2008年2月アーカイブ

★  私が小学生のときに太平洋戦争が始まりました。  英語は敵性語だ!ということ
で使用が禁止されました。  野球用語も聞き慣れない日本語に替えられました。
  当時女性が愛用していた、流行の先端を行っていた髪型パーマネントに対しては、
『パーマネントに火がついて、みるみるうちに禿げ頭、禿げた頭に毛が3本、ああ恥
ずかしや、恥ずかしや、パーマネントはやめましょう!』と、子供たちを動員して、
『贅沢は敵だ!』という国策標語と共に、外来語であるパーマネントという名詞も、
魔女狩の槍玉にあがった時代でした。  鬼畜米英から来た髪型だから...という口実で
あったかと思いますが、本当は軍需工場に必要な電力を確保したかったのでしょう。

  中学校の英語と音楽の授業は廃止されました。  英語試験の結果が百点満点で12点
という、成績が極めて悪かった私には、それは拍手喝采萬歳三唱の大吉報、有頂天に
なって大喜びでした。  それは恐ろしく愚鈍な国家権力が支配していた時代でした。

★  あれから数十年して、現在では何処に行ってもけったいな外来語が氾濫している
のです。  パソコンやインターネットという言葉も、それらに関連する単語や表現も
英語だらけです。  私ども老夫婦には不可解な英語の使い方や単語が溢れています。

★  そして、私ども老夫婦が住んでいます八ヶ嶽南麓の寒村僻地にも外来語の襲来は
顕著です。  農協にはライス・センターというのがあります。  ホーム・センターと
いう大型店舗ができました。  老人用にはデー・ケアー・センターというのもありま
すから、そのうちに私ども夫婦もお世話になるのかも知れません。  何処に行っても
センターだらけです。  大学共通入試センターとかも忙しい時期だと思います。
  センターとは中心という意味なのですが、こんなにも中心点が多いので、それでは
何が中心で、中心とは何を指すのだろうか?と、混乱してしまいます。

★  センターは、米語では center と綴ります。  英語では centre です。
もともとこれは、古い英語では centre と綴っていたのです。  さらに調べますと、
これはラテン語 centr(um)から来ている単語です。  そしてそれは、 kentron  とか
kent(ein) というギリシャ語から出てきた名詞なのです。
  kentron とは、「針」、「拍車状の突起」、「刺トゲ」、あるいは「円を書く時に使う
コンパスの中心点の針先」などという意味です。  kent(ein) は動詞で「刺す」こと
を表しています。
  これらのことからわかることは、先の尖った小さな点を指し、その点を中心として
物事が回転する...ということです。  「センターは中心点」という意味なのです。

★  それでは、私たちにとって、センターとは何を意味するのでしょうか?
その中心点を中心として、その周囲を廻るもの、それはちょうど太陽の周りを宇宙が
回転しているように、私たちの日々の生活において、私たちの生活習慣や思考、行動
や価値基準、家族関係、人間関係、損得勘定、そのほか多くのものは、それでは一体
何を中心に回転しているのでしょうか?  何かしら向心力があるはずです。

  オカネでしょうか?  健康でしょうか?  立身出世でしょうか?  地位や名誉です
か?  権力でしょうか?  何が中心点、何が求心力なのでしょうか?
  あるいは誰が中心なのでしょうか?  強い妻でしょうか?  無口な夫でしょうか?
暴力的なオヤジでしょうか?  ペットでしょうか?  それとも子供なのでしょうか?

★  コロサイ書1章15節~20節は、私どもにとって最高の向心力の中心点をよく示し
ています。  ロマ書11章36節も私たちの求心力の中心点を明確に示しているのです。
  (紙面の都合で聖句の掲載を省きますが、ご面倒でも聖書を開いてご自身でお読み
下さるようにお願い致します。  「人生のセンター捜し」のお役に立つはずです...)

  八ヶ嶽南麓は天体観察に適していると、多くの天体観察マニアが移住して来ます。
天体は何かを中心にゆっくりと回転しているはずです。  太陽のことですか?
では、私たちの中心点とは、それは何なのでしょうか?  どなたなのでしょうか?


