2008年10月アーカイブ

『神なく望みなく』

Does Jesus Care?

★  聖歌 451番、新聖歌 358番、インマヌエル讚美歌 202番に『神なく望みなく』と
題した讚美歌が紹介されています。  いずれも原詩は Does Jesus Care? です。

★  この美しい原詩と曲ですが、しかしながら中田重治が「自作詩」として、原詩に
存在していない「盲人」に関することばを加えたことによって、ほぼ80年にわたり、
結果的にですが、盲人を蔑視し、差別する文言を含みながら、しかも、ほとんど何の
痛みも覚えることなしに、福音派の多くの教会の中で歌われ続けて来た‥という悲劇
を生んでいます。

  初めからそのような余計なことばを入れず、「翻訳者中田重治」として、翻訳だけ
をしっかりとやっておけば良かったはずです‥  そもそも、身体に障害を持ち、その
ことで人知れず悩んでいるひとたちの、その一番の弱点を譬えに使って、そのことで
十字架のイェスの愛を語ろう‥など、とうてい許されるものではありません。

  その後に改正を試みたものもありますが、もともと原詩になかった、盲人に関する
言葉を、福音派の重鎮がつけ加えたというところに問題があったと、私はそのように
考えています。

  中田重治は、わが国ではホーリネス教群、更には福音諸派の源流となった方です。
シカゴのムーディ聖書学院に留学されています。  その信仰は、個人的な魂の救いと
いうことが最大課題であり、ホーリネス教群の基本的信仰理解として「新生、聖化、
神癒、再臨」があります。
  当時のキリスト教世界の時代的趨勢として、前千年王国理解に基づく再臨待望姿勢
が強く、内村鑑三と組んで、再臨待望運動を起こしたこともありました。

  しかしそのために、「クリスチャンとしての社会に対する地塩世光としての働き」
面が、残念ですが、おろそかになってしまったと、私は理解しています。
  そのような背景から、身体障害者に対する配慮が欠落してしまったのではないかと
考えています。

  また、昭和初期までのわが国でも、いわゆるトラホーム、トラコーマという伝染性
慢性角膜炎が広く蔓延しており、視力障害者や失明者が多かったのは事実です。

  私の幼児期に、片手に杖を、もう一方の手で笛を吹きながら、町を流し歩く、按摩
を職業とする人たちが多くいたのを記憶しています。
  トラホームの予防ということで、硼酸水で目を洗浄するようにと、小学校で注意を
受けていたことを、今でもかすかに覚えています。  衛生状態は悪かったのです。

  このように、ちまたにありふれていた視力障害者を例に取り上げて作詞した可能性
を否定することはできません。
  しかし、どのように作詞者の側に悪意がなかったにせよ、神への讚美詩としては、
ふさわしくない言葉の使いかたです。  削除して、新改訳詩の出現が望まれます。

★  それでは Does Jesus Care? の作詞者から考えて見ましょう。
作詞者はフランク・エルスウォース・グレイフ Frank Ellsworth Graeff です。
1860年~1919年を生きた人です。

  グレイフが生まれた所は、アパラチア山脈のド真ん中です。  現在の人口は3千人
ほどのはずです。  ヘイゼルトン Hazleton とアレンタウン Allentownとの中間地点
にあるタマクア Tamaquaという寒村僻地です。  1860年12月29日に生まれています。
  このあたりは、旧世界から新世界への移住者たちが西漸運動の波に乗ってどんどん
と入植し、西漸して行った地域です。  今でもメノナイトやクエカーズが強い地方で
す。  オランダからの移民も多かった地域です。  独立運動のときには、大きな働き
をしたドイツ系の人々も広く分布して住んでいます。

  死亡したのは1919年7月29日、横浜金沢教会と野毛山教会の設立宣教師ローズ夫妻
来日とほぼ同じ季節です。  ニュージャージー州中部の大西洋に面したオーシャン・
グローヴという所で死亡しています。  この海岸都市は、教会史にもしばしば登場す
る場所です。  特に夏になりますと、音楽を伴うリヴァイヴァル集会が盛んであった
ことでも知られています。

  埋葬されたのはフィラデルフィアのすぐ北側の衛星都市モーリス・タウンです。
誕生地、死亡地、そして埋葬地を地図で眺めてみますと、何となくグレイフの活動を
推測できるような気がいたします。

  グレイフはメソジスト教会の牧師でした。  フィラデルフィアを中心にいくつかの
有力な教会に仕えていたようです。
  すでに述べましたが、グレイフは、いわゆるペンシルヴェニア・ダッチの環境の中
で育った人でした。  教育もそのような敬虔な家族や環境の中で受けています。

