2009年1月アーカイブ

★  聖書箇所の中でも私がよく読む箇所の一つに列王紀前書17章~19章があります。
半世紀以上も前に初めてこの箇所を熟読するようになってから、読む度に深い感動を
覚え、自分自身を神さまの前に反省させられています。  素晴らしい聖書箇所です。

  謙虚にその人生を始めた青年エリヤでした。  生死の境をさ迷っていた赤貧寡婦を
通して伝道者としての基本的な在り方を学んだ筈のエリヤでしたが、18章では劇映画
の主人公のように目覚ましい活動を果たし、そのことによって伝道者として鼻高々の
誘惑の中に自らを陥れてしまいました。  「燃えつき症候群」が待っていました。

★  19章の初めで、己の能力や才能に溺れて、神の恩寵、神の支え、神が導いて居ら
れるということをすっかり忘れてしまっていた凱旋王のようなエリヤ大先生さまが、
ある女性の囁きがきっかけで、完全に燃え尽きてしまうこととなり、自らのいのちを
絶ちたいと願うほどになってしまっていたと、19章5節は語っています。

★  神の恩寵をすっかり忘れ去り、自分独りの力で凱旋王のようになっていたと思い
込んでいたエリヤでした。  二度と再び立ち上がれないものと自分勝手に決め込んで
自らの死を願ったのです。  人生は自らの力で過ごせると思っていた驕慢さでした。

  しかし6節~7節が語ることは、そのようなエリヤに対して神が、一方的にパンと
水という、人が生きて行くのに必要な基本的な食べ物と、充分な睡眠を提供されてい
たのです。  人生の道は遠くて耐えられないものだ...と諭されたと7節は語ります。

  そして、今度は、神の力に支えられ、導かれて新しい人生を始めるのです。
それでもエリヤは己の愚に気づかず、山頂で超自然的な異常体験を求め、その中に神
を見ようと試みたのです。  異常体験の中に神は居なかったのです。

  岩石をも砕き割るような強風の中に神を見ることを期待していたエリヤは、豪風の
唸りの中に神を見ることも、神の声を聞くこともできなかったのです。

  次いで激しい地震の中にこそ神が居るものと決め込んで、神を見ようとしたエリヤ
は、またしても神を見て、神と対決することができなかったのです。

  それでも懲りないで、驕慢不遜なエリヤは、燃え盛る炎、焼きつくす火の中にこそ
神の姿を見ることができると確信して、みずからが焼きつくされるという危険性をも
顧みずに、激しい火の中に神を見よう、神と対峙しようと試みたのでした。

  神を仰ぎ見たい...という願いは、一見して、実に敬虔な願いのように思えます。
「神がかってまで宗教的に熱心な人々」を見かけることが時々ですがありました。
  米国、韓国、フィリッピン、そして日本で、感情的に興奮する熱狂的な人々の集会
に招かれたことがありましたが、そこではそのような人々を多く見かけました。
  そこでは、聖書を冷静に読んで、聖書を通して聖霊の語りかけを聞き、神の言葉を
読むという姿勢も雰囲気も理解も願いもないように感じていました。  辟易でした。

  一見「神がかるほど宗教的に熱心な状態に居る」ということも、よく考えてみます
と、それはエリヤが陥っていた宗教的錯覚と誘惑と同じことだと私は思います。
  そのすべては、「人が何かをする、しない、した、しなかった」ということが中心
だからです。  これを行為義認主義と呼びます。  燃えつき症候群の候補です。

  人間は自分の能力や努力で、神が一方的な恩寵として十字架上で与えてくださった
救いを、手に入れることはできないのです。  それは神の側のお仕事であって、人に
できるものではないからです。  このことを理解しないで、理解できないで、どんな
に人間がしゃにむに頑張ってみても、結局は燃え尽き症候群を招くだけなのです。

  自らの死を願ったエリヤに、神がその恩寵によって立ち直る折を与えてくださった
のですが、それでも己の愚に気づかず、『私は万軍の主のために熱心な男でした』と
驕慢不遜な愚痴を繰り返していたのでした。  19章10節と14節がそれを語ります。

★  己のそのような愚かさに気づかないで意気ごんでいたエリヤに神はむしろ静かに
語りかけられたのです。  12節です。  「静かな細い声」で応えられたのです。
  イザヤ書30章21節は、『あなたが右に行き、あるいは左に行くとき、後ろから声を
かけて、こっちがあなたの進むべき道だから、その道を行きなさいと言う...』と証言
しています。

