2009年2月アーカイブ

★  先週の水曜日は「トーマス・キャンベル物語」第4巻原稿執筆最終段階におりま
したのでいつものような週報の作成ができませんでした。

  ところで、ローマ教会では「灰の水曜日 ash Wednesday」と呼ぶ大斎始日、レント
初日ということで懺悔の象徴として頭に灰を振りかける日でした。

  レント Lent とは灰の水曜日からイースター・イヴ迄の40日間を指します。
但し、日曜日を含まない40日間という意味で、荒野でのキリストを記憶して、ローマ
教会などいくつかの教会では断食や懺悔を行います。  そのような宗教行事を行わな
い私たちは、どうやら怠け者なのでしょうか?  世俗化され過ぎなのでしょうか?

★ 私たち罪人は、意識的に、そしてまた、多くの場合、無意識の内に、多くの罪を
神さまの前で常に犯しているのです。 これは事実であり、誰も否定できないのです。
 そのことに気づいたとき、私たちは常に神さまの前にひれ伏して、十字架のイェス
の故に、赦しを乞うことができます。 中保者イェスはその執り成しの業をしてくだ
さることができる唯一の救い主です。 そして悔い改めることは大切なことです。
 そのために、神さまは、私たちのために、主の食卓を備えてくださり、主の食卓に
お招きくださり、そこで私たちは主イェスの十字架の贖罪の業と、やがて再び来たり
給う栄光の主イェス・キリストを覚えるのです。 「迎え人」キリストを...です。

★  敬愛する仲間のエド・ファッジ博士からの通信によりますと、そしてこのことは
エピスコパル教会研究の専門家でいらっしゃる、八王子のめじろ台教会の吉良賢一郎
先生に確認する必要があるのですが、英国国教会(日本では聖公会)においては司祭
が信者おのおのの額に少量の灰を用いて十字架を指先で描く日だそうです。
  十字架を描きながら司祭は、『汝、灰たるを覚えよ。  汝、灰に戻ることをも記憶
せよ...』と説くのだそうです。  これは聖書的発想で、すばらしい忠告です。

★  さて、今週初めには、ハリウッドの映画祭で賞を受けた日本映画「送りびと」の
話題を受けて、新型の霊柩車の紹介や、台湾の泣き女の紹介が行われていました。
典型的な一過性の、お祭り好きな日本人の特徴を良く表していると思います。
  これまで幾久しく死を禁忌していた日本人が、今度は突然に死の美化を始めたよう
な気がします。

★  しかし死を美化するということは、聖書的なことではないと私は信じています。
死は、罪のしるしであり、罪の払う代価だとロマ書6章23節やコリント前書15章26節
は語ります。  聖書に関係ないという人も、死に対してはまったく無力なのです。

  映画によって美化された死ですが、「死の向こう側にあることがらに関して」映画
は何も答えていません。  答がないのです。  「迎え人」不在では、どのような希望
も提供していないのです。  提供できないのです。  遺された者たち自身の気休め的
な自己慰安が中心の、これも一過性の儀式のように私には思えるのです。

★  死について常日頃から考えないのです。   家庭においても、社会に出たときにも
死を語ることをせず、死を考えることもしないのが東洋人です。  病室にも、駐車場
にも、旅館にも「4号」という番号が存在しないのです。  死を避けているのです。

  日本人は死を恐れ、死を避けているのです。  それは、「迎え人」がいないからです。
それですから、あたかも人生に死というものが存在しないかのように振る舞っている
のです。  その盲点を巧みに突いたのが今回アカデミー賞を受賞した日本映画です。

★  しかし、主イェス・キリストの復活によってのみ、最後イヤハテの敵である死は克服
されたと、コリント前書15章は語っているのです。  死に打ち勝つという小説も映画
も宗教もないのです。  聖書だけが死を語り、死のかなたにある勝利と希望と復活を
語っているのです。

★  教会が古くから警告している別の言葉があります。
メメント・モリ Memento mori です。  「汝、死を覚えよ」という意味です。
「汝、死すべき身たるを覚えよ!」とも意訳できます。
人は、罪の払う代価である死を、美化すべき対象とすることができないのです。
どのような人であっても、死を回避することはできないのです。  人生の終焉です。

★  創世記2章7節で、主なる神は地上の土の塵で人を作り、神ご自身の生命の息を
その鼻に吹き込まれた。  そこで塵からできた人が、実に「生きた人となった!」と
説明されています。  塵からできた人はアダーマと呼ばれていました。

  しかし、塵からできただけのアダーマに、神の生命の息が吹き込まれるに及んで、
アダーマがアダームになった、すなわち「生きた人」になったと、聖書はユーモラス
な語呂合せを利用して、本質的に重要な宇宙的真理を説明しています。

★  灰ということは、創世記18章27節、ヨブ記30章19節、イザヤ書44章20節、それに
マラキ書4章3節などで使われている場合、無価値の象徴という意味であって、塵と
同意語ということになります。  アダーマとしての人そのものは無価値で、塵と同じ
だということができます。  神の命の息、すなわち人格を神から受けるときに初めて
人格を持った存在としてのアダームになれるというわけです。

★  また、灰は、灰をかぶるとか、灰の中に座すという形で懺悔を表しています。
サムエル後書13章19節、エステル書4章1節、ヨブ記2章8節などに、そのような
表現が出ています。  また更に、犠牲の雌牛の灰は清めの儀式で用いられたと民数記
19章9節などに記載されています。