  年少時代からイェスに仕える者となりたい‥と、そのように願っていたようです。
2百ほどの詩文を書いていたようですし、小説も1冊書いていたそうです。
積極的・肯定的な牧師さんであったので、多くの人々から尊敬されていたそうです。
  信仰は単純で曇りがなく、明るい性格から、太陽のような牧師さん‥とも呼ばれて
愛されていたようです。  子供たちからも尊敬されていたそうです。

★  しかしそのように明るい、肯定的な牧師さんでありましたが、彼の人生の中にも
厳しい試練のときがあったようです。  とても意気消沈していた時があったのです。
身体的に何か辛い試練のときがあったようです。  そこから来る疑いや戸惑いや誘惑
もあったようです。  ほかの人から見れば、明るい、肯定的な人物に見えていても、
実は一人の人間として、魂が深く傷つき、落胆したこともあったようです。

  手持ちの十数冊の讚美歌史の参考書類を調べて見ましたが、グレイフの悩みの詳し
いことを知ることはできませんでした。  どのような苦しみを彼が抱えていたのかを
知ることはできないままですが、彼がペテロ前書5章7節を読んで、心に平安を得た
ことだけは確かなことであったのです。  どの参考書もそのように証言しています。

  『神はあなたを顧みていてくださる He cares for you のだから、自分の思い煩い
cares を、いっさい神に委ねなさい...』という聖句に触れたのです。

  グレイフは、神が確かに自分のもろもろの思い煩い caresを顧みてくださっている
He does care! と確信したので、そのように作詞し、さらに折り返し部分にも、神が
確かに自分の悩みを顧みていてくださる!と、確認の言葉を付け加えたのです。

★  ここで作詞者グレイフが用いた巧みな英語の使い方を説明しておきます。
日本では中学2年生の英語のクラスで学ぶことだろうと思いますが、念の為に改めて
脱線して説明しておきます。

  グレイフの詩を理解する上で大切な単語は「ケアーcare」という単語と、その使い
かたです。  これを「名詞として」使えば、「心配、心配事、心労、煩労、気苦労、
気がかり‥などを含むものです。  その一方でケアーを「動詞として」使いますと、
「世話をする、かまう、気にかける、関心をもつ、面倒をみる、看護する、愛する、
好む‥」などを意味することになります。

  ここで作詞者グレイフは、英語のケアー care を、巧みに動詞と名詞とに使いわけ
て、神のほうは、私たちのもろもろの思い煩い、心配ごと cares(名詞複数形)を、
顧みてくださっている caresしてくださっていると、動詞のcareで表現しています。

  詩では、当然ですが神が主語で単数、三人称、現在形ですので、ケアーズcares と
なります。  神さまが面倒を見てくださる、ケアーしてくださる...となります。
  人の思い煩い、心配事が一つということはあり得ません。  たくさんあるはずです
ので複数形となり、ケアーズcares となります。  ケアーズの巧みな使い分けです。
  日本人にはこの英語独特の語呂合わせの妙なる表現を理解できないので、詩の意味
の持つ意味と強さを理解できず、むしろ弱まってしまうという危険性があります。

★  次に作曲者のことです‥
ジョーセフ・リンカーン・ホール Joseph Lincoln Hall, 1866~1930です。
写真でみますと、縁なしメガネで立派なお髯の紳士のように見えます。

  ペンシルヴェニア州フィラデルフィアで1866年11月4日に生まれ、1930年11月29日
にフィラデルフィアの兄弟(兄か弟かは不明)ウォルターの家で死去し、フィラデル
フィアのノース・ウッド墓地公園に埋葬されています。  墓碑がないために現在では
正確な場所の確認ができず、「蔦 Ivy」セクションの中だ‥とのことです。

  ペンシルヴェニア大学を優秀な成績で卒業しています。
のちにはハリマン大学から音楽名誉博士号を取得しています。  なお、Harriman大学
のハリマンが、アメリカの実業家、鉄道金融資本家として有名なハリマンと何らかの
関係があるのかどうか‥調べていませんのでわかりません。

  ホールは、カンタータ、オラトリオ、コーラスなどをたくさん書いています。
さらに、数百もの福音讚美歌・聖歌を書き、数冊の讚美歌集の編纂出版にも携わって
いるようです。
  現在では世界的規模で讚美歌集や聖歌集などの版権を所有し、出版することで有名
なローデヒーヴァ Rodeheaver 社と合流したホール・マック出版社 Hall-Mackと関わ
りを持ち、ホール・マック出版社から多くの讚美歌集・聖歌集を出版しています。
  私の個人的な推測ですが、このホール・マック社のホールとは、彼の名前だと思い
ます。