  まっ正面から現れる筈だと決め込んでいた神と対決してやろう...と勝手に推測して
いたエリヤの予想と期待に反して、エリヤの目には見えない神が、静かな細い声で、
そしてイザヤが言うように、もしかしたらエリヤの後ろから、囁かれたのです。

  異常で超自然的体験の中で神を体験してやろう‥と決め込んでいたエリヤに対し、
神は静かに語り、15節で、山頂の異常体験の中では、エリヤに対する神の意志と計画
を示されることはないのだ‥と諭されたのです。

  むしろ日常性の中で、日常生活の中にこそ、エリヤに対する神の意志と計画がある
と示されたのです。  それは、『山から下りて、あなたの道を帰って行って、大都会
ダマスコに行き、そこでハザエルに油を注ぎ、王としなさい』...という指示でした。

  自分の力に頼る疑似宗教的献身も、日常性から離脱した奇抜な異常体験も、それは
エリヤが憧れていたことなのかも知れません。  誤解していたことなのです。

  しかし、神はエリヤに対して、そして私たちに対しても、普通の日常生活の中で、
自力ではなく、恩寵に支えられながら主の道を歩むようにと教えられたのです。

★  『下に‥下に‥』=下に居よ‥土下座せよ‥  江戸時代に、将軍や大名の行列の
先払い役の足軽・雑兵たちが行列の先頭を歩きながら、一般庶民、農・工・商人たち
に土下座を促した掛け声のことです。

  バプテスマのヨハネもそれと同じようにイェスの先を歩いて、人々に神の国が近づ
いていることを述べ伝え、悔い改める必要のあることを説いていたのでした。
  しかしヨハネは、不正を働く王とその愛人の悪だくみに陥り、牢に捕らわれてしま
いました。  獄中で自分が今までやって来たことに、ふと自信をなくしたのでしょう
か、使いをイェスのもとに遣わして、『来るべきはあなたのことでしたでしょうか?
それとも別の人を救い主として待つべきなのでしょうか?』と問いかけています。

  たくさんの日米の伝道者・牧師が「燃え尽き症候群」・「バーン・アウト症候群」
というのに罹っているのを承知しています。  精神的に疲労困憊してしまっているの
です。  『何でこの俺さまが?』と悩むようです。  まことにお気の毒です。
  この burn-out syndrome  挫折感、私のように中途半端で怠け者には全く無関係の
症候群のようです。

★  民数記4章23節を読みますと、30歳になったユダヤ人祭司は神殿での礼拝儀式を
取り司ることが出来るようになっていたと読めます。  エゼキエル青年もそのような
特権を担う使命感と自負心とに満ち溢れていたものと推測できます。

  ところがです‥  エゼキエル書1章の最初の部分を呼んでみますと、祭司職に就く
直前になって、青年エゼキエルは、思いもよらなかったことですが、ほかのたくさん
の同胞たちと共に、エルサレムの神殿から遥か遠くのバビロンの地に捕囚として連行
されてしまい、ケパル川のほとりで自分自身を発見することになったのです。
エゼキエル書1章の前半部分がそのように語っています。

  将来を夢見ていたエルサレム神殿での司祭としての職と地位を突然に奪い去られ、
先勝国の捕囚として、奴隷として、異国の地に自分自身を発見することになったので
す。  憤怒しても問題は大き過ぎて、彼独りではとうてい解決できなかったのです

★  激怒と絶望のどん底に落ち込んでしまっていたエゼキエル青年に、神は予想外の
ことを命じられました。  『上を見よ』ということです。  1章4節以降です。
  先日、「サタンは目を眩ませ、イェスは目をあけられる」と題した拙文を発表して
おきましたが、このエゼキエル書でも、神はエゼキエルに目を開いて上を見ることを
命じられています。  そして、そこにエゼキエルは想像もしなかった天の王座を一瞥
することができたのです。

  前述のバーン・アウト症候群に罹る多くの人々は、自分中心で物事を考えた上で、
自分の才能や自尊心で教会の仕事に取り組んでいるからではないのでしょうか?
  神と人とにお仕えさせて頂いているという発想が欠落しているからでしょう。
神の御業に恩寵によって参加させて頂いて居るという発想が欠落しているからです。

  人が己の智恵や能力にだけ頼っている限り、必ず躓きを招き、失望し、燃え尽きて
しまうのです。  月給取りのような感覚で、経営者としての態度で、ショーバイ人と
して伝道者業・牧師屋をやれば、必ず挫折するのは当たり前だと私は思います。

★  エゼキエルが上を向いて、天に居ますおん方の栄光の似姿のようなものを見せて
頂いてから、エゼキエルはひれ伏し、それまでに想像すらもできなかった使命が与え
られたことに気づいたのでした。  「燃え尽き症候群」どころではありません。