★  日本の映画がアカデミー賞を得たということで、それまでの長い日本の文化の
中で忌避されて来た「死」というものが、突然にブームの格好の話題とされるように
なりましたが、問題は私たちが死を自分のこととして捉え、自分自身の死に対して、
如何なる洞察を今後できるのか、するのか、死そのものをどうしようとしているのか
が問われていると思います。
  そして、そこには策もなければ希望もないという現実だけが残されています。
人には、死に対する解決策も特効薬も持ち合わせていないのです。

★  アモス書4章12節は言い続けています。  『汝、神に出会う備えをなせ!』...と
「送り人」がいても「迎え人」が居ないのでは、希望も慰めも励ましも在りません。
十字架のイェス、復活なさったイェスだけが、私たちの「迎え人」なのです。

  『メメント・モリ...汝、死を覚えよ』です。
そして「迎え人」をイェス・キリストに見いだせる人こそが幸いな人なのです。


★  先週号で百卒長のことを少しだけ紹介しておきましたが尻切れ蜻蛉的でした。
トーマス・キャンベル第4巻脱稿を目指して孤軍奮闘中であったからでした。
原稿を、印刷と製本をしてくださる勝田教会の伝道者福山次定先生に郵送できました
ので、マタイ傳8章とルカ傳7章に書かれている百卒長のことを再び考えてみます。

★  百卒長とは、文字どおり百人の兵卒を率いるローマ軍の身分の低い隊長のことで
す。  数字の百を表すラテン語のセンチュリオから派生した単語です。  日本語でも
百を表す単語として、センチ・メートルとかセンチュリーなどに使われています。

★  マタイ傳8章に出てくる百卒長がいます。  これが新約聖書最初の百卒長です。

  2番目の百卒長はイェスの十字架の処刑に立ち会った百卒長のことです。
処刑されるイェスを観察して、「まことにこの人は神のような人であった」と告白し
ています。  マタイ傳27章、マルコ傳15章、そしてルカ傳23章に記載されています。
外典福音書によればこの百卒長をペトロニウス、または、ロンギニスと紹介していま
す。  名前は、「キリストの脇腹」という意味だそうです。
(*大正年10月15日、東京市牛込區下6番地世界聖典全集刊行會發行「新約外典」)

★  3番目の百卒長は使徒行伝10章1節と22節に記載されているコルネリオです。
ペテロの宣教によってキリストを信じた、記録されている限りでは、最初の異邦人と
いうことです。  解放されたコルネリオ家の解放奴隷の末裔ではなかったかと言われ
ています。  神を畏れる人物という意味は、未だユダヤ教の割礼の儀式を経ていない
が、敬虔な人という意味のようです。

★  4番目の百卒長のことは使徒行伝22章25節に登場する百卒長です。
使徒パウロがローマの市民権を持っているということを知って狼狽した百卒長は上司
の千卒長 tribunus militum に相談に行ったと説明されています。

  千卒長の名はクラウデオ・ルシアであったと23章25節は語っています。
私は、ローマ帝国を含む地中海沿岸社会や文化のことを学んでいませんので、責任を
持てることを何も申せませんが、普通の場合 tribunus というラテン語から憶測して
みますと、古代ローマでトリビューン tribuneというのは護民官か軍団司令官を思わ
せます。  但し、千卒長が軍団司令官であり得たのかどうかは甚だ疑問です。
  なお、出エジプト記18章25節には、すでに軍隊組織に関する情報があり、千卒長も
登場しています。

★  最後の百卒長をユリアスといい、使徒行伝27章に登場して来ます。
近衛兵の百卒長であったと27章1節は語っています。  パウロをローマまで護送する
任を与えられた人物であったようで、パウロに親切であり、いろいろと便宜を提供し
ている様子がわかります。

★  さて、これらの百卒長の中で、イェスが賞賛されたのは最初の百卒長でした。
引退したローマ軍の下士官ではなかったのか‥など、いろいろな学説があります。

  マタイ傳とルカ傳との記録を読むかぎり、この百卒長がイェスと直接出会ったこと
があったのかどうかわかりません。  マタイ傳8章によれば、二人が出会ったように
記録されていますが、ルカ傳7章の記録では、百卒長とイェスとのあいだに、何人か
の人が中に立っています。

★  もしルカ傳7章を採れば、この百卒長と私たちは同じ立場にあると言えます。
まず、百卒長も私たちも、ユダヤ人から見れば、同じように異邦人です。  ユダヤ人
の考えでは、私たちは神と神の救いの計画に対して、選ばれていない民の一員です。

  そして更に、この百卒長と私たちは、いずれもイェスと顔と顔を合わせて出会って
いないという共通点があります。

  出会ったことのない異邦人の百卒長の信仰をイェスはいたく賞賛されたのです。
それならば、イェスと顔と顔を合わせて出会ったことのない私たち異邦人も、二千年
後のことになりますが、百卒長と同じ土俵の上にいるわけですから、私たちもイェス
に喜んで頂けるチャンスがあると思えるのです。

★  このことで、ペテロ前書1章8節は言います。
『あなたがたは、イェス・キリストを見たことがないが、彼を愛している。  現在、
見てはいないけれども信じて、言葉に尽くせない輝きに満ちた喜びに溢れている。
それは信仰の結果なる魂の救いを得ているからである』

  このことについてヨハネ傳20章28節も、『私を見ないで信じる者は幸いである』と
語っています。

★  そして、前回すでに触れておきましたが、イェスに出会ったことはないけれど、
二千年前の異邦人の百卒長が行ったと同じように、私たちも周囲の人々の必要をよく
注意して見ていて、必要であれば彼らの傍に私たち自身を置いて、人々の求めに応じ
て仕えることを実行することができるということでしょう。  人種や国籍や皮膚の色
に関わりなく、自分が出来ることを全力を尽くして黙々と実行するということです。