  ホール自身は、フィラデルフィアの7番街メソジスト・エピスコパル教会に属して
いました。  その彼は、自分の作曲した讚美歌の中でも、「Does Jesus Care ? 」が
最高作品の一つであり、歌うたびに心の底から深い感動を覚える曲だ‥と語っていた
という小話が残っています。

  彼が作ったほかの讚美歌を6曲ほど聴いてみましたが、軽快なリズムのものが多い
ように感じました。  日本語に訳されたホールのほかの作品を今のところ私は見つけ
ておりません。

  この Does Jesus Care ?を、残念な訳詩をつけてしまった聖歌集 451番で歌うより
も、原文で歌ってくださるほうが良いと思います。  そんなに難しい英語ではありま
せん。  希望者には英語歌詞を提供致しますのでご連絡ください。


Blest be the tie that binds

★  原稿讚美歌 403番、旧讚美歌 403番、バプテスト教会系の新生讚美歌 367番に、
そして聖歌 314番、更にインマヌエル讚美歌 622番に今回の主題の讚美歌が掲載され
ています。  Blest be the tie that binds です。

  珍しいことですが、旧讚美歌集に掲載されている翻訳詩と、インマヌエル讚美歌集
に掲載されている5節からなる翻訳詩がまったく同じなのには驚きました。
  わが国の、明治後期から大正時代、あるいは昭和初期に到るクリスチャン同士が、
現在よりも自由に交わっていたからなのでしょうか?

  この讚美歌は、わが国においては、しばしば別離や送別の席で歌われることが多い
ように思えます。  そして、私のアメリカでの限られた体験からも、そのような傾向
がない‥とは言えないように思います。  しかし実際にはそうではないのです。

  この詩は、貧しい教会に仕えていた福音伝道者と、その集会に集っていた貧しい人
たちとの間の、豊かで堅い友情と親愛の絆を物語るものであったのです。
  教会員たちを愛し仕える福音伝道者と、彼を慕う教会員たちの相互愛を、こん日の
日本の教会において捜し出すことは、次第に困難になりつつあるかと思います。

★  ジョン・フォッセット John Fawcett は、1740年1月6日、英国ヨークシャー州
のリジェット・グリーン Lidget Green, Yorkshireで生まれています。
  死亡したのは同じくヨークシャー州のヘブデンHebdenというところで、1817年7月
26日でした。  そして同じ町のウエインズゲイト Wainsgate墓地に埋葬されました。

  フォッセットが信仰を抱いたのは16歳のときでした。
大英帝国国内はもとより、新世界アメリカでもその名を知らない人はいないだろうと
囁かれ、かつまた、大いに尊敬されていた福音伝道者、英国カルヴァン派メソジスト
信仰復興運動の指導的説教者であったジョン・ホイットフィールド John Whitefield
(1714~1770)によって信仰に導かれています。

  フォッセットは最初メソジスト教会に所属しましたが、3年後にブラッドフォード
のバプテスト教会に移りました。  そして彼がのちに埋葬されることになる同じ町、
ウエインズゲイトのバプテスト教会で伝道者として福音を語り始め、そして按手され
ています。

★  1772年に到って、フォッセットはロンドンのカーター・レイン・バプテスト教会
から招聘を受けました。  それまでその教会に仕えていたギル牧師 J. Gillの辞任に
伴う人事異動によるものでした。  Carter's Lane Baptist Churchと綴ります。

  なお、ブラッドフォードという町は、ロンドンからほぼ西 140キロのところにある
エイヴォン川に面した小さな町です。  エイヴォン川の上流から、人工運河を経て、
水路でロンドンまでつながっています。  エイヴォン川 Avon は、さらに西に伸び、
バス Bath やブリストル Bristol市を経て、セヴァーン湾 Severn Bay につながって
います。  そこから先は大西洋に‥です。

★  フォッセットがロンドンに向けて出発する日がやって来ました。
出発を前にフォッセットは最後の説教を終えました。  荷物が何台かのワゴンに分け
て積み込まれました。  準備は全て整えられました。  あとは出発の合図だけです。

  しかし、出発の合図を出すはずのフォッセットは、なぜか『さあっ出発だ!』とは
とうてい言えなかったのです。

  フォッセット牧師のロンドン向け出発を目前にしながらも、ブラッドフォード教会
の信者たちは、『牧師さん、ロンドンには行かんでくんなせ!  ここに留まっていて
おくんなせ~ぇ!』と懇願し続けたのです。