★  ふたたび文語体で恐縮ですが...
  『まことに汝らに告ぐ。  此等のいと小さき者の一人に為さざりしは、すなわち
我に為さざりしなり』  イェスのことば  (マタイ傳25章45節)

★  前回号では清渓川スラムで体験しました多くの体験の中でも「格好が好い」話を
ご紹介いたしました。  しかし、いつもいつも、そのような「格好が好い話」ばかり
あるわけではありません。

  朴正煕軍事独裁政権下で、とりわけ大統領緊急措置令が次々に発令されていた厳し
い緊張状態の中で生きていたとき、無意識であれ、多くの失敗も出て来たのです。
今回は、私が生涯忘れることができそうもない、嫌で恥ずかしい思い出を致します。

★  前回号で説明しましたが、清渓川貧民窟住民の中から、松亭洞ソンジョンドン にあった
教会の指導の下、朝鮮半島西海岸、黄海に面した南陽湾ナムミャンマン  開拓地に帰農したい
と希望する家族を連れ出したことがありました。
  それは、まるでモーセが、イスラエルの民をエジプトから連れ出して、約束の地に
向かったときのようだった...などと言えば大袈裟なことですが、それでも当時の韓国
では画期的な計画でありました。  そういう中から「牛銀行」話も出てきたのです。

  南陽湾は牙山湾アサンマン の一部を形成する地域です。
  日本の植民地支配に抵抗する独立運動が、1919年3月15日を期に全国規模で起った
とき、その運動を弾圧する目的で、1ヶ月後の4月15日に到り、言葉巧みに村の住民
たち、とりわけ独立運動に参加していた人たちを堤岩里チェアムニ 教会堂に閉じ込め、外部
から機関銃の一斉射撃を加え、教会堂に火をつけて、住民29名を日本官憲が焼き殺し
たという、あの忌ま忌ましい堤岩里教会からはそんなに遠くない所にあります。

  (私は家族全員を連れて同教会を1973年に訪れ、当時を記憶しているという80歳?
代の老婆に出会いました。  物資が極めて乏しいときなのに、砂糖をいっぱい入れた
砂糖水を長女と長男に差し出してくださったことがありました。  当時小学校低学年
であった二人の子供にとって、それは生涯忘れられないおもてなしとなりました)

  また南陽湾は、在韓アメリカ軍基地問題で騒がしい平澤ピョンテク  の西北方向に当たり
ます。  さらにまた牙山湾は、かつて日清戦争が戦われた場所でもあります。

★  南陽湾干拓地は実に広大な土地でしたが、交通の便に恵まれない地域でした。
移住者と共に清渓川沿いの松亭洞の教会は南陽湾の梨花里イファリ に移動しました。 

  或る暑い夏の午後だったかと記憶していますが、私は梨花里から、南陽湾の堤防を
徒歩で渡り、数キロ離れた虎岩里ホアムニ に移住した人々を訪ねることになりました。
西ドイツにお願いをして建設して貰った託児所を訪ねる目的でした。

  (疲弊しきっていた当時の韓国農村に、託児所が...と言えば格好が好いのですが、
実際には西ドイツ教会との約束を全く無視して、韓国式のドデカイ礼拝堂を建設して
しまったのです。  西ドイツの教会と韓国との間に立った私は、或る韓国人教会牧師
の国際的感覚欠落から来る重なる無責任なデタラメさの多くに辟易していたのです。
そういうことも背後にあって虎岩託児所を訪問する必要が生じていたのでした。
  虎岩里に向かう、遠くて寂しい、砂埃だらけの未舗装道路を、重い心で歩んでいた
のでした)

★  そのような事情を抱えて寂しい一直線の道路を独り歩んでいました。
するとどこから涌いてきたのか、目の前に忽然と二人の男の子が現れました。
私の知らないどこかの近道を利用して、幹線道路に出て来たのだろうと思いました。
  年長のほうの男の子は小学6年生か中学1年生前後に見えました。
もう一人の子は小学低学年生のように見えました。  私の前を歩いていました。

