2008年11月アーカイブ

★  また、むかしのことから始めます...
先の太平洋戦争を敗戦で迎えた半世紀少し前の日本の惨状は悲惨なものでした。
今では想像すらできない時代でした。  一般国民は物心両面で完全に疲弊した逆境に在りました。  戦争というものは、どのような理由でも、絶対にしてはいけません。

希望が全く見えないように思えていた時代に、神さまの不思議な恩寵により、一般国民の海外留学など思いも及ばなかったときに、時の世界の理想郷と信じられていたアメリカに聖書を学ぶために留学することを得ました。全く奇蹟的なことでした。

赤貧留学生であったため、厳しい状態の中に自分自身を見いだし、多くの戸惑いと悩みを体験しました。  留学するための着衣すらなく、新宿駅北東口一帯を支配していた小津組の闇市でアメリカ製の中古背広と襟の擦り切れたYシャツを購入し、寸法を縮めてもらい、襟は裏返しにして貰って、キューキューと音がする靴を履いて貨物船に乗って太平洋を渡りました。

アメリカにも石鹸はないだろうなどと思い、闇市で石鹸をたくさん購入して持参しました。西海岸に到着したとき、あまりにも豊かな緑の崖の上の森林の中に点々と建っている白い住宅を見て、絵本の中の理想郷の絵を見ているような衝撃を受けました。これじゃ戦争に負けるのは当たり前だ‥と実感しました。

早く着き過ぎたので40日間をグレイハウンド・バスで各地をまわりながら、目的地であるケンタッキーのウインチェスターに辿り着きました。言葉も食生活もわからず、お金もなく、バス旅行中の40日のほとんどをハンバーガーだけで過ごしました。

ウインチェスターの町で歯磨き粉を買いに行きましたが、そのような品物はありませんでした。戦時中と戦後の日本では歯磨き粉があれば恵まれていたのでした。
お店で大きな歯磨きチューブのような商品を見つけました。  さすがにアメリカは大きな国だ、お金持ちの国だ!  こんな大きな安い歯磨きチューブがあるなんて!
なるべく安くて大きなチューブが得だと思い、そのようなものを1本買って寄宿舎で使おうとしました。  口に入れたとたん、吐き出してしまいました。  学友たちは大笑いをしていました。  脱毛クリームという品物がこの世の中にあるなど、想像だにしなかったことでした。  このような失敗をたくさん毎日やっていました。

★  食料品を売るスーパー・マーケットに行きました。
見たこともないような種類のたくさんの新鮮な野菜類を見てこれまた驚きました。
当時の日本では野菜に人糞を使うのが当たり前だったのです。
その中でも記憶が残っている驚きは、いろいろな色をした大きなピーマンでした。
これは、今で言う、いわゆるパプリカのことです。

神学校の食堂で出されたサラダに紫色を帯びた玉ねぎの薄切りがあり、これもまた驚きでした。  こん日の日本では今や珍しくもなんでもない野菜ですが‥

★  毎週金曜日午後になりますと日曜日の愛餐会用食材の買い出しに出かけます。
先日の金曜にマーケットに出かけたとき、きれいな色をした大きなパプリカや紫玉葱を見ました。そして半世紀以上前の留学先で体験した衝撃を思い出したのです。

農家を多くかかえた当地のスーパー・マーケットでは、らっきょうを漬ける時期になりますと、らっきょうを売り出しています。難しい漢字では辣韮と書きます。

きれいな色をしたパプリカであれ、紫玉ねぎであれ、らっきょうであれ、共通点があるように思います。それは、むかし幼かった頃に耳にした歌に、『らっきょう、らっきょう、花らっきょう、むいてもむいても皮ばかり‥』というものと関係があります。  らっきょうや紫玉ねぎの場合、どれだけ皮をむいても中心核がないのです!
美しい色をしたピーマン、パプリカの場合、それが緑色であれ、赤色であれ、黄色であれ、橙色であっても、皮を割れば中身は空っぽなのです。

★  さて、前置きがいつものように長くなり過ぎましたが...
クリスチャン人口が総人口の0.5%にも満たないという日本にあって、クリスマスの時期になりますと、ずいぶんとお金のかかった、多色刷りの宣伝文献や資料が教会に関係する団体などから送れて来ます。それらの「ゴミ」の処分で困っています。

美辞麗句が並んでいる厚顔の寄付依頼状もたくさん送られて来ます。
また、いろいろな団体からクリスマスを当てこんだいろいろな企画案内書が郵送されて来ます。戦前・戦中・戦後と比べてみますと、みんなきれいな多色刷りです。
1960年代の初めころの教会では、まだ「ガリ版刷り」というものが主流でした。

しかし現在の多色刷りの奇麗な案内文に、イェス・キリストとその十字架を思わさせるような誠実さを感じることができなくなっています。  奇麗な大量色刷り印刷のただの紙切れ、売らんかな売らんかな精神でいっぱいの紙切れだけです。

この国にあっても、分不相応とも思えるような大きな豪華な教会堂を建てて、いろいろな宗教行事をたくさんこなしている教会も多くなりました。  もったいない話だと思います。  建てればその維持管理に心を奪われる結果を生んでしまいます。

先日、或る牧師の葬儀があり出席する機会がありました。
式を仕切ったのは、いろいろと噂の絶えない、或る教団でも手を焼いているとかの、言葉使いだけは優しそうな中年「牧師」でした。  他界された牧師個人を褒め称える話が延々と続きましたが、主イェスの十字架も御国での再会の希望も確信も欠落していました。ところてんか今問題になっているこんにゃくゼリーのようなものです。

★  これらのことを考えて見ますと、共通点があるように私には思えるのです。
ピーマンやパプリカや、紫玉ねぎや、そして、らっきょうのように見えるのです。

外側は実に奇麗で、派手で、見かけに文句はないのですが、その中心に核がなく、中身が空っぽで、クリスマス時期を利用した商業主義か、「キリスト教」という名目を利用した、中心核であるはずの主イェスが不在の派手なお祭り騒ぎのように思えるのです。酷でしょうか?  むいても、むいても皮ばかり‥  これでは困りますね!

