種類だけ戸惑うものがあります。  烏カラス です。  栗鼠であれ仔猫であれ
小動物を襲います。  啄木鳥キツツキ用の牛脂塊を根こそぎ盗んで行きます。

★  日本の記紀伝承には神武天皇東征時に、八咫烏ヤタガラス が熊野から大和に入る険路
の道案内をしたという話があります。  小学校で習ったのは金色の烏でした。

  イメージ・シンボル事典(大修館書店)や、聖書大辞典(キリスト新聞社)、また
聖書動物大事典(国書刊行会)を繙いてみますと、古い時代から烏は神の使者として
も、あるいは不浄で凶暴で呪われた鳥としても考えられて来ていることを学びます。

★  聖書では、ノアの大洪水のとき、箱舟の窓を開いて烏を放ったことが記録されて
います。  聖書に登場する最初の鳥ですが、なぜ箱舟に収容されていたのかという
理由はわかりません。  汚れた鳥、獰猛な鳥として考えられていたものか、それとも
神さまの使者としてであったのか...  創世記8章6節~7節は何も語っていません。

  しかし、レビ記11章15節や申命記14章14節では、烏は汚れた鳥として扱われ、食用
を禁止されています。  イザヤ書34章11節では荒れ地に住む鳥で、箴言30章17節では
人の目を刺す凶暴な鳥であると言及されています。

  そしてケリテ川辺で神さまは烏を使って、朝ごとに夕ごとに、エリヤを充分に養わ
れたと、列王紀略上17章3節~6節は語っています。

★  ルカ傳12章24節で、『烏のことを熟考してみるがよい。  烏は蒔くことも、刈る
こともせず、また納屋もなく倉もない。  それだのに神は烏を養っていてくださる。
あなたは烏より遥かに優れているではないか...』と、神さまによって生かされている
私たちの本当の姿をイェスは語っておられます。

  この聖書箇所は、エリヤが烏によって充分に朝夕養われたということを、イェスが
ご存知であり、そのことを肯定されたものだと、私はそのように理解しています。

★  『烏によって人間が養われるなんて!?  烏によって神の人が養われるなんて?!』
と、初めから疑ってかかる人もいるでしょう。  象徴的な話さ!!  比喩的な話さ!!...
とつぶやく人もいるでしょう。  聖書が開かれた書である限り、いろいろな角度から
聖書を爼マナイタの上に乗せて、ああだ、こうだと言いたがる人もあると私は思います。

  そのように聖書を読む人を、私が非難しているわけでは決してありません。
お気の毒だとは思いますが...  このことをここではこれ以上述べません。

  けれども、青年エリヤが、神さまが朝ごとに、夕ごとに送られた烏によって充分に
肉体的生存に必要なものを支えられただけではなく、毎朝毎夕のその体験を通して、
神さまのお言葉に対して、神さまに対して、絶対的な信仰を確かなものにする体験を
ヱリヤ自身が学んだという事実を、比喩的聖書解釈などでは説明がつきません。

  烏によって朝に夕に養われるという、卑屈にならざるを得ないような体験を通して
青年エリヤは神さまの約束が真実であることを学び、神さまの恩寵が豊かであること
を学ぶことができたのです。  神さまの方法は、人間が考える方法を遥かに超越した
恩寵の世界に属するものなのです。

  そのことをエレミヤ哀歌3章22節~28節が語っているのです。
そのことをイェスはマタイ傳6章19節~34節やルカ傳12章22節~34節で勧めておられ
るのです。

  私たちが両方の膝で地面の上に跪いて祈ることと、祈りに力があることを私たちが
学ばない限り、神さまは私たちを神さまのご用に用いてくださることがないのだと、
私は私の限られた人生体験ですが、考えているのです。

  クリスチャン=キリストに属する者であることとは、厳しい自己訓練、マタイ傳が
7章13節~14節で語るように、「しぼられる門・しぼられる狭い小徑」を無事に通過
する者・した者であるというのです。