  百卒長がそうであったように、弱い立場の人々の声なき声に聞き入り、その必要を
黙って満たすということが、人間としても、とっても大切なことなのです。

  そうすることで、人々は私たちがこの世に在りながら、どこかこの世の人とは違う
人間であることを感じ取ってくださることができるでしょう。

  教会堂という箱の中に閉じ籠もって口先だけで『主よっ!ハレルヤ・アーメン』と
絶叫しなくても、日常の生活の中で周囲の人々に、『私の中に起こった革命的なこと
を見てください。  私の在り方そのものを根底から創り変えてくださったお方を見て
下さい!』ということが可能だと思うのです。

  私たちが口先だけで『それ信仰だ!  ほらイェスだ!』と騒ぎ立てることよりも、
愛の行為を黙々と人知れず実行することのほうが結果的にキリストに従う弟子として
良い証しを立てられると思うのです。

★  ルカ傳7章に登場する百卒長はいろいろなことを私たちに教えてくれますね


マタイ傳11章28節~30節

すべて重荷を背負って苦労している者は、
私のもとに来なさい。
あなたを休ませてあげよう。
私は柔和で心の遜(ヘリクダ)った者であるから、
私のくびきを負うて、私に学びなさい。
そうすれば、あなたの魂に
休息が与えられるであろう。
私のくびきは負い易く、私の荷は軽いからである。

              マタイ傳11章28節~30節

★  親炙しているリロイ・ギャレット博士からの来信文の中に百卒長への言及があり
ました。  そういえば、八幡山で家庭集会を主宰していたとき、私たちをよく支えて
くださった八王子の堀切幸孝さんが千人町にお住居であったことと、同じく私たちの
家族を支えてくださった高島(綾部)教子さんの勤務先が新宿百人町だったことなど
を思い出しました。  千人町も百人町も徳川幕府時代に関係のある地名です。

★  新約聖書にはローマ軍の千卒長や百卒長という名が出てきます。
千卒長は、ヨハネ傳18章12節から黙示録6章15節までの間に十数回出てきます。
百卒長は、マタイ傳8章13節から使徒行伝27章43節までの間に二十数回出てきます。

  みなさんも一度新約聖書の中から千卒長と百卒長を選び出して、前後関係文脈から
彼らがどういう立場の人であり、イェスや弟子や使徒たちにどのような態度で接触し
ていたのかをお調べになると興味深い学びになると思います。

★  使徒パウロが捕らえられたときも、裁判にかけられるためローマに送られる途中
を警護した百卒長も、共に使徒パウロに対して決して驕慢不遜な占領軍将校のように
振る舞ったように聖書は語っていません。

★  アフガニスタンやイラクに侵攻した米兵はどうなのだろうか、日本が嘗てアジア
諸国を侵略したとき、日本軍将兵はどのように振る舞っていたのだろうか?...などと
思わず考えてしまいました。  両方とも否定的だと信じているのですが...

★  ところで、ルカ傳7章に登場するローマ占領軍の百卒長のことを、ユダヤ人たち
は高く評価し、そしてイェス自身も高く賞賛されていることを学びます。
  富める占領軍と被占領市民との間に、国境を超え、人種を超え、言語や文化や習慣
を超えた美しい、他者・弱者を思い遣る人間愛が漂っていたことを感じさせます。
  そして、謙虚で、信仰と愛情に豊かな異国人で占領軍将兵である百卒長に対して、
イェスが最大の賞賛の言葉を送っています。  すばらしい、暖かい人間愛を感じさせ
てくれる記録です。  そのことをルカ傳7章2節~10節は語っています。

★  このローマ軍の百卒長が謙虚で優しい心の持ち主であったことを、私たちは上記
ルカ伝から学べるのです。  そして謙虚で優しいということと共に、信仰の強い純粋
な人であったことをも共に学ぶのです。

  信仰の厚い人というのは、謙虚で心が優しく、できるかぎりの犠牲を払ってでも、
弱い立場の人々に対して、喜んで自分のできることを誠実に実行する、持てる資材を
投げ出す人であるということを教えられるのです。  学ぶことができるのです。
  信仰の強い人というのは、不言実行型で、弱い立場の人の必要を黙って満たす人だ
ということを、このルカ伝7章から学ぶことができるのです。

★  口先では自分は社会的に常に高い評価を得ているのだ...  自分は社長だ...  自分
は理事長だ...  自分は校長だ...  自分はトップ・クラスの社会人だ...  自分は金持ち
だ...  などと、いろいろなことをこれ見よがしに誇る人、秘かに誇る人、いろいろと
この世の中には居るようです。  そして教会関係の交わりの中に居るようです。
  特にキリスト教界にはその種の「偉いかた」「偉い先生サマ」が多いように思って
います。

★  しかし出すものは、自分の舌でさえ出さない...という人々も多く居るようです。
出さないからお金持ちになれるのかも知れません。  しかし、主イェスが賞賛された
百卒長は違いました。  ユダヤ人のために多くの貢献をしていた人でした。
  日本のキリスト教界に、この種の百卒長をもっともっと出て欲しいものです。

★  主イェスは『時は満ちた。  神の国は近付いた。  悔い改めて福音を信ぜよ』と
声を大にして叫ばれました。

  『誰でも、キリストに付いている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませ
てくれる者は、よく言っておくが、決してその報いから漏れることはない』とも約束
されています。(マタイ傳10章42節、ルカ傳9章41節)