  ジョン・ニュートンの不朽の名作「Amazing Grace 驚くばかりの恩寵」の讚美詩を
貫くものは、一方的な神さまからの賜物です。  私たちがその恩寵に気づいたとき、
そこに用意されてあった、新しい人生が私たちを喜びと感動と感謝と希望の世界へと
導いてくれるのです。  希望の前には燃え尽きる必要など全くないのです。


『ひよこの歌に想うこと』

★  可愛い童謡にヒヨコの歌があったかに記憶しています。  歌詞は忘れました。
  何でもヒヨコが庭先で隠れん坊をやってみたが、可愛いアンヨだかが見えている...
といった内容の歌だったと記憶しています。
  そういえば、一部の悪事や欠点を隠して、悪事や欠点の全体を、上手に隠した積り
でいる愚かさを指摘するのに、「頭隠して尻隠さず」という表現がありますね。

★  一時期この国で、10センチ前後上げ底にした履物を履いて得々として歩いている
背丈の低い若い女性がいました。  車の運転中にブレーキを踏めず、事故を起こした
女性もいました。  「私は背丈が低いのです」と自己宣伝しているだけでした。

  しかしその後、この国のほとんどの女性が不自然な色に髪を染め始め、それが定着
したように思います。  そこに加えて今度は不自然な付け睫毛が流行し始め、一重瞼
を、これまた不自然に人工的な二重瞼に切り替えるむなしい努力に精を出し、自分が
あたかも奇麗に見える‥とでも錯覚している状態が普通になってしまいました。

★  男性のひとりとして見るときに、余りにも不自然で、不似合いで、馬鹿らしさ、
滑稽さを通り越して、それらの女性が哀れに思え、そして不快感にすら思います。
  「裸の王様」同様で、自己喪失、自信喪失、劣等感に苛まれた、醜さだけを本人が
宣伝しているのですが、不幸にして、本人だけがそのことに気づいていないのです。

★  聖書の箴言31章30節は言います。
『艶あでやかさは偽りであり、美しさは束の間である。  しかし主を畏れる女は誉め
称えられる』...と。

  化粧をいくら濃くしてみても、衣服をどんなに派手なものに着替えてみても、その
ことで人が美しくなること、美しくなれることではありません。
外側だけを整えてみても、その人の内なる人が美しくなれるわけではありません。
人目には良さそうに見えると思ってやる行為が、その人の心を良くするわけでもあり
ません。

★  聖書サムエル前書15章7節は、このことに就いてハッキリと語っています。
『人の顔や容姿や身長だけを見て(判断して)はならない。  私はすでにその人を
捨てた。  私が見るところは、人が見ることとは違う。  人は他人の外側の顔や形を
見るが、神はその人の心の中を御覧になる』...と。

  人は、新しく生まれ変わらなければ、神さまの前に決して美しく映らないのです。


イザヤ書2章22節

 あなたがたは鼻から息の出入りする人に
 頼ることを止めよ
 このような者は何の価値があろうか

              イザヤ書2章22節

★  マタイ傳6章19節~24節までに、あるいは6章の最後の34節を読んでみますと、
イェスの切なる勧めの言葉が心に響いて来ます。  以下は19節から20節の勧めです。

  『あなたがたは自分のために、虫が食い、錆びがつき、また、盗人らが押し入って
盗み出すような地上に、宝を蓄えてはならない。  むしろ自分のため、虫も食わず、
錆びもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に宝を蓄えなさい』

  この箇所を、随分とたくさんの人が二千年の間に読んだことと思います。
しかし、読むということと、それを実行するということとは、まったく別の話です。
教会の弱さは、聖書を読むが、その教えを実行しない者が多過ぎるということです。

★  一般に南北戦争といわれている内戦がアメリカ合衆国内で戦われたことがありま
した。  19世紀前半に、奴隷制を利用する大農園を基盤とする南部諸州と、産業社会
の発達を目指す北部諸州とが併存していました。  しかし、西部に展開した新領土へ
の奴隷制の拡大の是非を巡り対立が深刻化しました。  1860年にリンカンが大統領に
就任すると南部諸州が合衆国から離脱し、南部連合を結成し、北軍を攻撃しました。
1865年に南部が降伏するまで厳しい戦いが、主として南部で戦われました。

  マッケイさんが住んでおられるテネシー州も、悲惨な犠牲者を多く出した激戦地の
一部でした。  雑司ヶ谷旧宣教師館の主であったマッケーレブ宣教師の後妻さんは、
テネシー州中部のマーフリーズボロの養老院で最後を過ごされていました。