  二人の男の子が出現して来たころから、空の雲行きが怪しくなり始めていました。
虎岩里までは、まだ相当な距離がありました。  そして、案じていたように、夕立の
雨が降り始めたのでした。  周囲に雨宿りができるような建物も樹木もありません。

  韓国内を旅行するとき、私は常に洗面用具のほかに、トイレット・ペーパー1巻、
栄太郎飴を1鑵、6片のチーズが入っている薄い丸い容器1ヶ、それに乾パン1袋と
ポリエステル製の折りたたみ式のレイン・コートを携帯することが多かったのです。
  飴とチーズと乾パンさえあれば、2日間程度なら何とか体力を維持できると知って
いたからでした。  寒いと感じれば、レイン・コートを羽織ればよいのです。

  雨が降り始めましたので、無意識にレイン・コートを取り出して着用しました。
目の前の男の子二人のことを考えない、無意識のことでした。
  雨が降れば疑うこともなくレイン・コートを着る...という無意識さからでした。
すぐ目の前を歩く二人の男の子のことを全く考慮に入れていませんでした。

★  雨がひどく降り出して来ました。
そのときのことです。  あたりの畑の中をキョロキョロ見回していた年長の男の子が
急に畑の方に走り出しました。  何をするのだろうと私は立ち止まって眺めました。

  男の子は、捨ててあった、空っぽの肥料用の袋を拾って道路に戻って来ました。
空き袋の長い方の一端を切り開いて即席頭巾を作った男の子は、それを年少の男の子
の頭にかぶせました。  頭巾が飛ばされないように右手で年少の子供を押えるように
して歩き始めたのです。  本人はずぶ濡れ状態でした。

★  そのとき初めて自分という成人が、しかも「持てる国」から来た「持てる者」で
ある私が、しかも自称「クリスチャン」と称している者が、幼い男の子たちのことを
考えないまま、自分だけレイン・コートを着用していたということの鈍感さを痛烈に
教えられたのでした。

  そればかりではなく、私から見れば幼い男の子が、より幼い後輩のために、智恵を
働かせて、即席のレイン・コートを作って、それを幼い男の子の頭にかぶせたという
生活の智恵を目前にして、大きなハンマーで私の頭を叩き割られたように思えたので
した。  持てる国の安易な生活に慣れてしまった私は、無いものの中から工夫をして
他者を助けるという発想を、そのときすでに喪失していたのでした。

★  マタイ傳25章40節は、『わが兄弟なる此等のいと小さき者の一人に為したるは、
すなわち我に為したる也』とイェスが仰ったと語っています。
  すなわちこの地上で私たちが他者、とりわけ自分より弱者に対して何かを「する」
ということが、そのままそれが主イェスに対して「する」or「した」ことになると、
肯定的なこととして捉えて教えています。

  しかし、すぐあとの45節には、『此等のいと小さき者の一人に為さざりしは、即ち
我に為さざりしなり』と、他者に対して、とりわけ自分よりも弱者に対して私たちが
「しない」or「しなかった」ということは、それはそのままイェスに対して、私たち
が「しない」or「しなかった」ということになる...と警告しているのです。

★  私はあのとき、韓国の南陽湾で、梨花里から虎岩里に向かう寂しい路上で、私が
「やるべきであったはずのこと」を、私が私の不注意と、少年たちへの思い遣りの心
の不足から「やらなかったこと」で、そしてまた、幼い男の子が「やったこと」を、
「やれたこと」を、私が「できなかった・やらなかった」ということで、主イェスに
対して、私は申し訳のないことをしでかしてしまったと、あれから30余年たった今も
心の奥底に、秘かに重荷を覚えているのです。

  そのむかし、ケンタッキーで聖書を学んでいたときに、何でも sin of commission
と sin of omission というのがある...とか習ったことがありました。
前者は意図的に行う遂行の罪で、後者は怠慢の罪、事にかかわろうとしない罪...とか
でした。  この二つは、一種の「ことわざ」として英語圏で使われている表現だった
と思いますが、当時は英語の実力不足で、そこから先のことを覚えていません。