  『自分の十字架を背負って私に従って来ない者は私に相応しくない。  自分の命を
得ている者はそれを失い、私のために自分の命を失っている者は、それを得るであろ
う』ともおっしゃっています。  (マタイ傳10章39節)

  『主よ、主よ、という者が、みんな天国に入るわけではない。  ただ、天に居ます
吾が父の御旨を行う者だけが、天国に入るのである』
  『主よ、主よ、私はあなたの名によって預言したではありませんか!  悪霊を追い
出したではありませんか!...と言うであろう。  しかし、そのとき、私ははっきりと
言うが、あなたがたを私は全く知らない。  不法を働く者どもよ。  立ち去れ!...と
言おう』  (マタイ傳7章21節~23節)

★  イェスが賞賛された百卒長の常日頃からの在り方、心すべきことではありません
か?  御国への備えは、日々の生活の中で神さまの御国への奉仕の業の内で実行する
ことだと考えています。

  あなたと私のような小さな者の手をすら必要としている、さらに弱い立場の人々の
必要を満たすために、私たちの手を差し出すことから始めることができるはずです。
忠実な百卒長になりたいものですし、そのような百卒長を育て上げたいものです。

★  全世界に醜態を曝け出したアルコール依存症の中川大臣や、そのような幼稚な男
を任命した、これも低俗な総理大臣が平気でのさばるこの国に、ほとんど希望はない
ように思います。  この国を救うことのできる唯一の道は、神を畏れ、人に仕える人
を養成することだと確信しています。  捧げ尽くすことが出来る人、無私の人、愛を
分かちあえる人たちだと私は確信しています。  イェスの福音を血肉に満たして実践
する人だと思います。  後世への最大遺物を遺せるのは十字架の福音に生きる人だと
確信しています。  いいかげんにアーメン・ハレルヤ教から脱出したものです。

 


 『クォヴァディス? Quo Vadis? 主よ、汝、いずこへ行き給うや?』
そのような題を付けた映画がありました。ポーランド人シェンキェーヴィンチ原作の
歴史小説を映画化したものです。  1896年に刊行された小説です。

 ローマ帝国皇帝ネロの悪政下で初代クリスチャンたちが受けた迫害の生活を描いた
ものですが、実は作者の祖国ポーランドの受難を、初代原始教会員たちの苦悩の姿に
擬して描いた小説でした。  題名はヨハネ傳16章5節から採られたものです。
ラテン語で、『』という意味です。

★ ずいぶんと前に見た映画ですので、すべてを記憶しているというわけではありま
せん。 身分の低い奴婢の娘が高貴な婦人の鏡台の前でわざと粉白粉をこぼして、
粉の中に魚のマークを指先で書いて、それをすぐに消すということで、婦人に対して
自分も隠れクリスチャンであると知らせた場面と、ローマでの迫害が余りにも過酷な
ので、迫害から逃げ出そうとローマを離れ去るペテロが、逃亡途中でイェスとすれ違
場面があったことだけ記憶しています。  たぶんいずれもひとつのクライマックス
だったものと思います。

 ペテロがイェスに尋ねるのです。  『クォヴァディス・ドミネ?』
『主よ、いずこに行き給うや? Whither goest Thou, Lord?』です。
主イェスがペテロに答えるのです。 『お前が十字架を背負うのを恐れて逃げ出して
来たのだから、お前の代わりに私が十字架にかかりに行くところさ・・・』

 そこで自分自身を取り戻したペテロはローマに戻りました。
そして申し出るのです・・『主イェスと同じ姿の十字架では申し訳ないので、逆さまに
して十字架にかけてもらいたい・・・』と。

★ 今冬は降雪も積雪も例年より少ないように思います。 地球温暖化の影響だろう
と思います。 そのため、積雪の中に野生動物たちが残す足跡の追跡が難しいです。
 深い積雪の中、動物たちの足跡を捜して歩くのは楽しいものです。
『おいっ、狐さん、お前の巣はどこなんだい?』 『おいっ、鹿さん、一匹かい?』

★ 私たちも日々の生活を忙しく送っています。 しかし私たちの足跡は天国の方に
向かっているのでしょうか? 私たちの人生の足跡がどちらに向かっているのかを、
ときどき確かめてみる必要があるのかも知れません。 クォヴァディス?・・・です。


『十字架・シンボル』

★  初代原始教会時代のクリスチャンたちは、どのような場所に集まって公同礼拝を
していたのか?‥ という素朴な疑問に対して、聖書学者や考古学者たちがそれぞれ
の立場からいろいろな研究を重ね、いろいろな推測からいろいろな提案をしています。

  「家の教会」で初代クリスチャンたちは何をどのようにしていたのか?‥  という
質問もあります。  どんな人々が集まっていたのか?‥  という質問もあります。
  礼拝専門用の建物はいつごろから出現したのか?‥   どのような形をしていたの
か?‥  という質問もしばしば出てきます。  初代教会の人々は十字架をシンボルと
して使っていたのか?‥  という質問もあります。  いっぱい質問が飛び出します。

  火山の噴火で埋もれてしまったポンペイの町を調査している学者たちがさまざまな
情報を得ているそうです。  ほかのいろいろな場所でも同じような発掘調査が行われ
ており、それぞれが貴重な情報や埋蔵物を発見し、謎解きをやっているようです。