この国も、この国のキリスト教関係の諸団体も、そして自称「クリスチャン」も、『何かおかしい! Something must be wrong!!』と私は思います。浮き草のようなもののように思えます。根っこが大地深くに根づいていない浮き草のようです。
商業主義に踊らされてしまって、実に安っぽいキラキラ輝くクリスマス・ツリーのライトや飾りつけか、それとも派手な色彩の飾りつけをいっぱい取りつけた砂上楼閣のような感じがしているように私には見えるのです。  着色らっきょうのようです。
イェスが御覧になれば、いったいこれは何なのか?とお尋ねになることでしょう。

 

『私に向かって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国に入るのではなく、

ただ天にいますわが父の御旨を行う者だけが入るのである』

 (マタイ傳7章21節)


 

★  『マリヤは月が満ちて、初子を生み、布に包んで、飼草桶の中に寝かせた。
客間には彼らの居る余地がなかったから』...と、ルカ傳2章7節は語っています。
以上は、いわゆる、クリスマス聖劇に出てくる格好の良い有名な一場面の描写です。

しかし私は、この淡々と描かれている描写を、決して「格好の良い聖劇の一部だ」とは理解できないでいます。  天地宇宙を創造なさり、これを支配なさっておられる主なる神の、私たちに対する招きのメッセージであると受け止めているからです。

★  まず、彼ら親子? 三人が居ることができたかも知れない「客間」のことです。
アメリカのリーマンという金融機関の経営がおかしくなり始めたことから急激に加速した全世界の金融危機が日本にも深刻な影響を与え、この厳しい年末に職と住と食を失った人がこの国だけでも十万、二十万と続出しています。

すでに多くの人々がホーム・レスとなって都会のビルの片隅に段ボール箱で囲いを作って冷たい一晩を過ごして居る気の毒な姿をテレビは冷酷に放映しています。 あるいは、キリスト教関係者の炊き出しに列を作って食事を得て居る姿を紹介しています。  荒野で寒い暗黒の夜に羊を護る羊飼の姿のように私には思えます。

多少の蓄えのある人は、とりあえずインターネット・カフェーなどに行って、狭い部屋で一夜を過ごしているようです。
ルカ傳2章7節が言う「客間」と言うのは、そのような場所、誰でも身分を問われることなく休めるような場所を意味していると私は理解しています。

それは長距離夜行バスの待合室でもよいし、24時間連続営業しているハンバーガー・ショップのような場所でもよいと思っています。
自分の身分や家柄を問われることもなく、とにかく一夜を何とか安全に確保できる狭い空間のことを意味していたのが、ルカ傳2章7節が意味する「客間」であった...と理解するのが妥当かと思います。

ある程度の代価を払える人が宿泊するホテルとか宿屋という意味ではなかったと、私はそのように理解しています。  日本でも、敗戦直後までは木賃宿と言いました。
木賃とは、旅人が米を持参し、薪代を払って泊めてもらった安宿のことです。その程度か、それより以下のレベルの簡易宿泊用空間と理解したらよいでしょう。

そのような底辺労働者層が仮眠する場所ですら、この天地宇宙を創造された主なる神が宿られる場所がなかったということです。  貧しい私たちの中に来て下さったということです。  私たちよりも貧しい層の中にまで下って下さったという意味です。

★  次のことです‥
無名の乙女の胎内に偉大な創造主が小さな胎児として宿られた...ということです。

このこと自体も私たちの想像を遥かに超越する発想です。  神さまの私たちに対する一方的な偉大な愛を如実に、具体的に物語っていることだと理解しています。

私は人類文化学者でもなければ、聖書学者でもありません。
しかし、イェスが誕生された当時のローマ帝国領土内では、特に地中海沿岸文化圏の中では、二元論というものの考え方が広く受け容れられていたと理解しています。

二元論 Dualismとは、ひとことで言いますと、世界を善悪二つの神? 原理? の闘争として捉える宗教的な世界観でした。  特にゾロアスター(拝火教)やマニ教などの考えの中心要素でした。  世界・宇宙の根源的原理を、精神的なものと、物質的なものとに二分して考えました。  聖書世界との関係ではグノーシス主義 Gnosticismと呼ばれ、人間を肉体・物質世界と、精神的なものとに分け、人間が物質的・肉体的な世界から浄化され、自分が次第に神となって行く‥なって行きたい‥と願望し、認識することで救われる‥という発想の、キリスト教会の中に深く浸透していた異端思想です。  ヨハネ傳にもピリピ書にも、この異端思想を排除する努力が見られます。

マニ教は摩尼教とも書きますが、現在のイラン、むかしのペルシャのゾロアスター教に、キリスト教と仏教の要素を加えた宗教のことです。光明は善で、暗黒は悪‥とする二元的自然間を教理とする思想・宗教で、多くの場合、信者は厳格な菜食主義や不姦淫主義、断食主義、浄身祈祷主義などを主張していました。

★  このような影響が地中海沿岸の宗教や思想に大きな影響を与えていた時代です。
ローマ帝国の占領と支配下にあったユダヤ人の多くは、実質的に底辺生活者であり、マリヤの婚約者ヨセフも貧しい肉体的労働者でありました。  社会的・経済的には、ほとんど半奴隷のような状態であったのではないかと私は思っています。
マリヤもまた、同様に最底辺層に属していた女性であったのだろうと思っています。

そのマリヤが、処女でありながら、妊娠したというのです。
すでに説明をしましたが、出産ということは、忌み嫌われていたもののひとつです。
それでいて、この世に男女が存在している限り、人類が避けることのできない大きなできごとです。  喜ぶ人と、忌み嫌う人が混在していたのです。

どうせ呪いのこの地上に住んで、そこから絶対に出られないように運命づけられているのだから、生きているあいだにはできる限り楽しんで生きてやろうじゃないか‥という、二元論の呪いと重荷を逆手にとって、人生を快楽の中に生きてやろうという発想もあったわけです。  エピクロス主義Epicureanism と言います。

そういう人生哲学で生きる人には男女の性と、そこから始まる妊娠ということも、肯定したのかも知れませんが、そうでない哲学を持つ人には、処女懐妊など、想像を越えた、非難すべきことであったでしょう。

出産とは、二元論が支配する文化の中で、旧約聖書だけでなく、マニ教でも姦淫ということは厳しい社会的拒絶を食らうことです。
それに加えて彼女が「聖霊によって子を宿した」と主張しているのです...絶対に通用しない言い訳をしている女を、世間がそう簡単に受け入れるわけがないのです。

★  社会的にも最低層の名も知れぬ卑しい乙女の懐妊‥
これは私たちの想像を遥かに越えた醜聞以外の何ものでもなかったと思います。

天地宇宙を創造なさった主なる神が、こともあろうに、このような醜聞の乙女の胎を経て来たり給うたということは、何を意味しているのでしょうか?