★  そのマーフリーズボロに、南北戦争中、ある一人の農民が住んでいました。
その農夫は、戦争が勃発するまで、せっせと働いていたので、金貨や銀貨をたくさん
蓄えていました。  しかし、戦争の足音が迫って来るのを知って、金貨銀貨の処分に
困りました。  農夫は財産を畑に埋めることを決めたのでした。
  畑といっても、日本の農村の規模ではありません。  何万坪、何十万坪、あるいは
それ以上の広い、広い単位のものです。  最低でも二キロ四方はありましょう。

  農夫は、畑の真ん中あたりで、誰も知らない所を独りで選びました。
深い穴を掘り、そこに金貨・銀貨などの財宝を埋めたのでした。  そして目印にと、
そこに樹木を移植し、石灰岩をたくさん運んできて石塚を築いておいたのです。

★  戦争が激化し、農夫の畑にも北軍が展開しました。
金貨・銀貨が埋められているなど想像もできない北軍兵士は、あたりの石という石を
集めて来て、まず炊事用のかまどを築いたのです。  そのあとで、兵士たちは周囲の
樹木をすべて切り倒し、炊事に使う薪として燃してしまったのです。

★  5年後に農夫は全財産を埋めた所を捜しましたが、砲弾で荒らされた農地の何処
に財産を埋めたのか、とうとう見つけ出すことができないまま死亡したのです。


詩篇42編1節~2節

 神よ、鹿が渓水を慕ひ喘ぐがごとく
 吾が魂も汝を慕ひ喘ぐなり。
 吾が魂は渇ける如くに神を慕ふ、
 活ける神をぞ慕ふ。
 いづれの時にか吾ゆきて神の御前にいでん。
              詩篇42編1節~2節


「凡ての人、罪を犯したれば神の栄光を受くるに足らず。
              功なくして神の恩恵により、キリスト・イェスにある
              贖罪によりて義とせらるるなり‥」  ロマ書3章23節

★  パレスチナ南部のガザ地域を実効支配するイスラム原理主義過激派ハマスによる
イスラエル側へのロケット攻撃に対応するため‥という名目で開始されたイスラエル
軍のガザ攻撃で多数の民間人が死傷していると報道されています。  人間が己の都合
で作り上げたエホヴァの神とアッラーの神の、神同士の戦いのようにも思えます。

★  イスラム過激派による米本土同時多発テロ攻撃に対して、ブッシュ政権がイラク
とアフガニスタンを攻撃し、圧倒的な最新大量殺戮武器を使用して、多数の民間人が
巻き込まれて犠牲になっています。  その数は何万人にもなると噂されています。
  ここでもブッシュ政権の軍事行動を支援するアメリカの教会のイェスと、イスラム
のモスクで祈る人々のアッラーとの戦いのように思えます。
  人々は、そして特に男というものは、戦い合い、殺し合うのが好きなようです。

★  天地宇宙を創造し給うた神は、創造された作品を御覧になって、『とてもよい』
と呟かれたと、創世記1章31節は証言しています。

  しかし、そのあと、アダムとその妻エヴァは、神の単純な命令を無視して、サタン
の誘惑に屈し、罪を犯し、エデンの園から追放され、神なき放浪の生活を始めます。
4章では、兄カインが弟アベルを殺害するという痛ましい事件も起こりました。

  そして6章に到りますと、人の悪が地にはびこり、人の心の思いは悪いことばかり
であったのです。  余りにも悪いことばかりであったので、神は人を創造されたこと
を悔いて、自分が創造され、とても良かったはずの地の面から、人々を拭い去ること
を決意されるに到った‥と、そのように記録しています。

★  神から離れてしまった人間すべてが罪を犯しているので、神の栄光を受けること
をできなくなっている‥と、ロマ書3章23節が明記しているのです。
これは創世記6章5節の裏付けです。  そしてそのことは、そのとおりです。
それですから、神の名を用いてまで、現在でも人間は争いあっているのです。
個人と個人もそうですし、民族と民族も、国家と国家も同じなのです。

★  この地上の姿が、創造主の目にかなうものでないことは明白です。
心を痛められた神は、人間を罪の支配から解き放つために、人間の罪の贖いとして、
ご自分の御子をこの世に送り、人間を赦すために、人間の犯した罪の身代わりとして
十字架の上に送られたのです。  そして私たちに対して、神が私たち人間を、ありの
ままの姿で愛しておられることと、私たちの罪を赦してくださっているということを
示されたのです。