  「月給取り気分・ショーバイ人気分」で、いわゆる牧師になるということでは到底
道が厳しくて耐えられなくなるのです。  若い牧師たちの溜め息が聞こえて来ます。
  教会堂という箱の中に閉じこもって、大勢の人々とともに、アーメン・ハレルヤを
絶叫するということだけで、そのことで誠実なキリストの弟子になれるというような
ことではないのです。  そのような姿勢を一種の行為義認主義といいます。

  烏に養われるということは、どのような環境の中に己が居ようが、神さまを信じ、
神さまのお言葉を信じて、ただひたすらに従い徹するという体験から始まると、若い
エリヤさんが私たちに語っているように思います。

★  人がほとんど住んで居ないところで、寂しい渓谷、断ち切られた渓谷という名の
ワディ・ワビスを流れるケリテ川辺に、神さまはまずエリヤを送り込まれたのです。

  そこには、静寂が漂い、死の臭いが漂い、人の能力を完全に否定する荒野です。
烏に養われなければ生存できない場所です。  死と隣り合わせの孤絶した場所です。
  しかし、そこはまた、神さまと向き合い、神さまと対話し、自己を冷静に見つめる
場所でもあったのです。  神さまの摂理と、神さまの恩寵と、神さまの御旨を学べる
絶好の場所でもあったのです。  神さまの御声を静かに聴きいることができた場所で
あったのです。  神さまとだけ静かに出会い、神さまのお声だけを聴いたのです。

  しかし、やがて川の水が枯渇するという新しい事態を体験することになるのです。
それは死を意味するものであり、存在の根底を否定する恐怖を体験したのです。

  これらの諸体験をとおして、神さまのご用のために、神さまに仕えるために必要な
場所と時とをエリヤにお与えになったものと私は理解しているのです。
烏に養われることも、川の流れの枯渇も、神さまが用いられた手段・方法でした。

  これらの体験は、18章に用意されている、神さまのための極めて大きな働きに従事
するために必要な準備段階の最初のもの、第一段目のものでした。

<< 『甕の粉は尽きず、瓶の油は絶ゆることなし』 につづく>>


 

  kogera.jpg 

 先日来、林の奥から啄木鳥のドラミングの音が聞えてきています。

餌台のほうにも、アカゲラやアオゲラ、そしてこのコゲラたちが牛脂をもとめて訪れています。

コゲラは、2羽、3羽複数で飛来しては、競い合うように牛脂をついばんでいきます。

春到来の、光景でしょうか。


 

『偽キリスト・偽預言者』

★  マタイ傳24章24節とマルコ傳13章22節で「偽キリスト・偽豫言者」という表現
があります。  主イェスが警告されています。

  そのほかにも、ペテロ後書2章1節には「偽教師」が、コリント後書11章26節と
ガラテヤ書2章4節には「偽兄弟」が、そしてコリント後書11章13節には「偽使徒」
が存在していた、そして現在でも存在していることを警告しています。
  マタイ傳7章15節と24章11節、ルカ傳6章26節、使徒行伝13章6節、ペテロ後書の
2章1節、第1ヨハネ書4章1節、そして黙示録16章13節、19章20節、20章10節には
「偽預言者」に対する言及と警戒がしるされています。  黙示録2章節には「偽者」
もあります。  いつの世にも偽物・偽者・ペテン師が多いことは世の常です。

  しかし、聖書が語る場合には、これは悪魔との霊的な闘いの場に於ける「偽者」な
のです。  悪魔はあたかも「光の天使」のように装って私たちに近寄って来ると聖書
は警告しているのです。  悪魔が最も熱心に活動するのは霊的世界です。
  「自称・他称の我こそは良きクリスチャンなり」という人達こそ、悪魔が最も狙い
を定めている人種であり、最も注意しなければならない存在なのです。

  「俺は悪魔だ・偽キリストだ」と言えば誰でも警戒するでしょう。
北朝鮮のボスが偽キリストだ、反キリストだ!‥とレッテルを貼りたがる薄っぺらな
自称クリスチャンがこの国にいるようです。  しかし果たしてそうでしょうか?