  自分のことを、それほどまでに愛してくれているブラッドフォードの人々の信頼と
愛情の深さと尊さを改めて教え示されたフォッセットは、人々を見捨ててロンドンに
出かけるという自分の恐ろしさを、彼らの涙を見て、初めて気づかされたのです。

  それまで自分を信じ愛してくれたウエインズゲイト教会の人々を思うとき、そして
また、それまで自分がこよなく愛し仕えて来たウエインズゲイト教会を、あとにする
ことなどとうていできるものではない!...と気づいたからでした。

  このようにしてフォセットは、ロンドンへの栄転を取り止め、それまでと同じよう
に、同じ教会に、さらに大きな愛をもって教会に仕えることを決めたのです。

  『わかった!  みなさん!  私はロンドンに行かないよ!  ここに残るよ!』との
牧師の涙声に教会員たちは喜びの歓声を上げたのです。  荷物を馬車から降ろし始め
たのです。

  この時の感激をフォッセットは書き記したのです。
『我々の心を、キリストの愛でひとつに結びつける紐は、何と祝された、すばらしい
ものであろうか!  ひとつの同じ心にするというクリスチャンの交わりは、まさしく
御国での聖徒たちの交わりそのものである!』...
  この詩の原文の第一節は、へたな仮私訳ですが、このようになります。

★  1793年にフォッセットは、ウエインズゲイトからそんなに遠く離れてはいない、
大きな港湾都市ブリストルにあったバプテスト教会の小中高校、すなわちアカデミー
の校長に招聘されたことがありましたが、このときも、同じ理由で、招きに応じよう
としませんでした。  1811年に到り、アメリカの神学校から神学博士号を受けていま
す。

★  ジョン・フォッセット牧師とウエインズゲイト・バプテスト教会のメンバーたち
とのあいだの美しい関係を、私は実にほほえましい、すばらしいものだと羨みます。
  しかし、それと同時に、そのような理想的な関係とは、決してすばらしいものでは
なく、実はそれが「当たり前で普通の関係」であるということを私たちは覚えなけれ
ばならないということでしょう。  それが「ノーマルな関係」なのです。

  しかし、現実には、主イェス・キリストの教会の中においても、フォセット牧師と
ウエインズゲイト教会の信者たちとの、「当たり前の関係」、「ノーマルな関係」が
理想的なものであると捉えなければならないという、悲しい現実があるのです。

  日・韓・米・獨四ヶ国というごく限られた国々での、半世紀強にわたる、四、五百
前後の教会との交わりの経験でしか過ぎませんが、それでも私にはフォッセット牧師
と彼が仕えた教会との関係を、やはり「うらやましい、理想的な交わり」と認め得ざ
るを得ないということです。

  大きな聖堂を誇るか、たくさんの教会員数を誇る教会でしたが、そこで牧師と教会
員とが「ノーマルな関係、美しい関係」にあることを感じたことが少なかったという
ことでした。  信者を利用して、偉そうに振る舞う自称牧師と、「僕仕」をとことん
こき使う教会役員達や信者たちが多いといいう悲しむべき現実でした。

  もともと当たり前の関係であるべきものが、当たり前でない‥ということは、これ
は聖書的に考えてみれば、「標的をはずした関係」=「罪の関係」だと思うのです。
  あるべき所にあるべきものが、そこにはなく、あってはならないものがそこに厳然
と存在している‥ということを、聖書は罪だと定義つけているのですから‥

  最近のことでしたが、とある超保守的な信仰を堅持する都内東北部にある神学校を
卒業したという40歳代の独身青年にぜひ会ってやって欲しい‥という依頼をある邦人
女性宣教師から受けたことがありました。
  生気を全く感じることのできなかった40歳代の男性でした。  腕を捲りあげて伝道
に専念したいというような願いも意欲をも全く抱いていない魅力のない男性でした。

  超保守的な信仰を強要する、牧師一族が牛耳る教団の神学校の卒業生が述べた
希望とは、給料はこれこれ‥  退職金はこれこれ‥  休暇は年にこれこれ‥  自然に
恵まれた所で葡萄栽培ができるようなゆとりのある教会がいい‥  でした。
  ご帰宅を願いました。  しばらくして同じ男性がキリスト新聞に同様内容を述べた
求職募集広告を出しているのを読みました。  福音宣教は彼にとって「ショーバイ」
にしか過ぎないのです。  就職にしか過ぎないのです...  あきれ返りました。

