神の憐れみ深い御心により・・・
日の光が上から私たちに臨み、
暗黒と死の陰とに住む者を照らし、
私たちの足を平和へ導くであろう・・・
ルカ傳1章78節~79章
サムエル前書7章12節・同後書7章18節
★ Hither-to hath the Lord helped us.
半世紀以上も前の1954年に最初の留学先ケンタッキーでこの聖句を英語で聞きました。
hither-to という副詞は古語英語に属する副詞で、一般会話に出てくることはめったにありません。
「今までのところは」とか、「この地点まで」とか、「今までのところはまだ‥」などを意味します。
英語をほとんど解せなかった私は、この一語がわからなかったために、その単語の意味を理解しようとしている間にどんどんと授業が進行し、結局のところ、何も理解できないままで授業のほとんどが終わってしまった...という苦い経験があります。今に到っても、半世紀以上前のその時のことをときどき思い出します。
結果的にですが、恩寵の内に、三つの大学に赤貧留学をすることができました。赤貧留学というものの辛さを身に沁みて覚えた数年間でした。
三つ目の大学院でも皿洗いをしながら苦学生活をしていましたが、その時に政府の情報機関の工作があり、身に覚えのない汚名を着せられ、大学院での勉強を断念して帰国しました。
帰国直後にも同じ機関からの執拗な接触が続き、不思議な交通事故に巻き込まれて左腎臓を喪失することとなり、それ以降は情報機関からの接触が消え去りました。
今年春に、三番目の留学先であった大学院での学びを断念せざるを得なかった母校が私ども夫婦を招聘してくださり、思いもかけないことでしたが、数千人の人たちの前で表彰されるという名誉を頂戴いたしました。
席上、二番目の留学先の大学の教授からも私たち夫婦を招聘して表彰したい...との思い掛けない申し込みがありました。
私どもが表彰されたことを知った最初の留学先の下級生たち有志といくつかの教会が今年夏に私どもを招聘してくださいました。
病弱な末期高齢者夫婦にとりましてこれらは想像もしていなかった特権と感謝でありました。
すでにソウル市は、かつての私どもの清渓川チョンゲチョン スラムでの活動に対して謝意をあらわすために私どもを招待してくださり、写真集まで発行して下さいました。
八ヶ嶽南麓に移住して四半世紀になろうとしています。目立つような活動もせず、できずに現在に到りましたが、多くのかたがたのご好意によって厚く支えていただき、感謝をして末期高齢者となることができました。
★ この年の終わりに際し、そして、新しい年を迎えるに当たり、半世紀以上も前に聞いて理解できなかった古語英語の「ヒザツゥー hither-to こん日に到るまで」という表現を改めて思い出し、感慨無量の心情でおります。
『私が誰なので、私の家が何であるので、神さま、あなたはこれまで私たちを導いてくださったのですか?』... 神さまと皆さまに感謝あるのみです。
Here I raise my Ebenezer; here by Thy great help I've come. Robert Robinson
『神より離れて迷いし吾を、イェス君、見いだし給いし日より、恵みに漏れたる時はなかりき、いざ打ち立てましエベネゼルをば・・』(聖歌 273)(新生讚美歌 563)『サムエルは一つの岩石をとってミズパとエシャナの間に据え、「主は今日に到るまで我らを助け給うた」と言って、その名をエベネゼルと名付けた。』
サムエル前書7章12節 サムエル後書7章18節
★ 先週26日に印度のムンバイ(ボンベイ)の高級ホテル街を中心として10数ヶ所で同時多発テロ事件が起こりました。不幸にして邦人一人も犠牲になりました。
あのような大混乱・大騒動のド真ん中で、私たちがホテルの一室に閉じ込められていたと仮定して、私たちの目の前に、得体の知れない屈強な男が抜いた刀を右手に、
突然出現したと、これまた仮定してみますと、見知らぬ男に対する私たちの反応とはどのようなものになりましょうか? どのようなことを瞬間に思うのでしょうか?
『あんた誰? 敵? 味方? どっち側?』‥ そんなところではありませんか?
★ ヨシュア記5章13節~15節に、目立たない、ちょっとした話が書いてあります。
それはヨシュアが率いるイスラエルびとたちが、いよいよ手ごわい相手が守っているエリコの城を攻めようとしていた矢先のことでした。
ヨシュアがふと目を上げてみますと、そこに屈強な軍人が一人すっくと立ち尽くしていたのです。 しかもその右手にはギラギラと輝いている大きな刀がありました。
ヨシュアの驚きようは想像を越えたものがあります。 恐怖心にあふれていました。
★ ヨシュアはおそるおそる大将に近づいて尋ねました‥
『あのぅ‥ あなたさまはどちらのお方でいらっしゃいましょうか? あなたさまは私たちのお味方でしょうか? それとも敵方の大将でいらっしゃいましょうか?』
見知らぬ屈強な戦士に対するヨシュアのこの質問はごく自然なものだと思います。
インドのムンバイの客室に閉じ込められていたとし、そこに武装した強そうな戦士が武器を手に現れたら、テロリストか警察側の者かわからなかったら、同じような質問をすることでしょう。 敵か?味方か?‥そのどちらかしかあり得ないのですから。
普通の場合、たとえば浪花商人が見知らぬ人に出会ったら、『このおっさんからはなんぼ儲かるやろか?』と心の中で算盤をはじくのかも知れません。
別の言い方をしてみれば、『損か?‥得か?』ということでしょう。
ヨシュアの場合には、『この巨人は敵なのか?‥それとも味方なのか?』でした。
ブーバーというユダヤの哲学者なら、『奪われるのか?‥それとも与えるのか?』ということになるのかも知れません。 「我と汝」の初めのほうの言葉です。
皆さんならどのような質問が飛び出すというのでしょう?