★  ポンペイで発掘された興味深いもののひとつとして、英語で綴ればROTASと
なる銘刻がたくさん出土したそうです。  この5文字を縦と横にすれば十字架の形に
なりますし、順番を並び変えると「我らの父なる神」ともなるそうです。
  またさらに、並び変えの順番を変えれば、上下か左右の初めと最後に、アルファと
オメガというギリシャ語の字が来るようにも組み替えることができるそうです。
「初めと終わり」ということは、神さまを表す伝統的な理解です。

★  当時のほとんどの人々はローマ帝国内を歩き回っていました。  このことはよく
知られていることです。  しかしクリスチャンはローマ官憲の迫害の対象でした。

  そこで、見知らぬ者同士がどこかで出会ったとき、自分がイェスを信じる者である
ことを相手に知らせるために、地面の上に英語の大文字のLのようなしるしを書いた
のだそうです。  相手がもしも同じようにクリスチャンである場合、先の者が書いた
Lに、上下左右を逆さにしたLを書き加えて、十字架のしるしを作り、さっと消した
そうです。  そのようにしてお互いを受け入れ合ったそうです。
  しかしローマの官憲がこの方法を見逃すわけはなく、囮を使ってクリスチャンたち
を逮捕する便利な方法として利用したそうです。

  このことから、「イェス・キリストは神の子・救い主」という五つのギリシャ語の
単語の頭文字を集めますと、偶然にも魚という意味になるので、そこから魚マークが
十字架マークに取って代わったのだ‥  という説も出てきました。

  映画「クォヴァディス  Quo vadis?」の中で身分の低いクリスチャンの女奴隷が、
同じくクリスチャンで上流階級の婦人の化粧を手伝っていたとき、意図的に女主人の
化粧粉を鏡台の上にこぼし、こぼれた粉の上に自分の右人差し指でサット魚マークを
書いてからすぐに消してしまう‥  という場面がありました。
  不幸にして日本人観客には、その瞬間的なできごとが何を意味していたのかわから
ず、クライマックスの緊張の瞬間を見逃してしまったと記憶しています。
  なお、クォヴァディスとはラテン語で、「主よ、いずこに行き給うや?‥」という
意味です。  ヨハネ傳16章5節から引用された疑問句です。

  そのほかにも、英語のTの大文字と同じように、T型をした、十字架の一種の変形
型も出土したと読んだことがありあます。

★  ところで、今日では十字架の型をしたものがほとんど世界中に蔓延しています。
キリスト教の施設や、教会堂の屋根の上や、礼拝堂正面や、窓からドアーに至るまで
十字架の形をしたものが使われています。  それらを見ても何の感動もありません。

  キリスト教と関係のない日本の結婚式場にも十字架が安易に使われています。
若い娘さんたちがクリスチャンでもないのに、十字架のペンダントを首からぶら下げ
てみたり、耳飾りにつけてみたり‥と、十字架の安売りが大流行しています。
格好の良い手頃な「ただの飾り」でしかありません。  それ以上の意味は皆無です。

★  しかし、イェスにとって、十字架というものはどのように映ったのでしょうか?
それは耐えられないほどの苦痛と屈辱と悩みの現実であり、人々に永遠の命を与える
ためにイェス自身に迫り来つつあった、父なる神からの厳しい御旨でありました。
イェスご自身が担わなければならない、避けられない、厳しい現実でありました。

  イェスにとって、十字架とはそのような辛い現実以外の何物でもありません。
そして若い女性がアクセサリーとして気軽に身につけるための品物でもないのです。

★  そしてそれは、クリスチャンにとっても、クリスチャンが全く無感覚、無関心、
無感動で眺めるための格好のよいしるしでもないはずです。
  『誰であれ、私についてきたいと願うのなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて
私に従って来なさい!』とマタイ傳16章24節を通してイェスが招いておられる厳しい
求道の道を指し示す具体的な現実だと思うのです。  狭い、絞られる門なのです。
  ぼんやりと、何気なく、あたかもひとごとのように無関心で眺める対象ではないの
です。  私たちに十字架を背負ってイェスについて行く意志があるのかを厳しく問う
現実なのです。  曖昧な態度で接することができる抽象的なものではないのです。

★  そのこととは別に、クリスチャンにとって十字架とは、詩篇23篇が約束し保証を
与えている現実なのです。  エホヴァなる主なる神がクリスチャンにとって個人的な
羊飼い、牧者であるという体験の現実なのです。  たとえ死の陰の谷底を歩んでいて
も、災いを怖れないという現実を指しているのです。  現実の体験なのです。
  生きている限り、必ず神の恩寵と神の慈しみが満ち溢れて伴っていることを現実に
体験している!‥という現実を十字架は意味しているはずです。

★  十字架を仰ぎ見るごとに、そこに示された神の大きな贖罪の業に、言葉を失って
しまい、感謝と感激と感動の涙で満たされ、神の偉大な偉業にただただ仰天してしま
うという現実体験を十字架が私たちに語りかけ、問いかけているのです。

  日本語ではバプテスト教会の新生讚美歌 322番に翻訳されていますが、『主イェス
の御前に驚き仰ぐ、この罪の身をも愛し給うとは...』という讚美歌があります。
I Stand Amazed in the presence of Jesus the Nazarene..素晴らしい讚美歌です。

  讚美歌 257番の『十字架の上に屠ふられ給いし』も、その隣の『貴き御神よ』も、
そしてほかの多くの十字架を誉め称える讚美歌も、主の食卓(聖餐)を前に、私たち
に私たちの十字架の主でいらっしゃるイェスへの在り方を厳しく問いかけているよう
に思えます。  そしてまた、そこで値のない私たちが、豊かに赦されていることをも
誇らかに告げ知らせているように思うのです。
  十字架は、あなたと私にとって、何を意味し、何を語りかけているのでしょうか?