  聖書は、実際の生活に於いて神を否み、御子イェスを否む者は誰でも反キリストだ
と説明しています。  この世の終わりには、そのような反キリストがたくさん現れて
来る‥と、ヨハネ第1書2章18節はそのように語っています。

  口先だけで我々が「イェスは主なり」と語ったとしても、私たちの日常生活に於い
て、まわりの人々が私たちの内に主イェスを見ることができないのであれば、私たち
たちの中に主イェスが内在されていると、まわりの人々が感じることができないので
あれば、これは大きな問題なのです。  私たち自身を吟味する必要があります。

  『あなたの光を人々の前に輝かし、人々があなたの良いおこないを見て、天にいま
すあなたの父を崇めるようにしなさい』とマタイ傳5章16節でイェスは言われます。

 


 

テモテ前書6章11節~12節

神の人よ、あなたは...

義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。

信仰の戦いを立派に戦い抜いて永遠のいのちを獲得しなさい。

 

テモテ前書6章11節~12

 


 

★  イタリヤの作家 Straparola の Piacevoli Nottiに語られている古い話のなかに
「美女と野獣Belle et la Bete」というのがあります。
美しい娘が父の命を救う為に醜い野獣と結婚すると約束すると、野獣は美男子の王子
に変わるというものです。  Mme Leprince de Beaumontによる童話が有名です。
  話が進むに従い、本当の悪党は背の高い、ハンサムなガストンであったと判明する
という次第です。  人は見かけだけではわからないということでしょう‥

★  マタイ傳24章3節~13節を、テモテ後書3章3節~18節と併せて熟読してみると
よいでしょう。  日々の生活の中に在って霊的な事柄に対して私たちも細心の注意を
払わないでいると、ガストンのような惑わす悪しき者によって惑わされてしまう可能
性があります。  恐ろしいのは目に見えない悪魔の力と業だと思います。

★  北朝鮮軍がミサイルで私たちを脅かすということは可視面のことです。  それは
一触即発の戦争の可能性を含むことですが、あくまでも目に見える世界のことです。

★  しかし私たちは霊的面において不可視の恐ろしい敵、悪魔と戦っているのです。
それですから、マタイ傳24章が語るように、「世の終わりのとき」を常に意識して、
マルコ傳13章33節が勧めるように「目を覚まして」その日に備える必要があります。

  「サタンが光の天使に偽装する」場合もあると、コリント後書11章14節以下は警告
  しています。  どんなに「主よ、主よ」と口先だけ叫んでみても、「全くお前を知
らない」と天父がおっしゃる可能性があるとマタイ傳7章後半で主イェスが警告され
ています。  先日も再び別の韓国人牧師によるセクハラ問題が報道されていました。

  サタンが懸命になって誘惑しようとしている相手は、賢くない自称クリスチャンと
いう人種だと私は案じています。  サタンが好む人種は、上記ペテロ後書3章が語る
ように、騙され易いクリスチャンのことです。  宗教酒に酔っている人のことです。

  無学で心の定まらない者は、聖書に無理な解釈を施すことによって、自らの滅亡を
招いている‥と聖書は警告しているのです。  非道の者の誘惑に誘い込まれて、自分
自身を失ってしまうのです。  「自分は大丈夫だ」と騙されてはいけないのです。

  それですから、主イェスの恵みと知識においてますます豊かになる必要があると、
ペテロ後書3章18節は勧めます。  主に在る交わり、エクレシア、呼び出され、呼び
集められた者たちの交わりを疎かにしないことが大事です。  ヘブル書10章25節。
  他の兄弟姉妹との交わりの中でお互いに切瑳琢磨して共に育つ必要があります。


 

柴犬ナナ

nana.jpg

ベタニアホームの住人 ナナ。

今ではフォックス亭を訪れる来客たちのことも、あまり気にせず、マイペースで

屋根上生活を謳歌しています。

寂しがり屋なのだけれど、触られそうになると恐怖心からか、唸り声がでて

しまいます。

食べ物には、ちょっと弱い・・・。

 


 

★  「この人なら国の危機を救ってくれると期待していたのに...  だめでした!」
麻生太郎を選んだ自由党員たちは異口同音にそのように期待していたはずでしたが、
結果は散々たるものです。