  寒村僻地のこの小さなベタニヤ集会に、ときどき出席をしてくださるある地方都市
の教会に属されているあるご夫妻の教会の話では、比較的若い牧師が、牧師館を拡大
改築して欲しい‥  エヤコンをつけてくれ‥  給料を上げてくれ‥  子供のために室を
大きくしてくれ‥  と、いろいろな要求が飛び出してくるのだそうです。
  これも召命感の欠落した、一種の「ショーバイ・ビジネス」として福音宣教を捉え
ているサラリーマン牧師の姿ではないかと受け止めていますが、私にはとうてい理解
することができない、若い今どきのショーバイとしての牧師像だと思います。

  その一方で、若い牧師さんだけではなく、契約牧師というのもあるようです。
アメリカの教会からのサポートを得て、十年前後の単位で、どこかの教会に「赴任」
するのですが、契約期間が終わればたちまちその教会を見捨て、別の「就職先」へと
「転職」を繰り返していた人がいたことを、私は身近に知っていました。
  福音のために命を賭ける・懸けるということはないのです。  主イェスとその教会
に仕える‥  という発想は完全に欠落しているのです。  円の切れめは縁の切れめ‥
福沢諭吉(1万円札)がご主人なのです。  牧師というショーバイなのです。

★  そのような自称「牧師」がいるかと思えば、社会的にも、経済的にも、きわめて
困難な状況の中にあって、何ひとつ愚痴をこぼさず、もくもくと数名の教会員に仕え
るかたわら、その地域社会の中の弱者たちのために奉仕を続ける無名の伝道者たちも
確かに存在しているのです。  脱帽です。  すばらしい生き方をする「僕仕」です。

  そうかと言えば、大きな都会教会に仕えるある牧師ご夫妻を私は知っています。
まさしく「僕仕」そのものです。  教会が大きくなればなるほど、教会の中には問題
も大きくなり、複雑になってゆくのが普通です。

  群れの中に自分中心の交じわりを構築し、その教会や牧師家族に対して分派行動や
ら不和を招き入れる人々がいたことを、しばしば私は見て来ました。
  それでもひたすらに教会員に対して公平に、文句も言わず、仕え尽くしている牧師
夫妻を私は目撃しています。  車椅子にだれだれさんを乗せて、牧師が商店街を歩い
た...  こんどは私が車椅子に乗る番だ...  そのような要求をする大きな教会に仕える
牧師は気の毒です。  しかし、牧師は微笑みながら、何も言わずに教会員たちに仕え
ています。

  自分が仕えている教会員以外に、その「僕仕」は在日外国人の人権擁護のための奉
仕も忘れてはいないのです。  しかし、多くの場合、お世話になっている牧師に対し
て、外国人の中には、牧師の善意を利用してやろう...とする人が絶えないのです。

  何であれ、自分にとって都合のよいように牧師を利用しようとする人々も多いので
す。  物事がうまくいっていればそれが当たり前、すこしでも気に食わなければ激し
く牧師を攻撃したり、あるいは陰に回って陰湿な牧師いじめをやったり、挙げ句の果
てには教会の中をかき回したあと、何の挨拶もなく、何人かの仲間を誘って別の教会
に移って行く‥ということも、私は多くの教会で見てきました。

  教会のために、牧師のために、牧師家族のために何かをする...という発想は完全に
欠落している場合がほとんどであったと思います。  まことに恐ろしい世の中です。
  英語で言いますと、What can I do for church? 私は教会に何をすることができる
のか?  What can I do for the preacher and his family?  牧師さんとその家族の
ために自分は何ができるのか?  という単純な自問自答すらできないのです。
いつも me-ism 自分中心主義が教会のメンバーの中に強く働いているのです。

  そうかと思えば、日本の教会では、ほとんどの場合、3年か4年周期で人々が入れ
替わるのだから、そのような信者たちを信じたり、教会のことを任せることはできな
い...と、堂々とそのように私に語った牧師がいたことも覚えています。

  またその反対に、若い牧師が、さらなる聖書の勉強をしたいと教会に申し出たとき
に、次の牧師を連れてこないのなら辞任に同意しない...  どこかの教会の牧師を連れ
て来い...  と、そのような要求をする長老たちがいることも知っています。

  別な言い方をして見ますと、『どこかの教会から誰でもよいから、なるべくなら、
外国で牧師教育を受けた牧師をかっぱらって来い!  そうすりゃ行かせてやるぞ!』と
いうことです。  恐ろしい、悪魔的な発想です。  このような教会では、おとなしい
牧師ならば、サムソンを地下牢に閉じ込めたままで、死ぬまで石臼を廻させよう‥と
した聖書物語が、当然のこととしてまかり通ってしまう‥ということになります。