  しかし聖書が語る「罪」には、「為すべきでないことを知りながらやる」ことや、
「為すべきであるとわかっていることを意図的にやらない」ということだけではなく
て、「気付かない罪、隠された罪、行わなかった罪、無意識の内の自己中心的な罪」
も含むものだと、加齢と共に、少しずつ理解するようになって来たのです。
  ルカ傳10章28節~29節が語る律法学者も、頭ではわかっていても、実際にはそれを
実践するということができない、職業的宗教教育者の典型的な一例でしょう。

  「いと小さき者に為す」ということもむつかしいことですが、「為さざる」という
ことには「気がつかない要素」を含みますので、もっとむつかしいかと思います。

  南陽湾でたまたま遭遇した男の子二人に対する私自身の配慮の足りなさが、今でも
私には一つの恥ずべき汚点として残っているのです。  主よ、憐れみ給え...です。
                                                    Kyrie eleison!


★  今週は乱れに乱れていた書斎内の整理整頓という、西から太陽が昇っても決して
おかしくないほどの大事業に取り組んでいます。  来週末でも終わらないでしょう。

 

  そういう過程の中で、半世紀も前に学んでいたバイオラ Biola = Bible Institute
Of Los Angeles大学でのキリスト教教育学のノートを取り出して眺めてみました。
  極めて良心的で真面目なフッカー女史 Mrs. Hoocker が教師でした。
ノートには『天路歴程The Pilgrim's Progress』に関する頁が出てきました。

 

  日本ではほとんど知られていない文芸作品ですが、英語圏世界では、『天路歴程』
は、聖書に次いで、一番よく読まれている文芸作品だと思います。  しかし、英語を
母国語とする人でも、この本の正式題名をそらんじている人は、案外に少ないと思い
ます。 The Pilgrim's Progress from This world to That Which is to Comeです。
仮私訳で『この世から来るべき世に向かう巡礼者の進行』とでもなるでしょうか...

 

  英語圏世界でこの本は、ロビンソー・クルーソーとガリヴァー旅行記と共に、最も
多く読まれている作品です。  我が国には1886年ホワイト宣教師が翻訳しています。

 

  この寓意物語の著者はジョン・バニヤンです。  イギリスの説教者です。
1678年と1684年に発刊された2巻もので、人生の重荷を背負った「クリスチャン」と
いう一人の男が、ある本を読んで、自分の住んでいる町が神によって裁かれていると
知り、破壊の都市から、多くの苦難の旅ののち、天上の都市に辿り着く...という筋書
です。  第2巻では、破壊の都市に残された妻が、同じく多くの苦難を乗り越えて、
天上の都市に到着した...という筋書です。  英語圏では万人の書となっています。

 

  主人公の「クリスチャン」という名前がお気に召さぬとお考えになるのであれば、
「普通の人」とか「この私」などに置き換えて読んでもよいかと思います。
  主人公は、この世から神の国に到着するまでのあいだに、実に多くの切実な試練や
問題に当面しながら少しずつその信仰を強めて行くのです。  「キリストに似た者」
と変えられて行くのです。  ロマ書8章29節が示しているとおりです。

 

  「キリストに似る者」「キリストの心に近づきたく願う者」に創り変えられて行く
ということが神の私たちへの御旨である以上、私たちが神の国に到るまでには、実に
たくさんの苦悩や試練を乗り越える必要があるのです。  そのことで、私たちの心の
中にキリストの平安が宿り、聖霊が結んでくださる聖霊の実(ガラテヤ書5章22節)
を少しずつ神の時の中で体験することができるようになると、私は理解するのです。

 

★  コロサイ書1章27節には「Christ in you, the Hope of Glory」と書いてありま
す。  『あなたの中にいらっしゃるキリストこそ栄光の希望である』というのです。

  天上の栄光の国でイェスが主催される一大聖晩餐会の席に侍ることが我々の向かう
べき目的地であれば、イェスに似た者と創り変えられて行くことは私たちの目的だと
思うのです。  そのために、そこに到着するまでに、多くの試練や苦悩があります。
  『キリスト・イェスは御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって
柔順を学び、そして、全き者とされたので、彼に柔順である総ての人に対して、永遠
の救いの源となられた...』と、ヘブル書5章8節は述べています。

 