エルサレムの宮殿に住む王子としてではなく、卑しい乙女の胎を借りて、この世に来たり給うたということは、そしてボロ布を纏って飼葉桶の中に寝させられたということは、同じ神があなたと私の中にも来たり給うことができるということを意味しているということではないのでしょうか?

★  ボロ布は葬る死骸に巻くことを象徴し、飼葉桶に寝かせるとは棺桶に収容するということを意味しているように思えます。  死と常に一緒にいるような私たちの存在に神が来たり給うということを意味しているのではないのでしょうか?

 マリヤに宿られた神は、マリヤと大して変わらない私たち底辺層に喘ぎながら生きている私たちにも宿ってくださる可能性があることを意味しているのではありませんか?  神はそのように私たちを愛し、私たちを求めておられるということです。

吹けば飛び去る以外にないような私たちの中にも神がお入りくださりたいというのであれば、私たちは私たちの心の門戸を開いて、『主よ、お入りください』と言えるのではありませんか?  そのことを黙示録3章20節が語っていると思うのです。

いわゆるクリスマスというのは、神が私たちのような卑しい者の心の内にも宿ってくださる...ということを意味しているのではありませんか?

聖歌 410番に『心の門を開け‥Let Him in』という讚美歌があります。
いわゆるクリスマスにふさわしい讚美歌のひとつだと思います。  如何でしょうか?


 

黙示録21章1節~4節から

★  もう十数年も前のことになりますが...
ベタニヤ・ホームの集会に一時期ですが出席されていたM子さんという若いお母さんがありました。

わが国が太平洋戦争に破れ、それまで日本の植民地として日本が支配していた朝鮮半島南部から日本に引き上げる機会を何らかの理由で逸した或る家族がありました。

M子さんはその家族の一員でした。  遅れて帰国したM子さんに一目ぼれしたのがHさんで、結婚を申し込み、ベタニヤ・ホームの近くにあるHさんの家に嫁いで来たのです。健康な長女が生まれ、そのあとで長男にも恵まれました。

ところが待望の長男は、生後間もなく病をえて、松本市にある幼児専門病院に入院しました。私ども夫婦も赤ちゃんを病棟に見舞いました。  祈りました。
しかし嬰児の魂は天使によって御国に移されて行きました。つらい時間でした。
嬰児のお墓は、ベタニヤ・ホームからそんなに遠くない所にあります。

★  当然のことでしたが、若いM子ママは私にいくつかの自然な質問をされました。
それは天に召された嬰児の魂の行方のこと、天国の状態のことなどでした。

そこで私は、主イェスの十字架の恩寵を説明し、聖書が約束している復活の希望を説明しました。  M子ママやパパがやがて天国に行ったとき、幼くして先に召された長男は天国で立派に成長してママとパパの到着を喜んで迎えてくれるはずですよ...と説明したのでした。  若い両親に対してそのように述べた答は、その場を何とかしのごうと、私が口からでまかせに、適当に述べたものでは決してないのです。

私たち夫婦には、神さまが二人の子供を託してくださいました。 恩惠と眞理です。
このことは皆さまがご存知なことです。 しかし実は私たちにはもうひとりの子供が託されようとしていました。 早産で天国に移って行きました。 そのことを、私は忘れたことがありません。 きっと天国で会えるであろうと確信しているのです。

もちろん、私は、或る意味では現在のこの地球という宇宙船の上で、天国と地獄の「先物取引のような前兆、前触れ」を体験しておりますが、実際に天国にも地獄にもまだ行ったことがありません。それですから私が言える確かなこととは、聖書から学んで、このようなことではないのか‥ということです。

信仰とは、まだ見ていないことを、確かなことであると確信することである‥と、ヘブル書11章1節は語っています。

マタイ傳18章1節~6節を読んでみますと、幼子が天国に入れることは確かです。
この場合、幼児とは何歳から何歳までのことだ?などの疑問を挿入することは不適切だと思います。  聖書は信仰の本、意味の本であり、科学の本ではないからです。
幼い嬰児や幼児が、何らかの理由で天父の許に召された場合、彼らがただちに天国に移って行けることはイェスご自身が保証されていますので、これは大丈夫です。
疑う余地のないことです。

今朝ここにお集まりの方々にお尋ねしたいことがあります。話し合ってみたい点があります。そうすることで皆さんが聖書をさらに考えながら読んでくださるようになるかと思うのです。

それは、嬰児・幼児・子供が天国に入れることに関しては、皆さんがたがイェスのお言葉や聖書の教えに抵抗するということではなく、むしろ単純で素直に、そのまま信じて同意なさるということですが‥、それでは天国にお引っ越しをした子供は天国でも同じ年頃の子供でいるのだろうか、どうなのだろうか?‥ということです。

腰が曲がって杖を突いたお爺さんやお婆さんが、車椅子に乗った不自由な人々が、天国でも腰が曲がったきりなのでしょうか?  車椅子に乗って不自由な姿をしているのでしょうか‥ということとも関係して来ます。
また、お爺さんやお婆さんは天国に移ったあとも、お年寄りのままでしょうか?‥
ということとも関係して来ます。
別の言い方をすれば、天国に子供や老人がいるのでしょうか?‥ということです。

★  黙示録21章1節以下をどのように読めばよいのでしょうか?
王座の前に、嬰児や幼児や子供たちの姿を見ることができますか?