  「麻生がだめなので、この人なら国の危機を救ってくれると期待していたのに...
検察の手が届きそうです?!」  これら二つ、どこかで聞いたような表現です。

  そうです。  ルカ傳24章21節に記録されている、イェスを救世主として期待してい
たものの、十字架のできごとですっかり落胆し、故郷に戻るエマオの道中で、思わず
愚痴った二人の弟子たちが吐き出すように口にした表現です。

  イェスという砂の上に、イスラエルの解放と独立という楼閣を期待した、果敢ない
夢であったと、この二人の「弟子」たちが語ったのです。

★  永田町に新しいエルサレムを求めるということ自体がおかしいのです。
オバマに新しい神の国の建設を求めるということも、これもまたおかしいのです。

  いわゆる「主の祈り」という、ほとんどの教会が唱える共通の祈りがあります。
マタイ傳6章9節~13節と、ルカ傳11章2節~4節に記録されている祈りです。

  但し、「国と権能と栄光とが永遠に神にありますように」という頌栄部分をイェス
が祈ったのかどうかは、長いあいだ聖書学者たちが論じ続けていることです。
ディダケという文章に関係があるのかも知れません。

  そのことをここで問題にしているわけではありません。
それよりも、「主の祈り」の最初の部分、すなわち、『御国を来たらせ給へ、御心を
地にも行わせ給へ』という部分を、私たちは、多くの場合、ほとんど深く考えること
なしに唱えていると思います。

  しかし、そこでイェスは私たちに何を教えようとなさっているのでしょうか?
多くの解釈が成り立つものと思います。

  けれども、「この地上に神の国はまだ来ていない、まだ打ち建てられていない」と
イェスはおっしゃりたかったのではないのか?...と、そのように私は受け止めている
のです。  「神は愛なり」と言うとき「人は愛でない」と言うのと同じようにです。

  「天において行われている神の御旨のすべてが、その完全な意味において、この地
上では行われたことが嘗てまだない」事実をイェスが私たちに気づいてもらいたいと
お考えになっていらっしゃるのではないのか?...と、私はそのように理解しているの
です。

  神の絶対的な主権が行使される、やがてこの地上に来たる終末を指差しておられる
のではないか?...と、そのように私は受けとめたいのです。

  確かに、そのすぐあとにやって来た十字架のできごとにおいて、そしてその直後の
復活と、ペンテコステのできごとを通して、ある意味においては、神の国が打ち建て
られた、教会というかたちで、神の国がこの地上に実現した...と、そのように理解す
ることができます。  教会が約束されていた千年王国であるとも理解できます。

★  しかし私は、究極的に神の国の実現は、キリストの再臨と共に始まるものである
と理解し、そのように期待しています。  その日が来るまでは、この地上に神の御旨
を完全に代行できる人間の手による政府はあり得ないと理解しています。

  今月末には印刷製本を終え、当ベタニヤ集会の皆さんのご好意で出版できるはずに
なっています拙著「トーマス・キャンベル物語」第4巻の中で紹介しておきました、
神の国建設理念というものが旧宗主国イングランドから、広義ではヨーロッパから、
解放された新世界アメリカで打ち建てられる、打ち建てよう!...と移住者たちの間で
共通理解として存在していました。

  しかし、そのような「崇高な理念」を実現することなど不可能であると、まもなく
アメリカ市民は学ぶことになったのです。  南北戦争がそれを証明したのです。

  南北戦争の悲惨さを体験した教会指導者たちは、人間による人間政府の恐ろしさを
充分に学んだのでした。  その指導者たちの生徒らが私の恩師たちでもありました。

  日本国民を支配していた、天皇制を頂点とする大日本帝国という恐怖弾圧政策から
私たちが1945年に解放されたのでしたが、そして形式的には民主主義国家に急変した
のですが、そして一時期には「国民総懺悔運動」という、政府指導型の、名目だけの
反省運動がなかったわけではありませんが、「解放」=「新秩序確立」というわけに
はゆきませんでした。  私たちはそのことを現在の自民・公明政府で知っています。