  『これらの人はみな、信仰を抱いて死んだ。  まだ約束のものを受けていなかった
が、遥かにそれを望みて喜び、そして、この地上では旅人であり寄留者であることを
自ら言い表した』...とヘブル書11章13節は言います。

 

★  私たちは「旅人・宿れる者」です...『裸で母の胎を出て、裸でかしこに帰る者』
であり、『主が与え、主が取られる者』(ヨブ記1章21節)なのです。
「旅人・宿れる者」である限り、生きて行くということは、ほんとうにしんどいこと
です。  まして、神さまを信じて、この世を渡ろうとすれば、なおさらのことです。
『もう嫌だっ!  もう止めたい!』と叫びたくなるときもあるでしょう。
でも、大丈夫なのです。  神さまがそぐ傍にいつも居てくださっているのです。
旅人である限り、自分の家に戻らないかぎり、休みも憩いもあるはずがありません。

 

★  マタイ伝6章19節~34節のイェスの言葉を熟読・塾考するのもよいでしょう。
真っ赤に焼かれて、叩かれ抜かれた鉄からだけ、最高級の鋼が生まれます。
苦悩と試練に満ちた高原からだけ、神さまのための強い兵士が生まれて来ます。
私たちには馴染みの薄いバニヤンの「天路歴程」を読んでみるのもよいでしょう...


★  文語体で恐縮ですが...
  『まことに汝ら告ぐ。  わが兄弟なる此等のいと小さき者の一人に為したるは、
即ち我に為したるなり』イェスのことば(マタイ傳25章40節)

★  今日のように強風が吹く寒い冬の夕方の松亭洞の土手の上でのことでした。
『牧師さん。  お婆さんと3、4名の孫が震えています。  何とかなりませんか?』
  梨花女子大生だったかと思いますが、ヴォランティアをしていたお嬢さんたちが、
ハ~ハ~と白い息を吐きながら注進に及びました。  『どこ?』  『あっち』

  清渓川の堤防の反対側、すなわち米軍娯楽保養地ウォーカー・ヒルズに通じる一般
道路からは完全に見えなくなっていた清渓川堤防の傾斜面に、畳1畳分もないような
粗末な掘っ建て小屋がありました。  堤防に沿って吹きつける風は零下20度近い凍土
の上にビニール・シーツ1枚を敷いただけの小屋を遠慮会釈なく襲っていました。

  拾ってきた有り合わせのベニヤ板で作った戸(とうてい「戸」などと呼べる品物で
はありません...)の中側には、老婆と幼児たちが、震えながら、お互いにしっかりと
抱き合って何とか暖を取ろうとしていました。
  幼児の両親は、お婆さんに子供たちを託して仕事を捜しに出ていったまま、数日間
戻って来ていないのだそうでした。

  松亭洞ソンジョンドン  の教会堂(これも掘っ建てボロ小屋)に戻り、汚い布団でしたが、
それをお婆さんに渡し、幼児たちを囲むように立てかけた布団の内側で抱き合って暖
を取るように勧めました。  その間、女子学生たちに練炭焜炉コンロ で湯を沸騰ささる
ように依頼しました。  教会に小麦粉が少し残っていたのを思い出したからです。
小麦粉で水団スイトン を作ろうと考えたのでした。

  ところが外気温が低過ぎて、七厘焜炉の火力だけでは水を沸騰させることができな
いのでした。  ほかになす術がなく、致し方なく、沸騰していない湯の中に小麦粉を
丸めて作った団子を放り込みました。  結果は、ドロドロとした、何とも表現できな
い、一見すると「くず湯」のようなものになってしまいました。  火の通った一部は
お団子に近いものでした。

  それでも、その「宝物」を入れた鍋を、注意しながら、女子大学生たちがお婆さん
の掘っ建て小屋(スラムではそれをパンジャ・チップ=板子家と呼んでいました)に
運び込み、幼児たちに与えました。  おいしいとはお世辞にも言えない品でしたが、
幼児たちはそれをすすっていました。  お婆さんはそれをすべて幼児に与え、自らは
食べませんでした。  そして私たちに向かって、『コマワョ』(=ありがとさん)を
いくども繰り返していました。

