★ 2月10日に書いて送信しました『癒されたのち仕え尽くしたマグダラのマリヤ』
を2月17日の週報「ベタニヤつうしん」に掲載しておきました。
差し出されたイェスの癒しの御手に触れたマリヤが、そののち、イェスの十字架と
埋葬と復活に深く関わりを持ち続けた...という事実を紹介しておきました。
★ 今日はそのマリヤをもう一度ちがった視点で見てみましょう。
癒されるということは、癒して貰った人への感謝の念につながるものだ...そして感謝
の念というものは、時間の経過と共に、より大きな感謝へと成長し発展し続けるもの
ではないのか...という視点で考えてみたいと思うからです。
★ マグダラのマリヤを猟奇的に採りあげた作品で、彼女をイェスの妻に仕立てあげ
た映画が世界中を駆けめぐり、賛否両論を巻き起こしたことがありました。
本邦初公開が1989年の『最後の誘惑 The Last Temptation of Jesus』です。
イタリヤのルネッサンス期の画家・建築家・彫刻家のレオナルド・ダ・ヴィンチは
その最高傑作品の一つである『最後の晩餐』の中でマリヤをイェスのすぐ脇に置いて
遺しています。 ユニヴァーサル社の映画『最後の誘惑』も、ダ・ヴィンチの影響が
あったのかも知れません。 もともとは、ギリシャの哲学者で作家であったニコス・
カザンザキスの小説を基に作られた映画だったと記憶しています。
★ これらのことから考えてみますと、地中海沿岸地域には、イェスの没後、マリヤ
を巡って、さまざまな解釈が長いあいだ根強く受け継がれて来ていたようです。
その多くは、マグダラのマリヤを、イェスによって救われ、慰められ、励まされた
売春婦と捉えて、猟奇的にイェスと結びつける発想から来ているように思えます。
たとえば、ルカ伝6章36節~50節や、ヨハネ伝7章53節~8章11節に登場する女性
をマグダラ地方出身のマリヤと結びつけたがっているのではないかと思います。
とりわけルカ伝8章1節~3節に登場して来るマリヤを、すぐその前の7章後半部
に出て来る女性と結びつるという誘惑があるからかも知れません。
しかし7章後半部の女性が、すぐそのあとの8章の初めに出て来るマリヤであると
する聖書的な根拠はありません。 聖書は何もその二人の女性を結びつけていないの
です。 むしろ8章に出て来るマグダラのマリヤを、ほかの数人の女性たちと共に、
イェスによって七つの悪霊(七は完全数を表す)を追い出して貰った女性として捉え
ています。 悪霊を退治して貰ったマリヤと聖書は語っていますが、気の毒な身分の
女性であったとは語っていません。
むしろマグダラのマリヤのイェスへの絶対的な献身ぶりを採りあげて、人間的な、
肉における親密度だけを誇張することで、マリヤとイェスとを捉えることで、その後
の小説に話題を提供し続け、それが最近では映画にまで到ったのだと思えるのです。
★ 聖書は開かれた書物です。 誰でも自由に読むことができます。
開かれた書である限り、読む人によってさまざまな解釈が可能です。
マグダラのマリヤを売春婦であったとか、イェスの情婦であったとか、イェスの妻
であったとか...、そういうように読むことも自由です。
しかし聖書は、イェスは神の御子であり、私たちの救い主であると信じている者に
とっては、神の言葉なのです。 猟奇的な資料源ではないのです。
ルカ伝8章初めのマグダラのマリヤと、ルカ伝7章後半部の女性を結びつけるもの
は何もありませんが、ルカ伝7章後半部の描写から私たちが学ぶべきことは、47節の
イェスのことばです。 『他の誰よりも自分は神によってより多く赦されている者で
あると確信する者は、他の誰よりも神を多く愛する者である』ということでしょう。
『自分は神から赦される必要のない人間だ...自分はそんなに悪くはない人間だ...と