  この場合の長老とは、一種の社会的名誉職であって、聖書が語る長老とは全く関係
のない、別な役職のことです。  教会の霊的指導者として、教会に仕える者としての
資格を欠いた、恐ろしい人物だと思います。

★  いろいろな人々が主イェス・キリストの教会の中にはいるものです。
教会とそこに集う人々のことを思い、立身出世の道、名誉を求める道を、自らの思い
で拒絶したフォッセットのような牧師もおれば、そうではなく、自分のパンを確保す
ることだけに集中する自称・他称する「偉い牧師先生さま」もおります。

  自分たちのためにとことん捧げ切って仕えてくれている牧師を、物心両面から暖か
く支えながら、みんながひとつの心となって、主イェスの栄光のために尽くす教会も
あります。

  この半世紀と少々の伝道者としての歩みの中で、前述のように、日・米・韓・獨の
数百の教会と、その牧師たちと信者さんたちの相互に対する在り方を、私なりに身近
に観察して来ました。

  そして、牧師と信者さんたちが、主イェス・キリストとその愛の中に在って、互い
に愛し合いながら、信じ合いながら、助け合いながら、神さまの栄光のために尽くし
あっている信仰の共同体としての教会が、思ったよりも少な過ぎるということを徐々
に私は見いだして来ました。  フォッセットとウエストゲイン教会とのあいだのよう
な美しい信仰と相互敬愛の念に燃えている教会を見いだすことが少なかったと思うの
です。

★  『神によりて慈しめる友の交わりはいとも楽し‥』
教会全体がひとつの主、ひとつの思い、ひとつの奉仕の中で、ひとつとなれることを
心から願うものです。如何なものでしょうか?

★  最後に作曲家のことを簡単に紹介しておきます。
スイス北部チューリヒの近くのヴッツィコン Wetzikon, Switzerland  で1773年5月
26日に生まれた、ハンス・ゲオルグ・ネーゲリ Hans Georg Nageliが作曲したもので
す。

  たぶんネーゲリで良いと思いますが、私はドイツ語の発音に慣れていませんので、
ご勘弁願います。  スイスの音楽教育家で、ペスタロッチの教育思想を音楽のうえに
発展させ、音楽と体育、およびすべての美的教育との緊密な関連に努力をした人物で
あったようです。  合唱曲、歌曲、ピアノ曲などの作品があるようです。

  亡くなったのも同じ町です。  1836年12月26日でチューリヒに埋葬されています。
牧師の息子でした。  「スイス全体を歌わせる国にした男」とさえ言われている人物
です。

  実際にネーゲリはポピュラー曲や民謡でスイス国民を酔わせた人だと考えられてい
ました。  そしてネーゲリが歌った曲のいくつかは現在でも世界各地にあるビールを
飲める広場で歌われている‥と言われています。  スイス各地に合唱グループを誕生
させたことでも有名だそうです。  フライドリッヒ・ジルハー Friedrich Silcherと
交流が深かったと言われています。

  ただし私の勉強不足で、この人がどのような人であったのか‥詳しいことはわかり
ませんが、ドイツの作曲家で、簡素な歌曲や合唱曲を作曲した人物のようです。
  1789~1860を生きた人です。  彼の作品の中には、わが国でも広く愛され歌われて
いる「ローレライ」や「わかれ」があります。  ネーゲリのことをたいそう尊敬して
いた人物であったようです。

  イギリス人フォッセットが作詞した詩が、どのようないきさつでスイス人ネーゲリ
の手に渡って、私たちが知っている曲がつけられたのか、それは今の段階の私の能力
ではわかりません。  いずれにせよ、美しいものは、とりわけ神さまを讚美するもの
は末長く世界中の人々の心の中に残るものだと、あらためて教えられたものです。


★  クリスチャンでない日本人でも、この讚美詩か讚美曲を、多くの人々が耳にした
ことがあると思います。  あるいは、同じ曲を使った別の替え歌が存在しているかも
知れません。  教会での礼拝や祈祷会以外にも、家庭集会の席でも、結婚式や葬儀の
席でも歌われている讚美歌です。

  とりわけ変化に富んだ曲というよりも、どちらかと言いますと単純な曲のようです
が、人の心の奥底にまでジ~ンと届いてくる讚美歌のひとつだと思います。

  バプテスト教会系の新生讚美歌では 431番に、聖歌集では 607番に、インマヌエル
讚美歌集では 140番と 165番に異なる訳詞がつけられて掲載されています。
ほかの讚美歌集にも紹介されているでしょうが、詳細は略します。