★  このことを信じる者は「すでに豊かなとこしえの命を持っている」と、ヨハネ傳
3章16節以下が語っています。

  自分はクリスチャンだ‥と自称している人が、ここで特に注意しなければならない
点は、十字架のイェスの贖罪の死を信じた人だけがその罪を赦される‥という誤解で
す。  そのような罪の赦しや愛ならば、それは条件付きの安っぽいものです。

  イェスは十字架の上で「すべての人の罪のために贖いの業を完成された」のです。
そのことによって私たち「すべての人間は罪をすでに赦されている」のです。  愛さ
れているのです。  これは無条件の赦しであり、無条件の愛なのです。  人の行為を
必要としないものです。  なぜなら人は自分の善行で自分に救いをもたらすことなど
不可能なのです。

  そういうわけで、何の勲功ない自分が無条件で赦されているという事実、無条件で
受け入れられているという事実、無条件で愛されているという事実を、素直に信じる
ことによって、「豊かなとこしえの命がすでに与えられていること」をクリスチャン
だと自称する者はよく理解し、感謝の生活を始める必要があると私は思うのです。

  それにかかわらず、「すでに赦されている」にもかかわらず、そのことを理解しな
い者、理解しようとしない者は、「すでに与えられている豊かな永遠の命の祝福」を
満喫することがないまま、地面の上だけを眺めて日々の生活に追われているのです。

  これでは「すでに裁かれ、滅んだ状態にある」とも言えます。  死んでから裁きの
場と永遠の滅びに行く‥という意味だけではありません。  「いまこの現在」という
時点で、神の一方的な豊かな祝福を見逃しているのです。  勿体無いことです。

  クリスチャンと自称している多くの人々も、クリスチャンに「なったから」自分は
死んでのち地獄に「行かなくていいんだ‥」程度の、「なったから‥いいんだ」と、
条件付の、そこいらにたくさんあるご利益宗教と同じ低次元の理解しかできないよう
です。  十字架の主イェスに申し訳ない、情けない、お粗末な福音理解です。

★  しかし、十字架は私たちが「すでに豊かな永遠のいのちの中に居る」ということ
を告げているのです。

  使徒パウロは、コリント前書1章18節~24節で、福音を「神の力、神の智恵」だと
説明しています。  またロマ書5章8節では、私たちがまだ罪のとりこであった時に
キリストは私たちの罪の贖いのために、すでに十字架の上で死んで下さっていたことを
告げているのです。  イェスはすでに十字架の上で贖罪の貴い業をなし終えておられた
のです。  私たちがそのことを知らなかっただけなのです。  無条件で私たちを愛し、
私たちを赦し、私たちを受け入れていてくださっていたのです。  感謝です。

  この理解がないので、普通の人と同じように、低次元の生活に追われていると思い
ます。  目を覚まして、十字架の意味を改めて深く考え見直して、感謝と喜びの生活
を満喫することを学びたいものです。  如何でしょう?


『横棒グラフ線』

★  麻生自民・公明連立内閣の評判は、しばしば支持率を示す横棒グラフで表されて
います。  昨年暮れからの急激な世界経済の悪化も同じように横棒グラフで示されて
いることを私たちは連日のテレビや新聞の報道でしばしば見ています。
両者とも次第に右下に向かって急下降線をたどっているようです。
そのような右下がりの横棒グラフに対して、失業率や失業者数を示す横棒グラフは、
そのことに反比例して、急激な右上り線となって示されることが多いようです。

★  このように、成績や実績を表す横棒グラフを、尋常小学校高学年のときに、私は
いやというほど見せつけられていました。  学級全体の成績の平均値と各学童の成績
を比較して見せるために、担任教師が横棒グラフを書かせていたと思います。
高学年に進むに従って成績が次第に下り坂にあった私には苦痛で屈辱的な比較グラフ
でした。  しかし、反発するだけの勇気も根拠をも持たなかった私には何もできない
でいました。  「科学的な根拠に基づいて作成された横棒グラフだから」文句を言え
なかったのでしょうか?

★  最近の麻生内閣の支持率の急激な下落を示す下り坂の横棒グラフ線を麻生首相は
どう見ているのだろうかと思います。  小学校から中学校のときに国語の勉強をまと
もによくやらなかったことを悔いているのでしょうか?  漫画の読み過ぎを悔いてい
るのでしょうか?  そのように下り坂の横棒グラフ線を見つめているのでしょうか?