『時を計る道具』

★  時間を測るものとして、具体的には、時計という便利な道具があります。
私の人生にも、時計をめぐるいくつかの記憶がありますが、それはまた別の折にでも
お話いたしましょう。

★  買い物依存症的傾向がある妹が、しばしば中国製の千円腕時計を寄越します。
時間を知るだけならそれで充分に用を達していますが、時計に使われている金属と、
合成皮革バンドの接着剤のせいなのかわかりませんが、皮膚が痒くなったり刺激され
たりで、不安感がつきまとっていました。

  そのため最近になって、順子さんに精工舎製品の普通の腕時計を、大枚1万3千円
ほどを支払って購入して貰いました。  それ以降皮膚の痒みは止まりました。

  そのことがあってから、それまでほとんど気にもしていなかった、新聞紙上に内外
高級腕時計の全面広告が掲載されているのを、何となく気にして見るようになりまし
た。  「たかが腕時計」と思っていましたが、一個の腕時計の値段が数十万円もする
とうのには驚きです。  重そうで分厚い腕時計です。  男性は機械ものが好きなのだ
ろうと思いますが、それにしても破格の値段には驚愕です。

  いつも正確な時間を告げる電波時計というものが広く出回り始めてなのだろうかと
思いますが、NHK の時報を告げる画面から時計の絵とピッ、ピッ、ポ~ンという時報
の音が消え去ってしまいました。  いやな改正だと思っています。  わずかに教育局
の正午の時報にだけ古くからの懐かしい時報画面が残されています。

  私が幼かったころには、土曜日のことを「半ドン」といっていました。
今では死語となって久しいです。  半ドンタクの略語で、午後が休みとなる日のこと
でした。  土曜日のことです。  もともとオランダ人が日曜を指して zondag と言っ
ており、太鼓の音で知らせたそうです。  土曜には太鼓の音数が半分だったとかで、
そこから「半ドン」と言ったとか、祖父からそのように聞いたことがあります。

  また、私が幼かったころには、「一番鶏」という単語も使われていました。
夜明けに鳴く鶏の叫び声で時間を言い当てていたと聞いています。  祖母などは鶏の
鳴き声で大雑把な時間を知り、起き出していたのを記憶しています。

  旧約聖書の時代には、夜明けを告げる専門職の人が城壁の上や塔の上で星空を眺め
ながら時間を告げていたようです。  イザヤ書21章11節、詩篇 130篇6節などが
そのことを示唆しています。  讚美歌 174番の「起きよ、夜は明けぬ」と讚美歌 218
番の「夜を守る友よ」は、上記の聖句から作詞されたものです。

  英語でウォッチ・マンWatch man =物見というのは、明けの明星を見ながら夜明け
を告げる「人間時計」のことだったのです。  そこから時の徴を見る...ということとなり、
キリストの再臨を待ち望むという姿勢を指すようになりました。  上記二つの讚美歌が
作詞されるようにもなっていった次第です。
  なお、自分たちだけの奇妙な聖書解釈を脅迫的な売り物にしている「ものみの塔」
という異端的グループの出版物の題名にまで使用されています。

★  さて同じく、時を告げるものとして私たちが利用しているものに、カレンダーと
いうものがあります。農業暦から出発した便利なもので、月日を知らせてくれます。
  年末になりますと、いろいろな業者からいろいろなカレンダーが届けられます。
そしてそのどれもが必要でないものなので、処分に困ります。  勿体無いです。

  自分が使うカレンダーは、自分の好みや便利さ、あるいは使用目的や掲示する場所
によって、特定のカレンダーを選び、決めている場合がほとんどです。  それ以外の
カレンダーは、ほとんどの場合、有難迷惑であり、市町村が指定するゴミ処分方法に
よっては処分に困るものもあります。  また、個人の好みがあり、ある人にとっては
芸術作品カレンダーであっても、ほかの人にとっては意味のないものです。  外国製
のカレンダーが送られてくる場合、祝祭日も異なり、有難くない場合が多いです。

★  便利だから使っているカレンダー、腕時計、電波時計‥いろいろな種類があり、
千円時計から数百万円までの腕時計までありますが...  共通点がひとつあります。

  それは、時計の場合には、「今・現在」という時間を告げるのが基本的な仕事内容
です。  そのために製造販売されており、私たちもそのために使用しています。
  カレンダーの場合には、ある程度までの過去と未来の曜日を知らせてくれます。
しかし、特殊なもの以外は、せいぜいでも過去と未来の一ヶ月間の曜日を告げるのが
主なカレンダーです。  一年間の曜日を告げるのがせいぜいです。

★  どんなに高価な時計でも、どんなに芸術性の高いカレンダーでも、しかしながら
私たちの人生、とりわけ未来を告げることはできません。  そして未来こそ私たちが
一番知りたいものだと思います。

  しかし、「ケセラ、セラ...」とスペイン語でスペイン人たちが語るように、そして
アメリカ映画「知り過ぎていた男」の主題歌で歌われたように、あるいは1970年に、
「レット・イツ・ビー」と、ビートルズが歌ったように、私たちがもっとも知りたい
はずの未来のことは、誰も語り告げてくれる人はいないのです。

  私たちにとって最重要情報を告げてくれるそのような正確で精密な機械は存在し得
ないのです。  どんなに人類の能力が発展し、知識と技術がどんなに進歩したとして
も、私たちに私たちの一番知りたがっている最重要情報を提供する機械などこの世に
存在しないのです。  存在し得る筈がないのです。  神さまに属する世界の事です。