 『神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神みずから人と共にいまして、人の目から涙を全く拭いとって下さる。  もはや死もなく、悲しみもなく、叫びもなく、痛みもない。  先の(地上での)ものがすでに過ぎ去ったからである...』と黙示録21章1節~4節は語っています。

信仰の目で私たちはこのことを確信し、信仰の目で眺めることができるのです。
この箇所で「人」と捉えられているのは、すべて健康な成人という意味としか私には理解できないのです。
誰か他人の手を借りなければ生きられない嬰児や幼児をここでは見ることができないのです。みんな「人」、すなわち健康な成人ばかりです。

腰が曲がったままで、杖を突いて、車椅子に乗って、誰かに後押しをしてもらっている病弱者の姿は見当たらないのです。

嬰児や幼児は立派に成長した「おとな」になって、主の王座の回りで主を讚美しているようにしか私には受け取れないのです。

腰の痛い弱々しい老人や病人ではなく、健康な、働き盛りの「成人」が神の王座の回りで救い主を讚美しているのです。  幼児は成長した「人」に、老人・病人は健康な「成人」となって、主の周辺で主を讚美し続けている姿を私は信仰の目をとおしてみるのです。

★  コリント前書15章を読みますと、私たちの魂がこの地球を離れて御国に移るときには、朽ち果て易いこの地上の衣を拭い捨てて、霊的な、何かしら天的な、朽ち果てることのない、新しい衣を頂だいして身にまとうことを学ぶことができます。

そして、個々に朽ち果てることのない、主の栄光を反射することができる天的な衣服をまとった聖徒たちが、創造主であり、宇宙天体のすべてを永遠から永遠に到るまで支配し給う神を讚美し続けることを、聖書の教えを通し、信仰の目を通して、学び、かつ見ることが出来るのです。その日のために、恩寵の助けを得て、日々の生活のなかに在って、備えを怠らないように致したいものです。楽しいのが御国です!


 

『スワン軍医殿』

★  私淑しています福音伝道者で、南カリフォルニアにお住居の? ジェレマイヤ博士という霊的指導者がいらっしゃいます。  主の再臨待望者のお一人だと思います。

もし来年2月に私の第二番目の留学先の母校バイオラ大学の同窓会が私ども夫婦を招いてくれるということであれば、何とかしてジェレマイヤ博士にお会いしたいと、そのようなことを個人的に秘かに願っています。  サテッ?

アメリカが1960年~1975年にかけ南北ベトナム解放民族解放戦線と、周辺諸国をも巻き込んで戦争をしたとき、アメリカ軍がケネス・スワン軍医をベトナムの激戦地に派遣したことがあったそうで、そのスワン博士が重傷を負った米兵の手術を野戦病院で執行したときのことを、ジェレマイヤ博士が語っておられました。
私の個人的な推測では、スワン博士もクリスチャンであったものと思っています。

1968年に軍医スワン博士のもとに19歳の重傷兵が送り込まれて来たのだそうです。
博士はこの兵卒の生命を何とか救おうと、数時間にわたり、へとへとになるまでメスと縫い糸を両手に格闘したのだそうです。

スワン博士の努力の甲斐があって、この青年兵の生命は何とか危険域を脱することができたのですが...  このとき、スワン博士の同僚軍医たちは、軍医スワンの手術を批判する陰口を叩いていたのでした。
  『あんな手術を施すよりも、あの兵隊をそのまま死なせてやればよかったのに!』
という主旨の発言が軍医仲間のあいだに広がっていたのだそうです。

この悪意に満ちた陰口がスワン博士を酷く責め立てたのです。意地悪い陰口のトラウマから脱出するために、スワン博士は自分が執刀した重症患者の兵卒を捜し始めました。  その後もずいぶんと時間がかかったようですが、ついに博士は自分が手術を担当した重傷兵の存在を捜し当て、訪問することができました。

スワン博士が目にした元重傷兵は40歳代になっていました。
帰還後に兵士は、不自由なからだにもかかわらず、軍隊から奨学金を得て大学を卒業し、結婚し、子宝に恵まれ、車を運転し、重い潜水用水中呼吸装置を背負って水中に潜ることもできるようになり、自分と同じように障害を受けて虚弱な身体で帰還した帰還兵たちのリハビリ企画にも積極的に手を貸していたのでした。
そして何よりも、その元重傷兵士は、イェスに出会い、感謝の生活を送っていたのでした。  スワン博士の喜びは『口に出せないほどの喜びであった』そうです。

ジェレマイヤ博士が、この元重傷患者兵と、彼の手術を執刀したスワン軍医の話をされたとき、『神のなされることは皆その時にかなって美しい。  神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた‥』という、伝道の書3章11節を用いて、神が私たちにどのようなことを求め、何を求めておられるのか...について語っておられました。

★  以上のような小さなエピソードを聞きながら思ったことがあります。
それは、神さまが私たちに何かを求められるとき、私たちには神さまの求めの理由や目的や方法など詳しいことをその場でお示しになるわけではないのです。
初めから神さまは青写真を示して、具体的に指示なさるわけではないのです。

そのことをヘブル書11章1節が語っているのです。
『神さまを信じるということは、望んでいることを確信することであり、いまだ見ていないものごとを確かにそうだ!と信ずることである‥』

疲弊しきっていた1960年代末期から1970年代初期にかけての韓国各地訪問で、私も個人的に、神さまがこの私と私の家族に対して何となくこの国の貧しい人々に仕えることを求めていらっしゃるのではないのか?...と、おぼろげに、何となく、漠然と、感じ始め出していたのでした。  詳しいことなどまったくわかりませんでした。

あれからすでに40年近くの年月が経ってしまい、人生の終焉に私は居ます。
しかしあのときのことを、徐々にでしたが、そしてまた、現在に到って、これも徐々にですが、過去を振り返って見るとき、神さまが、私と家族に対して求めておられたことが、少しずつわかり始めたように思い始めたのです。  時間がかかるのです。

神さまの石臼は、ほとんど廻っていないように思えるほどじれったいものです。
しかし、神さまの石臼は、着実に、神さまの時間の内で、神さまの御旨にしたがって回転しているのです。  このことを私たちは信仰を通して学んでゆくのです。

神さまの御旨だと確信することに自分自身のすべてを賭ける・懸けるのか、それとも神さまの呼びかけを聞きながら、それから己を避けようとするのか‥  そのことが問われているのです。  詳しいことがわからないから‥  そのような理由で神さまが私たちに求めておられるはずに違いないことを避けて、神さまが用意してくださっている大きな祝福を見逃してしまうのか‥  これが私たちに課せられた自由と決断だと私は思います。  広い道か狭い道か、広い門か、狭い門か...  の選択でしょう。

神さまは神さまがなさろうとされていることを、初めから終わりまでご存知です。
私たちは、この天地宇宙を創造なさり、そして私たち一人ひとりをもこの世に送ってくださった神さまに、私たちに主イェスとその十字架の恩寵を賜った神さまに、全てを託して、神さまの栄光に満ち溢れた十字架の道に従って行こうとしているのかどうか‥  このことが問われているのですから、感謝して示された道を選んで従うことが主の恩寵に在って、最高の人生を送る道だと確信しています。  如何でしょうか?