  外国の詩を日本語に翻訳するということは極めてむつかしいものですので、原文と
比べながら、皆さんそれぞれが違った讚美歌集を比較なさるとよいかと思います。

★  まず作詞者のことです。
ジョーセフ・M・スクリヴェン Joseph M. Scriven, 1819~1886を生きた人です。
  私たちに関係の深いトーマス・キャンベルが活躍していた北アイルランドのダウン
郡で1819年9月10日、すなわちトーマス・キャンベルが新世界に移住してから12年後
に生まれています。  両親はそれなりに裕福な人たちであったようです。

  アイルランドに残してきた母親を慰めるために作詞したと言われています。
作詞したとき、自分の名前をつけて発表しなかったため、そののち30年ほどのあいだ
彼の作詞したものだと、誰も気づかなかったそうです。

  北アイルランドのダブリン大学の一部であるトリニティー・カレッジで学んでいま
す。  もともと英国国教会との関係で1581年に設立された古い学校です。
  後述のジョン・ネルソン・ダービーもこの大学に学んでいます。

  いろいろな参考資料で調べてみますと、スクリヴェンは英国国教会会員ではなく、
インデペンデント、すなわち既存の体制教会に属しない、プリマス・ブラザレンの人
で、  カナダ移住後もプリマス・ブラザレンの群れに席を置いていたようです。

  婚約者が、結婚式前日か、あるいは二、三日前に、思い掛けなく溺死してしまうと
いう痛ましい事件が起こりました。  このことがあったのち、スクリヴェンは生涯を
通して欝に悩まされたそうです。  人々の勧めもあって、気分転換のためにも新大陸
アメリカに移住することを決めたのです。  25歳のときでした。
  恋人を失った時の衝撃の深さは、愛する母の病気と共に、スクリヴェンにとって、
人生の真の友は主イェスのほかにあり得ないと、深く悟らせたようでした。

  なお、両親を故国に残して新大陸に移住するように動機づけたことの、もう一つの
理由は、プリマス・ブラザレンの信仰がカナダにもあったからだと言われています。

  プリマス・ブラザレンPlymouth Brethren 運動は、イギリスのプリマスで始まった
一般信者たちによる運動で、カルヴァン主義と敬虔主義との折衷的な理解をし、聖書
の逐語霊感説を採り、前千年王国説にも立脚し、倫理観はピューリタンのそれと同じ
であり、職業的聖職者制度を認めず、毎日曜ごとに主の晩餐を貴び、各教会は単立、
自治、自養、自伝、自教などを説きます。

  この群れの指導者は、ダービー John Nelson Darby, 1800~1882で、千年王国説に
立つ經綸学 Dispensational pre-millennialism を説いたことで知られています。
  この群れの教えの多くは、半世紀以上も前に私が留学したケンタッキーの聖書大学
で3年間にわたり学んだこととよく似ています。

  プリマス・ブラザレンの群れは、日本では、一部は日本基督教団に所属し、一部は
これに属すことを拒否しおり、後者は「基督同心会」と呼んでいるように思います。

★  1846年にカナダに移住し、オンタリオ湖畔のポート・ホープに到着です。
そののち、オンタリオ州トロント郊外ウッドストックと、ブラントフォードで教鞭を
とり、またのちには、トロント北東約百キロのビュードリーという僻地のペングリー
家の家庭教師にも雇われています。  この家族の詳しいことはわかりません。
ビュードリーという田舎町を捜すのも容易ではありませんでした。

  しかし、この地でスクリヴェンはエリザ・ローチ Eliza Rocheという女性と出会い
ます。  ペングリー家の親族のお嬢さんであったようです。

  ところが、不思議なことだと言いましょうか、不幸が重なったと言いましょうか、
再びスクリヴェンとエリザを襲いました。  エリザもまた、結婚式を直前に、死亡し
てしまったのです。

  スクリヴェンの二度にわたって婚約者を失うという悲劇的な事故は、私たちの想像
を遥かに越えるものであったにちがいありません。  その慰めをイェスに見いだした
のです。

★    そののちスクリヴェンは、プリマス・ブラザレンの交わりにさらに積極的に参加
し、その地域の加齢者たちの世話に没頭するようになったと言われています。

  スクリヴェンは、常識を逸した、風変わりな点もあったようですが、博愛主義者で
もあり、宗教的には極めて敬虔な、霊的な人であった‥と、語り継がれています。

  彼はいわゆる「山上の垂訓」(マタイ伝5章~7章)のイェスの教えを、実に文字
通り受け止め、それを実行することに努めた人であったと言われています。

  自分自身がどんなに貧乏な開拓移住者であっても、自分より気の毒な立場の人たち
を見れば、自分の持っている物を惜し気もなく分け与え、時には自分が着ている衣服
でさえ脱いで与えた‥と言われています。  私たちにまねのできないことです。

  「ポート・ホープの善きサマリヤびと」とも呼ばれていたそうですから、彼の信仰
とひととなりを充分に察することができるかと思います。

  『あの人(スクリヴェン)は、貧乏な未亡人が寒さで震えているのを見れば、材木
を割って薪束を作り、病気の人を見れば、薪を無料で提供する人なんだ‥』とうわさ
されていたそうです。  私たちなら、見て見ぬふりをたぶんすることでしょう...