★  ダニエル書7章を読んでみますと、四つのけだものが登場しています。
そのことに対する私見をここでは述べませんが、四つの獣は大きな国家権力を象徴し
ているようです。

  どんなに強そうで恐ろしいように見えるけだものであっても、神の国の前には全く
無意味だと学びます。

  詩篇1篇4節が謳いますように、「風に吹かれて飛び去る籾殻」のようで在っては
ならないのです。  それよりも1節~3節に示されているような者になることこそが
人生最大の目的であると、今回の永田町騒動で思うのです。

  『悪しき者の謀略ハカリゴト に歩まず、罪人ツミビトの道に立たず、嘲アザケ る者の座に坐ら
ぬ者は幸ひなり。  かかる人はエホヴァの法オキテ を喜びて日ヒルも夜もこれを思う。
  かかる人は流ナガレ の辺ホトリ に植えられし樹キ の期トキ到りて實ミ を結び、葉もまた凋シボ
まざる如く、その作ナスところ皆さかえん。

  悪しき者は然シカあらず。  風の吹き去る籾殻モミガラの如し。  然サレば悪しき者は審判
サバキ に耐へず。  罪人ツミビトは義タダシ き者の會ツドヒ に立つことを得ざるなり。
  そはエホヴァは義き者の途ミチを知りたまふ。  然サレど悪しき者の途は滅びん。』


 

『チェンジ?』

★  アメリカ大統領選挙で変革 Change! Yes、 We can! を訴えたオバマ候補が圧倒的
多数の支持を得て当選したことを私たちはある種の感動を覚えながら見守りました。
  前ブッシュ政権に絶望した市民の反動で、オバマ政権に対する期待が余りにも大き
過ぎると、市民の支持を失う可能性もありましょうし、暗殺の可能性もありましょう
し、アフガニスタンに足を引っ張られて、イラク政策で失敗したブッシュの二の舞に
なる可能性もありましょう。  チェンジの内容を見守りたいと思います。

★  昨日は除雪で疲れました。  今日の午前中は太陽が出ていました。  午後からは
曇りです。  水仙が積雪凍土の中から芽を出しているのを発見しました。  春です。

  春と言えば、春夏秋冬も生老病死も変わることなく常に私たちと共にあります。
ほぼ永遠に変わることはないのです。  チェンジ・レスです。
チェンジ、変化・変革は良いことですが、そうでもないものもあります。

  末期高齢者化した私はたくさんのチェンジについて行けなくなっています。
携帯電話も、駅の切符自動販売機も、電子写真機も、パソコンも、そして今の若者を
中心にしたテレビ番組にも、ほとんどお手上げです。  これはNHK-TVでも同じです。
若い女性アナウンサーの顔のどぎつい化粧にも、敬語抜きで、ラ抜きの言葉にも到底
ついて行けません。  急激で過激なチェンジに末期高齢者は戸惑ってばかりいます。

★  変えられることには勇気を持って、変えられないものには冷静に受け入れる心が
必要で、そしてこれらを分別できる能力を学ぶことが必要だ...と言われています。
  加齢者になるに従い、人生とは難問で満ちあふれているということを学びます。
そのようなとき、誰が友で、誰が敵なのかを私に教えて欲しい...そして私がこの瞬間
に、どっちの側の人に向かって話しているのかを見極め得る慧眼を、与えて欲しい...
と、そのように喋っている人がいました。

★  旧約聖書の出エジプト物語には、奴隷状態からチェンジを求めたイスラエルの民
がようやく救い出され、紅海を渡る時になると、チェンジは嫌だ、元のエジプトでの
奴隷状態の方が良かった‥と文句を言っています。

  背後から迫り来るエジプト軍が二つに割れて海中に溺れ死んだことを目撃し、荒野
に入れたイスラエルびとたちは、今度は飲み水がないと不平を言い、奴隷の状態の方
が良かった‥とチェンジを呪っています。

  このようなイスラエルの民の在り方は、特に彼らと彼らの神との関係は、こん日の
私たちとほとんど変わらないのです。
  詩篇 118篇24節は、『これは主が設けられた日であるから、私たちはこの日を喜び
楽しもう』と語っているのです。  しかし、私たちは文句ばかり言っているのです。