★  「科学的根拠に基づく横棒グラフ」を、内閣府の「偉いセンセイ」たちも、政府
役人も、地方公務員も、会社の経営者も、学校の教師も、家計を預かる賢い主婦も、
あらゆる人々がよく使うものです。  だれもその価値や信頼性を疑わないのです。
  おそらく、優れた経営感覚と手腕を持つ職業的宗教人も同じだと思います。

★  しかし、それで人間が持つすべての能力や才能が測れるものなのでしょうか?
各自が持っている正義感、道徳観、倫理観、誠実さ、温厚さ、愛情の深さ、努力家で
あるということ、思い遣りの深さ、人となり‥というような内面的な重要な要素を、
横棒グラフが示せると言えるのでしょうか?  示せないと私は思います。

  横棒グラフは可視的面だけを捉えることができても、人が人であるという基本的な
ことを捉えることも、理解することも、評価することもできないと私は思います。
  例えば、ガラテヤ書5章22節~23節を横棒グラフ線で示すことは不可能でしょう。
なぜなら、その箇所では、次のようなことを語っているのです。
  『聖霊が、私たちに長い時間をかけて結ばせてくださる信仰の実とは、愛、喜び、
平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制である...』というのです。
  これらは、人が言う「科学的根拠に基づく横線グラフ」では絶対に書くことができ
ないものです。

★  聖書を読むということは、横棒グラフ線に慣れてしまっている私たちに、人間が
作った価値基準とは全く違う価値基準があるんですよ!...  もうひとつ別の、目には
見えないが、現実の世界があるんですよ...!と、問いかけているのです。
人間が造りあげた価値基準とは必ずしも絶対的なものではない!...ということです。

  私たちが「あたりまえ」として受け入れてしまって疑わない「科学的根拠に基づく
横棒グラフ」の基準を当てはめれば最悪の失格者であるはずのイェスが語る福音は、
左の頬を打たれたら、右の頬をも向けよ...という基準です。  どのような環境の内に
在っても勝ち得て余りありとする超越した生活態度だと、イェスの使徒パウロという
男は語っています。  たとえ死の谷の蔭を歩んでも災いを恐れないという姿勢です。
  聖書を中心にした生き方は、決して横棒グラフ線では表せないものなのです。

★  そのような生き方は、たまに日曜日の朝や水曜日の夜に石や木で造られた箱物に
入って行って、口先だけで「アーメン・ハレルヤ」と唱えても決して得られるもので
はないのです。  くれぐれもまちがいをなさらないようにお願いをします。

  日曜礼拝という公同の宗教儀式を、私が否定しているつもりはありませんが、たと
えば、ほとんど痛みを伴わないような、冷たい水コップいっぱいを、いと小さき弱者
に差し出すことと、その重要性すらを理解できないで、きれいな服装に身を包んで、
日曜朝に教会堂に行って、宗教儀式さえ済ませば、それで私は立派な信仰者だ!...と
誤解してはいけないという意味です。  マタイ傳10章42節や25章で主イェスが警告を
繰り返していることなのです。

  神さまを騙すことは良くないことです。  純金に見せかけたメッキというキラキラ
光った安い贋物があります。  でもね、神さまは、そうは簡単に人に騙されるような
お方ではありません!  すべてをお見通しのお方です。  ご存知です...  御要慎を!


★  1962年夏の不可解な交通事故に巻き込まれて左腎臓を失い、そのことでたくさん
の輸血を受け、その結果としてC型肝炎ウイルスをも輸入し、現在は肝硬変が進行中
です。  それで医者にかかる必要がありますが、この寒村僻地に良い医療機関がある
わけではありません。

  敗戦後の北巨摩郡の無医村開拓地域のために医師としての使命を感じて定住された
小淵澤の中山正己医師、91歳の個人経営の小さな医院に週2回通って肝臓ウイルスの
増殖を抑制する消極的な治療方法の注射を受けています。  経験豊富な名医だと私は
確信し、かつまた、尊敬しています。
  しかしここ数年間の内に多くの患者が、公が経営する大きな病院に移って行きました。
目先の、可視的面なものに気を奪われているからでしょう。  私は中山医師を信じてい
ます。  心から信じられない医師に自分の命を預けることはできません。
  命にかかわることですから、信じるということは大切なことです。  ただ問題は、
医師が高齢のためにいつ閉院になるかも知れないという点でしょう。

★  私どもが世田谷の母の自宅を売却して当地に移住して来たのが1985年でした。
四半世紀の家庭集会ということになります。  世田谷での家庭集会は22年ほど続いて
いました。  更にその前の家庭集会は葉山漁村で2年強ほどの短い時間でした。

  これら48年にわたる3ヶ所での家庭集会にどれほどたくさんのかたがたが出席された
のか見当もつきません。  延べにすれば十余万人を遥かに越えるだろうかとも思います。
 しかし「数」というものはしょせんどうでもよいことに属するものです。
むしろ紅茶や珈琲をおごるポットや食器類に感謝をしなければならないでしょう!