 

★  讚美歌 310番、バプテスト教会系新生讚美歌 430番、新聖歌 190番、聖歌 254番
及びインマヌエル讚美歌 141番などに有名な讚美歌 Sweet Hour of Prayer が紹介・
掲載されています。

上記の初めの3種類の讚美歌集はすべて讚美歌 310番の翻訳詩が共通して使われていますが、聖歌とインマヌエル讚美歌はそれぞれ異なった翻訳詩が使われています。
原詩と比較して見ますと、翻訳を担当された3名のかたがたの、それぞれのご苦労を垣間見ることができるように思います。

★  この有名な讚美歌に関してですが...  二つの興味ある特徴があるかと思います。
一つは作詞者について、そしてもう一つは作曲家に関してです。

 しかし、作曲家ブラッドバリー William B. Bradburyに就いては、すでに先月16日に紹介しました讚美歌『主われを愛す』の作曲者と同じ人ですので、重複しての紹介を避けたいと考えます。  (2008年10月16日号ベタニヤつうしん2頁~6頁を参照)

★  所有しています十数冊の讚美歌史の資料源を読んでみまして、「極めて美しい」讚美歌の作詞者ウイリアム・W.ウォルフォード William W. Walford 1772~1850に関する情報が極めて限られていることを知りました。 顔写真もありません。

「美しい」という意味は、私たちが呼吸をすることによって肉体的生命を保っているのと同じように、創造主・救い主に「祈ること」によって私たちの魂が生かされているのですから、この祈るということを、逆境のなかに生き抜いた盲人伝道者が彼の信仰告白として書き遺してくださったという意味で、「極めて美しい」讚美詩だと、そのように私は考えているからです。

ウイリアム・ウォルフォードが生まれたのは1772年(江戸中期の安永1年、飛騨で一揆があった前年)イングランド南部サマセッツシャ-の川沿いの町バスでした。
地図で調べてみましたら、英京ロンドンのほぼ西方約 160kmにあります。  工業港湾都市ブリストルに近い町ですから、バスも同じ川を利用した工商業都市ではなかったかと記憶しています。  しかし肝心のウォルフォードの生まれた月日は不明です。

実は、ウォルフォードがどのような両親のもとで、どのように生まれ、育てられたのかなど一切不明のようです。  むしろそれが「あたりまえ」であったような、貧困に喘ぐ貧しい無名の少女が生み捨てたみなしごであったのではないのか‥と憶測しているのが資料源の正直な共通認識のように私には受け取れました。

死亡したのは1850年(嘉永3年・徳川家慶・国定忠次処刑)6月22日です。
ロンドン西北西25kmに位置する旧ミドルセックス州の町で、現在ではロンドンの郊外都市となっているアクスブリッジで死亡しています。  埋葬地は不明のままです。

1845年9月13日付けの The New York Observerにはウォルフォードの紹介文が掲載されています。  投稿者トーマス・サモンThomas Salmon の紹介文を仮私訳してみますと以下のようになります。

『私がコールシェアに住んでいたとき、盲人説教者ウイリアム・ウォルフォードと知り合いになった。  彼の生い立ちや家族関係には不明瞭な点が多く、まともな教育も受けられなかったようである。

(野村注a:  実際はホーマトン・アカデミー Homerton Academy で学び、のちに同校でクラシックスを教えていますので、今で言う小中高校生向きの盲学校ではなかったのかと、そのように個人的に憶測します)

しかし彼は強靭な意志と抜群の記憶力の持ち主であった。  彼が説教をするとき、主題に添って正確にメッセージの内容を展開していたし、聖書の章や節を実に正確に記憶しており、誤った章や節を述べることはなく、とくに詩篇のすべてを実に正確に暗誦していた。  新約聖書も、豫言書も、歴史書の記憶も完全なものであった。
すなわち、彼は新旧聖書のすべてを、初めから終わりに到るまで、完全に暗記していたということで、驚くべきことである。

ウォルフォードは(注b:  小さな手回り品や安物の小さな宝石や指輪などの装身具を売る小さな店頭の)炉端に座って店番をしながら、いつも次の日曜日の朝夕二つの説教を準備していた。

ただ黙って店先の炉端に坐って、ひたすらに説教を黙想していたというのではなくて、その間にも彼は両手を忙しく動かし、動物の骨を切断したり、研磨したりして、靴べらを作ったり、家具や衣服用の小さな備品や装具を作っていたのだ。

そのような作業をこなしながら、その合間を縫って作詞もやっていた。
あるとき私が彼の小さな店を訪れたとき、それまでに作詩してあった詩の数点を暗誦して私に聞かせてくれた。私が彼を訪れるまでのあいだ、誰もウォルフードを訪ねて来て、彼が作詩した詩を紙切れに代筆してくれる者がいなかったようだった。

彼は私の前で同じ詩を二、三度暗誦したのち、『こいつはどうだい?』と私に尋ねた。 けっこう彼自身は満足して、悦に入っているような微笑みが彼の表情から読み取れたのだが、批判されるのではないかと案ずる表情も見え隠れしていた。

                Sweet Hour of Prayer! Sweet hour of prayer,
                    That calls me from a world of care,
                    And bids me at my Father's throne
                    Make all my wants and wishes known;
                      In seasons of distress and grief
                       My soul has often found relief,
                    And oft escaped the tempter's snare,
                    By thy return, sweet hour of prayer.