  チェンジを求めると言いながら、チェンジしたくないのです。
忍耐して神の導き、神さまが与えようとなさっている、より良いチェンジを待ち望む
ことを学びたいものです。  信仰とは神さまの明日に対し希望を持つことですから‥

★  『神さまの憐れみは尽きることがない。  それは朝ごとに新しく、神さまの真実
は大きい』‥とエレミヤ哀歌3章22節~28節は証言し、励ましています。

  そのことをバプテスト教会新生讚美歌 552番と、勝利の歌IIの80番 Day by Day が
証言しています。  日々主は傍に居まし...日々力を与え...と告げています。

★  神さまはチェンジがないお方です。  神さまの恩寵にもチェンジはないのです。
讚美歌39番にある五つの節はいずれも『主よ、共に宿りませ』で結んでいます。
しかし原文は O, Thou who changest not と、不変の主に呼びかけをしています。
  私たちが信じ、いのちを賭けて・懸けている主はチェンジ・レス=不変のお方です。
そのような不変の神さまを私たちは信じ、委ねて日々の生活を送っているのです。

 


 

『アダーマとアダーム』

★  2月の最後の日曜日に、創世記2章7節に出てくる「土の塵」のことに触れてお
きました。  ユダヤ人が語呂合せを楽しむ人種であることにも触れておきました。

  「土の塵」からできた「物質としてのヒト」を聖書ではビオス bios と言います。
「土の塵」のヒト= bios をアダーマと呼んでいます。
  マルコ傳12章44節では「あらゆる持ち物・物質」として表現されています。
ルカ傳21章34節やコリント前書6章3節~4節にもビオスが出てきます。
その他には、使徒行伝26章4節やペテロ前書4章2節でビオスが使われています。

★  しかし「物質としてのヒト」 bios 「土の塵・アダーマ」では、神さまのご計画
の中で神さまとの交わりに参加することができないのです。

  そこで神さまは、「土の塵・アダーマ」に対して、「ヒト bios 」に対して、鼻の
中に「神さまのいのちの息」を吹き込まれました。  神さまから「人格」を与えられ
たアダーマは、ここで初めて「人・人格を有する人・アダーム」となったのです。
神さまから「神さまのいのち」を頂いて、初めて「人格を持つ者」となったのです。

  もはや bios ではなく、人格を伴う「いのち」を持つ「ゾーエ zoe」となったので
す。  このゾーエから英語の「ズー zoo」=動物園という言葉も生まれています。
動物学のことを「ズーオロジー zoology」と言います。  「神さまのいのち」を頂い
て初めて「ヒト」が「人」、「人格を所有する存在」となったのです。

  新約聖書では、罪から解放された「霊的ないのち」を表す時に用いられています。
その意味で、使徒行伝17章25節など、数多くの箇所があります。

  皆さんはご自分のことをアダーマ「土の塵」であるヒトだとお考えですか?
それとも、神さまの愛の対象として、アダームとしてご自分を捉えておられますか?
  神さまの愛の対象者であるのなら、そのように私たちは神さまの相棒らしく自分を
理解し、神さまとの愛の交わりの相棒に相応しく在り得るように心がけなければなら
ないでしょう。  日々の生活の中で、そのような霊的訓練が必要だと思います。

★  ユダヤ人が語呂合せを楽しむ民族だと申しましたが、創世記2章23節の「男女」
という表現にもそれがよく現れています。
  「イッシュー・男」から取り出したものだから「イッシャー・女」と呼ぼう...と、
とっても洒落ています。

  「本質的に同じだけれども、少し違う‥、少し違うけれども本質的に同じだ‥」と
いう意味です。  そして、お互いにお互いがなければ成立しない人間関係である...と
聖書は男女を説明しているのです。

  英語で man and womanとしても、漢字で男女と書いても、ユダヤ人の智恵には到底
及ばないのです。  脱帽です。
このようなユダヤ人の智恵を用いられた神さまにも脱帽と拍手と感謝なのです。