考えている人は、結局は神を必要ともしていないし、神を愛しようともしない人だ』
ということになるのです。 多く赦されていると確信している者だけが、神を愛する
ことにおいて、大きな愛をもって献身するものだ...と教えているのです。
★ ルカ伝8章のマリヤも、7章後半部の女性とおなじように、イェスによって愛さ
れ、癒された点では同じです。 イェスの右の癒しの手が優しく触れたという点では
同じです。 7章47節の聖句と同じように、8章2節の女性たちは、マリヤを含めて
のことですが、イェスの癒しの御手に触れて癒されたのです。
マリヤはその生涯をイェスとイェス集団に仕えたのです。
身の危険を顧みずに十字架の磔の場にまで行き、イェスの十字架の上での苦痛を目撃
し、イェスの遺骸を引き取ることを手伝い、墓地に安置する準備を積極的に手伝い、
そして三日目の朝には墓地を訪ねて遺骸に香料を振り注ごうとしたのです。
そして何よりもマリヤこそが復活されたイェスを一番最初に目撃することになるの
ですが(マルコ伝16章9節およびマタイ伝28章1節)、マリヤの一連の行為は、罪を
赦され、悪霊を退治して頂き、愛されているということを、彼女はその全身全霊をと
おして知っていたからだと思います。 イェスへの感謝の念と敬愛心が次第に豊かに
育っていったのです。 私たちが考えなければならないことです。
★ 愛された者は、愛してくれる者へ、心からの感謝の念を抱くはずです。
そして、その感謝の念は、どんどんと大きくふくらんで行くはずです。
マグダラのマリヤが為したことのすべては、イェスの愛と癒しに対する、限りない
感謝の念から湧き上がってきたものだと思います。 そしてその彼女の感謝の念こそ
が、マグダラのマリヤをマリヤたらしめたものであったのです。
★ 私たちも亦、マグダラのマリヤや、そのほかの婦人達と同様に、イェスによって
無条件で私たちの罪を赦して頂き、イェスの優しい右の手に触れられることによって
生かされた者と創り変えられたのです。 私たちの心の中に、イェスへの感謝の念と
愛が目覚め、育って行かなければならないはずなのです。
讚美歌 321番(=聖歌 263)の歌詞を静かに朗読してから、祈りの念と共に歌い、
最後に『ア~メン』と祈るのも、この際、よいのではないでしょうか...
★ 小セネカ(Lucius Annaeus Seneca, 4 BC ? ~ AD 65ローマのストア派の哲学者
で、キリスト教護教家たちに大きな影響を与えた人物)が遺した言葉だそうですが、
『感謝できる心、感謝する気持ちというものは、ほかのどのようなものよりも高貴で
光栄ある、あっぱれな、名誉あることである...』とのことです。
神さまはその一方的な恩寵によって、私たちに御子を救い主として与えて下さり、
十字架の出来事を通して私たちの罪を赦して下さり、御子を信じる者を神の子として
下さり、内在される聖霊を下さり、聖書を下さり、御子を信じる者たちをエクレシア
に呼び集めて下さり、主の十字架の出来事とその再臨を常に覚えるために主の食卓を
備えてくださり、再臨と、とこしなえのいのちの希望を与えて下さっています。
すべて神さま側からの一方的な恩寵によるもので、まったく到り尽くせりです。
エクレシアで同じようにイェスを救い主として信じ、この世を『旅人、宿れる者』
として巡礼する仲間を備えてくださっていることは、とくに感謝すべきことであると
私は確信しています。 独りではこの罪に満ちた世を渡ることはできないからです。
エクレシアに共に集い、イェスを知る知識とその恩寵に共に育ち行こうとする仲間
のことをも、私たちはお互いに感謝する必要を更に学ぶ必要があると考えるのです。
すべてのことを可能にして下さっている神さまに、私たちは感謝の念を深めたいと
願います。 それが神さまの愛に応える一つの具体的な道だと思うのです。