彼がこの詩をいくどか繰り返してそらんじているうちに、私は大急ぎで私の鉛筆を走らせて記録した。  こうして入手したウォルフォードの詩を、私はニューヨークのオブザーヴァー誌に送り、記録として保存し、発表する価値がある詩なのかどうかの判断を仰いだというわけだ...』と記録されています。

★  ウォルフォードが生来の盲人であったのか、不幸な環境に輪をかけたような不遇のド真ん中の嬰児期に失明することになったのか‥そのことは私にはわかりません。

しかし、全盲という、一見「極めて不幸中の不幸としか思えない人生」に在って、神の恩寵を豊かに受けて、そのことを本人自身が深く個人的なこととして受け止めたが故に、この人類がこの地上に存在する限り、決して忘れ去られることのない不朽の名作「Sweet Hour of Prayer」を彼自身の信仰告白として遺すことができたのです。

神を礼拝するときの重要な要素に、神自身を讚美することがあります。
そしてまた、祈ること、すなわち神と交流することがあります。  この二つの分野に盲人ウォルフォードが大きな遺産を遺してくれたのです。  信仰の巨人の一人です。
盲人で讚美歌界に大きな影響を遺した女性に Fanny J. Crosbyもいます。
いわゆる「健常者」の私たちに対して、これらの聖徒たちは人生の「勝害者」です。

「勝害者」ウォルフォードは逆境にもめげず良く学び、コングリゲーショナル教会の牧師として按手され、サッフォークのストーマーケット教会に(1798年~1800年)仕え、ノーフォークのグレイト・ヤーマウス教会に(1800~1813)仕えています。

その後しばらくのあいだ教会に仕えることを休んでいたようですが、1824~1831年にはアクスブリッジ教会に仕え、さらに1833年~1848年に同教会に戻って来て奉仕しています。

1841年~1831年のあいだ、母校ホーマトン・アカデミーで教鞭をとっています。
いくつかの作品を遺していますが、主だったものは、1836年に発表した、仮私訳で、祈りの姿勢 Manner of Prayer があり、詩篇の翻訳(ウォルフォード版)、ラテン語で Curae Romanae、クリスチャン・エヴィデンス・カテキズム(仮私訳で信仰明証教本? 、そのほかに 1851 年に John Stoughton が編集した自叙伝があります。
讚美詩として現存しているのは「Sweet Hour of Prayer」です。

★  作曲者に関しては10月16日に発表しておきました(ベタニャつうしん10月26日に掲載)を御覧ください。  50点ほどの讚美歌が現存しています。  日本ではいろいろな教派や群れと、その発行機関によって発行されている各種讚美歌集にその幾つかが掲載されています。  ウイリアム  B.ブラッドバリー William B. Bradburyです。

★  神の恩寵に対して誠実に、一途に、ひたすらに応えようと生きる魂は、いわゆる健常者であろうと、障害者であろうと、そのような肉体的なことに関係なく、多くの祝福の影響を周囲の人々に、そして後世に遺すことができるのです。

みなさんの後世への最大遺物とは、どのような信仰の実なのでしょうか?
エペソ書2章6節~10節の聖句をみなさんはどのように理解されておられますか?


 

雀蜂を眺めながら

★  「焼酎と味醂と酢と砂糖水をペット・ボトルに入れる」...?
今秋もベタニヤ・ホームの庭で、これらの液体を容れたペット・ボトルの罠で千匹を
遥かに越す雀蜂を捕獲しています。

  おもしろいように雀蜂が罠に入りますが、千匹ともなりますとむしろ不気味です。
大きなペット・ボトルの底からキャップのところまで雀蜂の死骸がギッシリと詰まっ
ています。  今秋もそのようなペット・ボトルが2本半あります。
  まむし酒を作っては希望者に売っている近所の坂本清利さんが、ぎっしり詰まった
雀蜂の死骸を見て、『薬にするからおくんねぇ~』とねらっています!?

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  今年もベタニヤ村に二つの雀蜂の巣があるのを発見しました。
地面の中に巣を作り始めたのは早期発見で何とか処置しましたが、高いところに設置
してあった大型野鳥用巣箱を利用して営巣を始めてしまった雀蜂の巣には手が届かず
そのままにしてあります。  毎年雀蜂との「平和的共存」?を迫られています。

★  雀蜂は、ほかの蜂類と同じく、せっせせっせと出稼ぎに巣から出て行きます。
そして獲物を捕らえると肉団子にして巣に持ち帰って行きます。  野鳥用水飲み場で
水を飲んで巣の中を冷やす仕事もするようです。

  雀蜂を観察していて思うことがあります。  巣は一種のエクレシアだということで
す。  彼らの巣は「呼び出された蜂どもの集会場・休息所」だということです。
  巣の中にいる女王蜂と無数の幼虫たちを養うために、働き蜂たちは巣を護り、巣の
中を清掃し、巣の中の温度と湿度を保ち、そして外に出て行って餌を確保して戻って
来るのです。  重たい餌を巣の中に降ろすと、再び軽い身で外に出て行くのです。

★  聖書は、例えば、コリント後書5章17節~20節で、私たち「キリストのもの」=
クリスチャンは、この世に対して「和解のつとめ」を託されていると語ります。

  テモテ後書2章15節や4章2節には、どのような状態にあっても、私たちには福音
を宣べ伝える使命と特権が託されていると語っています。

  主イェスがこの世を離れられる折に、ある意味で遺言のような命令を私たちに残さ
れています。  それを私たちはマタイ傳28章19節~20節で学びます。

  また、福音を語るということには、私たちの在り方が問われていると、私は聖書を
読んで学ぶのです。  クリスチャンの社会的特権と責務のことです。

  マタイ傳5章13節~16節に主イェスの言葉として明確に示されている「地塩世光」
のことです。  この地上に入っていって、この世の中にあって、そこでクリスチャン
としての責務と特権を発揮し、果たすようにと命じられています。

  どうもこの面で、多くの教会も、その伝道者も、教会指導者たちも、そして教会員
たちも、理解と意識が少ないようです。
  この世にありながら自分たち自身をこの世から隔離してしまって、自分たちだけが
楽しめる、安心できる居心地のよい蚕の繭のような同好会を築き上げてしまう傾向が
あるように思います。
  この世の中の痛みや悲しみには無関係で、自分たちだけの排他的な同友会を作って
しまうようです。  これは一種の「自己ゲットー化  ghetto」だと思っています。

★  しかしその一方で、ルカ傳10章38節~42節でイェスが注意を喚起されていること
は、社会的関与に深入りし過ぎて、静かに神の言葉に聞き入るということを怠っても
いけないということです。
  それは、同じ章の前半部に善きサマリヤ人の譬を置くことで、宗教儀式のみを通し
て神を礼拝しようとする余り、クリスチャンが病める者や弱者に仕えるという社会的
参与を疎かにしてはならない‥という教えとの対比で考える必要のあることです。

★  私たちが主の食卓、主の晩餐、パン裂きに、主ご自身のお招きによって、与る・
侍るということは、『主の死を示して、その来たり給うときにまで及ぶ』ことを誠実
に黙想するということではないかと思います。  (コリント前書11章26節)