  自己顕示欲の強い男女がどんなにダイヤモンドや宝石をちりばめた超豪華な腕時計
を腕にはめたとしても、そのことでその人が自分の人生の終わりを予知することなど
出来る筈がないのです。

  また、どんなに超高価な腕時計をはめてみても、その人の時計が示す時間と、普通
の人が使っている廉価な時計でも、時計が告げる時間は、ほぼ同じなのです。
1秒か2秒の違いがあっても、基本的に同じ時刻を告げる道具にしか過ぎません。

  さらに不幸なことは、豪華で高価な時計であっても、使用者の人生の長さを1秒間
でも長く伸ばすということはできないのです。  中国製の廉価腕時計では人の寿命が
短くて、スイス製の高級腕時計を使えば寿命が延びるということはないのです。

  自分の持ち物によって『自分の寿命を僅かでも延ばすことができようか?』という
マタイ傳6章27節の問いかけです。  人の寿命の長さとは、それは神さまがお知りに
なっているということです。  大切なことは、私たちに与えられ、託されている時間
の中で、私たちがどのように生きているのか?‥  どのように他者と自己と神さまの
ために生きるのか?...  このことだけが問われているのです。

  そしてさらに、どんなに豪勢な腕時計をはめていても、その時計が使用者の人生の
終焉時刻を正確に予告することなど全くできないということです。  これも神さまの
主権に属することであって、時計の市価価値とはまったく無関係なことです。

  『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。  たといたくさんの物を持ってい
ても、人の命・価値は持ち物にはよらない...』とルカ伝12章15節は言います。
  それよりも聖書は語ります。  『私たちは何ひとつ持たないでこの世に来た。
また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。  ただ衣食があれば、それで足れり
とすべきである...』  テモテ前書6章7節~8節の勧めです。

★  ここに聖書を熟読し、静かに祈ることの重要性があると思うのです。
神さまが私たち一人ひとりに託されている人生を私たちがどのように活用して、他者
に仕えることによって、神さまに仕える‥ということを聖書から学ぶということが、
とても大切なのです。

  ベタニヤでマリヤとマルタが主イェスさまから学んだように、私たちもベタニヤの
交わりから、私たちに託された時間と、それをどのように使えばよいのかを、ともに
学んで行きたいと、心から願うのです。

  『主よ、吾が終わりと、吾が日の数の如何ほどであるかを、吾に知らせ、吾が命の
如何に果敢ないかを、知らせてください』  詩篇39篇4節

  『我らに己が日を数えることを教えて、智恵の心を得させてください』
                            詩篇90篇6節~12節

  『私の齢ヨワイ は夕暮れの日陰のようです。  私たちは草のように萎れました』
                      詩篇 102篇11節と 103篇15節~17節

★  あなたは、あなたの寿命をどのようなもので測ろうとされているのでしょうか?
      腕時計ですか?  カレンダーですか?  それとも聖書によってですか?


ルカ傳10章41節から42節

 あなたは(人生の)多くのことに心を配って思い煩っている。
 しかし、(人生で)なくてはならないものは多くない。
 いや、たったひとつだけである。

              ルカ傳10章41節~42節

★  正月から本日までアメリカ合衆国の政治的独立がアメリカ市民の信仰生活に如何
なる影響を与えたのかを、多くの教会史教材から研究しています。  旧世界の教会の
権力や教義や伝統から解放されたアメリカ市民が、たぶん人類史上初めて自由に聖書
を読み始めたのです。  聖書を自分自身で読むことによって、それまでように旧世界
の教会が説いていた教えがおかしいと気づき始めたのです。
  『おいらは解放された自由な国の市民だ!  人間の名を冠した旧世界の教会員では
ないんだ!  だからただのクリスチャンだけになろう!』という運動がアメリカ各地
で一斉に、同時に、異口同音に多発することになったのでした。

★  一人で聖書を読むことと、複数形の人間集団である教会が解釈する聖書の読み方
には違いがあるのだとアメリカ市民は初めて学んだのでした。  どちらがより信仰的
なのでしょう?  どちらも極端に走れば危険ですが、個人が誠実に聖書を読むという
ことと、職業的聖職者が語ることを鵜呑にするのと、どちらが真摯な姿勢でしょう?


『ネブカデネザル王』

★  もう半世紀以上も前の思い出になりますが‥
英語力がほとんどなかった私がケンタッキーに留学した時の話です。
旧約聖書の授業を受けました。  必須科目のひとつでした。  旧約聖書というものを
ほとんど知らなかったアジアからの留学生にとって、むつかしい授業でした。

  授業が進むうちに、「ネブカデネザル」という、発音がとてもむつかしい王さまの
名が出てきました。  Nebuchadnezzarと綴る、生まれて初めて耳にした名前でした。
  何でもアッカド語の名前だそうです。  ネブカデレザルというのがもともとの名前
だとも聞きました。

  父親の王が築いた権力基盤の上に、彼自身の能力が加わって、新バビロニア帝国を
軍事的にも、経済的にも、土木建築的にも強固なものにしたということで有名な王で
した。  ユーフラテス川をさかのぼって、そこからエジプトを攻撃し、エジプト軍を
徹底的に撃破した軍人としても有名な人物でした。  彼の捕虜となった者はひとりと
して脱走して帰国することができなかった‥と言われています。  絶対者でした。