  ある時、大衆福音伝道者ムーディーと組んで活躍した有名な讚美歌歌手のアイラ・
サンキーが、オンタリオのポート・ホープの街角で、木挽台とのこぎりを持っている
男を見かけ、薪を作ってもらおうとしたとき、回りの人たちがサンキーに向かって、
『そいっぁ無理ですで。  あの男は、貧乏人のためにしか薪割りをやりません!』と
告げたそうです。  そのことでサンキーはスクリヴェンのことを書き残しています。

★  ところで、スクリヴェンが作詞した『慈しみ深き友なるイェスは』という詩は、
スクリヴェンが住んでいたカナダから遥か地球の三分の一も離れた祖国アイルランド
に住んでいた恋しい母親が病に倒れた‥ということを聞いて、母親に手紙を書いたの
です。  その手紙の中にこの詩も書き含めたのでした。  決して公表するという意図
はなかったようです。

  のちに到り、スクリヴェン自身が病に倒れたとき、友人の一人が彼のノートの中に
この詩を見つけだし、『この美しい詩は君がかいたのかい?』と尋ねたそうです。
  スクリヴェンらしい返事が戻って来たそうです。
『ええ、まぁね・・  主イェスさまと私の共同作品っていうわけですよ』

  1869年に到って、スクリヴェンが作詞しておいたいくつかの詩が、ささやかな形で
出版されたそうです。
『Hymns and Other Verses讚美歌といくつかの詩』とでも訳しておきましょう。

★  ある日、かつてスクリヴェンが住んでいたことがある、ライス・レークの川辺で
彼の死体が発見されました。  溺死したのか、事故死であったのか、それとも自殺で
あったのかは、こん日に到るまで明らかにされていませんが、彼を慕う多くの貧しい
人たちによって5メートル前後の高さの立派な石の記念碑が立てられています。
写真で確認しました。

  (なお Rice Lakeは、オンタリオ州内に二つあります。  その一つはスクリヴェン
が住んで居た地方から余りにも掛け離れた地域にあります。  もう一つの湖は、彼の
活動していたトロント市から百キロほど東の、オンタリオ湖に面したところにありま
す。  おそらく後者のライス・レークであろうかと推測しています。)

  1857年にポート・ホープで作詞された『慈しみ深き友なるイェスは』という有名な
詩はその石碑に刻まれているようです。  オンタリオ湖に面するポート・ホープから
6キロほどの所にあるペングリー族の墓地の一角にスクリヴェンは眠っている‥との
ことです。

★  次に、作曲者のことです。
チャールズ・クロザット・カンヴァース Charles Crozat Converse  は、1834年10月
7日にマサチューセッツ州ウォレンに生まれ、1918年10月18日にニュー・ジャージー
州のハイウッドで死亡、ニューヨーク州キャナンダイグワに埋葬されました。

  ニューヨーク州エルミラにあったアカデミー、小中高校に学んでいます。
アパラチア山脈の中にある、ペンシルヴェニア州との州境に近い田舎町です。
  21歳の時にドイツに渡り、プライディー、リヒター、ハウプトマンの指導を受け、
リストやシュポアなどと交流を深めた人です。

  そうかと思えば、1861年にはアルバニー大学から法律界の学位を受け、1895年には
法学博士号をラザフォード大学から受けています。  ペンシルヴェニア州のエリ市で
弁護士として法曹界で活動しています。

  たいそう多才な人で、カール・レデンという偽名で、幅広い分野にわたって学術書
を発表しています。  有名な管弦楽団のために作曲家としても活躍していました。
もちろん、立派なクリスチャンでありました。
サンキーやブラッドバリーのためにも多くの優れた作曲をしています。

  しかし何といってもカンヴァースを有名にしたのは、スクリヴェンが書き残した、
『慈しみ深き友なるイェスは』に、美しい曲をつけたことであろうかと思います。

★  私たちも、私たちに神さまから託された、かけがえのない人生と才能を、神さま
の栄光のために捧げ尽くしたいものだと願うのです。  如何でしょうか?