  そのような「食べ物」が、どれだけ幼児たちの役にたったのか、甚だ疑問ですが、
それでも、その時点において、その子たちの空腹を満たし、寒さを防ぐことができた
のかと思います。  清渓川スラムの6万人の空腹を満たすことなど、一人の外国人の
私にできるわけがありません。  それでも、その時のその幼児たちを一時的にであれ
救えたことは事実でした。  このような思いで話はいっぱいあります。

  イェスが仰った、『此等のいと小さき者の一人に為したるは我に為したるなり』と
いうことは、そういうことではなかったのかと、今になって思い出すのです。

★  韓国の人々のために役立つのであれば...という主旨で、1968年夏の最初の訪韓時
から何拾回かの訪韓ごとに秘かに撮り続けていた写真フィルム2万駒ほどを贈呈しま
した。  ソウル歴史博物館が、その中から2百点ほどを取り敢えず選び出し、写真集
を発行されました。  現在でも清渓川文化館には写真展コーナーがあるはずです。

注(日本の植民地支配から解放された直後に朝鮮戦争が勃発し、国土は焼土と化しま
した。  疲弊しきっていた韓国全土は、次に朴正煕軍事独裁政権下に置かれました。
北朝鮮との対決姿勢も厳しいものがありました。  1974年1月からは大統領緊急措置
令が続々と発令され、日本人留学生早川など2名もスパイ容疑で逮捕されました。
  韓国には写真機もなく、フィルムの入手も困難な時代でした。  そのような状況下
で、日本人が韓国の恥部であるスラムを撮影するということには、それなりの覚悟が
必要でした。  北朝鮮の間諜と焼き印を押されてしまえば、15年以上の刑罰を受ける
ことになったと思います。  スラム内部を撮影するということは、そのような危険性
を孕んでいたのです。  スラム内には情報・公安機関員たちも多く潜んでいました)

  その写真集の94頁右側に一人の初老の婦人の写真が掲載されています。
「祈りを捧げているおばさんと子供」という表題は博物館が適当に付けたものです。

  実はこの婦人の所に私を連れていった人がありました。
その当時この婦人は或る婦人科の病を得ていました。  手術をする必要があったので
すが、その費用は彼女にとって高嶺の花、夢のまた夢でしかありませんでした。

  相談を受けたからには断ることができませんでした。  日本金で数万円だったのか
は、今となっては確かなことを全く記憶していませんが、私にも大きなお金でした。
それでも何とか都合をつけて提供することができました。

  次の訪韓時に、真っ先にこの婦人を訪問しました。
『ハナニム(韓国語で「天のおかた」 or 「ひとりのおかた」=かみさま)コマワヨ
(ありがとさん)とか、そのようなことを彼女が口にしていたのを覚えています。
私を神さまと捉えたということではなく、心から神を讚美していたのです。
  そののち、この婦人と、そこに写っている子供がどうなったのかわかりません。
天国でこの二人にも再会できるであろうかと、そのように希望を抱いています。

★  清渓川スラム住民の中から希望する数十世帯を連れ出して、黄海に面した牙山湾
アサンマン の一部を形成する南陽湾 ナミャンマン に集団移住させたことがありました。

  当時はこん日とは違い、割引格安航空券などありませんでした。  ずいぶんと無理
をして西ドイツに飛びました。  西ドイツ教会に依頼して、韓国各地に託児所を建築
して貰い、毎日2千名の未就学児童に給食を与えて貰うことに成功しました。

  南陽湾の託児所を訪ねたときのことでした。  元気のよい男の子がいました。
よく見ますと、彼のおでこにはピンポン球よりやや小さなできものがありました。
清渓川時代からの教会指導者のひとり、金終吉キム・ジョンギル さんに事情を尋ねましたら、
日本金数万円の費用がかかるので、治療することができないのだと教えられました。

  帰国に必要な経費だけを残し、残りの日本金数万円を金終吉さんに渡し、ソウルの
大学病院で治療を受けさせるように依頼しました。  元気な子でしたが、自分の額の
おできを気にしていたのは確かでしたし、彼の親も同様でした。