★  驕慢不遜の絶対者で、「戦いの王」として恐れられていた王であったようです。
この人物について、いろいろなことが言われていますが、深入りをしないことにしま
す。  ただ、ダニエル書4章から5章にかけて、ネブカデネザル王が夢を見たことが
記録されていることだけを申しておきます。

  王が夢の中で、メネ、メネ、テケル、ウバルシンという文字を見たと5章は語って
います。  驕慢不遜な絶対者であった王が、結論的に申しますと、心から謙虚な男に
創り替えられた‥ということです。  神を畏れる者に変えられたということです。
ダニエルの豫言と諫言の結果でした。

★  私たちが自分自身の内に何も良いものを持ち合わせていないと気づいた時、謙虚
に自分の無力さを認める時、私たちは神さの前に謙虚にさせられ、神さまの絶対的な
力に依り頼んで生きることができるのです。  私たちの弱さの中に、神さまの強さを
見いだすことができるのです。  そのようにコリント後書12章9節は語ります。

  また、私を強くして下さるお方によって、何事でもすることができると、ピリピ書
4章13節も言っています。  絶対的に弱い私たちは、絶対的に強い神さまの恩寵の内
にあってこそ、絶対に強いのです。  大丈夫です。  神さまは絶対ですから。


エゼキエル書2章6節~7節

人の子よ、(神を信ぜず畏れない)彼らを怖れてはならない。
彼らの言葉をも怖れてはならない。
たとい薊アザミと棘イバラ があなたと一緒にあっても、またあなたが、蠍サソリ の中に住んでも、彼らの言葉を怖れてはならない。
彼らの顔を憚ハバカ ってはならない。彼らは反逆の家である。
彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただ私の言葉を彼らに語らなければならない。
彼らは反逆の家である。

              エゼキエル書2章6節~7節

『血にいのちが宿る』

★  数年間にわたる極貧留学生活を或る事情で放棄せざるを得なくなり帰国したのが
1961年の晩秋でした。  帰国後順子さんと結婚し、葉山の漁村に住みました。

  翌年初夏、軽井沢で行われたフラー神学校のサマー・スクールに参加しました。
その帰路、不思議な交通事故に巻き込まれ、もと軍医殿の処置ミスも加わり、結果的
に左腎臓を失うことになりました。

  その時の大量輸血が原因で、C型肝炎ウイルスに感染し、現在では肝硬変が進行中
という状態でいます。  そのときに使われた大量の輸血液がC型肝炎ウイルスに汚染
されていたものだったとは医者も知らなかったのです。

★  聖歌 425番は「罪の重荷を除くは主イェスの血の力‥Power in the Blood」だと
謳っています。  血の中には生命があるのです。  血は生命なのです。

★  輸血と言えば、「エホヴァの証人」と称する宗教団体の会員家族が入院し、外科
手術が必要となるとき、患者側が輸血を拒否するということになり、医療施行者側と
患者側とのあいだで大概の場合一つの葛藤が生じます。  片や医療の立場から、片や
信仰の立場からの対立です。  両者のあいだで裁判沙汰になったり、輸血を拒否した
患者が死亡するということもあり得ました。  血が悪いからということではなくて、
血の中に生命があるということを両者が認め合っているために、両者が争うのです。

★  そのことは別として、創世記9章でノアの箱舟が再び大地に着地して、そこから
信仰の家族が再出発したと、そのように描かれています。

  そしていろいろな社会的な約束事が神と人とのあいだで新たにとり決められます。
その一つに、それまで菜食であった人間に、肉を食べることが許されるという進展が
見られます。  しかし、『肉を、その命である血のままで、食べてはならない』との
制約が課せられています。  それは、「血が命のしるし」であるからです。

★  十字架上でイェスがその肉を裂き、その血潮を流して、私たちの罪の贖罪の業を
なし遂げてくださいました。  これは大体の教会人が頭では理解していることです。

  十字架を念頭に主イェスは、いわゆる「最後の晩餐」の席で弟子たちに向かって、
『この杯は、あなたがたのために流す私の血によって立てられる新しい契約である』
と、イェスは、ご自分の命を私たちのために十字架の上で流されることを予告されて
いるのです。  ルカ傳22章は、この十字架の出来事を予告するために、主の晩餐を、
『せつに望んで』おられたと記録しています。  15節がそのように語ります。

  コリント前書11章23節以下で使徒パウロも、「主イェスから受けたこと」として、
十字架の出来事と、再臨の希望とのあいだに立たされている私たちに対し、主の食卓
の重要性を厳粛に解説しています。  ふさわしくないままで主の聖晩餐に侍る者は、
『主のからだと血を冒涜することになる』と厳しく警告しています。

  葡萄の実からできたものとは、主ご自身の血潮を表し、主ご自身の命を表している
のです。  ご自身の命を与えてまでも私たちを愛してくださっている一方的な恩寵を
表わしているのです。  主の食卓で私たちは貴い主の貴い肉と血潮に与るわけです。

★  今朝は讚美歌 331番、聖歌 163番、原曲 Must Jesus bear the cross alone? を
讚美しながら、十字架へ向かわれるイェスのお姿、十字架の上のイェスの苦悩と激痛
を偲びました。  そして主の食卓に主ご自身が私たちをお招きくださり、イェスの肉
と血潮を表すしるしに与ることを得さしめてくださいました。  血潮に命があるから
です。  感動と感激と感謝で主の貴いとこしえの命に与りたいと願います。

  なお、讚美歌 331番は、数名の作詩者たちの作品を集めて編集したものです。
詳細を省略しましたが、更なる詳細情報をご希望の方はお問い合わせください。