  そこには、「すでに」という十字架のできごとと、「まだこれから」というイェス
の再臨の栄光との間に私たちが立たされている...ということを覚えさせるという意味
が秘められていると私は理解します。  いつも「終末というとき」に限りなく近づい
ている時点に私たちが立たされていることを私たちが強く意識するように...との神の
摂理が秘められていると私は覚えるのです。

  「いまこの現在」という時間はないのです。  「もうすでに」と「まだこれから」
との瞬間的な間に私たちは立たされているのです。  この瞬間的な、まばたきをする
ような瞬間が、あたかも永遠に不動・不流のように続くかのように誤解して、この世
の富みを蓄え、名誉と地位を維持しようなどとの考えは、主の食卓に侍るとき、永遠
の主の前に召し出され、招かれるとき、木端微塵に吹き飛ばされてしまうのです。

★  雀蜂は一心不乱に働いています。  それは「厳しい冬の先にあるもの」に対して
備えているのだと思います。  もちろん雀蜂はそのことを意識してはおりません。

  エクレシアという集合・集会場に集まる私たちキリストの者たちこそ、この世への
和解の使者として、雀蜂のように、与えられ託された目的のために、使命のために、
この世に在りながら、この世の者としてではなく、ただひたすらに「もうすでに」と
「まだこれから」とのあいだにある瞬間的なときの流れの中で、神と人とに仕え尽く
して、お召しの時に備えをしたいものだと願うのです。  如何でしょうか?



 

『執行猶予』

★  「執行猶予」という言葉の意味は、「刑の言い渡しをすると同時に、情状により一定期間その刑の執行を猶予し、その猶予期間を無事に経過したときは、刑の言い渡しの効力を失わせる制度」というふうに辞書に説明してあります。

十日ほど前でしたか、大阪市内の横断歩道を渡っていた会社員が黒塗りの自動車に当て逃げされるという事件がありました。  加害者は被害者をそのまま3キロ以上も引きづったまま逃走したという、極めて悪質で非人間的な犯罪でした。

暴力団と問題を起こし北九州から関西方面に逃走して来た、そして無免許飲酒運転をしていた若い青年が、ようやく先日逮捕されたと報じられていました。

報道されたことから知ったことですが、無免許で飲酒運転をしていたのが露見するのが怖かっただけでなく、交通事故の被害者を装って保険金を搾取したことで裁判所から執行猶予の判決を受けていた青年であるとのことでした。

★  普通の人なら、己の犯した罪を問われたとき、悔い改めるだろうと思います。
まして、裁判所で、温情によって、更正の可能性を認めて貰って、寛大な配慮から、刑の執行を猶予された人であるならば、悔い改めて、二度と犯罪者にはならないとの決意を己に誓い、その誓いに従って、まともな生活を送るように最大限の努力をするものだと思います。  悔いるということは、それ以降は二度と再び同じような愚かな生活態度や愚かな行為を繰り返さないと努力をすることを含むと思うのです。

聖書では、人がその罪を主イェスの十字架の前で罪を悔い改め、神と己と人々の前で神の子となり、神の家族の一員となると誓ったならば、その人は、その後の生活において、二度と再び罪のとりこにはならないように努力をするものです。
そうすることが一方的に赦してくださった神の恩寵に応える道だと思うのです。

★  また、聖書では「悔い改める」ということを、メタノエオと言います。
方向転換をするという意味を含みます。

すなわち神と人の前で己の罪を告白し、神に己の罪をお詫びするということも含みますが、それよりも、神からの一方的な恩寵によって、己のすべての罪が赦されたのだから、「今後はもう二度と再び同じ罪の中を歩まないように一生懸命に生きる努力をする」という、強い意志や決意を含めたギリシャ語の単語です。

それが「悔い改める・方向転換をする」という意味なのです。
方向転換をするということは、今まで進んで来ていた方向とはまったく違った、別な道を歩き始める、あるいは、逆な方向に進み始めるということを意味するのです。

二度とふたたび同じ道を歩まないという固い決意と具体的な行動を意味することです。  それはあたかも執行猶予の判決を受けた者が、更正に向けて、二度とふたたび同じ愚かな過ちを繰り返さないと誓い、その具現化のために全力投球をするのと同じことです。

★  今回のむごい当て逃げ・ひき逃げ事件の犯人、執行猶予中であった犯人が犯した恐ろしい殺人行為には、罪の悔い改めも、更正への決意もまったく感じられなかったことです。  執行猶予処置を受けるに値しない人物であったのです。

しかしこのことは、私たちはクリスチャンだ!(=キリストの者だ!)と自称する者たちが、その罪を十字架の故に赦された者が、それでは「方向転換をして、極めて強い決意と意志をもって、この世を支配する罪の力に対して、二度と再び同じ罪の中での生活を繰り返さないように努力をしているのかどうか?...ということが問われていることを意味しているのです。

「キリストのもの」であるはずのクリスチャンとされた者が、それ以降も信仰者になる前と同じ生活態度を基本的に継続しているとするならば、それは実に深刻な問題なのです。

悔い改めて、主イェス・キリストの者となったもの=クリスチャンとなったと自称する私とあなたが、それでは、神の前で恥ずかしくない生活をしていますと、最後の審判の折りに神の御前で断言できるのでしょうか?

執行猶予つきの身であった今回の悪質なひき逃げ犯のことを決して笑えないとなります。  どうも私たちは自分には甘すぎる傾向があります。  主の前に襟を正す必要があります。  主の食卓に与るという意味を改めて考えたいものです。


 

『名は体を表す』

★  いつのことだったのか正確に記憶していませんが、自分の息子が生まれたとき、「悪魔」という名で戸籍に入れようとして役所で断られ、裁判沙汰になり、裁判所の判決で拒否されたということがありました。  記憶なさっている方もいらっしゃるかと思います。関西地方の話だったのか記憶していませんが、それにしてもまったく非常識な親だと思います。神さまから託された新しいいのちのはずですのに‥

★  詩篇20篇5節に、神の御名によって旗を揚げる...という句があります。
使徒行伝15章14節には、神の御名を背負う民が選び出された...という句もあります。
「クリスチャン」という名詞の意味は「キリストのもの」ということです。
私たちは神さまの一方的な憐れみにより、またその恩寵によって、「神の子」とされたのです。そのときから私たちは「神さまの御名を担う者たち」とされたのです。