  次回の南陽湾訪問のとき、その男の子が滑り台に乗っているのを発見しました。
よく見ますと、おできは確かに小さくなっていましたが、まだ残っていました。
  金終吉さんに事情説明を求めましたところ、『野村さんから預かったお金だけでは
充分でなかったので、医者は、とりあえず受け取った金額に応じた分だけの手術をし
た...』との答でした。  国民健康保険制度のようなものがない時代の韓国でした。

  そののち私はその坊やと会う折を得ていませんので、その坊やは、今ごろは、40歳
前後になっていると思います。  きっと今では、残りのおできも除去されているもの
と推測しています。

  『半分しか手術をさせてあげることができなかった!』ということで、そののちの
一時期、その坊やのことを思い出すたびに、つらい思いをしていました。

  しかしあの時点で、1975年か76年時点で、持っている金子のすべてを捧げて手術を
受けさる機会を備えることができたということは、そしてそれ以上のことをその時の
私にはできなかったのだと思うとき、きっと神さまは私を赦して下さるであろうと、
そのように思えるようになりました。

  あの男の子も亦、イェスが仰った、『いと小さき者の一人』であったのではないか
と、そのように今では思うのです。  再会できるものなら再会したいと願うのです。

★  これからも、いろいろなことを思い出しながら、ご紹介してみたいと願います。

  そういえば、『主イェスの自ら言ひ給ひし《与ふるは受くるよりも幸福なり》との
御言葉を記憶すべきなり』...という聖句が使徒行伝20章35節にありましたね。


★  私ども夫婦の愛娘の恩惠(メグミ) さんが小学校3年生~4年生のときのことでした
が、依怙贔屓の強い寡婦のある教師によって、ほかの幾人かの級友らと共に、久しく
いじめられたことがあります。

  『お宅の子供さんは、クラスのほかの子供たちと比べて価値感覚がまったく違い、
ど~ぅしょもない子です!  親子四人で六ヶ月間世田谷区役所に水曜ごとに行って、
教育指導を受けて下さい...』という「指導」を、その教師から言い渡されました。

  専門家たちによって親子四人が六ヶ月の「観察」を受けましたが、区教育委員会の
結論は、恩惠さん側にも、親子関係にも何ら問題はなく、良い価値感覚を持つ子供に
育てておられますので心配はありません...むしろ問題は教師側にあるようです...との
ことで、校長への立身出世を狙っていたその教師は、区の教育委員会によって再教育
を受けさせられることになりました。

  しかしその2年間に、数名の子供たちがその教師から受けたトラウマ被害は、その
後も長く続くことになりました。  癒されるまでに十数年かかったかと思います。

  何をしてもしかられ、いじめられるので、すっかり自信を喪失していました。
『ど~ぅしょぅ?  ねぇ、どーぅしょぅ?  でぇ~きないっ!  でぇ~きないっ!』
と叫び苦しむ娘を傍で見ていた私ども、数名の親たちも、悩み続けていたのでした。

  世田谷区教育委員会の調査で教師側に大きな非があったことが判明したとき、私は
「教師という立場の暴力」を長年に亙って振るってきたその教師に、机を叩いて抗議
しました。  教師が常に正しいとは限らない...と、教師職の暴力に抗議したのです。

★  今はその恩惠さんも二児の母となり、サンフランシスコ北西部の田舎町に住んで
います。  二人のやんちゃ坊主の母として、教会説教者の妻として、そして教会付属
の小さな幼稚園~高等学校の教師の補佐役も、すべてを実によくやっています。

★  『エホヴァ自ら汝に先だちて往き給はん。  また、汝と共に居り、汝を離れず、
汝を棄て給はじ。  懼(オソ)る勿(ナカ)れ。  驚く勿れ』...申命記31章8節と聖書は告げます。
                
  人生とは、たくさんの悲しみ、戸惑い、怖れ、溜め息などから成り立っています。
しかしそこの中に神さまはちゃんといらっしゃるのです。  追い詰められたヤコブは
このことを創世記28章16節で、悪夢の夜が明けたとき、初めて気づいたのです。
大丈夫です。  今日は私たち一人ひとりにとって、最高の日であるはずです。