★  問題は‥です。  それほど多くのかたがたが集会に参加して下さったのですが、
現在に到るまで、それら数多くのかたがたの中から、どれほどのかたがたが、私ども
のような欠けた二つの器を覚えて下さっており、ありのままの姿で受け入れて下さっ
ており、信じて下さっていらっしゃるのか‥ということだと思います。
  お互いにどんなに遠く離れ離れになっていても、どれほどのかたがたが覚えていて
下さっているのか‥信じていてくださっているのか?  そういうことだと思います。

★  前置きが長くなり過ぎましたが、「信じる・信頼する」ということは、他者との
あいだで、極めて重要なことなのです。  人間関係の基礎を形成するものなのです。
  相互信頼と尊敬と受け入れ合いがなければ、人間関係は成立しないのです。
そして、いったん壊れてしまった人間関係を修復するということは、ほとんど不可能
に近いというのが厳しい現実です。  信じていない人、尊敬していない人を頼ることは
不可能です。  たとえ表面上だけは微笑みながらつき合っているとしても...です。

★  創世記32章22節~32節を読みますとヤコブが「あるひとりの人」と相撲をとったこと
が記されています。  私個人の見解ですので責任を持つことなどできませんが、
その「ある人」とは、神から派遣された天使ではないかと思います。  別の言い方を
すれば、ヤコブは神ご自身と相撲を取ったとも言えるのかも知れません。  けっこう
真剣な相撲であったようです。  28節は、ヤコブが神と人とに力を争って勝った‥と
記録しています。  「神と真剣に取っ組み合いの相撲を取って勝つた」のです。

★  ところで私たちは、ヤコブのように、神と面と向かって真剣に相撲をとっている
のでしょうか?  そのような真剣さで神に接し、神を信頼し、神を信じているとでも
言えるのでしょうか?  確かに口先だけはそのようなことを言っているようですが‥

★  ルカ傳18章8節は実に厳しいことを書いて私たちに告げています。
『人の子(イェス自身のこと)が(再び)やって来るとき、地上に信仰が見られるで
あろうか?』  これはイェスの私たちに対するまことに怖ろしい呟きの質問です。
  イェスが再臨される時がいつなのか、それは全く私たちにはわからないことです。
また、わからなくてもよいのです。  それは神の主権にかかわることです。
  しかし、イェスが再臨されたとき、地上に神を信じる信仰者がいないかも知れない
という警告は、これは怖ろしいことです。  信じる者がいないかも知れない...とは、
どういうことを意味しているでしょうか?  マタイ傳7章21節以下を思い出します。
  『私に向かって「主よ、主よ」という者が、みんな天国に入るのではなく、ただ、
天にいます吾が父の御旨を行う者だけが入るのだ...』とイェスは警告されています。

★  旧約聖書の一番最後にマラキ書という本があります。
その3章で、神を信じている...と自称している人々に対して、たとえば5節で、鋭い
警告が発せられています。
  また8節~10節では、さらに具体的に、神を信じていると自称しながら、実際には
神を信じていない宗教人に対して、神自身が「俺を試してみるがよい!」と挑戦され
ています。  人々は、ほんとうは、それほどまでに、神を信じていないのです!
  ヤコブの話を活用するならば、人々は神とまともに、真剣に、力を賭けて、相撲を
取っていないのです。  口先だけが「神を信じている」とうそぶいているのです。
『まぁまぁ、教会のこともほどほどに。  適当に‥』というのが本音なのです。

★  ヘブル書11章6節は、信仰がなければ神に喜ばれることはあり得ないと警告して
います。  アダムとエヴァは神と神の言葉を信じなくなった瞬間に堕落したのです。
罪に陥ったのです。

  今年は、お互いに、まじめに神を信じ、真剣に神と相撲を取るような信仰を試して
みたいものです。  神と真剣に面と向かって相撲を取ってみてはどうでしょうか?
  マラキ書3章10節が言うように、神を試してみるほどの真剣さを取り戻してみては
如何でしょうか?  『血を流すこともしないで、罪の赦しはあり得ない』とヘブル書
9章22節は言います。  年頭に当たり、これらのことを覚えたいものですね。
  罪の赦しを感謝するというのであれば、少しは恩寵に応えるためにも、痛みを伴う
ほどの信仰の実践を試みてみては如何なものでしょうか?  神と相撲を取ってもよい
のではありませんか?  もちろん、そのことで救われるというのではありませんが‥