こん日の教会人のあいだですら、たぶん、『損か?得か?』の判断基準が支配的ではなかろうかと私は感じています。 物質が豊かになるに従って、この損得勘定基準が教会の交わりを著しく阻害し破壊して来ているのを、日本の経済的発展に伴い、私は多く目撃して来たように思います。
★ 久しく前から攻撃のチャンスを狙っていた強敵エリコ城を目前にして、一人でも多くの友軍兵が欲しいヨシュアにとって、強そうな将軍を味方に招きたかったことを容易に理解できます。 敵か味方か=損得どころではない、死活大問題でしたから...
ところがヨシュアのごく自然な質問に対してこの武将は、『敵でも味方でもない』と答えたのです。 『いや、どっちでもない Neither』と答えたのです。
これにはヨシュアは驚嘆してしまったものと思います。 戸惑ったと思います。
敵でも味方でもない大男が目の前にいるのですから... どっちかでないと困ります。
★ この武将がヨシュアに言明したことは、『自分は主の軍勢の大将として来た』ということでした。 この言葉の奥に問題を解く鍵が隠されているように思えます。
そしてそれは次の節、15節で明らかになるのです。
『汝の履物を足より脱げ! 汝が立ちおる処は聖き処なり!』... でした。
この声は、この命令は、実は、出エジプト記3章5節で、エホヴァなる主なる神がモーセに語られたこととまったく同じなのです。
モーセが神に召し出だされて、これから神から神ご自身のご計画がモーセに託されようとしていたときに起こったことです。 神の主権、神の御旨が支配していた場所であり、神の主権と神の御旨が今まさになされようとしていた時にモーセに語られた命令であったのです。
★ モーセに履物を脱ぐように命じられたと同じ神が、ヨシュアに対しても同じ命令を下されたのです。 ヨシュアが神の主権に従うのかどうか、神の御旨に添うしもべとして従うのかどうかが試され、問われた瞬間でした。
神がヨシュアの味方なのかどうか、神がヨシュアの味方になってくださるのかどうか‥ そのことが問われたのではなかったのです。
むしろ、ヨシュアが神の側に付くのか、神の主権の下で神に仕えるのかどうか‥そのことが問われていたのです。 しかし、ヨシュアはそのことを理解できず、物事を「敵か味方か、損か得か」という人間的価値基準、目先の算盤勘定で計ろうとしていたのです。 神を自分の欲のために、損得のために利用しようとしていたのです。
しかし、問われていたのは、ヨシュアが神のために、神の栄光のために、自分自身が用いられ得ることに気づけるのかどうか‥ そういうことであったのです。
私たちも、神を、主イェスの恩寵を、主が自らの貴い血潮で贖い戻された主の教会を、無意識にであれ、あるいは意図的であれ、利用しようとすることが、どんなにか神の前で恐ろしいものであるかを、考えてみる必要があると思います。
主イェス・キリストの教会は、私たちの「好き嫌いという感情的な基準」で決められるような安っぽいものではあり得ないのです。
そのようなことではなくて、私たちは神さまのために、神さまのご用のために、神さまのご栄光のために、仕えるために十字架を通して神さまの家族に迎え入れられていることを覚え、キリストの再臨の折りにはその栄光を仰ぎ見ることができる特権を覚えて、残された地上生命を捧げるべきではないのでしょうか?
神さまが私たちの側に立って、私たちに何か都合のよいことをして下さるのか?を求めるのではなく、私たちのような者であっても神さまのご用に用いていただけるのかどうかを祈り求めることが問われているのだと思います。 それがこのヨシュアの質問から学ぶべき意味ではないのかと、そのように私は考えます。
この狂い歪んだ世に在って主イェスの福音を一人でも多くの人々に語り伝えつつ、一方では、「いと小さき者」たちへの愛の奉仕に更に情熱を注ぎ込み、共に神さまの恵みを受け継ぐ喜びと感謝を体験してゆきたいものだと願うのです。
ヨシュアが武将と出会った意味は、そういうことではなかったのでしょうか?
今朝は短い聖書箇所でしたが、以上のようなことをご一緒に考えて見ました。