  アダーマとアダームも、イッシューとイッシャーにも、創造主の偉大さが示されて
いるのです。  脱帽・拍手・喝采...よりも、実は、遥かに人知を越えた、感動と讚美
と感激と感謝の畏敬の念を覚えさせられる語呂合せであると私は考えます。


 

『イスラエル人のなかにも、


        これほどの信仰を見たことがない』


              マタイ傳8章8節 ルカ傳7章9節
 

★  多くのかたがたのお休みが続いていましたので、2月中に紹介する予定であった
新しい讚美歌の幾つかを原文で改めて本日ご一緒に讚美してみました。

  私の推測では、おそらく多くのかたがたが讚美の歌を神さまに捧げておられる時、
詩の内容まで深くお考えになっていらっしゃらないのではないかと思うのです。
  それは、原詩と翻訳詩の両方にかかわるものですし、時には原詩と翻訳詩との間に
も秘められている場合があります。

  それは、その讚美詩が、いわゆる「三位一体」の神さまのどちらを讚美しているか
ということです。  「主、我を愛す」という有名な讚美歌では主イェスが讚えられて
います。  今回ご紹介する讚美歌で、幸いにもバプテスト教会系の新生讚美歌 230番
「主イェスの御前に」も主イェスが誉め讚えられています。

  アメリカ系の讚美歌には「イェスは主なり」とする讚美歌が多いように思います。
一方で、ドイツの讚美歌には「父なる神」としての讚美が多いように思います。
  私が所持しています30冊ほどのいろいろな英語讚美歌集にも聖霊を讚美するものが
少ないように思います。  「御子としてのイェス」を讚美するものが圧倒的です。
  日本基督教団の讚美歌の目次に目を通してみますと、聖霊に関する讚美詩は比較的
少ないし、歌われることも少ないのです。  合計10曲だけです。

  2002年度版の聖歌総合版を見てみますと聖霊を謳った曲は5曲だけです。
それ以前の聖歌でも5曲だけです。

  1965年出版インマヌエル讚美歌に「聖霊」としての欄はありませんが、思っていた
より少ないのです。  「イェスを主」として讚美するものが多いようです。

  バプテスト教会系新生讚美歌には、驚いたことですが、「聖霊」の欄に14曲が収納
されています。  しかし、その中には「三位一体」を歌う曲も含まれています。

  以上のことから判断できることは、「御子としてのイェス・キリスト  Sonship of
Jesus Christ」が強調されているのです。  いわゆる「三位一体」の中で、「御子」
と「父なる神」だけが断トツなのです。  「聖霊」は文字どおり影が薄いのです。

  残念ながらいわゆる「三位一体」論を中心とした教会史を学んだことのない私は、
同時にまた教会史の専門家でもなく、讚美歌史の専門家でもありませんので、これら
のことを語ることができないのです。

★  よどんだ金魚鉢の中の酸欠金魚のように口をパクパク動かすだけで、讚美の意味
を弁えないままで、口先だけの讚美は、これは神さまへの冒涜行為です。
讚美は礼拝の中心要素の一つです。  心から神さまを讚美したいものです。

★  なお、いわゆる「三位一体」という表現は、聖書の中にいっさい登場して来ませ
ん。  「聖書のことは聖書の言葉で語る...」という原則から言えば、「三位一体」と
いう表現は、必ずしも聖書的な単語ではないということでしょう。
エペソ書2章18節には「三位一体」を匂わせる表現がありますけれど...

  これらのことを皆さんはご自身でお考えになったことがありますか?  聖書は自分
で良く読んで、自分で正しく判断することが重要だと、私はそのように考えます。
  「誰々先生がそうおっしゃった‥」「有名な聖書注釈書がそういっているから‥」
ではなく、祈りながら自分で深く読むことが信仰の成長につながります。

★  「三位一体」ということは、ほとんど同時に、「それでは、イェスはどこまでが
完全な人間であり、どこまでが完全な神であるのか?」という問題を招きます。
いわゆる「キリスト論」といいます。  両者ともに古くから教会を悩まして来た論争
です。  讚美歌を歌うということには、二千年の歴史がつきまとうようです。
  今日はこれ以上触れないことにいたします。  皆さんご自身でお考え下さい。