黙示録3章20節

 見よ、私は戸の外に立って、叩いている。
 誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、
 私は中に入って彼と食を共にし、
 彼もまた私と食を共にするであろう。

              黙示録3章20節

フォックス亭に来る常連客

フォックス亭に来る常連客

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お正月のデパートの福袋を求める、方々とは違い、

しっかり順番待ちをして、必要なだけ食べると、餌を残して

次の順番待ちをしている常連客に譲ってゆきます。


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夏に訪れた常連客


『門松や冥土の旅の一里塚』

汝ら新田を耕せ。
荊棘の中に蒔くなかれ 。
エレミヤ書4章3節 ホセア書10章12節

★『門松や冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし』

室町時代の僧侶、一休宗純の作とされているようです。 物事も捉えようによっては全く別の見方ができるという意味でしょうか... 死をどう見るかということです。

★ 新年となり人々は思い思いの願い事を神仏に唱える傾向があるようです。
しかしそのほとんどは、えげつないほどに自己中心的なものです。 呆れ返ります。

そのような風潮が圧倒的な新年に際して、今夕のウイン・フィル新年コンサートの指揮者ダニエル・バレンボイム氏は、伝統的な新年の挨拶に加えて、中近東の平和を願うひとことを加えたことが印象的でした。 崇高な人類愛の信念と情熱に満ち溢れた、たぐいまれな優れた芸術家であり、博く深く高く学んだ人物だと知りました。

★ 新年が来たということは、ひとりひとりの終焉が迫っているということです。
そのことについて新約聖書ヘブル書9章27節は次のように明白に語っています。

『一度だけ死ぬことと、死んだのちに裁きを受けることが、人間に定まっている‥』

どのような人であれ、その人の身分や地位や富みや教養にまったく関係なく、人は必ず公平に死に到る‥のです。
この地上生命の長短の差こそありますが、必ず死が訪れるということにおいては平等なのです。
決して逃れることはできないのです。

公平・平等に誰にでも訪れて来る死ということにおいて、たったひとつだけ、他者との差を考えたいというのであれば、それは各自に「託された余生」を、各自がどのように意識して、それをどのように活用しようとするのか、できるのか‥ということではないのでしょうか?
それが死に打ち勝ち得る唯一の肯定的な生き方です。

このこととの関係で、去る11月22日に、「愚かなる者よ、今宵汝の魂とらるべし」と題した拙文を公表しました。その後半部に、嘗て東京YMCA英語学校夜間部に学んでいた勤労青年たちに私が問いかけた質問と、それに対する青年男女の応答の一部を紹介しておきました。

質問は、今夜死ぬとわかれば諸君は何をするか?でした。いろいろな解答がありましたが共通点が一つだけありました。「最後の瞬間に到るまで一生懸命に生き抜いてやる!」という一点にしぼられていたことでした。

主イェス・キリストの恩寵を個人的に受け入れた私たちは、これらの勤労青年たちの解答を遥かに超えた解答を出せるはずだと思います。 すなわち、死という最後の負の敵を相手に、主イェスのために、他者のために、己自身を徹底して捧げ尽くし、そのことによって自分自身を「死すとも生きる者、死に打ち勝つ者」とするという、一生懸命の肯定的な生き方だと思うのです。
ルカ傳10章27節~28節のことです。

別の表現をしてみますと、生きる意味をとことんまで追求し、自分の間際までを、神の恩寵を満身に受けた優れた作品として来たるべき後世に遺すという努力のことでしょう。 エペソ書2章8節~10節が勧めるように‥です。

神の御旨を知ることは私たちに到底できませんが、神が一番困っておられることの一つは、クリスチャンだと自称する人たちが、マタイ傳6章の19節~34節でイェスが説かれた大切な教えをほとんど守っていないということでしょう。
天に宝を積まないということです。生温い口先だけの自称クリスチャンだということでしょう。

この厳然とした恐ろしい事実を、ほかの聖書の言葉で置き換えてみますと、黙示録3章15章~16節がいちばんピッタリしていると思います。
すなわち、自分はクリスチャンだと自称しながら、私たちは永遠の命に到るための準備をほとんど何もしていないという現実でしょう。

天に宝を積む喜びを知らない「負の人生」の基本的な姿勢でしょう。
生きたまま死んでいる哀れな姿です。これは甚だ具合が悪いことです。
今年こそ恩寵の内にあって改めたいものです。

『私は義人のように死に、私の終りは彼らの終りのようでありたい』
民数記23章10節はこのように述べています。 皆さんの新年の願いと決意は?