★  それですから、私たちは神さまの人格を反映する者でなければなりません。
神さまの栄光を輝かし出す者たちでなければなりません。それが「クリスチャン」という意味です。

詩篇61篇5節や 119篇 132節を熟読してみますと、クリスチャンとされた者たちには大きな特権と共に、私たち「神の御名を担う者たち」を眺めるこの世の人々に対して大きな責任があることを学びます。

★  私たち各個人に名づけられた名は私たちの人格・品格・ひととなりを語ります。
「名は体を表す‥」と言いますが、私たちの名は私たちがどういう種類の人間なのかということをよく表しているのです。

それと同じように、神さまの栄光の高さ、深さ、広さというものも、すべて神さまの御名によって表されるのです。

それですから、クリスチャンという意味が「キリストのもの」である以上、私たちの日々の在り方そのものも「キリストのもの」でなければならないのです。

★  日曜の朝の1時間前後を、石や木で作った教会堂という箱の中で過ごすことや、その中で過ごす人たちのことを、それだけで「クリスチャン」と呼べるのでは決してないと、私はそのように考えています。  キリストの名を背負って日々の生活の場で誠実に生きる人、他の人々に喜んで仕える人のことを言うのだと信じています。


 

★  ヨブ記がいつごろ書かれた文章であるのかについては諸説があります。
しかし、いずれにせよ3千年以上古い文章ではないのかというのが定説のようです。

そのような古い時代に文字を書けたということは相当な地位と経済力と教養のある人物であったはずです。  鉄筆を用いることができるということは、相当な経済力のあった人でしょう。

そのような地位の高い人が、自分の思いを岩石に刻みつけたい...と切望したということは、その人の人生経験において、しかもその人が己の終焉に直面して、耐え難い深刻な悩みを持っていたということを物語っているように思えます。それはヨブ記19章23節~24節が語っている絶叫からその痛ましい思いを察することができます。

しかし同時に、25節~27節には、耐え難き環境の中に生きたヨブが、それでも神を信じ通し、世の終末に於いて、自分は必ず神の顔を仰ぎ見るのだ‥という、激しい、そして強いヨブの終末に対する信仰を表現しています。

この世がどんなに厳しいものであったとしても、それは決して墓場で終わるものではなく、神に在って、神の恩寵に在って、この世を離れた瞬間から、神の国において神と共なる新しい希望と栄光に満ち溢れた永遠の生活が始まるのだ‥とする、ヨブ強い信念が語られています。

★  すべての人に平等に訪れて来る死を前にして、私たちは、あなたも私も、自分の信仰を確かなものとする必要があります。  それが感謝と平安に満ち溢れた生き甲斐に繋がるのです。  メメント・モリ memento mori 汝、死を覚えよ!なのです。

主の晩餐に主イェス御自身によって招かれて与ることとは、イェスの食卓に招かれて侍ることとは、主の十字架と、主の再臨と、主との永遠の生活を覚えるということです。それはこの世のことではないのです。この世の基準では計り知ることなどとうてい不可能なことなのです。信仰の世界に属する貴い確信の世界のことです。


 

                         Abide with me: fast falls the eventide
                                                     讚美歌39番

★  残りの空白紙面を埋める積もりですので簡単に讚美歌39番を説明しておきます。
この美しい讚美歌については、また改めて正式に紹介する予定でいます。

★  まず作曲家のほうです。  ウイリアム・モンク William H. Monk、 1823~1889を
生きた英国人です。  英国国教会に関係した優れた音楽家でした。
私が調べた範囲でも約50前後の讚美歌を作詞作曲しています。
  この讚美歌39番の詩に作曲した動機は、晩秋の夕べ、西空を焼きながら静かに沈ん
で行く夕日を眺め、深い感動に誘われて作曲したのだそうです。

★  作詞者はスコットランド生まれのヘンリー・フランシス・ライテ Henry Francis
Lyte, 1793~1847です。  幼児期に孤児となり人生の寂しさを味わった人です。
アイルランドのダブリンにあった有名なトリニィテー・カレッジに学んでいます。

  人としての寂しさを充分に味わったからだと推測しますが、詩人として有名になっ
た人です。  22歳、1815年に按手され、アイルランドとイングランド西部各地の教会
で牧会をしましたが、牧会人生の殆どをイングランドのデヴォンシアの全聖徒教会で
仕えています。  All Saints Church, Brixham, Devonshire, England です。

★  ライテが書き遺したものに2冊の詩集があります。ここでは省略しておきます。
彼が遺した讚美歌は、私が調べたものだけでも百篇ほどあります。
落ち着いて彼の作品のすべてを調べたわけではありませんが、例えば日本語讚美歌の
 336番に『主イェスよ、十字架を御手より受けて...』という奇麗な作品があります。

  讚美歌39番をライテが書いたのは、彼が自分の死期を間近に意識して書いたもので
す。  太平洋戦争敗戦後まで、結核という病気を癒す薬はなく、人類の多くが結核で
死んでいったのです。  ライテも結核に冒され、死期を明確に自覚していたのです。

  この讚美詩を書き終えた次の日曜日にライテは教会でお別れの説教をしました。
そして健康回復を試みて、暖かいイタリヤへと保養に出かけたのでした。
  しかしイタリヤまで到達することはできませんでした。  フランス南東部の港町、
ニースに辿り着いたとき、すなわち、この讚美詩を書き終えて3週間目に、天国へと
旅たったのです。  ライテの最後の説教の要旨を以下に紹介しておきます。

★  『兄弟たち:  死せる者たちの中から(野村注で:イェスの復活の力によって)
私は生かされて、皆さんがたのあいだに立っています。
  それは、もし私が皆さんがたを印象づけることが許されるのであるならば、そして
皆さんがたに影響を与えて、皆さんがたを誘導することが許されるのであれば、私は
すべての者たちに平等に訪れてくる、キリストの死によって心得のある、あの厳粛な
(最後の)時に対して、皆さんがたに心の備えをして頂きたく、私はここに、皆さん
がたの中に、今ここに立っているのです...』という主旨の最後の別れの説教を遺した
のです。  まさしく伝道者として memento mori の最後の言葉であったのです。

★  私も、この晩秋が私たちの人生の晩秋を気づかせてくれるように祈るものです。